神や自然と共に生きた大和時代[古墳時代]の生活と信仰を学ぼう!

神や自然と共に生きた大和時代[古墳時代]の生活と信仰 大和[古墳]時代
神や自然と共に生きた大和時代[古墳時代]の生活と信仰
この記事は約16分で読めます。
スポンサーリンク


私たちが今当たり前に思っている習慣や生活の中には、実は大和時代[古墳時代]にまで遡るものがたくさんあります。

例えば、春の豊作を祈る祭りや秋の収穫を祝う風習、そして神様への祈り方や先祖を敬う気持ち。これらのルーツは、千年以上前の日本の人々の暮らしに根ざしているのです。

大和時代の人々が、自然や神、そして家族とのつながりをどのように大切にしてきたのか。その姿を通して、私たちの暮らしの基盤がどのように築かれてきたのかを探ってみましょう。

スポンサーリンク

渡来人がもたらした大陸文化と日本の発展

渡来人と氏姓制度の成立(4世紀末~5世紀初頭)

4世紀末から5世紀初頭にかけて、日本列島にさまざまな渡来人が到着し、新しい技術や思想、文化をもたらしました。

この頃、第15代の応神天皇の時代には、朝鮮半島や中国大陸から王仁わに阿知使主あちのおみ弓月君ゆづきのきみといった渡来人が渡来したと伝えられています。

王仁は『論語』や『千字文』を伝え、日本で文字と教養の基盤を築きました。『論語』は儒教を伝え、『千字文』は漢字学習の入門書です。彼はのちに西文かわちのふみ氏の祖となったと言われており、漢文の知識を持つ一族として活躍しました。また、阿知使主東漢やまとのあや氏の祖となったと言われており、文筆の才能を持った家系を作り上げました。ちなみに、平安時代に登場する征夷大将軍の坂上田村麻呂のご先祖さまです。そして、弓月君は養蚕や機織り技術を伝えてはた氏の祖と言われており、日本における産業と織物の発展に大きく貢献しました。

渡来人たちは、こうした技術や知識を活かし、朝廷の中で特定の役割を担う地位や職務を与えられて日本社会に定着していきました。彼らがもたらした高度な技術は、ヤマト政権にとって極めて重要であり、彼らを中心に「品部しなべ」と呼ばれる技術者集団が組織されました。品部は特定の技術をもつ渡来人たちによって構成され、彼らがその技術を駆使して朝廷の需要に応え、社会の発展を支えました。


たとえば、陶器(須恵器)の製造を担った陶部すえつくりべ、土師器を扱う土師部はじべ、金属加工を専門とする韓鍛冶部からかぬちべ、高級織物の製作を担当する錦織部にしごりべ、馬具の製造を担当する鞍作部くらつくりべ、装飾品である勾玉や管玉を作る玉造部たまつくりべ、そして文筆を担当する史部ふひとべなどがあり、渡来人たちが主導することでそれぞれの品部が確立されました。

こうした品部を指揮・監督する立場の官職として伴造とものみやつこがあり、これは朝廷に仕える「とも」と呼ばれる役人集団の長にあたります。伴造は各品部の技術者集団を管理し、技術と物資を朝廷に供給する役割を果たしました。

このように、渡来人たちは日本の技術・産業の基盤を築き、ヤマト政権下の社会において重要な役割を担いながら、日本社会に深く根付いていったのです。

漢字の使用と日本における文字史料

漢字は、前述した通り、4世紀から5世紀にかけて渡来人によってもたらされました。

この時代、漢字を用いた文字資料が少しずつ見られるようになりますが、その中でも特に注目されるのが4世紀から5世紀にかけてのいくつかの遺物や記録です。

4世紀の貴重な資料: 石上神宮七支刀銘文

奈良県の石上神宮いそのかみじんぐうに所蔵されている「七支刀しちしとう」は、4世紀後半の重要な文字資料です。

この刀は、西暦369年に朝鮮半島にあった百済くだらという国の肖古しょうこ王から日本の大王おおきみに贈られたものと伝えられ、刀には「百兵を避けるこの刀は、立派な王が帯びるにふさわしい」という趣旨の銘文が漢字で刻まれています。七支刀は、日本と百済の外交関係を示すとともに、漢字が使われていた初期の例として注目されています。七支刀に刻まれたこの銘文は、我が国古代史上の絶対年代を明確にする最古の史料として評価されています。

参照: 石上神宮ウェブサイトより

5世紀の国内文字資料:稲荷山古墳と江田船山古墳から分かるヤマト政権の統治範囲

5世紀になると、漢字を用いた日本国内の資料がさらに増えていきます。

中でも、埼玉県行田市の稲荷山古墳いなりやまこふんと熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳えたふなやまこふんから出土した鉄剣と鉄刀は、日本最古の文章を含む文字資料として注目されています。

稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「辛亥年(しんがいのとし)」、つまり西暦471年と考えられる年号とともに、「ワカタケル大王(雄略天皇)」とされる人物に関する銘文が記されており、第21代の雄略天皇の時代の記録を知る貴重な手がかりとなっています。

また、江田船山古墳から出土した鉄刀にも「ワカタケル大王」と関係する銘文が刻まれており、5世紀末には日本でも漢字を使った記録が行われていたことが明らかです。

試験対策にはなりますが、

  • 稲荷山古墳→鉄
  • 江田船山古墳→鉄

で、実は出土物が異なりますので区別しておかなければなりません。

稲荷山古墳と江田船山古墳についてはヤマト政権の統治範囲を知る貴重な資料でもあります!

他の文字資料:稲荷台古墳・隅田八幡神社・岡田山1号墳

この他にも、5世紀半ばには千葉県の稲荷台いなりだい1号墳から「王賜おうし」の文字が刻まれた鉄剣が出土しており、これも漢字が使われた資料として重要です。

また、和歌山県の隅田八幡神社には、人物の姿が描かれた「人物画像鏡」が所蔵されており、「癸未きび年」という年号が刻まれています。この年号は西暦443年または503年と考えられ、古代の日本において特定の年を漢字で表記する文化が浸透していたことを示唆しています。

さらに、6世紀の資料としては、島根県の岡田山1号墳からも鉄刀が出土しており、ここにも漢字が刻まれていることから、6世紀には日本での漢字使用がより広範囲にわたっていたことがわかります。

これらの資料から、漢字が日本で使われ始めたのは4世紀後半であり、5世紀には広く普及し、日本語表記の基礎が築かれていったことがわかります。特に、石上神宮の七支刀や稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀などは、漢字の使用が外交や政治、宗教といった重要な場面で行われていたことを示し、当時の文化交流と日本の初期文字文化の発展を示す貴重な証拠です。

儒教と思想の伝来

日本には6世紀に百済から儒教が本格的に伝わり、五経博士として段楊爾だんようにが渡来しました。

儒教は中国の春秋戦国時代に孔子によって広められた思想で、君主と民の関係や社会の秩序を重んじるものでした。日本に儒教が導入されることで、政治や倫理の基礎が形成され、後の日本社会に深い影響を与えるようになります。

また、医術や易術、暦法なども同時に伝えられ、生活や科学的な知識が豊かになりました。

仏教の私伝と公伝

仏教は6世紀前半、一部の渡来人の間で私的に信仰されていました。『扶桑略記』によると、司馬達等しばたっとらが仏教を信仰し、生活の中で実践していたとされています。

公的には、538年に百済の聖明王せいめいおうから欽明天皇に仏像や経典が贈られ、日本に仏教が正式に伝えられました。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』には戊午ほご年(西暦538年)に仏教が伝わったと記されていますが、『日本書紀』には西暦552年に百済から仏教が伝えられたと記述されています。この仏教の導入を巡り、崇仏派である蘇我稲目と、排仏派である物部尾輿の間で崇仏論争が勃発しました。この論争は、後に蘇我馬子と物部守屋にも引き継がれます。崇仏論争については、以下の内容でたっぷり取り扱っています。この時代の政治家になりきってぜひ崇仏論争に参加してみましょう!とても面白い学びになると思います。

このように、4世紀末から6世紀にかけて日本に渡来した人々とその文化は、政治・社会から日常生活に至るまでの基盤を築き、日本文化の発展に重要な役割を果たしました。

スポンサーリンク

日本文化の形成と祭祀の確立

農耕儀礼の成立

弥生時代に稲作が大陸から伝わったのち、農作物の豊かな実りを神に祈る「農耕儀礼」が定着していきました。

春にはその年の豊作を祈願する祈年祭としごいのまつりが、秋には収穫への感謝を表す新嘗祭にいなめのまつりが行われます。新嘗祭については、現在は勤労感謝の日に執り行われることになっています(cf. 勤労感謝の日について解説します)。天皇[大王]が即位した年には、新嘗祭の代わりに大嘗祭だいじょうさいという大規模な儀式が執り行われ、天皇が神々に捧げ物を供え、五穀豊穣と国民の平安を祈りました。

現代においても天の恵みは大切です。雨が降らなかったら水稲農業は成立しないですし、雨の降り過ぎで河川が氾濫してもこれまた成立しません。しかしながら農業技術や灌漑技術が今ほど発展していないこの時代であればなおさら天の恵みのありがたみは顕在化するはずです。そういった意味で「祈り」は大切なんだろうなということは想像したいですね。文化史を勉強するときにはどうしても名前の羅列を暗記することばかりに意識が向きがちですが、当時の人たちの気持ちに寄り添って考えながら学習することはとても大切なんだろうなと思います。試験対策の観点から言っても、その方が暗記できると思います

こうした儀礼は農耕文化と深く結びついており、今日まで続く伝統の一つです。

宮中祭祀と神宮祭祀の分離

第10代の崇神すじん天皇の時代に、宗教と政治の体制に大きな転機が訪れたと言われていますました。

三種の神器の一つである八咫鏡やたのかがみが宮中から移され、これを境に宮中祭祀神宮祭祀が分離しました。

八咫鏡については、天の岩戸神話のコンテンツで、三種の神器については天孫降臨のコンテンツでくわしく説明しています。我が国の歴史を学ぶ上で大切な神話だと思います。神話は史実とは言い難いですが、その精神を学ぶことはとても大切だと考えます。ご先祖さまがどう考えてきたのか?が分かるからです。

さて、八咫鏡はそれまで天皇が宮中で直接祀っていました。しかし、全国に疫病が蔓延し、多くの人が命を落とす中で、崇神天皇は天照大神の象徴である八咫鏡を宮中から外部へ移す決断をしました。というのも、ある日、大物主神おおものぬしのかが崇神天皇の夢枕に立たれ、大物主神の男系子孫である大田田根子おおたたねこ大神神社おおみわじんじゃの祭主に迎えるように告げられたからです。そうすれば疫病が鎮まるであろうとされ、大物主神の仰せに従ったところ、実際に疫病が収まったと伝えられています。なお、大物主神は初代の神武天皇の皇后である伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめの父神でいらっしゃいます。この出来事を通じて祭祀が男系で継承されることが強調されました。大神神社は日本で一番古い神社と言われています。

なお、この移動に先立ち、八咫鏡と草薙剣には「形代かたしろ」が作成されており、形代は神霊を移すための代替物としての役割を果たしました。これは、外部での祭祀が行われるようになっても宮中での祭祀を継続するための工夫でもあったのです。

さらに、崇神天皇は、国家の安定と繁栄のために、天皇家の祖神である天照大神あまてらすおおみかみを祀る場所を外部に定める必要があると考えました。この役目が第11代の垂仁すいにん天皇の娘である倭姫命やまとひめのみことに委ねられ、日本各地を巡り最適な地を探した結果、伊勢の地に辿り着かれました。そして、伊勢神宮いせのじんぐうが創建されました。

伊勢神宮では、天皇の娘が斎王さいおうとして八咫鏡の原本を祀ることになり、これにより、宮中での祭祀と伊勢神宮での外部の祭祀が並行して行われる「二元的な祭祀体制」が確立されたのです。

神社のはじまり

日本最古の神社の多くは、山や岩そのものを神聖な場所として信仰することから始まりました。これは、神が山や岩に宿ると信じられていたためです。こうした場所は神名備山かんなびやま磐座いわくらと呼ばれ、神様が降臨する場所とされました。

日本最古の神社の一つである奈良県の大神神おおみわじんじゃは、山そのものを神として祀る『神体山信仰』の代表例です。『古事記』によると、大神神社のご祭神である大物主神おおものぬしのかみは、大国主神おおくにぬしのかみ幸魂さきみたま奇魂くしみたまとされ、国造りに関わった神として知られています。大神神社には社殿がなく、三輪山そのものがご神体として崇められています。具体的なエピソードは前述した通りです。

参照:大神神社

また、福岡県の宗像大社むなかたたいしゃ沖津宮おきつみやも、日本最古の祭祀の形を色濃く残しています。『日本書紀』によると、宗像三女神むなかたさんじょしんは、天照大神あまてらすおおみかみ須佐之男命すさのおのみこと誓約うけいを行った際、須佐之男命の剣から生まれたとされています(天照大神と須佐之男命の誓約についての解説はリンク先を参照)。三女神の一柱である多紀理毘売命たきりびめのみことを祀る沖津宮は、神の島とされる沖ノ島に鎮座し、神秘的な祭祀が続けられてきました。

参照:宗像大社

神社信仰が発展するにつれて、神様を祀るための建物が建てられるようになりました。たとえば、三重県の伊勢神宮いせのじんぐうでは、天皇家の祖神である天照大神あまてらすおおみかみが内宮に祀られています。伊勢神宮の創建については、『日本書紀』で第10代の崇神天皇が天照大神を宮中から外部に祀るように命令され、のちに第11代の垂仁すいにん天皇の命を受けた倭姫命やまとひめのみことが神聖な場所を求めて旅をし、最適な地として伊勢を選んだと伝えられていることは先ほど述べた通りです。伊勢神宮の内宮は、日本独自の建築様式である神明造しんめいづくりで建てられており、シンプルで荘厳な茅葺き屋根が特徴です。

参照:伊勢神宮

大阪府の住吉大社は、住吉三神すみよしさんじんと呼ばれる神々を祀っています。『日本書紀』によれば、住吉三神は神功皇后じんぐうこうごうが朝鮮半島遠征の帰りに無事を祈願したことに始まり、航海安全の神として信仰されています。住吉大社の本殿は、住吉造すみよしづくりという建築様式で、日本最古の神社建築の一つとされています。この様式は直線的で、屋根の棟に太い柱が並ぶ独特の形をしており、素朴で力強い印象が特徴です。

参照:住吉大社

島根県の出雲大社いずもおおやしろは、国造りの神であり縁結びの神としても知られる大国主大神おおくにぬしのかみを祀っています。『古事記』では、大国主大神が国造りを行い、その功績によって地上界を治める神とされています。出雲大社の建築様式は、大社造たいしゃづくりと呼ばれ、非常に高い柱と大きな屋根を持つ壮大な造りが特徴です。出雲大社は、かつて現在の倍以上の高さがあったとも言われ、神話の神聖さを強調する建築として圧倒的な存在感を放っています。

参照:出雲大社

神社はただの建物ではなく、日本人の信仰や自然への畏敬の念を表しています。古代から山や岩を神聖視し、時代とともに建物としての神社が発展していく中で、日本人の価値観や信仰がどのように変わってきたのかを知ることができます。また、神社に祀られている神々が、古事記や日本書紀の神話と密接に関係していることも興味深いポイントです。

氏神・産土神信仰の成立

地域や氏族を守護する存在として、氏神産土神の信仰が日本各地に広がりました。

氏神は各氏族の祖先神として祀られ、産土神は土地の守護神として信仰されました。この信仰は、地域と密接に結びついた日本人の価値観を象徴するものであり、今でも各地で守られています。

神話・伝承の形成と天皇の権威

6世紀半ばになると、神話や伝承が文字として整理され、朝廷での権威を高める一助となりました。神武天皇以降の大王の系譜を記した『帝紀』や、朝廷の説話を集めた『旧辞』が編纂され、のちの『古事記』や『日本書紀』の基礎が作られました。

これらの書物を通じて、神々の加護を受ける存在としての大王(天皇)の位置づけが強調され、後の日本の信仰や制度の礎が築かれていきます。

呪術的風習の進展

神々への祈りや儀礼とともに、呪術的な風習も日本文化において重要な役割を果たしました。みそぎはらえによって穢れを祓い清めました。「禊」と「祓」は、いずれも神道における浄化の儀式ですが、方法と目的に違いがあります。「禊」は、主に水を使って心身の穢れを直接清めるもので、川や海で体を洗い流すことで、個人の浄化を目的とします。一方、「祓」は祝詞のりと大幣おおぬさといった祓具を使い、神聖な力によって災厄や穢れを取り除く儀式です。祓は個人だけでなく、場所や集団など広範囲を清める際にも行われます。

未来を占うために、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占ふとまにや、カメの甲羅に熱を加えて生じたヒビの形状を見て占う亀卜きぼくが行われました。

また、裁判の一つとして、熱湯に手を入れる盟神探湯くかたちが行われました。ある人が正しいかどうかを神様の力を借りて確かめる方法です。疑われた人は、まず自分の潔白(=うそがないこと)を神様に誓います。そして、熱いお湯が入った釜に手を入れさせられ、その人が本当に正しいなら熱くても火傷しませんが、もしうそをついていれば火傷をしてしまうと信じられていたもので、これを裁判で使われていたのだそうです。「『魏志』倭人伝」にも盟神探湯が行われていたことが記録として残っています。

スポンサーリンク

大和時代の人々の暮らし

大和時代における住環境について

大和時代の豪族たちは、環濠や柵列で囲まれた居館きょかんに住み、家族の生活や倉庫などの場所を分けて整備していました。群馬県の三ツ寺I遺跡などがその代表例です。

また、庶民の住居には竪穴住居たてあなじゅうきょと呼ばれる、地面を掘った住居が使われていましたが、この時期からは「かまど」が発見され、平地に建てられた「平地住居」も現れるようになりました。「古事記」などに掲載されている「民のかまど」のお話はとても有名ですが、そういったところからも「かまど」の存在がこの時代にあったことが明らかになっています。

群馬県の黒井峯くろいみね遺跡では、環濠で囲まれない集落も確認されています。

大和時代の土器について

弥生時代には、弥生土器が使われていましたが、時代が進むとともに、「土師器はじき」と「須恵器すえき」という新しい種類の土器が登場しました。これらの土器は、作り方や用途に違いがあり、それぞれの特徴が当時の人々の生活や信仰、外国からの影響を反映しています。

まず、土師器は赤褐色で、柔らかい土の質感が特徴です。焼く温度がそれほど高くないため、赤っぽい色になり、比較的やわらかい仕上がりになります。土師器は弥生土器の伝統を受け継いでおり、日本の技術や文化が反映されています。

一方、須恵器は灰色で、土師器よりも硬く、耐久性が高いのが特徴です。須恵器は高温で焼かれているため、灰色がかった色をしており、非常に硬く仕上がっています。須恵器は主に宗教的な儀式や祭りといった祭祀の場で用いられました。また、この須恵器は朝鮮半島から伝わった土器の技術を基に作られたと考えられており、外国の影響が色濃く反映されています。

大和時代の衣服や髪型について

大和時代の衣服について

当時の衣装には、絹と麻といった素材が使われていたとされています。話が脱線しますが、この時代に綿はまだ存在していません。

絹は、手間のかかる養蚕や製糸を経て作られる貴重なもので、しなやかな手触りと光沢が特徴です。このため、絹の衣服は特別な場で身につけられ、男性は「衣とはかま」、女性は「衣と」を着用しました。絹の衣装は、式典や行事などの際に特別な装いとして重宝され、華やかで格式のある服装とされました。

一方、麻は絹に比べて手に入りやすく、通気性がよく軽い素材で、普段の生活に適していました。麻の服は、日々の暮らしに使われ、丈夫で動きやすいため、様々な場面で役立ちました。自然の中から手に入る素材を活かし、それぞれの場面に応じた衣服を使い分けていたのです。

大和時代の髪型について

衣装と同様に、髪型にも男女による特徴が見られました。男性の典型的な髪型は「美豆良みずら」と呼ばれ、髪を左右に分け、耳のあたりで丸く結ぶスタイルです。この髪型は、当時の日本における格式のある身だしなみとされ、男性らしさや美意識を表していました。美豆良は、髪型を整えることで自身の品位や清潔感を示す大切な要素であったと考えられます。

女性は「もとどり」という髪型をしていました。髻は、髪を一つにまとめて後ろで結ぶ髪型で、現在の和装にも近いスタイルです。女性が髪を整え、結い上げることで清潔感や美しさが表現されていました。

このように、髪型を整えることは、当時の日本において男女共に大切にされていた美意識の一部だったのです。

参照:風俗博物館(京都市)

 

タイトルとURLをコピーしました