今回は、大学入試でも高校受験でもよく出題される条約改正の流れをわかりやすく解説したいと思います。
そもそも条約改正とは何かというと、江戸時代の末期(幕末)に欧米列強と締結された不平等条約(安政の五カ国条約)を改正しようという一連の流れのことを指します。
そもそも不平等条約とは何だったかというと、3つありました。
- 片務的最恵国待遇の許与 (日米和親条約第9条)
- 治外法権[領事裁判権]を認める(日米修好通商条約第6条)
- 関税自主権がない (日米修好通商条約第4条)
片務的最恵国待遇とは、条約というのは各国でそれぞれ結んでいくものですが、ある国と結んだ条約の内容が他の国と結んだ条約の内容と比べてよくないものが含まれていた場合、条件のよい内容に合わせることを認めるというものです。
次に、治外法権[領事裁判権]というのは、外交官や領事裁判権が認められた国家の国民について、本国の法制が及び、在留国の法制が(立法管轄権を含めて)一切及ばないことを言います。分かりやすく言えば、日本にいる外国人に日本の法令が適用されないということです。
最後に、関税自主権というのは自分の国で自分の国の関税を決められる権利のことを言います。「関税」というのは輸入品にかけられる税金のことで、自国の商品を守るために外国から入ってくる商品に関税をかけて国内商品を保護することを目的としてかけられる税金です。不平等条約はこれが自分の意志でかけることができないということです。
これらは明らかに日本にとって不利になるものばかりですね。我が国の国益を護っていく上で、こんな条項が残っていてはいけませんね。
日本は、アメリカの他にも西暦1858年(安政5年)にオランダ、ロシア、イギリス及びフランスの合わせて5カ国とも条約を結び、これを総称して安政の五カ国条約と言いますが、欧米の国際秩序の中では半独立国的な地位に置かれされたことになります。
日本にとってはとても不利な内容。ですから、当時の日本はこの内容を変えていこうとします。最終的にはこの内容は改正されたのですが、改正の交渉が全部終わったのが西暦1911年(明治44年)のことで、まさに明治時代は条約改正の交渉の時代だったと言っても過言ではないほどでした。
以下、順番を見ていくことにしましょう。
条約改正の流れを理解するポイントは4つ!
条約改正の流れは以下の4つのポイントを言えるようにしましょう!
- 条約改正の交渉担当者を順番に!
- 年代 →内閣制度が始まった後は交渉担当者が在籍した内閣名も!
- 不平等条約のどの内容を交渉したのか?
- 交渉の結果、どうなったのか?
これが言えるようになったらGOODです!
条約改正にあたった交渉担当者を覚えよう!
歴史の勉強は時系列順に情報を整理しないことには始まりません。
まずは条約改正にあたって欧米列強と交渉に当たった人物を順番に言えることにするところから始めます。
- 岩倉具視
- 寺島宗則
- 井上馨
- 大隈重信
- 青木周蔵
- 陸奥宗光
- 小村寿太郎
大学入試を目指すみなさんは絶対にこれを順番通りに言えるようにしてください。友達同士でこんなふうに取り組むのもアリです。
- 交渉担当者を順番に言って!
- 寺島宗則の次の交渉担当者を言ってみて!
- 陸奥宗光の前の交渉担当者を言ってみて!
みたいな感じでクイズを出し合うといいと思います。
高校入試を目指す中学生のみなさんは赤字で書かれた人は暗記してください。
それではここからは一人ずつ、どのような交渉を行ったのかを細かくみていくことにしたいと思います。
岩倉具視の交渉
まず最初の交渉担当者は岩倉具視です。右大臣でした。
西暦1871年(明治4年)から約2年間、岩倉具視を全権大使として欧米列強を訪れます。副使として同行したのは、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文及び山口尚芳でした。一般的に岩倉使節団と呼ばれるものです。視察団の目的は条約改正の予備交渉と欧米文明がどのようなものになっているのかを見ることでした。
さて、最初に訪れたのがアメリカ合衆国でした。アメリカ合衆国を相手に日本は関税自主権の回復についての交渉を行いました。実は最初は結構うまくいっていました。ところが、条約の締結などを行うときに国際慣例として必要な全権委任状を日本は持っていませんでした。大久保利通と伊藤博文が全権委任状をもらうために急遽日本に帰国して再びアメリカ合衆国へ戻りましたが、その間にアメリカ合衆国との交渉が打ち切りになってしまい、条約改正ができなくなってしまいました。
条約改正はこのようにしてできなくなってしまいましたが、一方で欧米の文化に触れることはできました。この時の記録は、同行した久米邦武という人が書いた「米欧回覧実記」という書物に収められています。
寺島宗則の交渉
続いての交渉担当者は寺島宗則です。薩摩藩出身で、薩英戦争の後にイギリスに留学したことのある人物です。寺島宗則は外務卿と呼ばれる役職についていました。現在の外務大臣にあたります。
寺島宗則が交渉にあたったのは、だいたい西暦1876年(明治9年)から西暦1879年(明治12年)ぐらいだと考えてください。
寺島宗則の時も、関税自主権の回復を目指すために、国別交渉を行いました。
明治時代が始まった頃、明治新政府は財政危機に陥っていました。インフレが進み、輸入超過の状態に陥っていました。
開国後の貿易相手国のメインはイギリスとフランスでした。一方でアメリカ合衆国は南北戦争(西暦1861年から西暦1865年まで)が起こっていたために、日本との貿易にやや出遅れた感がありました。南北戦争が終わったアメリカ合衆国と交渉を始めたのは寺島宗則の戦略だったのかもしれません。結果として、西暦1878年(明治11年)にはアメリカ合衆国との交渉は成功しました。
しかしながら、アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツがこれに反対します。ここで片務的最恵国待遇の話が出てきます。アメリカ合衆国によって日本の関税自主権を認めてしまうと、「イギリスやドイツにとって有利、アメリカ合衆国にとっては不利」だということになり、文明国が平等でなくなるからです。1カ国でも反対すると、交渉はパーになってしまいます。
また、西暦1877年(明治10年)にイギリス人商人のハートレーという人物が我が国にアヘンを密輸入する事件が起きました。日本と諸外国は役人が立会をすることなく貿易を行うことができました(自由貿易)が、アヘンの貿易は認められていませんでした。しかしながら、治外法権[領事裁判権]を認めてしまっているため、イギリス人の裁判が行われ、なんと無罪判決が出てしまいました。これはよろしくありません。これをハートレー事件ということがあります。
このようにして関税自主権の回復の交渉は失敗してしまい、ハートレー事件などの影響によって、以後の交渉は治外法権を撤廃する方向へと進めていくことになります。
井上馨の交渉
続いて条約改正交渉にあたったのは井上馨です。長州藩出身で若い頃に伊藤博文と共にイギリスへ留学した経験を持っています。寺島宗則の後に外務卿に就任した人物です。井上馨が条約改正交渉を行っていた最中に内閣制度ができる(西暦1885年(明治18年))ので、役職は外務卿から外務大臣になりました。ちなみに、初代内閣総理大臣は伊藤博文で、その第1次伊藤博文内閣の時の外務大臣なので、初代外務大臣は井上馨ということになります。
井上馨はどんな内容をどのように交渉したのか?
井上馨は、欧米列強との一括交渉によって治外法権を撤廃し、関税自主権の一部回復(輸入関税を5%から10%に引き上げる)に狙いを定めます。
寺島宗則の時代と比較をすると、国別交渉から一括交渉に変えています。国別交渉を行うと、ある国が賛成してもある国が反対すると片務的最恵国待遇があるので交渉はパーになってしまいます。
一方で、一括交渉にすると一度に交渉を終えられるので、交渉がパーになる可能性は低くなります。議長がある決定案を採択してよいかを加盟国に問い、これに対して全加盟国が異議を唱えない限り採択されるという「ネガティブ・コンセンサス方式」による交渉を行います。しかしながら、これをうまくやるためには事前の根回しをしつこくやっておく必要があります。いきなり会議に持ち込んでも失敗に終わる可能性が高いからです。事前に同意を取り付けておくのです。
そこで、西暦1882年(明治15年)から4年間かけて東京で条約改正の予備交渉を合計26回にもわたって開催されます。これが根回しというやつです。その間に日本がいかに近代化ができた国なのかをアピールする戦術を取ります。
西暦1883年(明治16年)に東京の日比谷というところに鹿鳴館と呼ばれる建造物を政府が建築します。設計したのはイギリス人のコンドルという人物です。鹿鳴館で音楽会や舞踏会を行い、極端な欧化主義政策を取ります。これを鹿鳴館外交と呼ぶことがあります。
ノルマントン号事件
このような交渉を行っている中で、西暦1886年(明治19年)の10月にノルマントン号事件が起こります。イギリス船のノルマントン号という貨物船が横浜から神戸へ向かう途中の和歌山県沖で沈没する事件が起きます。船長には船に乗っている人を保護する義務があります。乗船していたイギリス人やドイツ人は救命ボートにより救助されましたが、同乗していた日本人25名全員は保護されず溺死してしまいました。
さて、普通の感覚からすれば、ノルマントン号の船長であったドレイクは刑罰を科される場面です。船長であるドレイクは乗客を保護する義務があるのに保護していないからです。しかし、当時はまだ領事裁判権があるので、イギリス人の裁判官によって裁かれます。その裁判は神戸で開かれました。出た判決は「無罪」でした。イギリス人に有利な判決が出されます。
この裁判長に対して日本国民は激しく抗議しました。当たり前です。その抗議が認められて今度は横浜でドレイクは裁判にかけられました。さてどんな判決が出たのかというと禁錮3ヶ月でした。賠償金はゼロ。25人を見殺しにした裁判としてはあまりに軽い判決と言えるのではないのでしょうか?
この事件を経て、治外法権を撤廃する必要性をあらためて実感する結果となります。
ノルマントン号事件があった一方で、井上馨を含めた第1次伊藤博文内閣はというと、先ほど述べたような鹿鳴館外交をやっているわけです。これに対して不満を持った人たちが自由民権運動の民権派で、土佐藩出身の星亨たちを中心として大同団結運動が起こり、自由民権運動に火をつける結果となってしまいました。
井上馨の条約改正交渉
では、井上馨はどのような内容の条約改正を行っていたのかというと、治外法権の撤廃と引き換えに以下の内容を秘密裏に交渉していたのです。
- 外国人判事の任用
- 外国人の内地雑居(=「外国人はどこに住んでいもいいよ!」というハナシ)
- 欧米同様の法典を2年以内に整備する
この内容はまた後で出てくるのでひとまず記憶に留めておいてください。
特に1番目の外国人判事の任用については、治外法権が撤廃されても外国人判事が任用されたら、結局外国人にとって有利な裁判が行われるのではないかという疑いが出てきますよね。そのような中で2番目のように「外国人はどこに住んでもOK」みたいな感じになってしまったら、日本人にとってはとても不安になります。
この内容が西暦1887年(明治20年)9月に暴露されると、極端な欧化主義政策に対して、政府内外から批判が相次ぎます。
特に政府内からはお雇い外国人で民法典を起草していたフランス人の法学者のボアソナードから批判が出てきたことについては注目すべき点ですよね。他にも農商務大臣であった谷干城が批判、自由民権運動を行っていた民権派や国家あっての個人との考えに立っていた国権派からも批判が相次ぎます。井上馨外務大臣は四面楚歌の状態になります。そして、井上馨外務大臣は辞任します。
西暦1887年(明治20年)10月に、自由民権運動を行っていた民権派は三大事件建白運動を始めます。
- 外交の回復
- 地租の軽減
- 言論の自由
これらを訴えるようになります。話は条約改正の本筋からはズレますが、この年の12月に政府は保安条例を発布し、民権派が東京から追放されたり逮捕されたりされました。
大隈重信の交渉
井上馨外務大臣が辞職したのち、しばらくは内閣総理大臣であった伊藤博文が外務大臣を兼務していました。
先に見た通り、民権派が政府の外交政策を批判していたので、「民権派であった大隈重信が自ら条約改正交渉をやったらよいのではないか」と考えた伊藤博文が大隈重信を外務大臣に推挙。大隈重信は第1次伊藤博文内閣の外務大臣に就任しました。
やがて、内閣は黒田清隆内閣に代わりましたが、大隈重信はそのまま外務大臣を引き受けます。
大隈重信は肥前藩士(現在の佐賀県)の時に、長崎でフルベッキというアメリカ人に英語を習っていたので、英語にはとても堪能でした。
では大隈重信はどのような形で条約改正交渉に臨んだのでしょうか?
井上馨から大隈重信に交渉担当者が代わり、国民からの期待は高まっています。
大隈重信の交渉の経過
大隈重信の交渉内容
井上馨から大隈重信に交渉担当者が変わったとしても、外国人の側からすれば担当者が変わったにすぎません。井上馨の外交方針を踏襲せざるを得ません。
今回も法権の回復と税権の一部回復を狙って交渉を開始します。時期的には、西暦1888年(明治21年)から西暦1889年(明治22年)にかけてだと考えてください。
ここで、もう一度井上馨が外国と行っていた交渉内容について見てみましょう。
- 外国人判事の任用
- 外国人の内地雑居(=「外国人はどこに住んでいもいいよ!」というハナシ)
- 欧米同様の法典を2年以内に整備する
これを大隈重信は以下のように変えることに成功しました。
- 外国人判事の任用を大審院に限る
- 外国人の内地雑居(=「外国人はどこに住んでいもいいよ!」というハナシ)
- 欧米同様の法典を2年以内に整備する
この交渉内容ですが、国民には知られない方がいいと思いませんか?交渉は秘密交渉で行われます。
確かに外国側が譲歩する内容を勝ち取ることはできましたが、井上馨の時代とあまり内容が変わっていません。国民は井上馨の時代と大きく変わる交渉内容を期待していたはずです。
条約改正の交渉ですが、メキシコとアメリカ合衆国とドイツとロシアからの同意を得られました。今回は国別秘密交渉です!
次はイギリスです。
しかしここでマズいことが起こってしまいます。
秘密交渉であったはずの大隈重信の案ですが、イギリスの「ロンドン=タイムズ」紙に交渉内容が暴露されてしてしまいます。この内容が日本語にも訳されると、大隈重信の交渉に対して批判が高まります。井上馨の時代と同じように民権派も国権派も反対します。
「外国人裁判官の任用は憲法違反なのではないか!?」
大隈重信が条約改正交渉にあたっていた時、大日本帝国憲法が発布されようとしていた時期でした。日本は立憲君主制を目指していました。要するに憲法に基づいた政治を行おうと考えていたのです。
そのような中で、大日本帝国憲法の第19条を根拠に「外国人の裁判官任用」について違憲なのではないかと駐米公使であった陸奥宗光から批判されました。
日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得
大日本帝国憲法第19条より
しかし、大隈重信も裁判所構成法という法律の附則を根拠に批判に対して反論を試みました。
此ノ法律ノ施行ニ關ル規程竝ニ從來ノ法律ニシテ此ノ法律ニ牴觸スト難モ當分ノ内仍ホ効力ヲ有セシムルモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム
裁判所構成法第144条(附則部分)より
これをめぐって政府内でも対立が起こりました。
打開策としては、外国人判事を日本人に帰化させたらよいとかそういった意見も出ました。
大隈重信襲撃事件が起こる
西暦1889年(明治21年)に頭山満を中心とした組織であった玄洋社に所属していた来島恒喜という人物が、大隈重信を爆弾で襲撃する事件が起こってしまいました。そして、右足を失う大怪我をしてしまいました。
これがきっかけで、黒田清隆内閣は総辞職をします。
しかしながら、大隈重信はまだ外務大臣に残って条約改正の交渉を行おうとしていました。そこで、内大臣であった三条実美が次の正式内閣が決まるまでの間に暫定内閣を組織し、大隈重信の辞任を待ちます。
結果、大隈重信は辞任し、第1次山縣有朋内閣が誕生しました。
条約改正交渉は再び延期となりました。
青木周蔵の交渉
青木周蔵の交渉の方向性
大隈重信から条約改正交渉担当者の座をバトンタッチされたのは青木周蔵でした。青木周蔵は長州藩出身で、ヨーロッパへの赴任歴も長く、奥さんはエリザベートさんというドイツ人でした(継妻)。恋愛結婚でした。
そんな青木周蔵でしたが、交渉は国別の秘密交渉で行い、治外法権を廃止することや関税自主権の回復及び最恵国待遇の平等化について交渉を行います。時期的には西暦1889年(明治21年)から西暦1891年(明治23年)にかけてです。時の内閣は第1次山縣有朋内閣の頃です。
前任者の大隈重信の交渉時に大きな反対のあった外国人判事の任用についてはこれを認めない代わりに、外国人の内地雑居はほぼ認める方針で行くことにしました。
大隈重信の時とは異なり、事前に政府内で交渉内容についてすり合わせを行います。後になって政府内からの批判をかわす狙いもあったのかもしれません。
さてさて、大隈重信が交渉を行っていた時にはイギリスと交渉する前に「ロンドン=タイムズ」に交渉内容を暴露されることで条約改正交渉は頓挫してしまいました。
だから、青木周蔵は難敵のイギリスを攻略すれば、条約改正への道は開けるのではないかと考えます。しかしながらイギリスは最初難色を示していましたが、国際情勢をきっかけにイギリスがほぼ同意を示す結果となりました。
以下、その背景を見ていきます。キーはヨーロッパでのロシアの動きです。
ヨーロッパの国際情勢 – ロシアへの危機感
ロシアは凍らない港、つまり不凍港を求めます。ロシアは冬になると寒くなるので港が凍ってしまい、機能不全に陥ります。不凍港を目指してロシアは南下政策と呼ばれる政策を掲げます。暖かい南に行けば凍らない港があるからです。
西暦1877年から西暦1878年にかけてバルカン半島で勃発した露土戦争[ロシア=トルコ戦争]でロシアはオスマン=トルコ帝国に勝利してサン・ステファノ条約を締結したものの、ドイツの宰相ビルマルクが調停に乗り出してベルリン条約が結ばれ、結果としてバルカン半島でのロシアの勢いは弱まります。
西暦1870年から西暦1871年にかけて起こった普仏戦争[プロイセン=フランス戦争]で勝利したビスマルクは、フランスが再びドイツに刃向かってこないようにヨーロッパの国々と積極的に同盟を結ぶ政策をとっていました。さらに、ドイツはロシアとも同盟を結びます。ドイツがフランスとロシアとで挟み撃ちになることを防ぐためです。
ところが、ドイツの皇帝がヴィルヘルム1世からヴィルヘルム2世に代わると、宰相のビスマルクは罷免されてしまいます(西暦1890年)。ヴィルヘルム2世は、ビスマルク時代のフランスを孤立させるための親英・親露路線を改めて、ドイツが独力で帝国主義の世界分割競争に積極的に関わるようになります。これを世界政策と言います。このような中、ビスマルクが最も嫌がっていたフランスとロシアとが西暦1891年に同盟を結んでしまいます。これを露仏同盟と言います。
こういった中で、ロシアは今度は矛先をヨーロッパからアジアに向けます。ロシアはフランスの資本でシベリア鉄道の着工に取り掛かります。ロシアには金がありません。だから、フランスの資本が入ってきたのはロシアにとってはとても喜ばしいことです。
さて、アヘン戦争やアロー戦争で勝利をおさめて清の主要な都市を抑えていたイギリスとしては、ライバルのロシアやフランスが手を組んでアジアに進出してくることは厄介者以外何者でもありません。イギリスにとっては、できれば極東の日本に頑張ってもらいたいと思うはずです。
日本に力をつけてもらいたいと考えたイギリスは態度を一転させて、条約改正に対してほぼ同意を示すようになりました。
しかしここである事件をきっかけに条約交渉が頓挫してしまいます。
大津事件が起こる
西暦1891年(明治23年)にシベリア鉄道の東の起点となるロシアのウラジオストックにニコライ皇太子が来ていました。その後に、ニコライ皇太子は来日していました。旅行が目的です。
ロシアの皇太子なのでもちろん超VIPです。間違えがあってはいけません。しかし、何とニコライ皇太子を警備していた巡査の津田三蔵がニコライ皇太子に対して暴行を加える事件が起きました。これが大津事件です。
日露間の外交問題になることを恐れていた政府は、刑法の大原則である罪刑法定主義を無視し、大審院(現在の最高裁判所)に対して、大逆罪を適用して死刑判決を求めました。
しかし大逆罪はロシアの皇太子には適用できません。大逆罪はこんな条文だからです。
天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
旧刑法第73条
主語に外国人が入っていないのです。しかも、ニコライ皇太子は薨御(=皇太子が亡くなること)しておらず、一般的な誅殺未遂罪を適用するべき場面です。
予メ謀テ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪ト為シ死刑ニ処ス
旧刑法第292条
罪ヲ犯サントシテ已ニ其事ヲ行フト雖モ犯人意外ノ障礙若クハ舛錯ニ因リ未タ遂ケサル時ハ已ニ遂ケタル者ノ刑ニ一等又ハ二等ヲ減ス
旧刑法第112条
大審院長であった児島惟謙は、罪刑法定主義の原則を適用し、津田三蔵は誅殺未遂罪により無期徒刑(無期懲役)によって罰せられるべきであると政府からの要求を突っぱねました。
結果として、裁判では無期徒刑(無期懲役)の判決が出されました。
児島惟謙の発言は「司法権の独立」を示す結果となりました。
ロシアの皇太子に暴行を働いてしまうことは外交問題になります。結果として、第1次松方正義内閣の外務大臣になっていた青木周蔵は辞任し、再び条約交渉は中断することになります。
その後、榎本武揚が外務大臣になりますが、本格的な条約改正交渉が再開するのは、次の陸奥宗光の時になります。
陸奥宗光の交渉
陸奥宗光は紀伊藩出身で幕末には坂本龍馬が設立した亀山社中でも働いています。語学にも堪能です。
条約改正交渉の中の大隈重信時代に、陸奥宗光は元駐米公使でありメキシコ公使も兼任していましたが、その時に我が国初の対等条約である日墨修好通商条約を締結した実績を提げて交渉にあたりました。
西暦1892年(明治25年)に、第二次伊藤博文内閣の外務大臣に任命され、イギリスを相手に条約改正交渉にあたることになります。
陸奥宗光の交渉 – イギリス相手に治外法権の撤廃を求める
陸奥宗光は、治外法権を廃止することや関税自主権の回復及び最恵国待遇の平等化について交渉を行います。交渉時期は西暦1893年(明治26年)から西暦1894年(明治27年)頃。もちろん交渉相手はイギリスです。陸奥宗光は第2次伊藤博文内閣の外務大臣でした。
やはりロシアの東アジアでの南下政策に対してイギリスは危機感を持っており、日本には軍事的に期待するようになっていました。これは青木周蔵の頃と変わっていません。
陸奥宗光は、
- 条約改正を完全に実施するのは5年後にする
- 外国人の内地雑居を認める
ことを譲歩しつつ、交渉を進めました。
日英通商航海条約を締結する
結果として、西暦1894年(明治27年)7月16日にロンドンで日英通商航海条約 (Treaty of Commerce and Navigation between Great Britain and Japan)を締結し、
- 治外法権の完全撤廃に成功
- 最恵国待遇の相互平等化の実現
- 関税自主権の一部回復
を達成しました。日清戦争が始まったとされるのが7月25日。日英通商航海条約の締結がなされてから日清戦争が起こったという流れが大切です。日英通商航海条約の調印式には、イギリス公使になっていた青木周蔵が参加しました。
この条約が締結されると、アメリカ合衆国やドイツやフランスやロシアなど14カ国とも同じ内容の条約を締結しました。
条約は5年後の西暦1899年(明治32年)に発効。この時の外務大臣がまたしても青木周蔵。条約の有効期間は12年間です。
まだ関税自主権を完全に認められているわけではありませんでしたが、大きな一歩であったと言えるでしょう。
陸奥宗光のその後(オマケ)
条約改正交渉を成功させた陸奥宗光でしたが、その後も日本の外交を担います。
前述した通り、日英通商航海条約を結んだ直後に日清戦争が起こります。日本はそこで勝利をおさめます。西暦1895年(明治28年)に陸奥宗光は伊藤博文首相と共に下関で行われた清国との講和会議に出席します。そこで、日本にとって有利な条件で下関条約を締結、調印しました。
陸奥宗光は外交記録として自ら執筆した「蹇蹇録」が有名です。特に中国(チャイナ)や朝鮮との外交記録を記しています。
まさにキレ者!陸奥宗光は「カミソリ大臣」と呼ばれたこともありました。その後、肺結核を悪化させ、西暦1897年(明治30年)に53歳で亡くなりました。
小村寿太郎の交渉
最後に条約改正交渉にあたったのが小村寿太郎です。
小村寿太郎は現在の宮崎県にある飫肥藩の出身でした。現在の東京大学に進学し、そこからアメリカ合衆国のハーバード大学法学部に留学しました。同僚にはアメリカの大統領になったセオドア=ルーズベルトがいます。
小村寿太郎はアメリカとのパイプがとても強く、日露戦争を終わらせるために小村寿太郎はセオドア=ルーズベルト大統領に頼ることができたぐらいです。
関税自主権の回復に奔走する
小村寿太郎はアメリカ合衆国を相手に関税自主権の完全回復を目指して交渉にあたりました。
小村寿太郎が条約改正交渉にあたっていた頃、我が国は日清戦争と日露戦争に勝利し、国際的な地位が上昇していました。
先の通商航海条約の有効期限が満期を迎えるタイミングで、関税自主権の完全回復の交渉を始めました。
日米通商航海条約を締結する
西暦1911年(明治44年)に第2次桂太郎内閣の時に、日米新通商航海条約が改正され、ここに関税自主権の完全回復が達成されました。
以後、他の列強14カ国も同様の新条約を締結し、日本は欧米列強と対等の地位を得ることになりました。これはアジアの国々としては初めてのことでした。
まとめ
日米和親条約や日米修好通商条約を含めた「安政の五カ国条約」によって不平等条約を結ばざるを得なかった時代からの悲願が、維新の志士たちやそれを引き継いだご先祖さまたちの団結や死にものぐるいの努力によって、明治時代の末期にようやく達成されました。
西暦1912年(明治45年)に明治天皇は崩御(=天皇が亡くなること)しました。
日本はこのようにして文明国の地位を手に入れましたが、一方でアジアの国でもあります。日本以外のアジアの国は欧米列強の支配下に置かれた状態でした。要するに白人が黄色人を支配している状況です。アジアの人たちは日本に憧れを持つようになるし、日本もまたアジアの人たちのために働こうと考える人たちも登場します。
「欧米列強の文明国の地位」と「アジアの国の一員」
この2つの地位を持ちながら日本は大正時代を迎えるのでした。