江戸時代には多くの学問が発展しました。
したがって、大学入試でもこの内容が大きく問われます。
しかしながら、この分野は多くの高校生が苦手にしている単元です。人物名と著書名が列挙されたデータ集を丸覚えをするような勉強をしている人が少なくありません。
そこで、今回は、江戸時代に発展した学問の中でも「儒学」についてわかりやすく解説します。
江戸時代に発展した学問を簡単に整理してみる!
江戸時代の学問を理解するためには、まずその分野を整理する必要があります。
この時代には、さまざまな学問が生まれ、発展しました。
今回のテーマである「儒学」とは、中国[チャイナ]で誕生した孔子や孟子が説いた思想や、それに基づく古典を研究する学問の総称です。
この儒学は、大きく分けて次の二つに分類できます。
- 朱子学
- 朱子学以外の学派
内容については後ほど詳しく解説しますが、まずは大まかに「朱子学」と、それに属さない学派に分けられることを押さえておきましょう。
朱子学は、12世紀の南宋時代に朱熹という学者が大成した学問です。
上下の身分秩序や礼節を重んじ、社会をピラミッド型にとらえる思想が特徴です。上に立つ者が下の者を導くという考え方が明確であったため、幕府や諸藩にとって秩序維持に非常に有効な学問とされました。
一方で、朱子学の思想や方法に批判的な学問も現れます。これらが「朱子学以外」に分類されます。
その代表例が「陽明学」です。明の時代の思想家・王陽明が打ち立てた学問で、朱子学に対して実践の重視などの点で異論を唱えました。詳しい内容は後ほど触れます。
もう一つが「古学」です。名前の響きが似ているため「国学」と混同されがちですが、まったく別物です。古学も孔子や孟子の思想を学ぶという点では儒学に属しますが、朱子学に対する批判的立場をとる学派です。こちらも後ほど詳しく説明します。
ここからは、この三つの学派について順番に見ていきましょう。
まずは江戸幕府が公式に保護し、支配の思想的基盤とした「朱子学」。
続いて、朱子学の知識偏重を批判し、行動によって学びを実践することを重視した「陽明学」。
そして最後に、孔子・孟子の原典に立ち返り、朱子学の体系に異議を唱えた「古学」です。

それぞれの学派がどのように生まれ、どのような人物によって発展し、江戸時代の政治や社会にどんな影響を与えたのか──。
具体的な人物やエピソードを交えながら解説していきます。
朱子学について
朱子学の誕生
江戸時代、幕藩体制が安定期に入るとともに、社会の秩序を支えるための思想として儒学が重視されるようになりました。
なかでも特に保護されたのが「朱子学」です。
朱子学は、12世紀の中華帝国・南宋で朱熹という学者によって大成された学問です。最大の特徴は、上下の身分秩序や礼節を重んじる思想体系にあります。
当時の宋は、北方の契丹や女真といった異民族の侵攻を受け、安定した政治を行うことができませんでした。国土の一部を失い、北方民族の支配下に置かれるという屈辱的な状況の中で、「理想の中華」を描き、宋こそが優れた民族であり、中国[チャイナ]を統治する正当性を理論づけようと考えました。
朱熹は、人間の内面を「理性(=性)」と「肉体的欲求(=情)」に分け、宇宙に普遍的に存在する法則=「理」が人に宿ったものこそ理性であると説きました。これを性即理と言います。理性を十分に備えた人間は、感情や欲望に流されやすい存在より優れており、統治する立場に立つべきだと考えます。
このように、誰が上に立ち、誰がそれに従うのかという秩序を道理で説明する考え方を大義名分論といいます。「大義」は正しい道理、「名分」はそれぞれの立場や役割のことです。例えば、君主と家臣、父と子といった関係で、それぞれが果たすべき義務や責任を明確にし、その秩序を守ることこそが社会の安定につながる、と朱子学は説いたのです。
朱子学は、鎌倉時代に禅僧によって紹介されます。禁欲的な朱子学と禅宗の考え方が結びついたのかもしれません。しかし、この頃の朱子学はまだ学問の一つにすぎず、日本社会の根本思想にはなっていませんでした。
状況が変わるのは江戸時代です。
幕藩体制が安定すると、社会秩序を支える思想が必要とされ、上下の身分秩序や礼節を重んじる朱子学が幕府に採用されます。朱子学は制度的にも思想的にも重んじられ、幕府によって手厚く保護されたのです。
こうして朱子学は武士の教養の中心となり、政治や教育の制度の中に深く組み込まれていきました。
朱子学はさらに「京学」と「南学」に分かれます。

幕府公認の朱子学──「京学」の形成
朱子学にはいくつかの学派がありますが、その中で幕府に最も近く、影響力を持ったのが「京学」と呼ばれる系統です。
藤原惺窩について
その始まりは、京都の僧・藤原惺窩です。戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した人物です。彼は京都五山の1つである相国寺の禅僧でした。相国寺は室町幕府の3代将軍である足利義満によって建立され、その後も室町幕府の保護を受けて発展します。藤原惺窩は相国寺で朱子学に出会い、それに感化されて晩年は還俗して朱子学者になります。
天下を統一した徳川家康が江戸幕府を開き、朱子学を学ぼうと徳川家康は考えました。その理由は、「戦乱の世に戻してはならない」と考えたからです。戦乱の世になったのは下剋上の風潮があったからです。それを起こさせたらまた戦乱の世に戻ってしまう、だから「君臣の別」で秩序をつくりたかったからだと考えられます。
徳川家康は朱子学の先生を探します。そこで白羽の矢が立ったのが藤原惺窩でした。
しかし、藤原惺窩は徳川家康からの依頼を高齢を理由にして辞退しました。その代わり、藤原惺窩は同じく京都五山の1つである建仁寺の禅僧であった林羅山を推薦しました。林羅山ももともとは禅僧でしたが同じく還俗して朱子学者になった人物です。
林羅山は江戸に下って朱子学を講じるようになりました。
徳川幕府に仕える林家[りんけ]
林羅山は大変長生きをしました。
- 初代将軍の徳川家康
- 2代将軍の徳川秀忠
- 3代将軍の徳川家光
- 4代将軍の徳川家綱
に侍講します。侍講というのは君主(天皇や将軍など)に仕え、学問を講義することを言います。
林羅山は3代将軍の徳川家光の時には武家諸法度寛永令などの法令や外交文書の起草に携わりました。
また、江戸の上野の忍ケ岡に私塾を開いた点も特筆すべき点だと思います。この私塾は林羅山の息子の林鵞峰の時代に弘文館と言われるようになります。
林羅山は、息子の林鵞峰とともに「本朝通鑑」という歴史書を編纂します。完成したのは4代将軍の徳川家綱の時代です。初代の神武天皇から第107代の後陽成天皇までの歴史をまとめます。中国[チャイナ]の宋代に編纂された「資治通鑑」に倣ったとされています。
林鵞峰の息子にあたる林鳳岡[信篤]は、5代将軍の徳川綱吉に仕えました。西暦1690年(元禄3年)に上野の忍ケ丘にあった林家の弘文館を神田湯島に移転します。そこに湯島聖堂と呼ばれる孔子廟も建立され、家塾の弘文館も聖堂学問所と改められました。林鳳岡は、初代の大学頭(=聖堂学問所の長)に任命されます。林家の官学的性格が強まる結果となりました。
京学の広がりと学者たちの系譜
林家の系譜以外にも、京学を担った多くの学者たちが登場します。
たとえば、京都に「詩仙堂」という私塾を開いた石川丈山がいます。林羅山と同時期に活躍しました。彼は東本願寺の渉成園という庭園を作庭したことでも知られています。
石川丈山と同時代に活躍した朱子学者として松永尺五の名前も挙げておく必要があります。江戸時代で「松永」という苗字を聞くと、俳人の松永貞徳の名前を連想する人も多いと思います。松永尺五は松永貞徳の息子です。彼は多くの弟子を育て、朱子学を全国に広めました。
中でも重要なのが、木下順庵です。彼は現在の石川県の加賀藩の藩主・前田綱紀に仕えたのち、5代将軍の徳川綱吉にも仕えた学者で、朱子学の理論的基礎を築いた人物と言えるでしょう。彼のもとからは多くの優秀な弟子たちが輩出され(「木門十哲」という)、のちの幕政を支えていくことになります。特に有名なのが、新井白石、雨森芳洲、室鳩巣です。
この三人は兄弟弟子としてそれぞれ将軍や藩に仕え、時代の知性を代表する存在となりました。
まずは、新井白石。新井白石は、6代将軍の徳川家宣や7代将軍の徳川家継に仕え、正徳の治と呼ばれる政治改革を主導した人物です。長崎貿易の統制や閑院宮家創設に携わりました。また、新井白石は優れた学者でもあり、政治史をまとめた『読史余論』、「日本書紀」や「古事記」に記された神話を研究した『古史通』、諸大名の系譜や家柄をまとめた『藩翰譜』、イタリア人宣教師のシドッチを尋問して得た知識をまとめた日本で最初の世界地理書である『采覧異言』、同じくイタリア人宣教師のシドッチから尋問して得た諸外国の歴史・地理・風俗やキリスト教の大意などを紹介した『西洋紀聞』、日本語の語源や用法を考察した国語学の書物『東雅』なども残しています。また、自伝の書として『折たく柴の記』も記しています。
次に雨森芳洲。雨森芳洲は、対馬藩に仕え、朝鮮通信使との応対にあたった人物です。互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる「誠信の交わり」を外交の基本とするなど、理想主義的な外交理念を打ち立てました。当時の対馬藩外交における緊張や論争にも関わり、朝鮮通信使問題においては兄弟子の新井白石と対立する場面もありました。
最後に室鳩巣。室鳩巣は、もともと木下順庵と同じく加賀藩主の前田綱紀に仕えていましたが、のちに8代将軍の徳川吉宗に登用されました。寺子屋教育に用いられた『六諭衍義大意』の編纂や、『駿台雑話』などの著作を通して、朱子学の実践的普及を担いました。政治家としても、享保の改革における旗本人材の登用に関する「足高の制」の発案者ともされ、教育と政治の接点において大きな役割を果たしています。
幕府とやや距離を置いていた学派 – 南学
朱子学の中には、幕府とやや距離を置いた学派もありました。その代表が「南学」です。
南学は、南村梅軒が創始したと言われています。戦国時代に土佐(現在の高知県)へ伝わり、谷時中が発展させました。後に、土佐藩家老の野中兼山が学び藩政を主導します。こうして、土佐藩の武士たちの間で学問として根付きました。
押さえておきたいのが、山崎闇斎です。彼は会津藩の保科正之に仕えました。朱子学の研究を深める一方で、神道と朱子学を融合した「垂加神道」を提唱しました。
陽明学──実践を重んじた、幕府に警戒された学問
陽明学とは?
江戸時代、朱子学と並んでしばしば比較される思想が「陽明学」です。
先ほどまで概観してきた朱子学ですが、当初からその考え方に批判がありました。朱子学は「人間の内面を「理性(=性)」と「肉体的欲求(=情)」に分ける」と述べました。この二元論に対して中華帝国の南宋時代の陸九淵という人物がこんな反論をします。
そもそも、人間は理性と肉体は不可分の関係であって、それを心と呼びます。それこそが人間本来の姿である!
こういった批判は当初は注目されませんでしたが、明時代になって王陽明が同じようなことを言い始めます。陽明学とはこの人物の名前からとった名前です。
確かに秩序維持は大切かもしれませんが、そればかりでは善政はできないと考えます。憐れみなどの感情が発火点としてあって、現実を変えていこう!と考えます。これを「知行合一」──知ることと行うことは一体である、と言います。机上の理論よりも、行動によって学びを実践する姿勢が特徴です。
この点が、幕府の公式イデオロギーである朱子学と大きく異なります。朱子学が秩序や礼節、理論の体系化を重んじるのに対し、陽明学は実践の価値を強く打ち出しました。そのため、幕府からは「秩序を乱しかねない危険な思想」と見られ、警戒されることも多かったのです。
中江藤樹──「近江聖人」と呼ばれた日本陽明学の祖
日本における陽明学の祖とされるのが、中江藤樹です。
もとは伊予国大洲藩(現在の愛媛県)で朱子学を学んでいましたが、病気になった母の看病のため、すべての地位と名声を捨てて近江国(現在の滋賀県)小川村に帰郷しました。この親孝行の逸話から「近江聖人」と呼ばれるようになります。この逸話は戦前の教科書で大きく取り上げられていました。
中江藤樹は郷里で私塾・藤樹書院を開き、『翁問答』などの著作を通して陽明学を日本に広めました。
彼の思想のキーワードは「孝」と「愛敬」。孝は親への思いやり、愛敬は他者を思いやる心です。これらを実践によって発揮することが人としての道だと説きました。
近江聖人の噂は遠方にも広まります。そして中江藤樹に教えを乞う人たちも大勢いました。その1人が熊沢蕃山です。
熊沢蕃山──改革者であり、環境保護の先駆者
熊沢蕃山は、岡山藩主・池田光政に仕え、藩の家老として活躍しました。
熊沢蕃山は藩内に私塾「花畠教場」を開き、教育の充実を図る一方で、山林の乱伐を防ぐための保護政策を提案するなど、日本における環境保護運動の先駆者ともいえる活動を行いました。
また、著書『大学或問』では、武士の帰農や参勤交代制度の緩和など、経済政策の改革を訴えています。
しかし、この発言が幕府批判と受け取られ、最終的に下総の古河藩に幽閉され、そこで生涯を終えました。
ちなみに、陽明学は、幕末から明治にかけても影響力を持ち続けました。
幕末の吉田松陰や、天保の大飢饉の際に「なぜ大阪の米を江戸に送るのか」と幕府を批判して蜂起した大塩平八郎は、ともに陽明学を学んでいます。
さらに、明治維新の立役者であり西南戦争を起こした西郷隆盛も、陽明学の精神を強く受け継いでいました。
古学派──孔子・孟子の原点に立ち返る学問
江戸時代の学問の中で、朱子学を批判し、孔子・孟子の原典への復帰を主張した流れが「古学」です。
古学派の人たちは、朱子学も陽明学も、朱熹や王陽明の解釈でしかないと批判をします。古学派は、実証と典拠を重視し、過去の聖人たちが本来どのように教え、どのように生きていたのかを探ろうとしました。
山鹿素行──平和な時代の武士道を確立
古学派の代表的な人物の一人が山鹿素行です。
彼は朱子学を批判し、独自に「聖学」を唱えて幕府に意見しました。ここで、原典である孔子への回帰を説きます。要するに朱子学批判です。著書の『聖教要録』にこれを書きます。この姿勢が幕府の怒りを買い、播磨国赤穂に配流されます。ここで大変驚くべきことが起こります。配流先の赤穂藩主の浅野長直が山鹿素行に心酔するようになります。そして山鹿素行をアドバイザーにして藩政改革を行います。その時に生まれたのが「赤穂の塩」です。浅野長直は名君として知られています。
その孫に当たるのが忠臣蔵で有名な浅野長矩。浅野内匠頭という名前の方が有名かもしれませんが、実は浅野家が世襲していた官職名です。赤穂浪士の討ち入りの話はあまりに有名ですね。そこに話がつながります。
山鹿素行は兵学者でもあり、武士としての戦い方だけでなく、平和な時代における武士のあるべき姿を説きました。ちなみに、「平和な時代でも武士は武士道を忘れてはならない」と強く説いた人物として、佐賀藩士・山本常朝がいます。彼の著書『葉隠』は「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一文で始まります。
山鹿素行の著書には『中朝事実』『武家事紀』などがあります。
『中朝事実』は簡単に言えば「日本こそが真に文化的に優れており、中国よりも政治体制も優れていると主張した」本です。江戸時代の我が国は、儒教の影響で中国[チャイナ]を世界の中心とみなす「中華思想」が広まっていました。中国の文化や政治体制は優れており、日本はそれに劣ると考えられていました。でもそうではなく、日本では万世一系の天皇が統治して君臣の義が守られているじゃないか!日本の文化は中国の影響を受けながらも、独自の発展を遂げているじゃないか!と言ったことを述べています。
もう1冊『武家事紀』をあげておきましょう!「士農工商の頂点に立つ武士は、社会の模範として生きるべきだ」という平和時の武士道を体系化しました。この考えは、現代でいう“ノブレス・オブリージュ”にも通じるものです。
伊藤仁斎と伊藤東涯──京都の古義学派
伊藤仁斎は、京都・堀川に私塾「古義堂」(堀川塾)を開き、「古義学」を提唱しました。
伊藤仁斎は特に『論語』と『孟子』を重視し、その核心を「誠」という一字で表しました。誠とは、言葉と行動を一致させ、まごころを尽くす生き方を意味します。これは日本人にも理解しやすく、後世には新選組の隊旗「誠」にも通じる価値観です。伊藤仁斎は『論語古義』『孟子古義』『童子問』などを記します。
息子の伊藤東涯は、父の学統を受け継ぎ、歴史書『制度通』などを著しました。仁斎・東涯父子の古義学は、京都を中心に広まりました。
古文辞学派:荻生徂徠と太宰春台──経世論の展開
一方、江戸で古学を推し進めたのが荻生徂徠です。
儒学とはもともと周王朝の政治を手本に国家運営のあり方を考える学問でした。そこに戻って江戸幕府が抱える課題を解決しようとします。
荻生徂徠は5代将軍の徳川綱吉の側用人である柳沢吉保に仕えます。この時代、応仁の乱以来中止されていた新嘗祭が復活します(西暦1687年)が、霊元上皇(第112代天皇)のご意向を支持したのが荻生徂徠でした(第113代東山天皇の御即位の際の話)。
柳沢吉保が失脚したのちに、私塾「蘐園塾」を開き、古文辞学の研究に勤しみます。
そして8代将軍徳川吉宗の時代になったときに彼に仕え、『政談』を献上して経世論(政治・経済論)を展開します。荻生徂徠は武士に対し「農業に従事し、自ら生活を支えるべきだ」と説き、参勤交代や都市暮らしの弊害を指摘しました。将軍の側近としてこうした改革案を述べたため、批判されることなく受け入れられたといわれます。
学問的著作には『弁道』『弁名』などがあります。
荻生徂徠の経世論を受け継ぎ、さらに発展させたのが弟子の太宰春台です。春台は『経済録』や『経済録拾遺』を著し、経済政策について体系的に論じました。

