1990年代の日本において、日本の銀行は、なぜ「貸したいのに貸せない」状況に陥ったのでしょうか。そして、なぜこれほど多くの金融危機が連続し、銀行の経営が揺らぐほどの不良債権が積み上がっていったのでしょうか。
その背景には、
- バブル崩壊による資産価値の急落、
- 国際的な自己資本比率規制(BIS規制)の導入、
- アジア通貨危機という外部ショック
という複数の要因が複雑に絡み合っていました。
さらに見落としてはならないのが、同時期に進んだ「金融の自由化」です。
1980年代以降、日本の金融制度は規制緩和を通じて大きく形を変えました。金利が自由化され、銀行・証券・保険の垣根が緩和され、外貨取引や資本取引が国際基準へと引き上げられたことで、日本の金融市場は“守られた空間”から“競争の世界”へと踏み出しました。
金融自由化の詳細は以下のページで整理しています。
自由化によって金融市場は活性化しましたが、その一方で、銀行はより高いリスクを負う構造へと変わりました。そしてバブル崩壊後、これらの変化が逆回転し始めたとき、日本の金融システムは急速に不安定化していきます。
本稿では、1990年代の日本に何が起きていたのかをわかりやすく説明します。
金融の信用秩序を維持する仕組み──BIS規制と貸し渋り
BIS規制とは?
金融自由化が進む一方で、銀行の健全性を国際的な基準で評価しようとする動きが生まれました。それがBIS規制です。
BIS規制とは、スイス・バーゼルに本店を置く国際決済銀行(Bank for International Settlements:BIS)が取りまとめた国際的な自己資本比率規制のことです。具体的には、銀行は自己資本比率8%以上を維持することが求められ、この基準を下回ると早期是正措置が発動されます。
ここでいう自己資本比率とは、「銀行が自分のお金(自己資本)でどれだけ損失に耐えられるかを示す割合」のことです。
より正確には、次の式で計算されます。
自己資本比率 = (自己資本/リスク資産) × 100
ここでいう、「自己資本」とは銀行が自分で持っている「本当のお金(資本金や内部留保など)」のことで、「リスク資産」とは貸出金や投資の総額をリスクの大きさに応じて計算し直したもの(大きいほど危険)を言います。
銀行は、自己資本(自分のお金)よりも、ずっと大きな規模でお金を貸したり投資したりしています。銀行のビジネスは「預かったお金を貸すことで利益を出す」仕組みだからです(くわしくは「市中銀行の役割」の投稿をご覧ください)。
銀行は私たちの預金を預かったうえで企業や個人に貸し出しをしていますが、貸したお金の一部が返ってこないこともあり得ます。そのとき、銀行自身が持っている「自分のお金」が少なければ、わずかな損失でも倒れてしまいます。そこで国際社会では、銀行が一定額の「備え」を持つことで、預金者や取引先が安心して利用できるようにしようと考えました。それが自己資本比率規制です。
ところで、自己資本比率の8%というのはどれぐらい厳しい基準なのでしょうか?数字だけ見ると小さく見えますが、銀行にとっては実際には非常に重い基準です。銀行の資産は数兆円〜数十兆円規模であるため、その8%というだけで莫大な自己資本が必要になります。また、自己資本比率を維持するためには、むやみにリスクの高い融資を増やすことができず、貸し渋りなどが起きる背景にもなりました。
BIS規制が厳格に適用されるとどうなる? – 貸し渋り・貸しはがし
BIS規制が厳格に適用されると、銀行はリスクの高い融資を避けるようになりました。
その結果として生まれたのが、貸し渋り(融資審査の厳格化)と貸しはがし(返済の強制)です。
バブル期には十分な審査をせずに貸し出しを増やした銀行も多かったのですが、バブル崩壊後は融資審査が極端に厳しくなり、企業が資金繰りに苦しむ事例が増えました。
銀行はBIS規制を守るため、不良債権化のリスクがある貸出を避けるようになったのです。結果として多くの不良債権が積み上がり、金融不安が深刻化していきました。
不良債権問題
不良債権とは何か?
不良債権とは、銀行が貸したお金のうち、返してもらえる見込みが低くなったお金のことです。
貸したお金が回収できない場合、銀行の損失は非常に大きなものになります。例えば、本来なら1千万円として戻ってくるはずの資産が、返済不能になると、もはや同額の価値はありません。不良債権は市場で売却されることがありますが、その際の価格は1割や2割に満たず、100万円や数十万円でしか買い手がつかないことも珍しくありません。
銀行から見れば、1千万円のはずだった資産が100万円の価値にまで下がるということであり、これは単なる損失ではなく、経営の根幹を揺るがすほどのダメージです。この損失が積み重なることで、銀行は正常な融資を続ける余裕を失い、金融システム全体が不安定になっていきます。
不良債権が多くなることがどうして問題なのでしょうか? – 金融システム全体への不安
銀行は、預金者から預かったお金を企業に貸し出し、その利子を収入源とすることで成り立っています。ところが、貸したお金が返ってこない不良債権が増えると、銀行が保有する資産の価値は確実に目減りします。資産が減れば、「あの銀行は本当に大丈夫なのか」という不安が市場に広がり、預金者や投資家からの信用も揺らいでいきます。
さらに、不良債権の増加は自己資本比率の低下を招きます。自己資本比率が下がるということは、銀行が損失に耐える力が弱まっていることを意味し、国際的な安全基準(BIS規制)を下回る危険も発生します。こうした資産の減少・信用の低下・安全性の揺らぎが重なって生まれる悪循環こそ、不良債権問題が銀行経営にとって深刻な理由です。
銀行は信用を基盤とする存在であり、この基盤が揺らげば経営全体が不安定になります。そのため不良債権の増加は、一つの企業の問題にとどまらず、金融システム全体に影響する重大な課題となったのです。
どうして1990年代に不良債権が増えたのでしょうか?
西暦1991年(平成3年)のバブル崩壊は、日本の金融システムに大きな衝撃を与えました。それまで高い価値があると信じられていた土地や株式が、一気に値下がりしたからです。
資産の価値が急に落ちると、企業はそれらを担保に借りていた借金を返す力を失っていきます。返済できない企業が増えるほど、銀行が保有する貸出金は「戻ってこない可能性の高い資産」へと変わり、銀行の財務を直接圧迫するようになりました。
たとえば土地を担保に5千万円を借りていた企業が、バブル崩壊によって担保価値が2千万円に下がってしまうと、残りの3千万円を返済する力は簡単には生まれません。企業の倒産や業績悪化が続けば、この貸出金は銀行にとって大きな損失となります。
このように、担保価値の下落と企業の返済不能が重なり、銀行が抱える不良債権は1990年代を通じて急速に増え続けました。
そのような中、それに追い打ちをかけるような出来事が起こりました。
アジア通貨危機と日本の財政と金融の分離の関係とは?
アジア通貨危機とは?
西暦1997年(平成9年)、日本の金融システムをさらに追い込む出来事が起こりました。アジア諸国を巻き込んだ通貨危機です。俗にアジア通貨危機と呼ばれます。
きっかけはタイの通貨バーツの急落でした。外国から大量の資金が一斉に引き上げられたことで、通貨の価値が急激に下がり、その影響は瞬く間に韓国やインドネシアなど周辺国へ広がっていきました。経済が不安定になると、現地に進出していた日本企業も打撃を受け、日本の銀行が抱える貸出金にも大きな損失が生じました。
もともと日本の銀行は、バブル崩壊による不良債権の増加で体力を削られていたところに、このアジア通貨危機が重なりました。銀行の財務状況はさらに悪化し、経営が不安定になる金融機関が相次ぐようになります。こうした状況は、「銀行の監督体制そのものを見直す必要があるのではないか」という問題意識を強めていきました。
日本への影響 – 金融と財政の分離とは? – その過程について説明します
1990年代の日本では、バブル崩壊によって銀行の財務が急速に悪化し、不良債権の問題が深刻化していきました。その最中にアジア通貨危機も重なり、日本の金融制度は大きな試練に直面することになりました。こうした危機が相次ぐ中で、政府は「金融を監督する仕組みそのものを抜本的に見直す必要がある」という考えに至ります。
当時の日本では、国の予算や税金を扱う「財政」の仕事と、銀行や証券会社を監督する「金融行政」の仕事が、どちらも大蔵省の中に置かれていました。つまり、国のお金を管理する部門と、金融機関を監督する部門が同じ省庁にまとまっていたのです。高度経済成長期にはこの一体運営が効率的に機能した部分もありましたが、バブル崩壊後の混乱の中では、金融監督の独立性の弱さや、情報の集約が不十分であることが問題として浮き彫りになっていきました。金融危機に迅速かつ専門的に対応するには、財政の論理と金融監督の論理を分け、専門性を高めた組織が必要だと考えられるようになりました。
こうした反省を背景に、日本では金融行政の大きな改革が進められました。西暦1998年(平成10年)には金融監督庁が設立され、銀行や証券会社などの監督業務が大蔵省から切り離されました。さらに西暦2000年(平成12年)には金融庁が発足し、金融機関の監督を一元的に担う体制が整えられました。これらの改革によって、「財政を担当する政府(大蔵省)」と「金融監督を担当する行政組織(金融庁)」が明確に分かれ、日本の金融行政はより独立性が高く、専門的な仕組みへと姿を変えました。これを金融と財政の分離と言います。
そして西暦2001年(平成13年)に、金融行政の改革にさらに大きな区切りが訪れます。長らく国家の「財布」を握っていた大蔵省が再編され、財務省として生まれ変わったのです。財務省は国の予算や税金、国債といった「財政」の仕事に専念する省庁として位置づけ直され、大蔵省が持っていた幅広い権限は金融庁などに分割されました。巨大官庁として知られた大蔵省がその形を変えたことは、戦後日本の行政改革の中でも特に大きな出来事でした。
こうした改革を通じて、「財政を担う財務省」と「金融機関を監督する金融庁」が明確に分離され、日本の金融行政はより専門性と独立性を備えた体制へと変わっていきました。バブル崩壊やアジア通貨危機は、日本の銀行の弱点を明らかにすると同時に、金融行政そのものを作り替える転機となったのです。
まとめ
1990年代の日本で起きた金融危機は、一つの事件ではなく、複数の要因が連鎖しながら深刻化していった複合危機でした。
銀行の自己資本を国際基準に合わせるための BIS規制、返済不能企業の増加によって膨張した 不良債権、アジア全域を揺るがした通貨危機、そして金融行政そのものを作り替えることになった財政と金融の分離──。
これらはすべて別々の出来事ではなく、日本の金融制度そのものの弱点が露呈した結果でした。
そして、この危機の前提にあったのが金融の自由化(金融ビッグバン)です。
自由化は日本の金融市場を国際基準に引き上げるために不可欠でしたが、それは同時に、銀行が自己責任でリスクを負う構造へと転換することも意味していました。
危機の理解は、現代の金融制度を学ぶうえで欠かせません。金融制度は歴史の中で形を変えながら築かれてきた「信用のインフラ」です。その成り立ちを知ることは、経済をより深く理解する第一歩になるはずです。



