今回は、奈良時代の流れをまとめてみました。
我が国の歴史全体の流れの中の奈良時代
歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。
奈良時代は国史(日本史)の中でどこに位置するのかを確認してから勉強を始めます。大きな視点を軽視して歴史の勉強を始めると、たちまち迷子になってしまいます。特に歴史が不得意だと思う人は、こういう大きな視点を持って、落下傘(らっかさん)で上から降りて細かいところに少しずつ入り込んでいくようなイメージで勉強していくとよいでしょう。
奈良時代より前の飛鳥時代では聖徳太子や天智天皇や天武天皇や持統天皇が登場し、中国(チャイナ)や朝鮮半島の勢力から国家を守り、朝貢冊封体制から独立した中央集権的な国づくりを目指しました。 そして、中国(チャイナ)の王朝である唐から律令制度を学び、これを日本流にアレンジしてきました。
奈良時代はその流れを受けて、律令国家の体制がどのように変容していったのかを中心に学んでいきます。
奈良時代は、西暦710年(和銅3年)の第43代の元明(げんめい)天皇の御代に、藤原京から平城京に遷都されてから西暦794年(延暦13年)の第50代の桓武(かんむ)天皇が平安京に遷都されるまでの84年間が奈良時代です。
奈良時代の政治の大まかな流れ
奈良時代は藤原氏が政治の表舞台に少しずつ台頭します。
大化の改新の時に後の天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とともに活躍した中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、晩年に「藤原姓」を天智天皇から賜りました。
鎌足の息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)は法律の知識に明るいことから、第41代の持統天皇の御代から重用され、西暦701年の大宝律令(たいほうりつりょう)や、西暦718年の養老律令(ようろうりつりょう)の制定に大きく貢献しました。また、西暦710年の平城京(へいじょうきょう)への遷都にも貢献しました。
ただ、これでは藤原不比等はただの高級官僚にすぎません。藤原不比等は皇族と親戚関係になろうとします。藤原不比等は、娘の宮子を第42代の文武(もんむ)天皇のところに嫁がせました。2人の間には皇子が誕生しました。その皇子が後の第45代の聖武(しょうむ)天皇になります。
聖武天皇の時代には天平(てんぴょう)文化が栄えました。東大寺の大仏は特に有名ですね。奈良時代は疫病が流行していたので、仏教の力で世の中を治めたいと考えていたので作られました。
奈良時代は、藤原氏が台頭したり藤原氏以外の勢力がこれを阻んだりして、政治的にも安定した時代ではありませんでした。
くわしくはこちらをご覧ください。
律令体制の行方
中学生の皆さんがメインとして押さえておかなければならないのは、律令体制が確立してからどうなったのかを見ていく必要があります。
公地公民の動揺
律令制のもとで、戸籍に基づいて6歳以上の人々に口分田(くぶんでん)という田んぼが与えられ、これを耕作しました。また税も課されました。しかし、税の負担が重いために、戸籍をごまかしたり逃げ出したりして口分田の荒廃が進みました。一方で人口が増加して口分田が不足するようになりました。
三世一身の法
朝廷としては新たな土地を開墾(かいこん)することで耕地の拡大を図ろうとしました。そこで、「新しく灌漑(かんがい)施設を作って開墾した人には3代にわたって開墾した土地を私有してもよい」と定めた「三世一身の法」が西暦723年(養老7年)に作られました。
ちなみに、「灌漑施設」というのは、河川や地下水や湖などから水を引いて農業物を育てるために田や畑へ人工的に水を流したり水を排出したりする施設のことを言います。分かりやすくイメージをすれば用水路がこれにあたります。
墾田永年私財法
しかし、これだと朝廷に返す時期が近づいた土地の耕作を止めてしまう人たちが現れました。するとまた土地が荒れてしまいます。そこで、西暦743年(天平14年)に「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」という法律が制定されました。口分田以外は墾田(こんでん)として私有を認めてしまいましょうというわけです。そして税は納めてね!と。これは土地と人民は公有であるという公地公民の原則を変えるものでした。ちなみに、墾田永年私財法で課税することで、あの有名な東大寺の大仏建立の資金に充てたのは有名な話です。
このように、公地公民制の理念は少しずつ崩れていったのでした。