「米英両国に対する宣戦のご詔勅」の内容についてわかりやすく解説していきます。つまり、大東亜戦争(教科書では「太平洋戦争」)を始めるきっかけとその理由について、天皇陛下の勅語(おことば)によって発せられたのがこの詔書です。
この詔書は、「米英両国に対する宣戦のご詔勅」や「開戦のご詔勅」などと呼んだり、様々な名称で呼ばれます。そのようなことが許されるのか?という問題が出てきますが、特に問題ありません。「米英両国に対する宣戦のご詔勅」も「開戦のご詔勅」も正式名称ではありません。強いて正式名称を申せば「詔書」。つまり、天皇が発する政治や軍事などの国務全般にわたる公式文書を指す言葉です。ですから、「詔書」は歴史上たくさん出されているので、これでは他の詔書とは区別がつきませんからね。
さて、ここからはこのご詔勅を1文ずつわかりやすく解説するとともに、ご詔勅を拝読するにあたって必要となる時代背景も合わせて解説しました。
なお、この解説を作成するにあたっては、国語WORKSの松田雄一先生やLearn JapanのHall Noriko様、宮司の潮清史 様や「日本が好きになる歴史授業」の齋藤武夫先生や千葉県の渡邉尚久先生の講座や授業内容を多分に参考にいたしました。この場を借りて心から感謝申し上げます。
「米英両国に対する宣戦のご詔勅」が発布された背景
昭和16年(西暦1941年)12月8日に、日本海軍はアメリカのハワイの真珠湾を攻撃し、また日本陸軍はマレー半島に上陸してイギリス軍を撃破してシンガポールを目指して進軍を開始しました。「大東亜戦争」が開戦しました。その時に発せられたのが「米英両国に対する宣戦のご詔勅」です。
詔書には「日本がなぜ米英に対して戦争を行ったのか?」が説明されています。その「一次史料」とも呼べるのがこの詔書なのです。
「一次史料」というのは、「その時」に「その場」で「当事者」が作成したものであり、文献の正確さを担保するにはこの3つの要素は欠くことのできないものです。このご詔勅は、まさに一次史料に該当するものです。
先の大戦にかかる日本側の価値ある一次史料は教科書からは抹殺され、誰かの解釈に基づいた内容でしか歴史が語られないのはおかしな話です。まず一次史料を読み、そこから様々な他の史料をあたりながら、先の大戦の様々な評価がなされるべきです。
「米英両国に対する宣戦のご詔勅」を奉読することで、日本がなぜ大東亜戦争という戦争を始めたのかに迫ってみたいと思います。
大東亜戦争の開戦を決定する御前会議の時に、昭和天皇が以下の御製を2度詠まれたという記録が残っています。
四方の海 みなはらからと 思ふ世に
明治天皇の御製(明治37年)
など波風の 立ちさわぐらむ
謹んで意味を解説すると、「外国も日本も兄弟のようなものなはずなのにどうして争いが起こってしまうのだろう」と仰った内容です。
この御製は元々は明治天皇がお詠みになった御製です。明治37年(西暦1904年)に詠まれたそうです。国史[日本史]を学んだことのある人であれば、この年に日露戦争があったことは分かっていただけると思います。明治天皇は日露戦争の前にこの御製をお詠みになったそうです。
さて、昭和天皇もこの開戦を決定する御前会議の中で、2度お詠みになったと記録に残っています。大日本帝国は立憲君主の国です。ですから、天皇陛下が自ら意見を述べられることは基本的にはありません。実は昭和天皇は開戦をお望みにはなっていませんでした。そのお気持ちを明治天皇の御製をお詠みになることで表わされたのです。
昭和天皇がこのご詔勅の中でも同じようにお気持ちを吐露されている部分があります。それがどこに表れているのかを見ながら、一緒に読んでいきましょう。
まずはどんなことが書いてあるのかを音を通して味わってください。
謹んで「米英両国に対する宣戦のご詔勅」を解説します
ここからご詔書を謹んで1文ずつ解説していきます。
その1 – 米英に対して宣戦布告をします!
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ
昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
神々の助けを得て神武天皇以来の血筋を引き継ぐ大日本帝国の天皇(註: 昭和天皇)が、忠誠心に厚く勇敢な国民にはっきりと示します。
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス
私(註:昭和天皇)はここにアメリカとイギリスに対して戦争を行うことを宣言します。
朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ
朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ
朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ
億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ
遺算ナカラムコトヲ期セヨ
陸海軍将兵は全力を奮って交戦に従事し、すべての公務員は務めに励んで職務に身を捧げ、臣民はおのおのがその本分を尽くし、1億人の臣民が心を一つにして国家の総力を挙げて、この戦争の目的を達成するにあたって手違い(=遺算)がないように期待します。
その2 – なぜ日本はアメリカやイギリスに対して宣戦布告をしたのか?
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ
丕顯ナル皇祖考
丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ
朕カ拳々措カサル所
そもそも、東アジアの安定を確保することで世界の平和に寄与することは、大変立派な明治天皇(=丕顯ナル皇祖考)やその偉大な考えを引き継いだ大正天皇(=丕承ナル皇考)がお立てになった(=作述)遠大なる構想(=遠猷)であり、私(註: 昭和天皇)もそれをとてもとても大切に思っている(=拳々措カサル)ところです。
而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ
之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ
そのような考え方があるからこそ、世界各国と親しくして全ての国が共に栄えていく喜びをともにすることは、これまた日本が常に外国とお付き合いをしていく中で最も大切にしている考え方です。
今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル
ところが今は不幸にして米英両国と武力衝突(=釁端)を生ずる状況に至っています。
洵ニ已ムヲ得サルモノアリ
これは誠にやむを得なかったことなのです。
豈朕カ志ナラムヤ
どうして私(註: 昭和天皇)が米英と戦うという志を持つというのでしょうか(開戦の意志は本意ではない)。
開戦時に昭和天皇は米英との戦争を始めることは「止むを得ない」と仰っている点に注目しましょう。先ほどの明治天皇の御製をお詠みになったところと繋がってきますね!侵略の意図を「開戦詔勅の詔」から読み取ることはできません。
その3 – 支那事変[日中戦争]の状況
中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス
濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ
遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ
茲ニ四年有餘ヲ經タリ
中華民国政府(蒋介石政府)は日本の外交方針の基本的な考え方を理解せぬまま分別なく抵抗を続け、東アジアの平和をかき乱して日本に武器を執らせる(=干戈ヲ執ル)に至って4年余りが経過しました。
4年余り前というのは、昭和12年(西暦1937年)7月7日から始まった盧溝橋事件(のちに支那事変 [日中戦争]と呼ばれる)のことを指します。
「濫ニ事ヲ構ヘテ」の部分は、例えば「通州事件」などが挙げられます。昭和12年(西暦1937年)7月29日に北京市通州というところにあった日本人居留区に住んでいた日本人の223名が中国人部隊によって残忍な方法により虐殺された事件です。これが日本国内で報道された時、中華民国に対するよくない感情が世論となりました。
幸ニ國民政府更新スルアリ
幸いにも、中国(チャイナ)は国民政府に変わりました。
ここでいう「国民政府」とは、南京を首都とする汪兆銘政府のことを指します。汪兆銘は、東アジアの平和を中華民国の手によって成し遂げようとしていた蒋介石とは意見を異にし、日本をリーダーとした東アジアの秩序を実現しようとしていました。
帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ
重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス
日本は汪兆銘政府とよき隣国としてお互いに助け合うようになったのですが、重慶に残る蒋介石政府はアメリカ及びイギリスからこっそりと(=庇蔭)助けてもらってこれに頼り、同じ中国人である汪兆銘政府とまだお互いにせめぎあっている姿勢を改めていない状況です。
汪兆銘政権は日本の傀儡政権だとする解説が教科書には多いですが、資料を読んでいくと当時の中国(チャイナ)の国民からは絶大な支持を得られていることが分かっています。
「重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ(=重慶に残る蒋介石政府はアメリカ及びイギリスからこっそり助けてもらってこれに頼り)」とは、いわゆる「援蒋ルート」のことを表します。
米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ
平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス
米英両国は、蒋介石政府を支援して東アジアの混乱を助長し、「平和のため」という美名にかくれて、実はこっそりとアジアの覇権を握ろうとするけしからん考え方を持っているのです。
その4 – 米英の日本に対する経済断交について
剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ
更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ
遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ
帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
それだけでなく、米英両国は同盟国を誘って日本の周辺において軍備を増強して我が国に挑戦し、さらに日本の平和的な通商に対してあらゆる妨害を加え、ついに経済断交をし、日本の存立に重大なる脅威を加えました。
ここでいう「経済断交」というのは、昭和16年(西暦1941年)8月にアメリカが日本への石油輸出を禁止したことや「ABCD包囲網」などを指している。日本は当時石油の輸入をアメリカに頼っており、対日石油輸出禁止をされると日本は大きな痛手を被ることになります。
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ
隱忍久シキニ彌リタルモ
彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ
此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ
以テ我ヲ屈從セシメムトス
私(註: 昭和天皇)は政府に対してこの事態を平和のうちに解決させようとし、じっと我慢をしてきましたが、米英両国はお互いに仲良くしていこうという精神はほんの少しも(=毫モ)なく、この状態の解決を先延ばしにして、この間にかえって我が国にとっての経済上や軍事上の脅威がますます増大し、我が国に圧力をかけて従わせようとしています。
結果として日本は米英と戦うことになるのですが、ここで仮に戦わなかったとしても日本は疲弊し、苦しい立場に置かれていただろうという理解は持っておくべきです。
その5 – 自存自衛のために戦争を行うのだ!
斯ノ如クニシテ推移セムカ
東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ
帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ
このように事態が推移すると、東アジアの安定に関する大日本帝国の積年の努力は水の泡となり、日本の存立もまた危うくなっています。
事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
事態がここまで悪くなっている日本は、今や自存自衛のため、決意を持って一切の障害を粉々にするほかはありません。
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ
私(註: 昭和天皇)たちには天照大御神から続く皇室の祖先や歴代天皇がいらっしゃいます。
朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ
祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ
速ニ禍根ヲ芟除シテ
東亞永遠ノ平和ヲ確立シ
以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
私は国民の忠誠心や武勇を信頼し、歴代天皇の遺業を世に広め、速やかに災いの根源を取り除いて、東アジアの永遠の平和を確立し、それによって我が国の栄光を護っていきたいのです。
まとめ
「開戦詔勅の詔」のポイントをここでまとめてみましょう。
- 米英との対戦は支那事変が原因である(中国問題の解決)。
- 米英は蒋介石政権を支援することで東アジアを意図的に混乱させて覇権を握ろうとしている。
- 日本との平和的交渉に際して日本側が到底受け入れられない条件を提示するなどして日本を弱体化しようとした。
- 我が国は東アジアの安定を図ろうと努力をしてきたが、日本の存立も危うい状況となった。
- こういった事情で、苦渋の決断を迫られて武力による解決をせざるを得なくなった。
- 自存自衛のため、日本は米英との戦争を決意するに至った。
「米英両国に対する宣戦のご詔勅」 – 原文
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御名御璽
昭和16年12月8日
各国務大臣副書
「米英両国に対する宣戦のご詔勅」- 現代語訳(加代昌広)
神々の助けを得て神武天皇以来の血筋を引き継ぐ大日本帝国天皇(註: 昭和天皇)が、忠誠心に厚く勇敢な国民にはっきりと示します。私(註:昭和天皇)はここにアメリカとイギリスに対して戦争を行うことを宣言します。陸海軍将兵は全力を奮って交戦に従事し、すべての公務員は務めに励んで職務に身を捧げ、臣民はおのおのがその本分を尽くし、1億人の臣民が心を一つにして国家の総力を挙げて、この戦争の目的を達成するにあたって手違いがないように期待します。
そもそも、東アジアの安定を確保することで世界の平和に寄与することは、大変立派な明治天皇やその偉大な考えを引き継いだ大正天皇がお立てになった遠大なる構想であり、私もそれをとても大切に思っているところです。そのような考え方があるからこそ、世界各国と親しくして全ての国が共に栄えていく喜びをともにすることは、これまた日本が常に外国とお付き合いをしていく中で最も大切にしている考え方です。ところが今は不幸にして米英両国と武力衝突を生ずる状況に至っています。これは誠にやむを得なかったことなのです。米英と戦うという志など持つはずがありません。
中華民国政府(蒋介石政府)は、日本の外交方針の基本的な考え方を理解せぬまま分別なく抵抗を続け、東アジアの平和をかき乱して日本に武器を執らせるに至って4年余りが経過しました。幸いにも、国民政府(汪兆銘政府)に変わりました。日本は汪兆銘政府とよき隣国としてお互いに助け合うようになったのですが、重慶に残る蒋介石政府はアメリカ及びイギリスからこっそりと助けてもらってこれに頼り、同じ中国人である汪兆銘政府とまだお互いにせめぎあっている姿勢を改めていない状況です。米英両国は、蒋介石政府を支援して東アジアの混乱を助長し、「平和のため」という美名にかくれて、実はこっそりとアジアの覇権を握ろうとするけしからん考え方を持っているのです。
それだけでなく、米英両国は同盟国を誘って日本の周辺において軍備を増強して我が国に挑戦し、さらに日本の平和的な通商に対してあらゆる妨害を加え、ついに経済断交をし、日本の存立に重大なる脅威を加えました。私は政府に対してこの事態を平和のうちに解決させようとし、じっと我慢をしてきましたが、米英両国はお互いに仲良くしていこうという精神はほんの少しもなく、この状態の解決を先延ばしにして、この間にかえって我が国にとっての経済上や軍事上の脅威がますます増大し、我が国に圧力をかけて従わせようとしています。
このように事態が推移すると、東アジアの安定に関する大日本帝国の積年の努力は水の泡となり、日本の存立もまた危うくなっています。事態がここまで悪くなっている日本は、今や自存自衛のため、決意を持って一切の障害を粉々にするほかはありません。私たちには天照大御神から続く皇室の祖先や歴代天皇がいらっしゃいます。私は国民の忠誠心や武勇を信頼し、歴代天皇の遺業を世に広め、速やかに災いの根源を取り除いて、東アジアの永遠の平和を確立し、それによって我が国の栄光を護っていきたいのです。
御名御璽
昭和16年12月8日
各国務大臣副書
大東亜戦争と名付けられる
昭和天皇が「米英両国に対する宣戦の詔書」を発布なされた後、昭和16年12月12日に東条英機内閣の閣議が開かれ、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」という閣議決定がなされました。
一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」昭和16年12月12日 閣議決定
二、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当リ戦地ト指定スルコトナシ
但シ帝国領土ニ在リテハ第二号ニ関スル個々ノ問題ニ付其他ノ状態ヲ考慮シ戦地並ニ取扱フモノトス
後に帝国議会にて議決がなされ、支那事変を含めた米英との戦いのことを大東亜戦争と呼ぶことになりました。
大東亜戦争という呼称については、別稿「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」(終戦の玉音放送)をわかりやすく解説します」でくわしく解説しています。
その後、私たちのご先祖さまたちは我が国を護るために必死で戦ったのです。
やがて戦争は終結へと向かいます。大東亜戦争終結の際にも詔書が出されます。解説は別稿に譲りたいと思います。
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