あなたの財布の中にある1万円札。でも、ふと考えたことはありませんか?
――この紙切れ、どうして「1万円分の価値」があるんだろう?
明治時代には、金という実物の価値と結びついていました。お札と金を交換できる「金本位制」の時代、人々は“目に見える価値”を信じていたのです。
けれど、今の1万円札はどんなに集めても、金の延べ棒とは交換できません。それでも私たちは、この紙に確かな信頼を置いて買い物をしています。
では、いったい「お金の価値を支えるもの」は何なのでしょうか?
それは、時代とともに大きく変わってきました。
19世紀の金本位制、そして世界恐慌と戦争を経て登場した管理通貨制度(固定為替相場制そして変動為替相場制へ)
通貨制度の変化は、経済のしくみの変化であると同時に、人々が「何を信じて生きてきたか」という社会の物語でもあるのです。
さあ、私たちが手にする「お金」の価値が、どのように作られ、どんな歴史をたどってきたのか――
その道のりを、いっしょにたどっていきましょう。
大まかな流れを理解: 金本位制から管理通貨制度へ
お金は、いつの時代も「何によって価値を保証するか」という問いのもとに成り立ってきました。
かつては“金”や“銀”といった実物の価値を信じて、人々はその重みに安心を求めていました。その代表が金本位制です。お札の裏には金があり、いつでも交換できる――それが「信用」の形でした。
ところが、時代が進むにつれ、国の経済が大きくなり、戦争や恐慌など予想外の出来事も起こります。そのたびに政府は「もっとお金を動かしたい」と思っても、金の量に縛られて身動きが取れません。そこで、各国は、金との交換をやめて、国の信用そのものを基準にする新しい仕組みへと移りました。それが現在の管理通貨制度です。
つまり、日本の通貨制度は――
「金が価値を支える時代」から「信用が価値を支える時代」へと、大きく転換したのです。
次の章からは、それぞれの通貨制度のしくみをもう少し詳しく見ていきましょう。
金本位制――「金」でお金の価値を保証するしくみ
金本位制とは?
金本位制とは、「通貨の価値を金の一定量によって保証し、通貨の発行と金の保有量とを結びつけた制度」のことを言います。つまり、その国で発行されるお金は、中央銀行が持っている金をもとに発行されており、通貨の価値は金の量によって裏づけられているという仕組みです。もう少し分かりやすく言えば、お札(紙幣)は“金の代わり”として使われていたということです。
発行された紙幣は、いつでもそれと同じ価値の金(=正貨)と交換できることが約束されていました。金と引き換えに受け取ることのできる紙幣のことを兌換紙幣と呼びます。「兌換」というのは交換するという意味合いだと考えてもらえればOKです。
金そのものが通貨価値の基準(=本位貨幣)となり、中央銀行は保有する金の量に応じてしか紙幣を発行できない――それが金本位制の仕組みです。
世界に広がった金本位制――イギリスから始まった「金の時代」
金本位制の始まりは、19世紀前半のイギリスにさかのぼります。西暦1816年のジョージ3世の時代に金本位制が導入されました。
イギリスは、産業革命によって「世界の工場」と呼ばれるほどの生産力を持つようになり、世界貿易の中心地となっていました。国際取引では通貨の信頼性が欠かせません。そこで、国際的に通用する安定した通貨制度を築くために、金を通貨の基準(本位貨幣)とする制度を採用したのです。
金が選ばれたのは、それが世界中で価値が認められ、錆びず、量も限られている貴金属だったからです。どの国でも同じように価値を持つ「普遍的な物差し」として扱える金は、国際取引の信頼を支える最適な素材でした。こうして、イギリスの通貨ポンドは“金に裏づけられた信頼あるお金”として世界に広がっていったのです。
この方針が法律として定められたのが、西暦1816年の金本位制の制定でした。
しかしながら、この段階で、イギリスの通貨制度は“金を基準とする”ことが明文化されましたが、実際に紙幣と金をどのように交換するかという仕組みは、まだ整っていませんでした。
そこで登場したのが、西暦1844年のイングランド銀行法(ピール法)です。この法律によって、イングランド銀行は「金と交換できる紙幣」、すなわち「兌換紙幣」を正式に発行することが認められました。このとき、金1オンス=3ポンド17シリング10ペンスという一定の交換比率(平価)が定められ、紙幣の価値が金によって厳密に裏づけられるようになります。
つまり、銀行が発行する紙幣は、いつでも金と交換できる“金の証書”になったのです。
この制度の確立によって、イギリスの通貨ポンドは世界で最も信頼される通貨となりました。これに加えて、当時のイギリスはインドをはじめとする広大な植民地をもち、安定した財政基盤を築いていました。植民地からの資源供給と貿易収益がイギリス経済を支え、ポンドの価値を安定させる大きな力となりました。こうして、ロンドンのシティ(金融街)を中心とする国際金本位制=ポンド体制が成立しました。このポンド体制のもとで、イギリスは19世紀後半の世界経済を事実上リードし、国際貿易や金融の中心として君臨するようになります。
やがてこの仕組みは、イギリスを手本としてヨーロッパ各国へと広がっていきます。
当時のイギリスは、世界貿易の中心地として強大な経済力と金融ネットワークを持っており、イギリスの通貨ポンドは国際取引における最も信頼できる通貨でした。そのため、他の国々も自国の通貨の信用を高め、国際貿易を有利に進めるために、イギリスと同じ金本位制を採用することが最も合理的な選択となったのです。
そこで、19世紀後半には、ドイツ帝国やフランス、アメリカ合衆国などの先進国が次々と金本位制を導入しました。これにより、世界の主要国が共通の基準=金によってつながる時代が到来します。そして、金の価格を基準に各国の通貨の価値が保たれることで、為替レートが安定し、国境を越えた取引がスムーズに行われるようになりました。
つまり、金本位制は単なる国内の通貨制度ではなく、世界経済を一つに結びつける国際的ルールとなったのです。
この流れの中で、日本も明治時代に金本位制を導入し、近代国家として世界経済の一員に加わっていくことになります。
日本における金本位制の導入
19世紀後半、世界の主要国が次々と金本位制を採用するなかで、近代化を急いでいた日本もこの流れに注目していました。
西暦1868年(明治元年)の明治維新によって近代国家づくりを進めていた日本にとって、安定した通貨制度の確立は国家の信用を高めるうえで欠かせない課題だったのです。
そして、ついに日本は西暦1897年(明治30年)に正式に金本位制を導入します。
明治初期の日本と銀本位制
日本が最初から金本位制を採用していたわけではありません。
明治政府の成立当初は、江戸時代から続く「金銀併用」の貨幣制度を引き継ぎつつ、銀本位制に近い形で通貨制度を運用していました。当時のアジアでは、中国(チャイナ)大陸の清をはじめ銀を基準とした国が多く、日本の貿易相手も銀本位制の国が中心でした。そのため、明治政府も実務的には銀を基準とするほうが都合がよかったのです。
しかし、19世紀後半になると状況が変わります。
世界貿易の主導権を握っていたのは、金本位制を採用していたイギリスやヨーロッパ諸国でした。銀の価格が下落しはじめたことで、銀を基準とする国の通貨価値が不安定になり、円の為替レートが大きく変動するようになります。輸出入の取引や外国資本の導入にも悪影響が出るようになり、日本経済にとって深刻な問題となりました。
日本:日清戦争の勝利を転機に「金本位制」が導入される
転機となったのは、西暦1894年(明治27年)に勃発した日清戦争に勝利したことがきっかけでした。
清国との間で結ばれた下関条約(西暦1895年(明治28年))において、日本はこの戦争で清国から多額の賠償金を受け取りました。その支払いは、当時の国際基軸通貨であったイギリスのポンド(=金と交換可能な通貨)で行われたため、日本はこの賠償金によって大量の金を手に入れることができたのです。
この“金の蓄え”が、日本に金本位制を導入するための決定的な条件となりました。
こうして、西暦1897年(明治30年)に、「貨幣法」が制定され、正式に金本位制を採用しました。
これは単なる通貨制度の変更ではなく、「日本が近代国家として国際社会の一員になった」という宣言でもありました。金本位制を導入することで、為替相場が安定し、貿易がしやすくなると同時に、外国からの投資や信頼も得やすくなったのです。
金本位制のメリットとデメリット
ここで金本位制のメリットとデメリットについて説明をしたいと思います。
メリット① 通貨の信用と物価の安定
金本位制の最大の特徴は、通貨の発行量が保有する金の量によって制限されることです。
これは、政府や中央銀行がむやみにお金を増やすことを防ぎ、インフレーション(物価の上昇)を抑える効果を持っていました。お金が増えすぎなければ、物の価値も大きく変わりません。
つまり、金本位制のもとでは、物価が安定しやすく、人々の間で「お金への信頼」が維持されやすかったのです。
さらに、金という実物が裏づけとなることで、国家の通貨そのものに対する国際的な信用も高まりました。「金に交換できる通貨」という信頼が、貿易や投資を円滑に進める基盤となったのです。
メリット② 国際経済の安定と為替の固定
金本位制を採用する国々では、金の価格が国際的に共通していたため、各国通貨の交換比率(為替レート)が安定しました。
たとえば1ポンドあたりの金の量が決まっていれば、1ドルや1円の金の量も決まるため、通貨間の比率は自動的に固定されます。この仕組みは固定為替相場制と呼ばれ、国際貿易を行う上で非常に便利なものでした。
19世紀末の世界経済が比較的安定していたのは、この「金による共通ルール」が機能していたからです。
デメリット① 景気調整が難しい
しかし、金本位制の安定は同時に硬直性をもたらしました。
金の量に応じてしか通貨を発行できないため、景気が悪化しても政府は自由にお金を増やして景気を刺激することができません。
つまり、「金が足りなければお金も足りない」――これが金本位制の最大の欠点です。
たとえば不景気のとき、公共事業を増やして雇用を生み出したくても、金の保有量に縛られて資金を出せない。その結果、経済の落ち込みが長引くこともありました。
デメリット② 非常時への対応力の欠如
もう一つの大きな問題は、戦争や金融危機などの非常時に柔軟に対応できないことです。
平時であれば物価の安定を維持することが何より重要ですが、戦争や不況のような非常事態では、むしろ政府が大胆にお金を動かすことが求められます。
金本位制のもとでは、こうした緊急時の支出や投資をすぐに行うことが難しかったのです。
第一次世界大戦と金本位制の崩壊
この制度の限界が現実となったのが、西暦1914年(大正3年)から始まった第一次世界大戦でした。
戦争が始まると、各国は莫大な軍事費を必要としました。しかし、金本位制のままでは、その資金を十分にまかなうことができませんでした。というのも、金本位制では中央銀行が保有する金の量に応じてしか紙幣を発行できないためです。戦争のように国の支出が一気に膨らむときでも、金の保有量が増えないかぎり、お金を増やすことはできません。
政府が必要な資金を調達しようとしても、通貨発行には金という“裏づけ”が求められるため、自由に紙幣を刷ることができなかったのです。その結果、各国は軍需物資の調達や兵士の給与をまかなうために、金との交換を一時停止し、兌換を停止して紙幣の増発に踏み切るようになります。
つまり、「金がなければお金も作れない」という金本位制の原則が、戦争という非常時には大きな足かせとなったのです。
欧米における金解禁の動き
第一次世界大戦が終わると、各国は再び経済を立て直そうとしました。
金本位制のもとでは物価や為替が安定しやすいことを知っていた各国は、「平和になった今こそ、あの安定した時代に戻ろう」と考え、金の輸出を再び認める=金解禁に踏み切ります。
最初に復帰したのは、アメリカでした。アメリカは第一次世界大戦中にヨーロッパへ武器や物資を大量に輸出し、代金として金を受け取っていたため、戦後には金が世界中から集まる「金持ち国家」となっていました。西暦1919年(大正8年)、アメリカは金の輸出を解禁し、他国に先駆けて金本位制に復帰します。
それに続いて、ヨーロッパの国々も次々と復帰を目指しました。フランスやドイツなどは、戦争の被害と賠償の重荷で通貨が大きく下落していたため、金との結びつきを取り戻すことを「信用回復の象徴」と考えていたのです。
そして、ヨーロッパの国の中で、金本位制復帰を強く望んだのがイギリスでした。かつて「世界の銀行」と呼ばれた金融大国としての威信を取り戻すため、イギリス政府は西暦1925年(大正14年)に金本位制を再開します。
しかし、戦前と同じ為替レート――1ポンド=4.86ドル(旧平価)という水準で復帰したことが問題でした。このレートは、戦前の経済力を前提にしたもので、戦後のイギリスの実情とは合っていませんでした。既にイギリスの伝統産業(石炭・繊維・機械など)は衰退していました。それにも関わらず戦前の経済力のままの為替レートを継続することは実際の経済力よりも高い価値を持つことになります。すると、イギリス製品は海外から見ると「値段が高すぎる状況」になりました。こうなればイギリス製品を外国が購入しにくくなります。そのため輸出が落ち込み、産業の競争力もさらに低下することになってしまいました。結局、イギリス経済は深刻な不況に陥ってしまいました。
一方で、金が大量に集まったアメリカでは、今度は“お金が余りすぎる”という逆の問題が起きました。ヨーロッパの国々が戦費や賠償金の支払いのために金を流出させる一方で、アメリカには世界中から金と資金が集中したのです。銀行には資金があふれ、企業や個人がこぞって株式や不動産に投資するようになりました。経済は見かけ上好調に見えましたが、それは実体のない“バブル”でした。
やがて投資熱が過熱しすぎた結果、西暦1929年(昭和4年)に株価の大暴落=世界恐慌が発生します。アメリカに偏っていた金と資本の流れが、世界中の経済を揺るがす引き金となったのです。
日本の金解禁とその失敗
日本もこの流れに続き、西暦1930年(昭和5年)に金本位制への復帰(金解禁)を行いました。
この政策の中心となったのは、当時の大蔵大臣であった井上準之助です。
蔵相の井上準之助は、長年の金融官僚としての経験から「通貨の信用こそ国家の力の源である」と考えていました。第一次世界大戦後の混乱や、西暦1927年(昭和2年)の金融恐慌を経て、日本円の信用は国際的に低下していました。金融恐慌は関東大震災(西暦1923年(大正12年))後の復興をめぐって膨らんだ不良債権が引き金となり、多くの銀行が経営不安に陥ったことから始まりました。特に、東京渡辺銀行の経営破綻をきっかけに取りつけ騒ぎ(預金の引き出し)が全国に広がり、100行以上の銀行が休業や倒産に追い込まれました。銀行の破綻は「日本の金融制度そのものが脆弱である」という印象を海外に与え、日本円での取引や投資をためらう動きが広がったことが背景にありました。
そこで、井上準之助は、こうした状況を立て直し、日本円の信用を再び取り戻すためにこそ、金本位制への復帰を決断したのです。この考え方は、当時の先進国で重視されていた健全通貨主義(sound money policy)という思想に基づいていました。「国家はむやみにお金を増やしてはいけない。通貨の価値を厳格に守ることが国の品格と信用を支える」――これが井上の信念でした。そのため彼は、政府の支出を抑える緊縮財政をとり、景気の刺激よりも「通貨の安定」を優先しました。そして、金本位制に戻ることこそが、欧米諸国と肩を並べる近代国家の証になると考え、戦前と同じ為替レート(1ポンド=約9円76銭)(旧平価)で金輸出を解禁したのです。
しかし、その判断は時期的にも経済的にも誤算でした。
日本は旧平価のまま金本位制に復帰したため、円の価値が実際の経済力よりも高く見積もられることになりました。その結果、日本の商品は外国から見ると「値段が高い」状態となり、輸出が急激に減少しました。一方で、外国製品は日本から見ると「割安」に見えるため、輸入が増加します。貿易の収支が悪化すると、輸入代金の支払いのために日本から金が流出していきました。金本位制のもとでは、金の流出はそのまま通貨の減少を意味します。金が減れば発行できる紙幣の量も減るため、国内に出回るお金が足りなくなり、物の値段が下がっていく――これがデフレーション(物価の下落)です。
こうして、輸出の不振と金の流出が重なり、国内の景気は急速に冷え込みました。企業の倒産や失業が相次ぎ、人々の暮らしも厳しくなっていきます。つまり、日本の金解禁による不況は、「高すぎる通貨価値が経済の血流を止めてしまった」という構造的な問題だったのです。
世界各国はインフレ政策の必要性に迫られていました。
管理通貨制度の導入からの歩み
管理通貨制度のあらまし
金本位制は、通貨の価値を金という「実物」で保証する制度として長く信頼を集めてきました。しかし、金の量に通貨発行が縛られるという仕組みは、時代が進むにつれて次第に経済の発展を妨げる要因となっていきます。戦争や不況など、国家が急に多くの資金を必要とする場面では、金の保有量を超えてお金を発行できないため、経済政策の自由度が著しく制限されるという欠点があったのです。実際にそのような状況が起こったのはこれまで見てきた通りです。
この問題を解消するために導入されたのが、管理通貨制度でした。
管理通貨制度とは、政府や中央銀行が通貨の発行量を管理し、経済状況に合わせて柔軟に対応できる制度のことを指します。
この制度では、金との交換ができない不換紙幣を発行し、通貨の価値は金ではなく、国家の信用によって支えられるようになります。管理通貨制度の下では、通貨はもはや金などの実物とは結びついていません。お金の価値は、政府と中央銀行がきちんと経済を運営しているという「信用」によって支えられているのです。
通貨が金などの実物と結びついていないということは、通貨の発行量が金保有量によって制限されないことを意味します。金本位制では、金の量を超えて紙幣を発行することはできませんでしたが、管理通貨制度ではそうした制約がなくなりました。そのため、景気が悪化したときにはお金の量を増やし、消費や投資を促すことで経済を刺激することが可能になったのです。
他方、景気調整がしやすい反面、インフレーション(物価の急上昇)を招くおそれもあるという点が挙げられます。通貨を増やすことで景気を回復させることができる反面、発行しすぎると物価が急上昇してしまいます。
管理通貨制度は、「どれだけのお金を世の中に出すか」を、経済の状況に応じて人為的にコントロールできるようになった一方で、通貨の発行を無制限に行えば、逆にインフレを引き起こしてしまうので、政府と中央銀行は、お金の量を慎重に管理する責任を負うことになったのです。
日本の管理通貨制度への転換――高橋是清の決断
井上準之助による金解禁の失敗で、日本経済は深刻な不況に陥りました。企業の倒産が相次ぎ、失業者が街にあふれ、物価が下がり続けるデフレーション不況が国を覆っていました。
こうした状況のなか、西暦1931年(昭和6年)に再び大蔵大臣となったのが、高橋是清です。
高橋是清は、もともと日銀総裁や首相も務めた経験を持つ、当時随一の金融の専門家でした。高橋是清は、経済の実情を冷静に見極め、「このままでは日本経済が立ち行かない」と判断します。
そして西暦1931年(昭和6年)12月、ついに金輸出の再禁止を断行しました。つまり、日本は金本位制を事実上やめ、金との交換を停止したのです。この政策こそ、管理通貨制度への転換点でした。
金本位制を離れたということは、もはや金の保有量に縛られずに通貨を発行できるということです。高橋是清はこの自由度を生かし、国の経済を立て直すために思い切った財政出動を行いました。公共事業の拡大や軍需費の増加などを進め、政府が積極的にお金を市場に流すことで、景気の回復を図ったのです。
このような政策は、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズの理論と共鳴するものでした。ケインズは「不況のときこそ政府が経済に介入し、需要を作り出すべきだ」と主張しており、高橋の政策はまさにその先駆けとなるものでした。
この考え方をもとにした経済運営を、のちに「高橋財政」と呼びます。
高橋財政のおかげで、日本は世界の国の中でも早い段階で恐慌から脱することに成功しました。
しかし、通貨の発行量を自由に調整できるということは、景気回復に役立つ一方で、使い方を誤ればインフレを招く危険もあります。実際、高橋是清は景気が回復に向かうと、過剰なインフレを防ぐために金融引き締め(緊縮)政策へと転換しようとしました。ところが、当時の軍部はさらなる軍事支出の拡大を求めており、高橋是清の方針に強く反発します。
この対立が高橋是清を標的とする憎悪を生み、西暦1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件で、彼は青年将校らにより暗殺されてしまいました。
高橋是清は管理通貨制度のもとで景気回復を成功させたあと、インフレを防ぐための引き締めに転じようとした経済的合理性の人でした。その理性が、軍部の拡張主義という政治的圧力によって踏みにじられてしまったのです。
海外における管理通貨制度の確立 – ブレトン=ウッズ体制へ
日本が1930年代初頭にいち早く管理通貨制度へ移行したのに対し、欧米諸国が本格的にこの制度を受け入れていくのは、第二次世界大戦を経たあとのことでした。
西暦1929年(昭和4年)の世界恐慌の影響で、1930年代初頭において世界は深刻な不況に陥ります。各国は金本位制を維持しようと試みましたが、通貨の発行が制限される中で思うような景気対策ができず、次第に金本位制そのものが重荷となっていきました。
西暦1931年(昭和6年)9月にはイギリスが、西暦1933年4月にはアメリカがそれぞれ金本位制を停止しました。
西暦1933年(昭和8年)6月に、不況を打開するためにロンドン世界通貨経済会議が開催されました。イギリスの提唱により、国際連盟の後援で64か国もの代表が集まり、世界規模での経済協調が期待されていました。しかし、この会議は結局失敗に終わります。第32代アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトは、国内の景気回復を最優先し、金本位制への復帰を拒否しました。フランクリン=ローズヴェルトは「ドルの切り下げ」や「公共事業の拡大」など、いわゆるニューディール政策によって意図的にインフレを起こし、物価を上昇させて景気を立て直そうとしたのです(実際にアメリカ国内の景気が回復したのはニューディール政策ではなく、第二次世界大戦による軍需拡大が大きな要因だと評価する学説も多い)。この決断により、国際的な金本位制復帰の試みは頓挫し、会議はわずか1か月半で無期休会となりました。
その後、フランスやイタリアなど「金ブロック」と呼ばれた国々も次第に金本位制を維持できなくなり、西暦1936年(昭和11年)までには金本位制がほぼ世界的に崩壊しました。
金本位制が崩れた各国は、それぞれの国の判断で通貨の価値を切り下げ、自国の輸出を有利にしようとしました。この「平価切り下げ競争」によって、一時的には国内産業を守ることができましたが、同時に他国との貿易対立を激化させました。
やがて、イギリスは植民地や英連邦を中心に「スターリング・ブロック」、アメリカは「ドル・ブロック」、フランスは「フラン・ブロック」といったブロック経済圏を形成し、互いに関税や輸入制限で経済を囲い込むようになります。このような経済的分断は、やがて第二次世界大戦への伏線となっていったのです。
戦争の終結が見え始めた西暦1944年(昭和19年)、再び国際協調の試みとして開かれたのがブレトン=ウッズ会議(アメリカ・ニューハンプシャー州)でした。ここでは、金本位制に代わる新たな国際通貨体制として、ブレトン=ウッズ体制が決定されます。この体制では、各国通貨の価値を「金」ではなく「アメリカのドル」を基準に定め、1オンス=35ドルという交換比率が設定されました。ドルは金と交換できる唯一の通貨とされ、他国通貨はドルと固定レートで結ばれます。
こうして、ドルを中心とした国際的な固定為替相場制が成立したのです。
戦前に崩壊した金本位制に代わり、戦後の世界経済は「ドルを軸とする管理通貨制度」へと完全に移行しました。ドルの信頼がそのまま世界経済の安定を支える――これが20世紀後半の国際通貨秩序の出発点となったのです。
スミソニアン体制への移行
第二次世界大戦後に成立したブレトン=ウッズ体制は、アメリカのドルを中心に据えた新しい国際通貨体制でした。各国通貨は「1ドル=金35ドル」という固定比率をもとにドルと結ばれ、世界経済は一時的に安定します。
しかし、この仕組みはやがて限界を迎えます。
戦後の復興とともに、ヨーロッパ諸国や日本の経済は急速に成長していきました。
一方で、アメリカはベトナム戦争(1960年代後半)などによる巨額の軍事支出や、海外援助などで慢性的な財政赤字に悩まされるようになります。それにともなって、アメリカから金が海外に流出し、ドルの裏づけとなる金の保有量が急激に減少していきました。
「でも、金本位制はもう終わったのでは?」と思う人がいるかもしれません。
確かに戦後のブレトン=ウッズ体制では、各国通貨は金ではなくアメリカのドルを基準にしていました。しかし、そのドル自体が「金と交換できる唯一の通貨」として世界中に信頼されていたのです。1ドル=金35ドルというルールのもと、アメリカは「ドルを持ってくれば金に交換します」と約束していました。
ところが、アメリカの財政赤字が膨らむにつれて、世界に出回るドルの量がどんどん増えていきました。すると、外国の政府や銀行が「ドルを金に替えておこう」と考え、アメリカに金の交換を求めるようになります。その結果、アメリカの金が大量に海外へ流出し、「もうこのままでは金の準備が足りなくなる」という危機に陥ったのです。
つまり、金が減るということは、「ドルの信用が実際の裏づけを失っていく」ということです。
こうしてアメリカから金が流出し続けるなかで、ドルの信用は次第に不安定になっていきました。世界中の国々が「このままでは、アメリカはドルを金と交換できなくなるのではないか」と不安を抱き始めます。まるで、銀行が預金よりも多くのお金を貸し出してしまい、「本当に現金が残っているのか?」と疑われるような状況です。
ついに西暦1971年(昭和46年)8月、第37代のアメリカ大統領のニクソンは、ドルと金の交換を一時停止すると発表しました。これはつまり、「アメリカは、もうドルを持ってきても金と交換しません」という宣言でした。世界中の国々が信じていた「1ドル=金35ドル」という約束が破られたことを意味します。
この出来事は「ドル=ショック(ニクソン・ショック)」と呼ばれ、ブレトン=ウッズ体制の根幹を揺るがす歴史的な転換点となりました。
ドルが金と結びつかなくなったことで、世界経済は大きな混乱に陥ります。各国は為替レートをどう維持するか協議を重ね、同じ年の12月にスミソニアン会議が開かれました。この会議では、ドルの価値を引き下げて新たな固定レートを設定し、ブレトン=ウッズ体制を「改良」した形で再出発させることが決まりました。たとえば、金の価格は1オンス=35ドルから38ドルへと引き上げられ、日本円も1ドル=308円に変更されました。これは、戦後長く続いた1ドル=360円体制が終わりを迎えたことを意味します。これをスミソニアン体制と言います。
しかし、スミソニアン体制も長くはもちませんでした。
各国の経済成長の差や資本の自由な移動によって、再び為替のバランスが崩れ、固定相場を保つことが難しくなっていったのです。そして西暦1973年(昭和48年)、主要国はついに固定レートを維持することを断念し、変動為替相場制へと移行しました。
変動為替相場制 - キングストン体制へ…
固定為替相場制から変動為替相場制へ
そもそも、ブレトン=ウッズ体制やスミソニアン体制下における通貨制度では「金とドルの交換」というルールが、世界の通貨価値の“物差し”となっていました。しかし、ドルと金の交換ができなくなったことで、その共通の基準が失われてしまいます。すると、各国の通貨の価値を決めるのは、もはや金やドルではなく、国どうしの取引によって決まる為替レートしかなくなったのです。
このため、世界の国々は「市場の動きにまかせて為替を決める」変動為替相場制を採用するようになります。
ただし、国際的な合意(IMF協定)としては、まだ固定相場制の条文が残っていました。このため、1976年(昭和51年)のキングストン合意(ジャマイカ協定)で「金との交換を永久に廃止し、各国は自国に合った為替制度を自由に採用できる」という新しいルールが正式に定められました。これをキングストン体制と呼びます。
変動為替相場制とは?
変動為替相場制とは、為替レート(通貨の交換比率)が市場の需要と供給によって自由に変動する仕組みのことです。
たとえば、外国から日本製品が多く買われれば「円を買いたい人」が増え、円の価値(為替レート)は上昇します。
逆に、海外からの輸入が増えたり、投資資金が海外へ流れたりすれば、円の価値は下がります。
こうして、通貨の価値は国家が一方的に決めるのではなく、市場の動きによって毎日変化するようになりました。私たちがニュースで「今日の円相場は1ドル=150円台」などと聞くのは、この変動為替相場制のもとで為替レートが常に変動しているからです。
おまけ:円高・円安とは何か?
では、通貨の価値が市場で決まるというのは、具体的にどういうことなのでしょうか。
その代表的な例が、ニュースなどでもよく耳にする「円高」や「円安」という言葉です。
たとえば、ある時期の為替レートが、1ドル=150円だったとします。つまり、アメリカの1ドルを手に入れるためには150円が必要です。
ところが、しばらくして、1ドル=100円になったとしましょう。アメリカの1ドルを手に入れるために100円が必要な場合です。
このとき、同じ1ドルを手に入れるのに必要な円が少なくなった――つまり、円の価値が上がった(円が強くなった)状態です。これを「円高」といいます。
円高になると、日本人にとっては海外の商品を安く買えるようになります。
たとえば、アメリカ製の1,000ドルのパソコンを買う場合、
- 1ドル=150円のとき → 1,000ドル × 150円 = 15万円
- 1ドル=100円のとき → 1,000ドル × 100円 = 10万円
となり、同じパソコンが5万円も安く買えるのです。
このように、円高は「海外からの輸入が有利になる状態」といえます。
一方、円安とはその反対で、たとえば為替レートが再び1ドル=150円に戻ったとしたら、今度は円の価値が下がった(円が弱くなった)状態です。
円安のときは、外国の人にとって日本の商品が安く感じられるようになります。
たとえば、1万円の日本製カメラをアメリカで売るとすると、
- 1ドル=100円のとき → 100ドル
- 1ドル=150円のとき → 約 67ドル
となり、アメリカの人から見れば「同じカメラが以前より安く買える」計算になります。
このように、円安は「日本の輸出が有利になる状態」なのです。
まとめ
ここまで見てきた通貨制度の流れは、ただの経済史ではありません。
金本位制から管理通貨制度(固定為替相場制そして変動為替相場制へ)――これは「お金の価値を何が支えているのか」という社会のルールの変化の物語です。
通貨の歴史を学ぶ意義とはなんでしょうか?
たとえば「円安」「景気対策」「為替介入」などのニュースを聞いたとき、単なる数字の変化ではなく、通貨制度のしくみの上で何が起きているのかを考えられるようになります。金の量でお金の価値を決めていた時代から、信用と政策で支える時代に変わった――この発想の転換を知ることは、現代の経済を理解するための入口です。
また、高橋是清の金輸出再禁止のように、通貨政策はいつも「国をどう立て直すか」という判断と結びついています。制度の背景を知れば、「国の経済運営は、何を守るために、何を犠牲にしているのか」を考えられるようになります。これは単に経済の知識ではなく、政治・社会・国際関係をつなげて考える力です。
金本位制から管理通貨制度へ(ブレトン=ウッズ体制、スミソニアン体制そしてキングストン体制)―― 通貨制度の変化は、国同士がどう協力し、どこで意見が分かれたのかを映す「国際関係の鏡」です。通貨の歴史を知ることは、世界の動きを“お金”という共通言語で読み解くことでもあります。
また、円高や円安のニュースを見て、「輸出企業が得をする」「輸入品が高くなる」と聞いたことがあるかもしれません。それは、通貨の価値が国の中の生活とも直結しているということです。お金の制度は、国際経済だけでなく、私たちの日常にもつながっています。


