今回は国風文化についての特徴をわかりやすく解説してみます。
国風文化は平安時代中期に栄えた文化です。平安時代について大まかな時代の流れを理解したいという人は、別のコンテンツをご覧ください。
国風文化の特徴
国風文化とは?
国風文化は、平安時代の中期に華開いた唐風文化を基礎としつつも我が国独自の優雅で繊細な特色を持つ文化です。
国風文化が生まれた背景
国風文化が生まれた時代の背景は、遣唐使が唐に派遣されなくなったことがきっかけでした。
最後に遣唐使が派遣されたのは西暦838年(承和5年)でした。当時から唐の政治は不安定になっていました。
遣唐使を停止しようと決めたのは、第20回遣唐使の派遣について議論のあった西暦894年(寛平6年)のことで、この時に菅原道真(すがわらのみちざね)が、第59代の宇多天皇に提案をしたことがきっかけでした。
くわしい内容については、唐の盛衰を踏まえながら遣唐使の停止について解説したコンテンツを参照してください。
これ以来、これまで唐から吸収してきた文化をベースにしつつ我が国の風土に合った独自の文化が発展したのです。
文学
まずは文学から見ていきましょう。
仮名文字の発達
平安時代の頃のエリートは中国語が堪能でした。文字は漢字が使われていました。
ところが中国語の文体や漢字だと、細やかで繊細な内容を表現することが難しいと感じる人たちがいました。その中心が女性でした。彼女たちは漢字をくずしてある文字を生み出しました。これが仮名文字です。
全ての仮名文字を使った「いろは歌」はあまりに有名ですね。
いろはにほへと ちりぬるを
「いろは歌」
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
これに対して漢字のことを真名(まな)と言います。仮名文字を使って「やまとことば」をうまく表現しようとしたのです。
平安時代は仮名文学が発展していったのです。
代表的な文学作品
有名な文学作品を紹介しましょう。
清少納言「枕草子」
清少納言(せいしょうなごん)は藤原道隆の娘の定子の家庭教師でした。彼女が書いた随筆が「枕草子」です。「枕草子」の冒頭は、中学校の国語の教科書にも載っていますね。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし
秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。
清少納言は努力家であり自信家でもありました。
紫式部「源氏物語」
作者の紫式部は、藤原道長の娘の彰子の家庭教師でした。
彼女が書いた代表作は、世界で最も古い小説作品と言われる「源氏物語」です。天皇と身分の低い女性との間に生まれた光源氏が主人公です。こちらも冒頭部分を紹介しましょう。
いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。
はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方、めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに 里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
源氏物語は原稿用紙にすると2000枚ぐらいになると言われています。長編小説ですね。
紫式部は何事も控えめで自分の才能をひけらかすようなことはあまりしなかったと言います。何だか先ほどの清少納言とは真逆な個性を持っていますね。実際に、紫式部は「紫式部日記」の中で清少納言のことをディスってます。こういうのが文学作品として残るのは面白いですね。
その他
その他の文学作品としては、日本最古のかな書きの物語として「竹取物語」などが知られています。かぐや姫が登場するお話として知られていますね。
日記文学
国風文化の時代の日記文学で有名なものをいくつか紹介したいと思います。
紀貫之「土佐日記」
紀貫之が書いた日記文学に「土佐日記」があります。
国語の教科書には、「土佐日記」の冒頭部分がちゃんと載っています。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
「土佐日記」
「土佐日記」は仮名文字で書かれました。作者は紀貫之なので男性です。男性なのに女性が使う仮名文字で日記を書きました。
その他の日記文学
他には藤原道綱母が書いた「蜻蛉(かげろう)日記」や菅原孝標女が書いた「更級日記」などが有名です。
勅撰和歌集「古今和歌集」の編さん
第60代の醍醐(だいご)天皇の御代に、勅命(天皇の命令)で紀貫之(きのつらゆき)らが和歌集の編さんを命ぜられました。これが「古今和歌集」です。小野小町(おののこまち)や在原業平(ありわらのなりひら)らの六歌仙(ろっかせん)と言われる歌人の名作が収録されました。ちなみに、勅命によって作られる和歌集のことを「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」と言い、「古今和歌集」もその1つです。
「古今和歌集」の序文には仮名序(かなじょ)という仮名文字で書かれた序文が収録されています。
やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。
建築
平安時代の貴族は、寝殿造(しんでんづくり)と呼ばれる建築様式の建物に住んでいました。
寝殿を中心にして、家族が住む場所や釣殿(池に面して東西に設けられた建物)が廊下で結ばれています。
有名な建物としては、京都府宇治市にある平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)があります。藤原道長の子である藤原頼通が建立したお寺です。今でも十円玉の絵柄になっていますね。現在は世界遺産にもなっています(平等院鳳凰堂のウェブサイト)。
衣装
男性は束帯(そくたい)、女性は十二単(じゅうにひとえ)が正装として着られていました。
絵画
大和絵(やまとえ)と呼ばれる絵が盛んに描かれました。大和絵は日本の風景や人物などを主題とした絵画です。襖(ふすま)や屏風(びょうぶ)に描かれました。
また、大和絵から発展して物語性のある絵巻物が生まれました。「源氏物語絵巻」などが有名です。
「鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)」は鳥羽僧正(とばそうじょう)が描いた絵で、後の日本のマンガの原型になったと言われています。
浄土信仰
10世紀の半ばには疫病が流行ったり地震が起こったり、公地公民制が崩れて地方まで政治が行き届かなくなったりして、人々は生活に不安を持っていました。
また、釈迦(しゃか)が入滅(にゅうめつ:釈迦が亡くなること)して時代が経つと仏教の教えが行き届かなくなっていき、西暦1052年(永承7年)にはいよいよ仏教の正しい教えが消えてしまうという末法思想(まっぽうしそう)が拡がりました。
そのような中で、念仏を唱えて阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏様にすがって極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生できるという浄土信仰(じょうどしんこう)と呼ばれる教えが拡がっていきました。
空也(くうや)は全国を回って念仏を広めました。また、源信(げんしん)は「往生要集」という書物を書いて、死後の世界で救われる道を説きました。
先ほど述べた藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は、浄土信仰に基づいて建築された寺院です。
この教えは、後の鎌倉時代に出てきた新仏教で、法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)などに受け継がれていくのです。