6月23日 沖縄戦等の戦没者を追悼する日 – 日本人として忘れてはならない日

沖縄慰霊の日についてわかりやすく解説しました 日本の「国民の祝日」について考えるシリーズ
沖縄慰霊の日についてわかりやすく解説しました
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6月23日は何の日なのかを知っていますか?

それは沖縄県が制定している「沖縄戦等の戦没者を追悼する日」、一般的には「沖縄慰霊の日」と言われる日です。この日は、沖縄戦などで亡くなられた方々を追悼するための大切な日です。

この内容をここからもう少しくわしく解説していきたいと思います。なお、この記事にあたっては、千葉県の渡邉尚久先生の記事を参考にいたしました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

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上皇陛下のお言葉 – 日本人が決して忘れてはならない4つの日とは?

実は、今の上皇陛下(第125代の平成の御代の天皇陛下)がまだ皇太子殿下であった昭和56年(西暦1981年)の8月に、「日本人が決して忘れてはならない4つの日がある」とおっしゃいました。

具体的には、

  1. 6月23日の沖縄戦の終結の日
  2. 8月6日の広島の原爆の日
  3. 8月9日の長崎の原爆の日
  4. 8月15日の終戦記念日 [全国戦没者追悼式]

の4つです。

このお言葉は、令和の天皇陛下に代替わりした後も、宮内庁のウェブサイトに掲載されています

ここからは沖縄戦のあらましを見ていくことにしましょう。

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沖縄戦とは

沖縄戦はいつ起きたの?

沖縄戦は、昭和20年(1945年)3月26日にアメリカ軍が沖縄の慶良間諸島けらましょとうに上陸して始まり、6月23日に牛島満うしじまみつる軍司令官と長勇ちょういさむ参謀長が糸満市摩文仁いとまんしまぶにで自決するまで続いた戦いのことを一般的には指します(この日の後も沖縄の各地で戦闘は続いていたそうです)。

この戦いは、米軍にとっては日本本土への最終的な侵攻の前哨戦として行われました。

アメリカ軍の兵力と戦術

米軍は約55万人の兵力を沖縄に投入しました。これは日本軍の約5倍に相当します。アメリカ軍は強力な火力と兵力を背景に、着実に日本軍の防衛線を突破していきました。

沖縄戦の犠牲者について

日本軍と民間人の犠牲

日本側では、民間人を含む約18万8136人が犠牲となりました。このうち約10万人は沖縄の住民であり、特に慶良間諸島では多くの住民が集団自決を遂げました。

集団自決の真相

沖縄戦における集団自決は、長らく軍の命令によるものとされてきました。しかし、後の調査によって、この説が伝聞証言に基づくものであることが明らかになりました。実際には、軍人が住民の自決申し出を拒否し、何とか生き延びるよう説得していたことも分かっています

他の島での集団自決

他の島でも同様に、戦後生き残った住民が自決命令がなかったことを証言しており、遺族が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(通称「援護法」)に基づく年金を受け取るために、事実と異なる証言をしたことが明らかになっています。

全国の日本人が沖縄を守った

沖縄戦で戦死したのは沖縄県民だけではありません。

沖縄県以外の46都道府県からも6万6千人以上の軍人が命を捧げました。沖縄県にある「平和の礎」に刻まれた都道府県別の戦死者数を見ると、北海道が最も多くの戦死者を出していることがわかります。1万805人もの北海道出身の方々が命を捧げたのです。次に多いのは福岡で4030人、東京で3521人と続きます。

日本が誇る戦艦「大和」も、沖縄を助けるために出航した時に米軍の攻撃を受けて沈没しました(沖縄県公文書館ウェブサイトより)。現在は広島県呉市にある海事歴史科学館(大和ミュージアム)に10分の1の模型が展示されています。

「沖縄は日本の捨て石にされた」と語られることもありますが、このように、全国の日本人が沖縄を守るために戦ったのです。

アメリカ側から見た沖縄戦

アメリカ側から見た沖縄戦ですが、米軍にとっても実はかなり苦戦したという認識なのだそうです。日本側に立てば、それだけ祖国を守るためにご先祖さまは命懸けで戦ってくださったのです。

五百旗頭真いおきべ まこと先生の「日米戦争と戦後日本」(講談社学術文庫)によると、沖縄戦を戦ったアメリカ人兵士の証言が収録されています。

アメリカの第二次大戦中の文書をワシントンの国立公文書館で見ていて、私はびっくりした。沖縄戦に関しては、アメリカ側が敗者意識を持っているのである。実質的な敗戦である、というのがワシントンの受け止め方であった。つまり、4月中に作戦完了予定の沖縄戦が5月に入り、5月中には片づかず6月にずれ込む。そして、6月も下旬の23日になって、ようやく片付いた。3倍の期間をかけたこの戦いは実質的には敗北である、というのがアメリカ側の受け止め方である。硫黄島、沖縄はアメリカ軍部にとって失敗した作戦、もしくは苦すぎる勝利である、というのがアメリカ軍部の実感であった。

五百旗頭真「日米戦争と戦後日本」(講談社学術文庫)・2005年・103頁

上で見た通り、アメリカ軍は当初、沖縄戦を1か月で終える予定でしたが、日本軍の激しい抵抗により作戦は長期化しました。

日本軍は追い詰められれば追い詰められるほど粘り強く抵抗したのだそうです。通常、軍人は自分の身が危うくなると捕虜になるのだそうです。国際法に則って人道的な扱いを受け、戦争が終結したら解放されるということが多いからなのだそうです。しかし日本軍のほとんどは違いました。五百旗頭真いおきべ まこと先生の「日米戦争と戦後日本」(講談社学術文庫)に掲載されていた、1つのエピソードを要約しながら紹介しましょう。ハワイの収容所に投降した日本人捕虜のエピソードです。

オーティス・ケリー(Otis Cary)という日本語に堪能な大学教授がハワイにいた日本人捕虜に対して、

「何のために死を賭してまで戦うのか?」

と聞いたのだそうです。日本人捕虜たちはどう答えたのでしょうか?

「それは郷土を守るためだ、父母や子ども、兄弟、同胞を守るためだ、天皇を守るためだ、そのためであれば、日本人は命を捨てる。」

と圧倒的多数の捕虜が答えたのだそうです。愛する人のために命をかけるという価値観です。

では、

「では(彼らの命や安全などを)保証すれば武器を置くのか?」

と大学教授は尋ねます。そうすると、

「もちろんだ」

と答えたのだそうです。そして、

「もし天皇が武器を置くことを命ずれば、もちろん天皇の言葉に従う。」

と極めてはっきり答えたのだそうです。

アメリカ人から見ると、日本人が命懸けで戦うのは「日本人が好戦的な民族だ」と思っていたからなのだそうです。しかし日本人が「目的」を持って戦っていることをアメリカ人は次第に知ることになります。

米軍は甚大な被害を受けていますし、日本も戦闘を継続したいとは思っていません。

ですから、アメリカは早期に戦争を終わらせるために「天皇の存続」を認めることを検討するようになりました。硫黄島の戦いや沖縄戦などをきっかけに、戦争終結時に「天皇の存続」を認めてアメリカが理解を示せば日本人は武器を置くのではないかと方針を転換しました。

ポツダム宣言における「天皇の存続」の文言をめぐる駆け引きがあったことについては、ポツダム宣言の全訳の記事を参照してください

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大東亜戦争の終結

沖縄戦がもし予定通りに短期間で終わっていたら、米軍は早く南九州や関東平野に上陸する作戦が決行されていたことでしょう。沖縄戦が終結したのちに、南九州への「オリンピック作戦」および関東平野への「コロネット作戦」が既に立案されていました。

紆余曲折を経て、日本は8月14日にポツダム宣言を受諾し、戦争は終結しました。ポツダム宣言受諾までの流れについては以下の2つのコンテンツに詳しく解説を載せています(ポツダム宣言の全訳 | 大東亜戦争終結の御詔勅についての解説)。

沖縄が「国内最後の地上戦」ではない!?

よく「沖縄が国内最後の地上戦」と言われますが、それは違います。

実際には昭和20年(西暦1945年)8月11日から23日までの南樺太での戦いが「国内最後の地上戦」でした。明治38年(西暦1905年)にポーツマス条約によって日本に割譲され、昭和20年(西暦1945年)に降伏文書に調印するまで、南樺太は正当な日本の領土でした。そこにソ連が攻めてきたのです。

南樺太での戦いがソ連軍の北海道侵攻を阻止し、北海道分割の悲劇を防ぎました。

牛島満の辞世の句を詠んで「国づくりのバトン」を受け取ろう

最後に、牛島満司令官の辞世の句を紹介したいと思います。辞世の句というのは、死を前にしてこの世に書き残された短文のことで、具体的には和歌にしたり俳句にしたり漢詩にしたりします。

それではご紹介したいと思います。

秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ

秋を待たずに枯れていく島の青草というのは、沖縄のことを指しているのだと思います。

下の句には牛島司令官の願いが込められています。皇国というのはもちろん日本のことです。草が春になってまた青く茂るイメージをダブらせながら、日本(ここでは沖縄と言ってもいいでしょう)の復活を願っておられたのだろうと思います。

これは6月に詠まれた和歌であるという点も忘れてはなりません。この後、夏の盛りがきて、秋がきて、冬がやってきて、また春がやってきます。ここから長い月日を連想してしまいます。どんな長い月日が経ったとしても、祖国の復活を強く強く願っておられたのだと拝察せずにはいられません。

この和歌に込められた牛島司令官の願い。先人が詠まれた和歌から「国づくりのバトン」を受け取ることができそうですね。

命のバトン、国づくりのバトンを受け取り引き継いでいくのが歴史の勉強で大切なことです

さて、牛島司令官から受け取ったメッセージを我々はどのように受け止めたらよいでしょうか?それは読者の皆さんに委ねたいと思います。

沖縄戦での犠牲を無駄にしないためにも、私たちは過去の戦争から学び、平和を維持するための努力を続けることが大切です。

「戦争で命を捧げた方々の死を無駄にしないように」と誓い、皆で力を合わせて日本の未来を築いていきましょう。

仲村俊子さんに訊く 沖縄戦・祖国復帰・反基地運動|但馬オサム
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