歴史を学ぶということは、単に過去の出来事を知るだけでなく、その時代に生きた人々の息遣いを感じながら、社会がどのように形作られてきたのかを探ることです。
室町時代は、戦乱のただ中にありながらも、日本文化の基盤が築かれた刺激的な時代でした。公家と武家の文化が融合し、大陸との貿易が新たな知識や技術をもたらし、地方からは庶民文化が力強く花開いていきました――その全てが重なり合い、多様性に満ちた独自の文化を生み出したのです。
今回の記事では、室町時代の文化を多面的に捉え、特に宗教という視点からその特色を紐解いていきます。戦乱や困難の中でも、室町時代の人々が創意工夫を凝らし、文化を発展させていった過程は、現代の私たちにとっても多くの示唆を与えてくれるはずです。実は、今の日本社会の基盤には、室町時代における挑戦と創造の歴史が深く根付いています。
それでは、室町時代の文化の旅へ出発しましょう。過去を振り返りながら、未来を見つめる冒険が始まります!
室町時代の文化の特徴
室町時代は、戦乱が絶え間なく続いた「下剋上」の時代です。
このような社会背景を反映し、文化もまた多様性を持ちながら発展しました。この記事では、室町文化の特色を整理し、その時代の豊かさを再確認していきます。
特徴1: 公家文化と武家文化の融合
室町時代には、京都に幕府が置かれたことにより、公家文化と武家文化が融合しました。
これまでの鎌倉時代と異なり、京都に公家の朝廷と武士の幕府が共存したため、この二つの文化が影響し合い、新しい形で発展したのです。例えば、公家が伝統的に行ってきた雅な文化が武士たちにも広がり、同時に武士の質実剛健な精神が公家文化に取り入れられることで、より洗練された文化が生まれました。
特徴2: 日明貿易による大陸文化の流入
3代将軍の足利義満の時代には日明貿易[勘合貿易]が特に盛んに行われ、大陸文化が日本に流入しました。これまでの私的な貿易(例:日宋貿易)とは異なり、日明貿易は公的なものとして展開され、日本と中国の間で活発な文化交流が行われました。禅宗の僧が明へ渡り、大陸の文化を日本に持ち込みました。
その結果、陶磁器や書画などの大陸文化が日本に影響を与えました。
特徴3: 産業の発展と庶民文化の興隆
室町時代には、農業や漁業、工業だけでなく、商業やサービス業といった第三次産業が大きく発展しました。
この発展は、庶民文化の隆盛をもたらしました。庶民文化の特色として「集団性」が挙げられます。たとえば、連歌を仲間と詠み交わすことや、茶の湯や盆踊りを共同で楽しむことが一般化しました。
特徴4: 地方への文化の拡散
室町時代後期、つまり戦国時代になると、応仁の乱をはじめとする戦乱が続き、貴族や僧侶が地方に分散することとなりました。
これにより、それまで京都を中心としていた文化が全国に広がり、各地の特色を取り入れながら地方文化として根付いていきました。
特徴5: 現代に結びつく日本伝統文化の基盤が形成される
室町時代は、今日の日本文化の基盤が形成された時代でもあります。
それまでは公家のいる京都や武士のいる鎌倉が文化の中心でしたが、地方へ文化が拡散すると、武士、公家、庶民を問わず、文化が共有されるようになりました。この時代に生まれた文化の拡張によって、その後の日本社会における文化的基盤が根付いています。
室町時代の文化は、一見するとまとまりがないように思えるかもしれません。しかし、その実態は、戦乱や国際交流、地方文化の拡散を背景に、多様性を包み込みながら進化した時代でした。この多様性と融合こそが、室町文化の最大の特色と言えるでしょう。
室町時代の仏教の特徴
室町時代の臨済宗
臨済宗は室町幕府と密接な関係があり、その力を背景に勢力を拡大しました。しかし、室町幕府の力が衰えるとともに、臨済宗の影響力も低下していった特徴を持ちます。
五山十刹について
三代将軍・足利義満は南宋の官寺制度を参考にして「五山十刹」という寺院ランキング制度を導入します。この制度の目的は、臨済宗を組織化し、幕府の統制下に置くことで、宗教勢力を安定させ、文化・政治の発展に寄与させることでした。特に「五山」とは、臨済宗の中で特に格式の高い五つの寺院を指します。五山は、さらに「京都五山」と「鎌倉五山」に分けられ、それぞれの地域で臨済宗の中心的な役割を果たしました。また、五山の上には「別格」として南禅寺が位置付けられています。
また、足利義満は、僧侶を管理する役所「僧録司」を相国寺に設置し、その初代僧録には西暦1379年(康暦元年)に春屋妙葩が任じられました。この制度は臨済宗の組織化と発展に寄与しました。
以下、「五山」のお寺について概観していきましょう。
南禅寺(別格)
五山の上に立つ特別な地位にあり、「両五山の別格上位」と称されました。南禅寺は元々、亀山法皇(第90代の亀山天皇)によって創建されましたが、室町幕府の支援を受け、臨済宗の象徴的な寺院として発展しました。
京都五山
天龍寺と相国寺と建仁寺は大学入試でも記述の問題が出題されます。第4位の東福寺と第5位の万寿寺については名前を見たら京都五山の寺院だということを認識できればOKです。
1. 天龍寺
京都五山の第一位で、初代将軍・足利尊氏が夢窓疎石の提案により創建しました。第96代の後醍醐天皇の菩提を弔うためにに創建された寺院です。建立の際に造営費用には足りなかったため、元との貿易を再開し、その利益を造営費用に充てることを計画しました。この貿易の時に元に送られた船のことを「天龍寺船」と呼びます。なお、現在は世界遺産としても有名です。
2. 相国寺
京都五山の第二位。3代将軍・足利義満が建てた寺院で、「相国」とは左大臣の位の称号を意味します。具体的には建立された当時の足利義満の位を指します。読み方に注意しましょう。「相」は「しょう」と読みます。「首相」とか「宰相」とかでもこの読み方は使われますね。足利義満は、相国寺を建立するにあたり、自身が尊敬する禅僧である春屋妙葩に、初代の住職となってほしいと依頼しました。しかし、春屋妙葩はこの依頼を断りました。その理由は、自分よりも師匠である夢窓疎石の方が開山としてふさわしいと考えたからです。春屋妙葩は足利義満に対し、「夢窓疎石を初代住職とするなら、自分は喜んで2代目住職としてその意志を引き継ぐ」と伝えました。その結果、足利義満は夢窓疎石を相国寺に迎え入れることを決定しました。そして、春屋妙葩は2代目住職として、師匠である夢窓疎石の意思を継ぎながら相国寺の発展に貢献しました。相国寺は室町幕府の帰依を受け、五山文学などの中心となっていくのです。ちなみに、金閣のある鹿苑寺や銀閣のある慈照寺は相国寺と深いつながりを持っています。これらは相国寺の外に位置する「山外塔頭」と呼ばれるお寺で、いわば相国寺の分家のような存在です。
3. 建仁寺
京都五山の第三位。開基(創立者)は鎌倉幕府2代将軍の源頼家、開山(初代住職)は日本に禅宗を広めた栄西です。鎌倉仏教のところでも登場した寺院です。名前の由来は、創建された当時の元号「建仁」から来ています。建仁寺は京都で禅宗の拠点となるために建てられたものですが、当初は天台宗や真言宗への配慮から天台宗や真言宗と並立していました。なお、「日本で最初の禅寺」と誤解されることもありますが、正確にはそれは福岡の博多にある聖福寺です。ただし、京都における禅宗の始まりとして建仁寺の役割は非常に重要です。
4. 東福寺
京都五山の第四位。鎌倉時代に五摂家の九条道家が創建した寺院で、東大寺と興福寺の名前を取って命名されました。東福寺は規模と景観の美しさで知られている寺院です。
5. 万寿寺
第五位。現在では規模が縮小していますが、当時は重要な寺院の一つでした。
鎌倉五山
大学入試では鎌倉五山の第1位と第2位の建長寺と円覚寺がとてもよく出題されます。鎌倉時代の執権と帰依した中国[チャイナ]出身の僧の名前はセットで覚えておく必要があります。
1. 建長寺
鎌倉五山の第一位。鎌倉幕府の5代執権の北条時頼の命で創建されたお寺です。初代住職は蘭渓道隆です。これまでの禅寺は、他宗派への考慮から、禅宗と他宗との兼学がほとんどでしたが、建長寺は純粋禅の道場として国内で2番目に古い寺院です。厳格な禅の修行道場として多くの僧を育てました。まさに、鎌倉時代の仏教文化を象徴する存在です。なお、家庭の味の1つである「けんちん汁」は建長寺発祥とも言われる精進料理で、根菜や豆腐を煮込んだ素朴な一品です。禅僧の食事として生まれました。
2. 円覚寺
鎌倉五山の第二位。円覚寺は鎌倉幕府8代執権の北条時宗が、元寇[蒙古襲来]で命を落とした人々の菩提を弔うために創建されました。初代住職には、中国の禅僧である無学祖元が招かれました。無学祖元は、蘭渓道隆の後任として建長寺の住持を務めた後、北条時宗の要請で円覚寺の初代住職となりました。
円覚寺と先ほど紹介した建長寺はとても近い位置にあります。観光の際には建長寺とセットで円覚寺を周ってもいいと思います。
3. 寿福寺
第三位。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の妻・北条政子が、頼朝の父である源義朝の旧邸跡に建てたお寺です。寿福寺の創建に招かれたのは、禅宗を伝えた栄西です。京都で禅宗を教えを広めようとしましたが、比叡山延暦寺からの圧力があり、鎌倉に移ってきました。そこで鎌倉幕府からの保護を受けました。
4. 浄智寺
第四位。北条氏の支援を受けた寺院で、禅の修行僧の拠点となりました。
5. 浄妙寺
第五位。鎌倉時代の後期に栄えた寺院です。
五山文学と五山で活躍した僧
京都五山の僧侶たちは、出版活動を積極的に行いました。彼らは漢詩文や朱子学の研究、さらには禅宗の経典を含む様々な書物を編纂し、出版しました。これらの出版物は「五山版」と呼ばれ、その質の高さで知られています。
京都五山の僧たちは、中国から禅宗を学び日本に持ち帰った「海外帰りのエリート僧」という側面が強く、中国の文化や習慣にも精通していました。そのため、五山の僧侶の中には、単に宗教活動だけでなく、幕府の政治や外交活動にも積極的に参加する者が多くいました。たとえば、室町幕府の日明貿易の交渉役として、五山僧が外交に携わることも珍しくありませんでした。貿易交渉の場では、当時の中国(明)の習慣や文化を理解している僧侶たちが適任とされたためです。例えば、西暦1401年(応永8年)に派遣された遣明船の正使は祖阿という僧でした。このように、五山の僧侶は政治や経済の分野でも重要な役割を果たし、日本の国際関係を支える一翼を担っていました。
五山文学は、単なる漢詩文の創作にとどまらず、日本の文化と学問の発展に大きく貢献しました。僧侶たちが制作した書物は、禅宗の教えを広めるだけでなく、朱子学や詩学といった中国の学問を日本国内に普及させました。これらの活動により、五山文学は室町時代の知識人層や幕府の支配層にも影響を与えました。
例えば、義堂周信は、五山文学を代表する詩僧の一人で、漢詩文の創作において高い評価を得ています。漢詩集『空華集』が有名です。また、彼の日記『空華日用工夫略集』は、当時の仏教や文化の状況を知るための重要な資料です。彼の詩作や教えは、弟子たちに大きな影響を与え、五山文学の発展を支えました。それから、絶海中津は義堂周信と並び称される巨匠で、室町時代を代表する詩僧です。漢詩集『杣林集』は、彼の禅宗的な思想と詩的な感性を示しています。彼の作品は、中国の宋・元代の詩の様式を基にしながらも、日本的な自然や心情を巧みに織り交ぜています。絶海中津は、詩作を通して禅宗文化を深化させ、室町時代の文学的な豊かさを象徴する存在でした。
ちなみに、五山で活躍した僧は文学にとどまらず、絵画分野でも活躍し、明兆や如拙や周文は、水墨画の絵師として大変有名です。
林下の寺院と僧
「林下」とは、禅宗(特に臨済宗)の中でも、官寺(幕府や朝廷の保護を受けた五山十刹の寺院)に属さず、より自由な活動を行った在野的な禅僧たちや寺院を指します。林下の僧たちは、幕府や体制の枠組みにとらわれることなく、一般庶民に対して布教を積極的に行いました。林下の寺院は、時には体制に反発する姿勢を見せつつも、禅の教えをより幅広い層に広めるという点で重要な役割を果たしました。
代表例としては大徳寺がこれにあたります。そして、大徳寺の有名な住職としてあげられるのは一休宗純です。一休は、破戒僧的な行動や自由な思想で有名です。例えば、髪を伸ばし、愛人を作り、民衆の間で説法を行うなど、従来の僧侶像を覆すような行動をとりました。また、室町幕府から大徳寺の「十刹」への昇格を提案されましたがこれを拒否し、自由な禅活動を続けました。彼は「肩破り」の僧として、林下の精神を体現した人物の一人でした。一休宗純は「狂雲集」という漢詩集も残しています。狂雲とは一休の別名です。
もう1つ、臨済宗の林下の寺院として挙げられるのは妙心寺です。ちなみに、妙心寺は、現在も京都にある花園大学や花園高校などの学校を経営し、現代社会においても影響を与えています。
室町時代の曹洞宗
曹洞宗は、開祖である道元禅師が建立された越前国(現在の福井県)にある永平寺や鎌倉時代末期に建立された能登国(現在の石川県)にある總持寺において発展しました。なお、總持寺は明治時代に火災で焼けて横浜市に移転されています。
曹洞宗も禅宗の一派です。したがって、寺院は禅宗の林下として存在していました。
室町時代の浄土真宗
浄土真宗本願寺派8世の蓮如による教団の中興
浄土真宗は、室町時代に北陸地方を中心に急速に広まりました。その中心的な存在となったのが、本願寺8世の蓮如です。
蓮如上人が本願寺第八世を引き継いだのは、西暦1457年(長禄元年)のことです。この頃から近江(現在の滋賀県)の地域を中心に、教えを広める活動に力を注ぎました。蓮如上人は、手紙形式で教えを伝える「御文」や、阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)の授与などを通じて、ユニークな布教方法を展開しました。この活動によって、本願寺の信仰の範囲は大きく広がりました。
蓮如上人の布教活動の中で特に重要だったのが、「講」と呼ばれる信仰組織の活用です。「講」とは、地域の人々が集まり、信仰を深めたり助け合いを行ったりするための組織でした。蓮如上人は、御文を通じて人々に教えを伝えるだけでなく、この「講」を通じて信者同士のつながりを強化しました。「講」は、単なる宗教活動の場にとどまらず、地域社会での連帯を生む役割を果たし、信仰共同体としての強い結束力を育んだのです。
しかし、その影響力の拡大を快く思わなかった比叡山延暦寺の僧たちによって、京都にあった東山の本願寺は襲撃されて破壊されてしまいます。このため、蓮如上人は親鸞聖人の肖像画(御真影)を持ち、近江の金森や堅田などの琵琶湖の港町を転々とすることになります。西暦1471年(文明3年)に、ようやく越前(現在の福井県)の吉崎に「吉崎御坊」というお堂を建てることができました。吉崎御坊は、たちまち多くの人々が訪れる信仰の中心地となりました。周辺には参拝者を迎える宿坊が立ち並び、寺内町としても商業がさらに発展しました。信仰を支える「講」の仕組みもここで積極的に活用され、信者同士の結束が一層強まります。吉崎は、信仰の拠点であると同時に経済的な繁栄を遂げた一大仏教都市となったのです。
蓮如上人の布教活動と「講」の活用は、信仰と地域社会が密接に結びつくきっかけを生み出しました。この信仰と経済活動の融合が、地域社会の安定と繁栄をもたらすと同時に、教団の力を強化しました。その結果、後に一向一揆と呼ばれるような、信仰に基づいた強い連帯が形成されていくのです。
加賀の一向一揆(西暦1488年)とは?
越前の吉崎に勢力を拡大していた浄土真宗の本願寺派は、加賀の守護大名である富樫政親に警戒心を抱かせ、門徒への弾圧が始まります。これが加賀の一向一揆のきっかけとなりました。西暦1488年(長享2年)、富樫政親が幕府への従軍や増大する戦費で加賀国の中で不満を招いたことで門徒たちが立ち上がります。一向一揆の門徒と加賀の国人層は結束し、富樫政親を滅ぼしました。これにより加賀は、浄土真宗の門徒たちが支配する「百姓の持ちたる国」として知られるようになります。
この期間、加賀は経済的にも繁栄し、農業や商業が発展しました。信仰を基盤にした社会が築かれました。一向一揆の勢力は次第に北陸全域に拡大しますが、内部では徐々に不和が生じます。山科本願寺と地方の一門衆との間に緊張が高まり、内紛が発生しました。この内紛で一門衆が粛清され、内部の結束に動揺が生じます。
他方、一向一揆は現在の金沢城の位置に尾山御坊という寺院を建築しました。ただ、寺院といっても石垣を廻らせたもので、お城と同視できるようなものでした。
一向一揆は加賀を取り巻く周辺勢力との対立もありました。西暦でいう1570年代には上杉謙信や織田信長と対峙するなど、戦国大名との戦いが激化します。最終的には、西暦1580年(天正8年)に織田信長に石山本願寺は降伏しますが(詳細は後述)、織田信長が加賀の一向一揆を最終的に制圧できたのは西暦1582年(天正10年)のことでした。加賀国は、のちに羽柴秀吉政権下で前田利家が治めることになります。
他にも、越前(現在の福井県)、長島(現在の三重県北部)、三河(現在の愛知県東部)などでも一向一揆が発生しました。これは石山合戦に呼応して起こったものです。
室町時代の時宗
時宗は、鎌倉時代に一遍上人が開いた宗派で、阿弥陀仏への信仰を基盤として庶民に広く受け入れられました。室町時代になると、時宗は信仰の枠を超えて、芸術や文化の分野で独特の発展を遂げるようになります。
その中心的な役割を担ったのが、将軍の周囲で活動した「同朋衆」でした。
同朋衆は、形式上は時宗の僧侶という立場を取りながらも、実際には能楽や庭園設計、水墨画、連歌など、さまざまな芸術活動に従事しました。彼らは主に都市の低い身分の人々から成り立っており、そのままの身分では武家や将軍に近づくことが難しい状況にありました。しかし、僧侶という装いをすることで、身分の制約を超えて上流階級との接触が可能となり、その才能を発揮する機会を得たのです。
このようにして、観阿弥・世阿弥による能楽の大成や、善阿弥による庭園設計、能阿弥の水墨画や連歌への貢献、立阿弥による立花(いけばな)の基礎づくりなど、室町時代を代表する文化的成果が生み出されました。同朋衆は文化の担い手として重要な存在となり、将軍の近くでその活動を通じて時代の文化を形作りました。
特に重要なのは、彼らが単なる芸術家ではなく、社会的制約を超えて活躍する存在だったという点です。都市の低い身分から出発し、僧侶としての装いを通じて上流階級に接触する自由を手に入れた同朋衆は、室町幕府の文化政策を支える中核として活動しました。
室町時代の日蓮宗
日蓮宗は、日蓮の教えを継いだ僧侶たちが積極的に布教を進め、室町時代には京都でもその影響力を拡大しました。その中でも日親という僧侶が重要な役割を果たしました。
日親は室町幕府の6代将軍の足利義教に対し、「立正治国論」という著書を提出し、法華経を信じない国は衰退すると説きました。この大胆な行動により、彼は拷問を受けるなどの苦難を経験しましたが、その信仰と行動力が庶民や京都の町人たちに支持され、日蓮宗は京都にしっかりと根を下ろします。
大学入試対策としては、
- 日蓮:「立正安国論」→鎌倉幕府5代執権の北条時頼に提出
- 日親:「立正治国論」→室町幕府6代将軍の足利義教に提出
とを比較しておくようにしましょう。
6代将軍の足利義教は赤松満祐によって暗殺され(嘉吉の乱)、室町幕府の内紛は絶えません。経済に目を向けると、地方で食べていけなくなった人たちが京都などの都市部に流入し、生活費を稼ぐために職につきます。都市部にいる既得権益を持った人たちは彼らを嫌いますが、日蓮宗の人たちは彼らを受け入れていきます。
西暦1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱は京都を荒廃させます。足利将軍家の権力はさらに弱まり、京都の街は統制が取れなくなります。すると、自分で身を守る必要が出てきます。日蓮宗の信徒たちは、信仰を通じて強い結束力を持つ共同体を築きました。この結束力は、京都の町人たちにとっても大きな魅力となりました。個人では対抗できない外敵や権力に対して、信徒たちが協力し合い、時には「法華一揆」という形で団結して行動するようになりました。法華一揆の結束力は凄まじいものでした。
天文法華の乱
西暦1532年(天文元年)に、奈良で山科本願寺の意向を無視した一向一揆が起こりました。京都にこれが波及するのを防ぐため、室町幕府は京都の治安を自分たちの力で守ってきた法華一揆の信徒たちの力を借りることにしました。結果として、法華一揆は近江国(現在の滋賀県)の戦国大名・六角氏などと手を結び、一向一揆勢力を鎮圧することができました。吉崎から京都に移って京都の山科に建立されていた本願寺[山科本願寺]は焼失します(「山科本願寺の戦い」と言う)。
のちに本願寺は大坂へ移動し、大坂本願寺[後の石山本願寺]を建立します。
この結果、法華一揆の軍事力と組織力は室町幕府をはじめとする他の勢力にも認められるようになりましたが、同時に周囲の宗教勢力や権力者たちからの敵対心を招くことにもなりました。京都の他宗派や権力者にとって大きな脅威に映ってしまいました。そのような中で、西暦1536年(天文5年)に起こったのが天文法華の乱です。この乱は、延暦寺を中心とする勢力と日蓮宗信徒たちとの間で起こった大規模な対立でした。延暦寺の僧たちは、法華一揆の影響力が強まるにつれ、自らの地位が脅かされることを懸念し、日蓮宗信徒への圧力を強めていきます。この対立がついに激化し、西暦1536年、延暦寺の僧兵が京都に進軍して法華一揆を攻撃しました。この戦いにより、日蓮宗寺院の多くが焼失し、日蓮宗信徒たちは京都から一時追放されることになります。
室町時代の神道
室町時代は、南北朝の対立や戦乱の影響で社会が混乱し、人々が精神的な支えを求める時代でした。
その中で、新しい形の神道として登場したのが「唯一神道」です。この革新的な神道を提唱したのが、京都の吉田神社を拠点に活動した吉田兼倶という人物でした。
唯一神道は、従来の神道を見直し、仏教や儒教、道教といった他の宗教思想を取り込みながらも、神道を独立した宗教として位置づける新しい枠組みを作り上げました。
それまでの神道は、「本地垂迹説」という考え方に基づいていました。この思想では、神は仏の化身(仮の姿)とされ、神道が仏教に従属する形で捉えられていました。しかし、鎌倉時代末期からこれに異を唱えた「反本地垂迹説」が伊勢神道などで唱えられるようになりました。
このような中、吉田兼倶は反本地垂迹説を理論的に深化させ、神道を独自の宗教として体系化しました。吉田兼倶は、神道の儀礼や教義を整理し、神道を仏教や儒教から明確に切り離す一方で、それらの要素を柔軟に取り入れることで、神道全体の枠組みを再定義しました。このような体系化の試みは、唯一神道が全国的に影響を及ぼす土台となりました。
吉田兼倶は神道の独立性を強調する一方で、仏教や儒教、道教の思想を積極的に取り入れました。彼は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と例え、それぞれが持つ価値を調和させました。たとえば、仏教の精神的な教えや儒教の道徳観を神道の中に組み込み、教義の矛盾を解釈することで柔軟な宗教体系を作り上げたのです。
これにより、唯一神道は独自性を守りつつも、多様な思想を受け入れる器の大きさを持つようになり、さまざまな立場の人々から支持を受けました。
吉田兼倶は神社や神職を全国的に束ねる仕組みを作りました。地方の神社に位階を授けることで、唯一神道を全国に広げました。これにより、吉田家は神道の「家元」としての地位を確立し、室町時代を通じてその影響力を強めました。
また、南北朝時代に衰退した伊勢神道の思想を受け継ぎ、唯一神道として完成させたことで、神道の新しい形を提示しました。吉田兼倶の活動は、公家や武家だけでなく庶民層にも影響を与え、神道が幅広い層に支持されるきっかけとなりました。