【中学歴史】鎌倉時代の武士と庶民の生活についてまとめました

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鎌倉時代
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本稿を読むと、以下の内容が学習できます。鎌倉時代の人々の生活が簡単に分かります。

  1. 鎌倉時代の武士の生活について
  2. 鎌倉時代の農民や商人の生活について

鎌倉時代で一番大きな力を持っていたのは武士でした。最初は源頼朝が征夷大将軍として武家政権を支えていましたが、源頼朝が死亡してから北条氏が執権として御家人の中心となり、幕府の政治は御家人による連合政権の色彩が強くなりました。元寇後は北条氏の力はさらに高まりました。これに不満を持った有力御家人の足利高氏らが後醍醐天皇に呼応して北条氏に反旗を翻して鎌倉幕府が滅びました。

そんな鎌倉時代の人々の生活を見ていくことにしましょう。

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鎌倉時代の武士

鎌倉時代の武士の生活

武士は領地の農村に堀と塀に囲まれたやかたを構えて住みました。館の門には矢倉を立てて戦いに備えました。また、館の中は基本的には板敷きで、座るところにだけ畳を敷いていました。

武士は一騎打ちと呼ばれる戦いを行いました。一騎打ちとは、戦場において1対1で戦う戦い方で、日本の場合は名前や武功を名乗りあい、まずは馬の上から矢を打ち合い、矢がなくなると今度は接近して馬上で太刀などで戦い、最後は馬から下りて相手の首をとる地上戦に移行するという戦い方をしました。つまりほとんどが馬上での戦いということになります。したがって、流鏑馬やぶさめ笠懸かさがけ犬追物いぬおうものなどの馬上での訓練(これをまとめて「騎射三物きしゃみつもの」という)を中心に、日頃から武術の訓練を欠かさず行いました。武勇や名誉を重んじ、「もののふの道(武士道)」が生まれました。

鎌倉時代の惣領制

鎌倉時代の武士団は、中期までは血縁的結合によってまとまっていました。

鎌倉時代の武士は惣領制そうりょうせいを採っていました。惣領制というのは、惣領(一族のリーダー)が庶子(リーダー以外の者たち)を率いる統治のやり方です。ですから、惣領のリーダーシップが一族の発展の明暗を分ける形になります。

鎌倉幕府は惣領のみを御家人として一族全体を把握しました。幕府は一族内部の問題については基本的には介入することはありませんでした。

分割相続

所領は分割相続ぶんかつそうぞくを原則としました。

相続というのは人が亡くなった時に財産などを受け継ぐことを言います。分割相続は、ある人が亡くなった時に1人が全てを受け継ぐのではなく、複数の相続人が少しずつ財産を受け継いでいくのです。

平安時代の貴族は男子による通い婚が原則でしたが、鎌倉時代の武士の家は嫁入婚が原則でした。女子にも相続する権利が認められました。したがって、女子の地頭も存在しました。

分割相続は、惣領の土地でも庶子の土地でも同じように行われていました。

しかし、分割相続には致命的な問題点がありました。時代が下るにつれて、御家人に渡せる土地が増えていかない限り、もらえる土地の面積はどんどん小さくなるという点です。例えば、承久の乱の時は朝廷側に付いた武士や貴族の土地を巻き上げて御家人に渡すことでもらえる土地の面積は増えました。しかし、元寇の時は違いました。元寇は元の軍隊を我が国から追っ払う戦いです。敵から土地を奪えません。この他にも理由はありますが、分割相続の構造的な問題も相まって、武士は困窮していきました。そのあたりのくわしい解説は別稿に回すことにします。

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鎌倉時代の農民

鎌倉時代は農業技術が発展しました。

まず、治水や灌漑設備の技術が進みました。農業にとって水をコントロールすることはとても大切なことです。水のリスクを減らすことができるからです。

次に、牛や馬を使った耕作が近畿地方を中心に行われるようになります。牛や馬に鋤を引かせて土を掘り起こしたり、田んぼに水を引いた後に土をならす(代掻き)作業をやらせたりしました。こういうのを牛馬耕ぎゅうばこうといいます。また、鉄製の農具がより使われるようになり、農作業の効率化を生むことになりました。

肥料は草木灰が使われます。草木灰そうもくばいというのは、草木を燃やして灰にした肥料のことです。今でも使いますよ。

九州地方など西日本においては二毛作にもうさくが行われるようになったのも鎌倉時代からだと言われています。二毛作というのは、同じ耕地で1年の間に2種類の異なる作物を栽培することを言います。米の裏作として麦が作られました。試験対策的には二期作との違いを覚えておきましょう。二期作は同じ耕地で1年の間に2回同じ作物を栽培することを言います。正誤問題で引っかけられたりしますので注意しましょう!

農業の生産性はこのようにして高まりました。

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鎌倉時代の工業

鎌倉時代には、以下のような手工業を専門とする職人が現れました。

例えば、農村には農業の生産に貢献するため、鉄製農具を作るための職人が登場しました。

また、衣料の染め物を扱う紺屋こんやと呼ばれる職人、建物を建てるための大工などが専門の職人として独立するようになりました。

鎌倉時代の商業

鎌倉時代に農業や工業が発展したり、私的に行われる日宋貿易によって宋銭が輸入されると、商業が発展しました。

人が集まる寺社の門前や交通の要地では、月に数回、定期市ていきいちと呼ばれる市が発展しました。商品を交換したり、売買が行われました。

また、貨幣経済が発展すると、お金を貸す借上かりあげと呼ばれる金融業者や質屋の土倉どそうなどが現れます。質屋って分かりますか?お金を借りる代わりに貴重品を預かる業者です。お金を借りた人がお金を返さなかった場合、預けた貴重品が質屋に没収されるという仕組みです。実はお金は一度お金を借りる側に渡してしまうと、借りる側の方が立場が強いのです。なぜならば、貸したお金を返してくれなかったら貸した側はまるまる損をしてしまうからです。だからお金を貸した側は返してくれるような仕組みを作る必要があるのです。大切なモノを質屋に没収されるとなったらみなさんお金を返さなくちゃいけないと思いますよね?質入れというのは、貸す側がお金を確実に回収できるようにするための仕組みなのです。

商業の発展には運送業の存在が欠かせません。物流が盛んになると、取り扱える商売も増えるからです。陸運業を担ったのが馬借、海運業や倉庫業を担ったのが問(問丸)です。海運は陸運に比べると、一度に大量の物資を運ぶことができます。問丸は港町を拠点にして商売を行いました。

 

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