今回は、明治時代の全体像についてわかりやすく解説していきたいと思います。
明治時代は、西暦1868年(明治元年)から西暦1912年(明治45年)に明治天皇が崩御(=天皇が亡くなること)した日までを指します。「明治」からは「一世一元の制」、つまり天皇一代について一元号とすることか決定されました。「明治」という元号は、「大化」以降244番目の元号です。明治時代は45年間続きました。
明治天皇は第122代目の天皇であらされます。明治天皇が治められていた時代のことを明治時代と呼んでいます。
さて、明治時代がどのような時代だったのかについて、いくつかの区分に分けながらわかりやすく解説をしていきたいと思います。
また、この投稿の一番最後に明治時代の歴代内閣の覚え方についても述べました。大学入試では歴代内閣を暗記することは必須です。高校入試では必要ありませんが、チャレンジしたいという中学生がいたら覚えてみてもいいです!よかったら参考にしてみてください。
我が国の歴史全体の流れの中の明治時代の位置付け
歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。
明治時代は国史(日本史)の中でどこに位置するのかを確認してから勉強を始めます。
大きな視点を軽視して細かい知識をインプットするような歴史の勉強を始めると、たちまち迷子になってしまいます。特に歴史が不得意だと思う人は、こういう大きな視点を持って、落下傘で上から降りて細かいところに少しずつ入り込んでいくようなイメージで勉強していくとよいでしょう。
明治時代は江戸時代の次の時代です。
江戸時代は、徳川家康が幕府を江戸に開き、大名とともに我が国全体を統一していた時代でした。これを幕藩体制と言いました。3代将軍の徳川家光の頃には、キリスト教を我が国で広めないことを約束したオランダと中国(チャイナ)の清国以外の外国船の来航を禁止しました。この政策のことを一般的に鎖国と言います。
一方、欧米では度重なる宗教戦争を経て、市民革命や産業革命を通して国力を付けていきます。そしてアジアやアフリカなどに出掛けて行っては植民地を作っていきます。
18世紀末から欧米諸国の船が日本にも現れるようになり、いよいよ日本にも迫ってきていました。お隣の中国(チャイナ)では西暦1839年にアヘン戦争が起こり、東アジアで大国であると言われていた清王朝がイギリスに敗れるという事件が起こり、我が国の政治家たちはこれを見て大変なショックを受けました。
その後、開国をめぐって江戸幕府も朝廷も混乱します。
日本はアメリカやイギリスなどと相次いで不平等条約を結ばされてしまいます。外国人が日本で犯罪を犯しても日本の法律で罰することができなかったり(=治外法権を認める)、日本が自由に関税(=自分の国の産業を守るために外国から入ってくる品物に税をかける)を決めることができなかったり(=関税自主権がない)しました。
現在の鹿児島県にあった薩摩藩や山口県にあった長州藩はイギリスなどの外国船と直に戦闘をしました。こういった経験を通して、江戸幕府という政治体制ではなく、欧米に学びながら新しい国づくりの形を我が国のご先祖さまたちは模索します。
西暦1867年(慶応3年)に15代将軍徳川慶喜は朝廷に政権を返上しました。これを大政奉還と言います。もう一度天皇を中心として国難に当たっていこうと考えたのでした。
その後、新政府軍と旧幕府軍が戦う戊辰戦争が起こりました。江戸の街が戦火によって焼失してしまうピンチを新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟の会談により回避しました。その後も福島県の会津や箱館の五稜郭などでも戦闘行為が起こりましたが、新政府軍が勝利をおさめました。
このようにして明治新政府は誕生しましたが、一方で我が国には西洋列強が迫っていました。彼らとどのように渡り合っていこうと考えたのか?それを模索した時代が明治時代です。
1期 明治初期(明治維新から西南戦争[西南の役]まで)
江戸幕府が滅亡して明治新政府による統治が始まりました。
しかし、明治時代が始まった当初の日本はまだ各藩が統治をしていました。西洋列強に追いつくためには、我が国は大きくまとまっていくべき段階だと明治新政府は考えました。
そこで、西暦1869年(明治2年)に版籍奉還を行いました。全国の各藩主がその土地(版)と人民(籍)とを朝廷に返還しました。
しかし、日本にはまだ藩が残ったままです。そこで、西暦1871年(明治4年)に廃藩置県を実施しました。つまり、藩を廃止して地方の統治を明治新政府のもとに府と県に一元化しようとしました。
明治新政府は大久保利通や木戸孝允や伊藤博文などの政府の中心人物を欧米に派遣して、様々な勉強を行いました。彼らが欧米に行っている間に留守を任せられた西郷隆盛をはじめとする人たちは、地租改正、徴兵制及び学制を定め、近代日本の礎を築きました。その後、国内では政府が主導して近代的な工場を建てたりして、欧米のよいところを日本に輸入して国を発展させます。これらの動きを富国強兵と言ったりします。
一方で、急速な近代化で職を失う人たちがいました。それが武士です。武士は藩がなくなってしまったため、お給料をもらえなくなってしまいます。廃刀令と言って、刀を指すことも禁止されました。武士の力で新しい政府ができたはずです。不満を持つ武士も現れます。
武士による最後の戦いと呼ばれたのが、西暦1877年(明治10年)に起こった西南戦争[西南の役]です。戦いを起こしたのは西郷隆盛でした。西郷隆盛はこの時は既に政府の役人ではなく故郷の鹿児島に戻っていました。新政府に対して不平を持つ旧武士(士族)たちに担がれる形で兵を起こしたのでした。結果は、徴兵によって集められた明治新政府軍が勝ち、西郷隆盛は鹿児島市内にある城山というところで自害しました。
翌年、政府の中心人物であった大久保利通は、東京の紀尾井坂で金沢出身の士族(旧武士)により暗殺されました。
結果として、日本の舵取りは、若い伊藤博文らに委ねられることになりました。
2期 明治中期(自由民権運動や憲法制定の頃)まで
政府に対してモノを言える場である議会を作るべきであるという意見が高まりを見せました。これが自由民権運動です。
では政府は議会を作ったり憲法を作ったりする意見に反対していたのかというと実はそうではありませんでした。政府も近代国家を目指すために、欧米と同じような議会を作ろうと考えていました。
では政府と自由民権運動とではどの点で対立していたのでしょうか?それはスピードです。自由民権運動を行っている立場からすれば、なるべく早い時期に自分の意見を政府に言えるようにしたいわけですから、早く国会を作ってほしいと考えます。
一方、政府は富国強兵を優先させることを主張します。また、今まで政治は武士が行っていたのであり、いきなり選挙によって議員を選出するようなことをしたら、間違ったリーダーを選択してしまう可能性もあります。ですから、時間をかけてちゃんと作りたいと主張します。
こうした議論の中で、西暦1881年(明治14年)に明治天皇は「9年後の西暦1890年(明治23年)に選挙を行い、国会を開きましょう!」と宣言されました。一般的にこれは国会開設の勅諭と呼ばれます。
西暦1885年(明治18年)に内閣制度が誕生し、伊藤博文が初代内閣総理大臣になりました。さらに、西暦1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が公布されました。立憲君主制(=天皇が憲法に基づいて統治を行うが、実際の政治は選挙で選ばれた国会が決定権を持っていて、天皇は決定に権威を与える)の憲法です。そして、西暦1890年(明治23年)に大日本帝国憲法下で選挙が行われ、帝国議会が開かれました。
このようにして明治政府の約束は果たされました。
3期 明治後期(日清戦争&日露戦争及びその後…)
明治時代の東アジアの情勢
これまで見てきたとおり、日本は欧米列強の脅威に備えるために開国をし、天皇を中心としてまとまり、富国強兵を行って憲法や議会を作り、欧米列強に負けない国づくりを目指していました。
さて、ここで日本から少しだけ東アジアの国々に目を向けてみましょう。清王朝や朝鮮は日本のように近代化を進めていたのでしょうか?確かにそういった部分はあったのかもしれません。しかし、清王朝はいまだに朝鮮を家来のような扱いをしていました。つまり華夷秩序を維持しようとしたのです。
朝鮮の人々の中には、これまで通りの華夷秩序を維持すべきであると考える人(清国派)と朝鮮を治めていた李氏を倒して日本のように維新を行い近代化を図るべきであるという人(独立派)とが対立するようになりました。
日清戦争について
朝鮮において日本と清は対立するようになります。そのような中で、西暦1894年(明治27年)に日清戦争が勃発しました。結果として、日本は大国の清に勝利を収めます。日本の兵士たちは祖国を守るために勇敢に戦ったのです。翌年に下関条約を締結しました。
- 朝鮮は清から独立すること
- 台湾と澎湖諸島を日本の領土とする。
- 遼東半島を日本の領土とする。
- 賠償金(当時の国家予算の財政収入の3倍程度)
しかしこれを面白くないと感じる国がありました。ロシアです。ロシアは中国(チャイナ)に進出したいのです。そこに日本が現れたのです。ロシアはフランスやドイツと組んで、日本が領有しようとしていた中国(チャイナ)にある遼東半島を清に返還することを求めました。これを三国干渉と言います。日本はロシアとフランスとドイツを相手に争うことはできません。やむなく遼東半島は返還することになりました。
日露戦争について
中国(チャイナ)では西暦1900年に義和団事件[北清事変]が起こりました。義和団という外国人を排斥しようという団体が欧米諸国や日本などの公使館を襲う事件が起こりました。清王朝はこれをうまく処理できなかったことから、日本をはじめイギリスやロシアなどの8カ国が清王朝の首都の北京に軍隊を派遣し、これを鎮圧しました。
この事件がきっかけで、中国の東北部にある満洲においてロシアが台頭を見せます。こうなると、ロシアが朝鮮半島にも影響力を及ぼすようになり、日本の国益が脅かされるのではないかという危機感を持つようになります。また、欧米列強の中国(チャイナ)の自国の利益を脅かされる危険がありました。イギリスはヨーロッパが本国です。そこでアジアにある日本に期待をかけるようになります。それがきっかけで、西暦1902年(明治35年)に日英同盟が締結されます。
こうした背景もある中で、西暦1904年(明治37年)に日露戦争が起こりました。日本とロシアの国力の差は歴然としており、ロシアの方がはるかに上でした。しかしながら、日本は陸軍も海軍も勇敢に戦い、遂にロシアを破りました。アジアの国である日本が欧米列強のロシアを破った事実は、欧米列強の植民地になっていたアジア諸国などに勇気と希望を与えました。翌年の西暦1905年(明治38年)にアメリカにあるポーツマスにてポーツマス条約が締結されました。ポーツマス条約の主な内容を見てみましょう。
- ロシアは韓国(西暦1897年に朝鮮から大韓帝国と改称)に対する日本の指導・監督権を全面的に承認する。
- ロシアは旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道(東清鉄道の南部)とその付属利権を譲渡する。
- ロシアは北緯50度以南のサハリン[樺太]などをを割譲
この他にもイギリスやアメリカとも韓国に対する権益を認めてもらっていました。
日本では韓国の併合に反対する識者も多かったのですが、伊藤博文が韓国の青年によって暗殺されたことで、併合賛成の優勢の動きが日韓で見られるようになりました。そして、西暦1910年(明治43年)に、日本は大韓帝国を併合しました(韓国併合)。
条約改正が達成される
冒頭でも述べたように、幕末に我が国は欧米列強と不平等条約を締結されました。
我が国は欧米風の法制度を取り入れ、産業を発達させ、日清戦争や日露戦争で清やロシアという大国に勝利する中で、欧米列強と肩を並べる国力をつけることができました。
西暦1894年(明治27年)で日清戦争開戦直前の第2次伊藤博文内閣の時に日英通商航海条約を締結することで、治外法権の完全回復が達成されました。
また、西暦1911年(明治44年)の第2次桂太郎内閣の時に日米通商航海条約が改正されることで、関税自主権を回復することに成功しました。
明治という元号は45年続きました。明治時代はまさに条約改正に取り組んだ45年間だったということができると思います。
日本はこのようにして近代国家の仲間入りを果たすことになったのでした。
明治時代の内閣をまとめました
最後に、明治時代の歴代内閣を一覧にしてみました。
特に大学入試においては、歴代内閣は順番に覚えなければなりません。歴代内閣と歴史上の出来事をリンクさせることで、出来事を時系列に整理することができます。
明治時代には内閣は14代登場しました。
- 初代:伊藤博文内閣
- 2代:黒田清隆内閣
- 3代:山縣有朋内閣
- 4代:松方正義内閣
- 5代:伊藤博文内閣(第2次)
- 6代:松方正義内閣(第2次)
- 7代:伊藤博文内閣(第3次)
- 8代:大隈重信内閣
- 9代:山縣有朋内閣(第2次)
- 10代:伊藤博文内閣(第3次)
- 11代:桂太郎内閣
- 12代:西園寺公望内閣
- 13代:桂太郎内閣(第2次)
- 14代:西園寺公望内閣(第2次)
よく内閣総理大臣の名前の頭文字をつなげて覚えましょう!と言われますね。それでよいと思いますが、時代ごとに区切りながら覚えた方が実践で使えます。
い・く・や・ま・い・ま・い・お・や・い・か・さ・か・さ
自分ならこんなふうにイメージをつけて覚えます。
行く山、今井、親イカ、逆さ
山に行くんですよ、今井くん(さん)が…。そうしたら親イカが逆さになっているところを見た!
という感じ。
今井くん(さん)ってのは、東進ハイスクールの今井宏先生あたりのビジュアルを想像してもよいと思います。
イカはスーパーマリオに出てくるゲッソーあたりのキャラを連想しておいてもいいと思います。
そのような感じで学問的には何の価値もないですが、覚えたら勝ち!の世界ですから、どんな手段を使ってでも暗記してしまいましょう。