【中学歴史】室町時代の産業の発達の特徴についてわかりやすくまとめてみました!

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室町時代
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今回は、室町時代の産業の発達の特徴について、鎌倉時代の産業の発達の特色と比較しながらまとめてみました。

室町時代の全体像をわかりやすく解説してみました!

中学生や高校生の皆さんにとっては、あまり面白くないと感じる分野かもしれません。実際に苦手意識を持っている人がとても多い分野です。それはなぜかというと、用語の羅列をひたすら覚える印象が付いてしまっているからです。

室町時代の時代背景や新しい技術がどうして生まれたのか?といったことが分かれば、知識につながりができるので理解が進みやすくなります。

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室町時代の産業の発達の背景

大きなポイントとしては、貨幣経済が日本の中に広がっていったという点をあげなくてはいけません。

日本でも和同開珎わどうかいちんなどの貨幣(皇朝十二銭)が鋳造されましたが普及しませんでした。しかし、日宋貿易などで中国(チャイナ)から貨幣が銅銭が入ってくると、それが日本で流通し始めます。

日宋貿易については平氏政権のコンテンツで解説しています!

鎌倉時代になると年貢を貨幣で納める動きが出てきました(代銭納と言います)が、これも貨幣経済が日本に浸透し始めた一例を言えると思います。

室町時代になると、中国(チャイナ)で明王朝が建国され(西暦1368年)、第3代皇帝の永楽帝の頃に作られた永楽通宝などが日本に伝わると、さらに日本において貨幣経済が一般化するようになりました。

室町時代の農業の発達について

農業技術の向上

室町時代は農業技術が大きく発展し、生産性が向上しました。

以下、室町時代に見られる特徴をいくつか紹介したいと思います。

鉄製農具の普及

鉄製農具が広く普及しました。

鉄製農具ならばずっと昔から使われていたのではないかとクエッションマークが付いた皆さんはとても鋭いです。実は弥生時代に稲作が我が国に伝わり、弥生時代の末期から古墳時代の前期ぐらいの時代に鉄が日本に伝わりました。それから農器具に鉄が使われるようになりました。その頃はまだ鉄が貴重な資源であったため、農器具の先っぽにだけ鉄が使用されるような感じで使用されていました。

それに対して、室町時代の鉄製農具は鉄が使われる面積が大きくなり、農作業の効率性が飛躍的に上がりました。

牛馬耕の普及

牛や馬にすきを引かせて土を掘り起こしたり、田んぼに水を引いた後に土をならす(代掻しろかき)作業をやらせたりする牛馬耕ぎゅうばこうも鎌倉時代以上に普及しました。人力で田を耕すよりも作業が楽になりますね。

肥料について

鎌倉時代には、草木を燃やして灰にした草木灰という肥料が使われるようになりました。

室町時代には、草木灰に加えて以下のような肥料が使われるようになりました。刈敷かりしき下肥しもごえです。

刈敷というのは、刈った草や葉歯を田畑に埋めて発酵させた肥料のことを言います。

下肥というのは人糞尿のことで、それをそのまま肥料として使いました。

三毛作の普及

二毛作にもうさくは鎌倉時代に西日本を中心に始まりました。

二毛作は、同じ耕地で1年の間に2種類の異なる作物を栽培する方法のことを言います。我が国においては米と麦を作りました。

鎌倉時代の農業についての解説をわかりやすく解説しました

鎌倉時代に始まった二毛作は、灌漑や排水施設の整備や改善によって全国的に広がっていきます。灌漑という言葉は大丈夫でしょうか?地理でも出てくる用語です。農地に水を持ってくるために整備をすることを言います。農作物を育てるためには水が必要です。安定的に水が供給されるためには灌漑施設の存在はとても大切です。

室町時代(15世紀初め頃)になると、近畿地方で三毛作が行われるようになったことが分かっています。三毛作は同じ耕地で1年の間に3種類の異なる作物を栽培する方法です。米と麦と蕎麦です。

商品作物の栽培

鎌倉時代から商品作物の栽培は本格的になりますが、室町時代にはさらに栽培が盛んになります。

そもそも、商品作物というのは販売を目的として生産する農作物のことです。農作物の生産技術が向上した分だけ時間ができるので、その分を副業してお金を儲けようというわけです。

具体的にどのようなものが作られたのかというと、

  • こうぞ…和紙の原料
  • あい…染料。阿波国(現在の徳島県)が有名。
  • うるし…漆器の原料
  • 荏胡麻えごま…灯油の原料
  • からむじ…麻の原料。越後国(現在の新潟県)が有名。

といったものが鎌倉時代には作られていました。ざっくりとまとめると、上に列挙した商品作物は、第2次産業(工業)の何かしらの原料になる作物が多いですね。これを和紙職人とか漆器職人などが使いますから、確かに商売としてはよいですね。

室町時代なるとさらに多様化し、

  • 木綿[綿花]

などといった作物が作られるようになりました。

茶は京都の宇治が有名です。今でも宇治茶として親しまれていますね。

木綿は16世紀(戦国時代の頃)に朝鮮半島から伝わってきました。木綿は現在の愛知県の三河地方や大阪府の河内地方で盛んに栽培されました。

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室町時代の手工業の発達について

鎌倉時代では手工業を専門とする職人が現れました。

いくつか職人の例を示しましょう。

  • 鍛冶かじ…金属をたたいて鍛えたり、溶かしたりして加工したりします。例えば刀剣や農具を作りました。刀剣は多くの武士が求めただけでなく、日明貿易[勘合貿易]の主要な輸出品になりました備前びぜん国の長船おさふね美濃みの国のせきが有名な産地です。また農具は農業の発展に寄与しました。くわの生産は出雲いずも国が有名です。
  • 鋳物師いもじ…鍋や釜などを作る職人のことを言います。
  • 番匠ばんじょう…大工のことをこのように言いました。

室町時代になると、室町時代になると守護大名や戦国大名の保護のもとで手工業者が成長し、各地の特色を生かした特産品が生産されるようになりました。

  • 和紙…杉原紙すいばらがみ播磨はりま国)、とり紙(越前国)、美濃紙(美濃国)
  • 絹織物…京都の西陣織にしじんおりが有名。西陣という名前は、応仁の乱の時に山名宗全が西軍の陣を置いたことが由来。それから日明貿易[勘合貿易]で栄えた博多。博多織はかたおりという名前で有名です。他の地域では、加賀かが国や丹後たんご国で盛んに作られた。江戸時代になると、加賀国では加賀友禅ゆうぜん、丹後国では丹後ちりめんが作られるようになります。
  • 陶磁器…瀬戸物(尾張国)や信楽焼(近江国)など。
  • 刀剣…備前びぜん国の長船おさふね美濃みの国が有名な産地。

まだまだ例はたくさんありますがこれぐらいにしておきたいと思います。

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室町時代の商業の発達について

農業や工業が発達すると、ものを売る場所が多くなったり、交通網がより発達します。

定期市の開催と見世棚の登場

鎌倉時代においても定期市は開催されていました。回数は月に3回というところが多く、三斎市と呼ばれていました。

生産が向上すると、定期市が開かれる回数は多くなります。

室町時代(特に応仁の乱の後)においては、月に6日開催されるところが多くなります。これを六斎市と呼びます。

農民たちはこの市で農作物を売ってお金に換えました。農作物は商人の手に渡って商品として流通するようになりました。また、農民たちにもお金が行き渡るようになり、貨幣経済は着実に浸透していきます。

また、取引するものが多くなると、京都や奈良といった都市においては常設の小売店が登場するようになります。これを見世棚みせだなと言います。今の店という言葉の語源となる言葉だと言われています。

座の結成

手工業者や商人は、と呼ばれる同業組合を作ります。

どんどん自由に商売ができるようになると、先に商売を始めた人たちが損をすることだってあります。先に商売を始めた人たちは自分が始めた商売を独占したい気持ちになるものです。

手工業者や商人は畿内の寺社や公家に銭や労役を納める代わりに商品の製造や販売を独占する権利(一座)をもらいました。

しかしながら、戦国時代になると、座の特権は新しく商売をしたい人の障壁になり、経済の停滞をまねきます。そこで、城下町の中では楽市楽座を提唱して自由な商売を促進するようになりました。

貨幣の流通 – 明銭の流入

これだけ貨幣経済が地方まで広がっていったとしても、前述した通り、朝廷も幕府も自らが貨幣を作ることはありませんでした。中国(チャイナ)からの輸入に頼っていました。

日明貿易[勘合貿易]により、明王朝の初代皇帝の洪武帝の時代に作られた洪武通宝、3代皇帝の永楽帝の時代に作られた永楽通宝、5代皇帝の宣徳帝の時代に作られた宣徳通宝が相次いで我が国に流入しました。その中でも永楽通宝は大量に輸入されました。後の時代に登場する織田信長が永楽通宝を自身の旗印として使用したことは戦国ファンの人は知っている人も多いと思います。

しかし、中国(チャイナ)から貨幣が流入してきたといっても、それだけでは足らないぐらい日本社会では貨幣が浸透していました。通貨量が少ない状況が起こっていたのです。貨幣不足になると、勝手に中国の貨幣を真似した粗悪な貨幣を作る人が現れ、それが市場に出回ります。これを私鋳銭しちゅうせんと言います。商人からすればこんなものを受け取りたいはずがありません。撰銭えりぜにと言って悪銭を受け取らなかったり銭の質に応じて異なる価格を設定したりしました。しかしこれでは円滑な取引が行えません。そこで、悪貨を指定してこれを禁止したり悪貨と良貨の混入比率を定めたりした撰銭令えりぜにれいが幕府や戦国大名から出されました。

貨幣経済の浸透により、土倉・酒屋の活動が促進される

貨幣経済が広がると、金融業者の活動を促します。

鎌倉時代においては、お金を貸す借上かりあげと呼ばれる金融業者や質屋の土倉どそうなどが現れました。土倉というのは質入れした物(質物とか質草という)を保管する倉庫のことです。質屋についての話は鎌倉時代のコンテンツで解説しているので、ぜひご覧ください。

鎌倉時代の金融業者についての解説もこちらで!

土倉は酒屋を兼ねていることが多かったため、酒屋土倉と呼ばれることもありました。室町幕府は土倉や酒屋から税を取ってこれを財源とします。一方で室町幕府は彼らの商売を保護します。室町時代においてお酒が特産物として出てくるのはこのためでもあります。

土倉酒屋は、高利貸し、つまり高い利息を付けて融資を行いました。

彼らはとても裕福でしたが、その一方で土一揆などの標的にもされました。

交通の発達

貨幣経済が浸透すると、生産物が多く生まれ、取引の対象が広がります。そして、物流が促進されます。

交通の要所には問丸が置かれます。交通の要所となる都市や湊において、物資の運送や保管、販売を行いました。彼らの中には専門の卸売商人になるものもいます。問屋へと発展します。

また陸上交通も発達します。陸上交通を担うのが馬借車借です。馬借は馬を使って陸路の物流を支え、車借は牛馬に荷物を引かせて陸路の物流を支えます。これらは前提として道路が整備されていなければなりません。

海上交通については廻船と呼ばれる船が往来しました。決まったところを往復する船です。青森県にある十三湊とさみなとは有名です。蝦夷地からの品物を京都まで運びました。

中世の蝦夷地の様子について分かりやすく説明しました

一方、幕府や寺社は物流の動きに目を付けます。

忘れてはいけませんが、特に室町幕府は財政的にはとても脆弱です。幕府の収入を増やせる手段はそんなにないので、細かいところから税を取ろうとします。

彼らは関所を設けます。古代の頃の関所とは役割が異なります。古代の関所は都を守るための軍事的な施設でした。一方、中世の関所は通行税を取ることを目的にしたのです。よって、経済的な側面を持った施設に変貌を遂げています。

しかし応仁の乱が終わってから戦国大名が登場すると、関所が廃止されます。一言で言えば、物流にとって邪魔だからです。経済成長をさせるにはやっぱり自由経済が望ましいのです。

 

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