6世紀末、隋が中国を統一したことで、東アジア全体のパワーバランスが劇的に変化しました。それまで分裂していた中国が再び一つの強大な中央集権国家となり、その影響力は朝鮮半島から日本列島にまで及びます。この状況は日本にとって決して無視できないものでした。隋という超大国との新たな関係性を築かねばならない。さもなければ、国の存続すら危うくなる可能性があったのです。
こうした国際情勢の中で、日本は1つの大きな決断を迫られていました。従来のように隋の冊封体制の下で「家来」として振る舞うのか、それとも独立した国家としての道を歩むのか――。この選択を前に、日本は重大な岐路に立たされていました。
その時、日本の舵取りを任されていたのが、推古天皇の摂政であり、時代を超えて高く評価される政治家・聖徳太子です。彼はこの難局をどのように捉え、どのような戦略を練ったのでしょうか?隋の圧倒的な力に屈することなく、独自の道を切り拓くことが果たして可能だったのでしょうか?
この物語の中心にあるのは、聖徳太子が隋に送った一通の手紙――いわゆる「日出る処の天子」の国書です。その手紙が日本と隋の関係にどのような影響を与え、さらに日本という国そのものにどのような変化をもたらしたのか。この時代に生きた人々の挑戦と葛藤を紐解きながら、一緒にその謎を解き明かしていきましょう。
なお、このコンテンツは、斎藤武夫先生の「学校でまなびたい歴史」という書籍を参考に、知識などは大学受験レベルに引き上げて作成したものです。
聖徳太子の時代の中国(チャイナ)と朝鮮半島の様子
中国(チャイナ)の様子 – 隋の建国
日本が大和時代[古墳時代]だった頃の中国(チャイナ)は南北朝時代と呼ばれ、北部は北部の中で、南部は南部の中で王朝が次々と交代する時代でした。
下の図は、我が国でいうところの弥生時代末期から大和時代を経て飛鳥時代の前半の頃のチャイナ大陸の王朝の変遷です。
大和時代[古墳時代]における中国(チャイナ)史についての解説は別記事にあります。
このように中国(チャイナ)は長く南北で分裂状態が続きました。
ところが、中国(チャイナ)大陸を統一する王朝がついに現れます。西暦581年に北周を倒して建国された隋が、西暦589年に南朝の陳を倒して300年ぶりに統一されました。
このことは、隋の周辺諸国にも大きな影響を与えます。西暦598年に、隋は朝鮮半島の北部に位置するツングース系の高句麗に対して侵攻を試み、その影響力を朝鮮半島に及ぼそうとしていました。このような隋の拡張主義的な政策は、朝鮮半島を巡る権力関係を再編するものであり、日本もまたこの動向に無関心でいられませんでした。
隋の台頭は、日本にとってただの遠い国の話ではありませんでした。隋の統一に伴い、東アジアの国際秩序、特に冊封体制が再び強化されることが予想されました。冊封体制とは、中国が中心に位置し、その周辺国が中国の支配を形式的に認めることで国際関係を維持する仕組みです。従来、日本はこの体制の一部として、中国の影響力を受け入れながら文化や技術を吸収してきました。
しかし、隋という新たな強国の出現は、これまでの外交の在り方を見直すきっかけとなりました。隋は冊封体制をより強化することで周辺国をその支配下に置こうとしていましたが、日本にとってこれが従属的な関係の継続を意味するものであれば、国家としての独立性を損なう危険性がありました。
日本はこのような状況下でどのように振る舞うべきかを迫られていました。当時の国際社会において、単なる「家来国家」として中国に依存し続けるのか、それとも独自の地位を確立し、対等な国家関係を模索するのか。まさに岐路に立たされていたのです。
朝鮮半島の情勢と聖徳太子による新羅征討計画
西暦600年、聖徳太子が新羅征討を計画したことは、当時の東アジア情勢を考える上で重要な一幕です。この計画は、単なる軍事行動ではなく、朝鮮半島における日本の影響力を維持し、勢力均衡を図るための外交的な試みとしても位置づけられます。新羅が隋との接近を図った背景には、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて強大な勢力を誇っていた高句麗との緊張関係がありました。高句麗からの軍事的圧力に直面していた新羅は、単独での対応が難しいため、隋との同盟を通じて高句麗を牽制しようとしたのです。
隋もまた高句麗との対立を深めており、西暦598年には高句麗遠征を行うなど、新羅にとって隋との接近は自国の安全と国内の安定を確保するための戦略的な選択でした。
しかし、この新羅の動きは百済や日本との関係に緊張をもたらしました。日本は百済と同盟を結び、朝鮮半島での均衡を保とうとしていたため、新羅の隋接近がその均衡を崩すと見て、軍事的圧力を加えることで自国の立場を強化しようとしたのです。これが聖徳太子の新羅征討計画の背景にあります。
ただし、この計画は実際には実行されませんでした。その中止の背景には、隋や高句麗との複雑な国際関係や国内の政治的事情があったと考えられます。それでもこの計画は、聖徳太子が東アジア全体の情勢を深く理解し、積極的に対応しようとしていたことを示す象徴的なエピソードと言えるでしょう。
遣隋使の派遣
遣隋使派遣の狙い
聖徳太子は何度かにわたって遣隋使を派遣しました。その狙いを簡単にまとめてみました。
そして、聖徳太子が派遣した遣隋使について1回ずつ見ていくことにしましょう。
1. 東アジアにおける隋の圧倒的な影響力
先ほども述べたように、西暦589年に隋は南北朝の分裂を終わらせ、中国を統一しました。この統一により、隋は東アジアの中心国としての地位を確立し、朝鮮半島や周辺諸国に対する影響力を急速に強めました。特に、西暦598年以降の隋による高句麗侵攻は、隋の軍事力が強大であることを示しました。
隋の統一とその影響力の拡大により、東アジアのパワーバランスが大きく変化しました。これまで、分裂した中国から百済や高句麗を通じて間接的に文化を取り入れてきた日本は、この新たな大国との関係性を直接構築する必要性に迫られました。日本がその国際的地位を確立し、独立性を示すためには、隋との外交が避けられなかったのです。
2. 国内の政治改革と仏教の受容
聖徳太子は、隋との外交を通じて日本国内の政治改革を推進することも目的としていました。当時、日本国内では朝廷の統治体制がまだ未成熟であり、中央集権的な国家体制を整備する必要がありました。そこで、隋の進んだ制度や技術を取り入れ、強力な国家運営の基盤を築こうとしました。
また、仏教を国の統治に利用しようとした点も重要です。隋は仏教を国家の安定に活用していました。隋の初代皇帝の文帝による「仏教治国策」という政治方針がそれを表しています。聖徳太子もまた仏教を精神的支柱としながら国内の安定と統一を図ろうとしました。特に、仏教思想が入った「十七条の憲法」の制定は、こうした隋からの影響を受けた改革の一環といえるのかもしれません。
3. 朝鮮半島情勢への対応
隋との直接的な外交関係を築くことは、朝鮮半島での日本の影響力を強化する目的もありました。当時、朝鮮半島では新羅、百済、高句麗が覇権を争っており、日本は百済と同盟を結んでいました。しかし、新羅が隋に接近することで、日本の立場が弱体化する可能性が高まりました。そこで、日本は隋との独自の外交ルートを開拓し、朝鮮半島情勢における自国の優位性を保つことを狙ったのです。
第1回遣隋使の派遣
隋への第1回遣隋使の派遣は、聖徳太子の意向によるものであったと考えられています。
当時の日本は、隋の統一による新たな国際秩序にどう対応するかを模索していました。この派遣の目的は、隋からの文化や技術を直接学び、国内の改革を推進することにありました。
「『隋書』倭国伝」の記録によれば、このとき日本から隋へ送られた使者は、隋の皇帝である文帝の下で風俗を尋ねられるなど、隋側の高い関心を引きました。しかし、日本の使者は外交儀礼に不慣れであり、国書を持参しなかったとされています。この点が隋の高祖にとって疑問を抱かせる要因となりました。
「『隋書』倭国伝」には、当時の日本(倭国)の君主が「俀王」として登場します。その名は「阿毎多利思比孤」で、これが推古天皇の時代の日本の大王(あるいは聖徳太子)を指すとされています。俀王について、使者は隋の高祖に以下のように説明しました。
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号し、使いを遣わして闕に詣らしむ。上、所司をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時に、出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停めて、我が弟に委ぬと云う。高祖曰く、此れ太義理なし。是に於て訓えて之を改めしむ。
この部分については学者がさまざまな文脈で分析をされているようですが、だいたい以下のようなことなのだろうと思います。日本のリーダーである俀王(倭国の王様)が、空(天)と太陽(日)の動きをとても大事にしてその流れに合わせて国を治めている、具体的には、「朝早く、まだ太陽が昇っていない時間に政務を始め、太陽が昇ったら仕事を終える」というやり方です。これを「自然のリズムに合わせた統治」として説明したのです。
隋の皇帝である文帝から見ると「そんなのは道理に合わない」と不思議で納得できないものに思えたそうです。
まとめると、この遣隋使派遣において、隋側からの評価はあまり高くなかったと考えられています。「『隋書』倭国伝」の記述から、日本の政治思想や外交儀礼が隋の基準に達していないとみなされ、改めるように指導されたことがわかります。こうした内容が『日本書紀』に記されていないのは、後世の編纂者がこのエピソードを国辱的なものと捉え、意図的に省略した可能性があります。
この第一回遣隋使は失敗とも見られますが、隋との接触を初めて実現させたという点で重要な意義を持ちます。この経験を基にして、日本は外交儀礼の重要性や隋の制度をさらに学び、後の遣隋使派遣で改善を図ることになります。
西暦600年の第1回派遣以降、西暦603年には「冠位十二階」の制度が導入され、さらに翌年には「十七条の憲法」が制定され、隋の官僚制度を参考にした中央集権化が進められました。
そして、西暦607年には国書を携えて小野妹子が派遣される第2回遣隋使が実施され、より本格的な外交関係の構築が試みられます。
第2回遣隋使の派遣
隋の皇帝の煬帝を怒らせた国書について – なぜ煬帝は怒ったの!?
西暦607年(推古天皇15年)に聖徳太子は小野妹子を隋の2代目の皇帝である煬帝のもとに派遣しました。今度はちゃんと国書を持たせていました。国書とは国から国へ出すお手紙のことです。
そこには以下のような記載があったとされています。
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
日本から隋に送った国書の内容
推古天皇が隋の皇帝である煬帝に対して、「お元気ですか?」と仰っている部分です。この手紙を見た隋の皇帝の煬帝は怒ります。
隋の皇帝の煬帝はこの国書のどの部分について怒ったのでしょうか?
ここからはとある高校の日本史[国史]の教室の様子を見ながら、読者の皆さんも一緒に考えてみましょう。
先生:「さて、隋の皇帝である煬帝は、この国書を読んで激怒したと伝えられています。一体どの部分に怒ったのでしょうか?皆さんの意見を聞かせてください。」
田中さん:「先生、『日没処』って表現が原因だと思います。これ、仏教の用語で東を『日出処』、西を『日没処』っていう意味らしいけど、煬帝から見たら『中国が沈む国』って取られるんじゃないですか?中国の皇帝がそんなふうに表現されたら、そりゃ怒ると思います。」
先生:「なるほど。『日没処』という言葉が問題になった可能性はありますね。中国が沈む、つまり弱くなっていくように見えるのは隋の皇帝にとって受け入れがたいかもしれませんね。ほかに意見は?」
風間くん:「確かに『日没処』も気になるけど、僕はそこより『天子』が問題だったんじゃないかと思います。だって、『天子』って中国では皇帝だけが名乗れる称号ですよね?それを日本の君主も『天子』って名乗って、煬帝に手紙を送ったら、『お前も天子なの?』って感じで怒りそうです。」
先生:「鋭い指摘ですね。中国の中華思想では、天子は一人だけ、つまり『世界で一番偉い』という特別な存在です。日本がその称号を使ったことは確かに煬帝にとって大きな挑発と受け取られたかもしれません。世界で一番偉い人が世の中に2人いるということはあり得ないですからね。なるほど、他の意見はどうでしょう?」
深月さん:「私は、国書全体のトーンが煬帝を怒らせたんじゃないかと思います。日本が隋と対等な国だって言いたかったのはわかるけど、そういう表現を使うのは当時としてはすごく大胆なことですよね。煬帝にしたら、見下していた日本がいきなり対等を主張してきたのが気に入らなかったんだと思います。」
先生:「その通りですね。『天子』という称号の使用だけでなく、国書全体が隋の中華思想に挑戦する内容だったという点が煬帝を怒らせたとも言えます。では、どうして聖徳太子はこんな大胆な国書を送ったのでしょうか?」
月野さん:「それはやっぱり、日本が独立国家としての立場を示したかったからじゃないですか?隋の文化や技術を学びたいけど、ただの従属国にはなりたくない。だから、対等な関係を求めるために、あえて『天子』を使ったんだと思います。」
先生:「いい視点ですね。聖徳太子の狙いはまさにそこにあったのでしょう。この国書を通じて、日本が隋に対して従属しない独立国家であることを主張したのです。」
聖徳太子はなぜこのような国書を出したのでしょうか?
先生:「みんなの意見、素晴らしかったです。『日没処』の表現や『天子』の使用が煬帝を怒らせた理由として十分に考えられますね。しかし、ここで重要な点があります。煬帝が激怒したにもかかわらず、隋は日本との関係を完全には断ち切りませんでした。なぜだと思いますか?」
風間くん:「隋は当時、高句麗と戦争中だったからじゃないですか?日本と仲が悪くなると、高句麗との戦いがもっと厄介になると思ったのかも。」
先生:「その通りです。隋は、この時期に何度も高句麗に遠征しています。しかし、戦争はうまくいかず、隋は内外ともに厳しい状況に置かれていました。そんな中で、日本のような地政学的に重要な位置にある国と敵対することは得策ではなかったのです。」
先生:「日本は高句麗の背後に位置しており、もし隋が日本との関係を完全に切ってしまったら、高句麗に対抗するための戦略が一つ減ってしまいます。このような状況では、日本との関係を維持しておくことが隋にとっても有益だったのです。」
深月さん:「でも、隋が日本を冊封体制に組み込むことは考えなかったんですか?」
先生:「いい質問ですね。確かに、隋は他の周辺国には冊封体制を適用していました。つまり、『中国が親分で他の国は子分』という関係です。しかし、隋は日本に対してはこの体制を適用せず、むしろ一定の独立性を認めた形で外交関係を続けました。これも隋が高句麗との戦争で手一杯だったため、あえて日本との関係を悪化させたくなかったからだと考えられます。」
先生:「このように、日本と隋の関係は単純に煬帝の怒りだけで決まったわけではありません。隋の立場や当時の国際情勢も大きく影響していました。日本はこの状況をうまく利用して、隋の冊封体制に入ることなく独立性を保ち続けたのです。このことは、聖徳太子がどれだけ冷静に国際情勢を見ていたか、そして日本が独立国家としての立場を確立しようとしていたかを示しているんですね。そう考えると、聖徳太子の洞察力は素晴らしいですよね!」
隋は日本を冊封体制に組み込むことなく、一定の独立性を認めたまま関係を維持する道を選びました。
また、この遣隋使により、隋の使者である裴世清が翌年608年に日本を訪問しました。これは、隋が日本を軽視せず一定の外交関係を保とうとした証拠でもあります。
第3回遣隋使の派遣
第3回遣隋使の国書について – 「日本書紀」より
西暦608年(推古天皇16年)、日本は再び隋に遣隋使を派遣しました。この第3回遣隋使は、隋の使者である裴世清の来日をきっかけに行われたもので、聖徳太子の外交政策における重要な転機となりました。この派遣の背景と目的、そして国書の内容を詳しく見ていきましょう。
西暦607年の第2回遣隋使において、日本は大胆にも「日出処の天子」という表現を用いて隋に国書を送ることで、自国が独立した国家であることを主張しました。この国書に対して、隋の皇帝煬帝は激怒したとされていますが、それでも隋は日本との関係を断つことはありませんでした。隋が高句麗との戦争に手を焼いていたため、日本との外交を維持する必要があったのです。
このような中、西暦608年に隋から返礼使として裴世清が日本を訪れました。彼は隋の皇帝からの国書を持参し、日本のリーダーである推古天皇に伝えました。この訪問により、隋との関係が再び強化され、日本からも新たな遣隋使が派遣されることとなりました。
第3回遣隋使の国書では、第2回の「日出処の天子」の国書に代わって、以下のような表現が用いられました。以下の内容は我が国の正史である「日本書紀」の記述です。
東の天皇、敬みて西の皇帝に白す
この表現は、隋の皇帝に対する敬意を示しつつも、日本の独立性を主張する巧妙な外交文書でした。特に注目すべきは、日本の君主が「天皇」と名乗ったことです。この称号は、それまで使われていなかった新しいもので、「天における唯一無二の統治者」を意味します。ちなみに、日本の君主を指す「天皇」という称号は、この国書で初めて使用されたと言われています。「天皇」という言葉には、天における最高の存在という意味が含まれています。「皇」という字は、「王」という文字の上に飾りがあります。「王の中の王」とか「王の上に立つ王」といったことをあらわす字です。日本側は「天皇」という新たな称号を使うことで、自国が隋の冊封体制に属する従属国ではなく、隋と対等の地位にある独立した国家であることを強調しました。一方、隋の皇帝に対しては「皇帝」という称号を用いています。この呼称は中国における最高権力者を示すものであり、日本が隋の皇帝を尊重していることを示しています。
これにより、日本は冊封体制に属する従属国ではなく、隋と対等な立場にある独立国家であることを示しました。
さらに、「つつしみて…もうす」という謙虚な表現を用いることで、隋の皇帝に敬意を示し、対立を避けつつ関係を維持する意図が感じられます。この文言は、外交的なバランスを保つための聖徳太子の戦略をよく表しています。
文化人の留学
第3回遣隋使の特筆すべき特徴の一つは、多くの留学生や学問僧が同行した点です。
彼らの中には、日本の政治、宗教、学問の発展に大きく貢献する人物が含まれていました。例えば、高向玄理は隋で政治制度や法律を学び、帰国後には日本の中央集権体制の確立に尽力しました。また、南淵請安は、儒教の教えを深く学び、日本の学問の発展に寄与しました。さらに、僧旻は仏教を学び、その知識を日本に広めることで仏教文化の浸透に大きな役割を果たしました。
のちに、彼らは隋で得た知識や技術を持ち帰り、それをもとに国内での改革を推進しました。この遣隋使は、単なる外交使節の派遣にとどまらず、日本の未来を担う人材を育成し、国力を高めるための重要なステップでもあったのです。
考察:なぜ日本人は中国の文化を勉強しようとしたのだろうか?
日本が隋に遣隋使を送った理由は何だったのでしょうか?
それは、隋という大帝国から先進的な文化や技術を学び、国を豊かにしようとする強い意志があったからです。
西暦608年、遣隋使として派遣された小野妹子は、単独で隋に向かったわけではありません。彼とともに、日本の未来を背負う若き留学生たちも船に乗り込みました。彼らは、危険な海を越えて中国大陸へと向かいました。
留学生たちは厳しい条件をクリアしたエリートでした。彼らは、強い志と国を愛する心を持ち、仏教、法律、政府の仕組み、そして政治の進め方など、隋の最先端の文化を学ぶため、長期間にわたり隋で勉学に励みました。その中には、高向玄理、南淵請安、旻といった後の日本の発展に大きく貢献する人物も含まれていました。
彼ら留学生は、どのような気持ちで遣隋使船に乗り込んだのでしょうか?
ここからは再びとある高校の日本史[国史]の教室を覗いてみることにしましょう。皆さんも議論に参加している気持ちで読み進めていってください。
先生:「では、皆さんに質問です。当時、隋へと旅立った若い留学生たちは、どんな気持ちでこの船に乗り込んだと思いますか?」
新海さん:「きっと彼らは、『一生懸命に勉強して国の役に立ちたい』って思っていたと思います。だって、国を背負って行くわけだから、すごく責任を感じていたはずです。」
先生:「いいですね。国を背負っているという責任感、それは大切な視点ですね。ほかにはどうでしょう?」
黒瀬くん:「僕は、日本がもっと強くなりたいと思っていたんじゃないかと考えます。政治や文化で中国に追いつかないと、国際社会で対等にはなれないから。留学生たちはそのために頑張ろうと思ったんじゃないでしょうか。」
先生:「その通りですね。当時の日本は隋との対等な関係を築くため、隋の進んだ文化や政治制度を学ぶ必要がありました。他に意見のある人は?」
葵井くん:「僕は……実際には怖かったと思います。だって、何年も家族や友達に会えないし、海の旅だって危険だったはずです。それでも、使命を果たすために行ったんだと思います。」
先生:「その気持ち、よくわかります。当時の航海は今と比べて非常に危険でしたし、長い年月をかけて隋で学ぶというのは大変なことだったでしょう。それでも彼らは志を持って船に乗ったんですね。では、他には?」
西園寺さん:「私は、彼らは自分のためだけでなく、未来の日本のために行ったと思います。当時は隋に追いつくだけでなく、日本をもっと強く、豊かにしようという使命感を持っていたんじゃないでしょうか。」
先生:「素晴らしい考えですね。そうです、彼らはただ勉強するために隋へ行ったわけではなく、その学びを持ち帰り、日本をより良い国にするための使命を担っていました。」
先生:「みんなが出してくれた意見をまとめると、留学生たちは国を愛する強い志と、使命感を胸に隋へと旅立ったことがわかりますね。怖さや不安を抱えつつも、国の未来を思い、学びを通じて日本を発展させようとした彼らの姿は、私たちにとっても大切な教訓となります。」
ところが、西暦614年を最後に遣隋使は派遣されなくなります。隋は高句麗の遠征や大運河の建設によって疲弊していました。最近は中国大陸内にとても素晴らしいインフラが整備されたとして評価されていますが、生活が苦しかった農民が多かったのでしょう。農民が反乱を起こり、西暦618年に隋は滅亡し、派遣できなくなってしまいました。
隋に代わって李淵によって唐という国が生まれました。
唐の2代目皇帝である李世民[太宗]の頃に「律令体制」を確立しました。3代目の高宗の頃には最大領土を獲得します。太宗や高宗の時代の対朝鮮半島政策(特に「高句麗への遠征」)は、朝鮮半島の国々の思惑とリンクし、それが日本にも影響を与えます。それはまた後の時代でくわしく解説します!
唐は、ここから3世紀半にも及ぶ長期間にわたり東アジアに君臨し続けます。
隋が滅びた後も、日本は新たな唐に留学生を送ったと思いますか?
答えはYESです。ここからだいたい10年に1度ぐらい遣唐使が派遣されます。そして、唐のよいところを積極的に取り入れようとしました。
西暦630年に第1次遣唐使として、犬上御田鍬が派遣されました。日本からの留学生は、隋が滅亡して唐が建国された様子を見ながら、唐が採り入れた律令制度などを学びました。唐の留学生たちが学んだことは、「大化の改新」以降の新しい国づくりに活かされていることになるのです。
また、日本には戦乱に明け暮れた中国や滅亡した朝鮮半島から移り住んだ人々も多くいました。彼らは新たな技術や知識を日本に持ち込み、日本社会に大きな影響を与えました。日本は、彼らを外国人だからと言って差別することなく、積極的にその力を取り入れました。
このような柔軟な姿勢こそが、日本の飛躍的な発展を支える原動力となったのです。