【中学歴史】中国(チャイナ)の統一(秦と漢)&冊封体制についてわかりやすく解説

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今回は、黄河流域で文明が起こった後、紀元前8世紀から紀元前3世紀の550年間にわたって戦乱になった中国(チャイナ)を統一する王朝が誕生しました。秦(しん)と漢(かん)についてわかりやすく解説していきます。

また、中国(チャイナ)が周辺諸国との関係をどのように結んでいったのかを、「中華思想」から解説していきたいと思います。

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秦の建国

多くの国に分かれてしのぎを削っていた春秋・戦国時代だった中国(チャイナ)でしたが、ついに統一する王朝が生まれました。

紀元前221年に秦(しん)という国が統一しました。王の名前は政(せい)。政は他の国の王を倒していきました。だから「王の上に立つ者」という意味で始皇帝(しこうてい)と名乗りました。

王というのはある土地の支配者という意味。
それに対して皇帝は1人!
そんなイメージです。

始皇帝は封建制を廃止して郡県制を実施しました。中央から地方長官を派遣しました。また、文字を統一し、貨幣を統一し、度量衡(どりょうこう)つまり長さ・体積・重さの単位を統一したりしました。

また、戦乱を防ぐために特に北方の異民族(匈奴(きょうど)と言います)の領土への侵入を防ぐために万里の長城を築きました。

始皇帝は自分の支配権を確立するために、革命を是としていた儒教の取り締まりを始めます。そこで、諸子百家の書物が焼かれ、儒家(儒教の指導をしていた人たち)を逮捕し生き埋めにしました。

しかし、急激な中央集権化は庶民の生活に混乱をもたらしてしまいました。始皇帝がお亡くなりになってからまたしても国土は混乱します。秦によって中国(チャイナ)が統一される前には楚(そ)という国がありましたが、楚(そ)の名門貴族だった項羽と有力農民だった劉邦(りゅうほう)が手を携えて、ついには彼らによって秦は滅ぼされました。秦王朝ができてからわずか20年足らずのできごとでした。

漢の建国

項羽と劉邦は秦を滅亡させてから対立します。結果、劉邦が勝利を収めます。

項羽と劉邦(上中下) 合本版(新潮文庫)
紀元前3世紀末、秦の始皇帝は中国史上初の統一帝国を創出し戦国時代に終止符をうった。しかし彼の死後、秦の統制力は弱まり、陳勝・呉広の一揆がおこると、天下は再び大乱の時代に入る。――これは、沛のごろつき上がりの劉邦が、楚の猛将・項羽と天下を争っ...

劉邦は漢(かん)という国を紀元前202年に建国します。漢は後にローマ帝国と並ぶ大帝国になります。

劉邦は秦の時代の過酷な法令を撤廃します。そして、地方のことについては地方の慣習法に任せ、郡県制を縮小し封建制を復活させました。しかし、封建制は時代を経ると周の時代と同じように地方の諸侯たちが独立しようと画策し始めます。これはアカン!ということで、漢は武帝の時代に一部の地域を秦と同じような郡県制に事実上戻します。このように封建制と郡県制を併用した制度を郡国制と呼んでいますが、漢はそのように変化させて地方を支配していきました。

漢は儒学を利用します。儒学が学べるような教養のある人を地方長官が国家公務員の候補者として皇帝に推薦するという制度ができます。すると地方から中央に向けて地方の声を届けやすくなり、国内は安定しました。

漢は国外にも目を向け、北方民族の匈奴(きょうど)からの脅威を取り除き、ヨーロッパ(ローマ帝国)との交易を行えるようになりました。漢の絹(シルク)がローマへ、ローマの馬やブドウが漢に伝わりました。俗に、シルクロード(絹の道)と呼ばれました。また、東方にも関心を持ち、朝鮮半島に楽浪郡(らくろうぐん)を置きました。

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中華思想とは?

中国(チャイナ)には、中華思想と呼ばれる考え方を持って諸国と付き合いをしていました。

オレたちこそがナンバーワン!

「中華」という言葉には世界の中心という意味が込められています。

中華思想と華夷秩序

中国(チャイナ)はそう思っていました。だから、周辺諸国のことを悪い意味の漢字を使って表現していました。

  • 西の異民族:西戎(せいじゅう)
  • 東の異民族:東夷(とうい)
  • 北の異民族:北狄(ほくてき)
  • 南の異民族:南蛮(なんばん)

ちなみに、日本のことは倭(わ)と呼んでいました。これには、小さな人たちを意味する言葉だったとする説があります。

さて、周辺国の王は中華皇帝に対して使者と貢ぎ物を贈ります。これを朝貢(ちょうこう)と言います。

朝貢された中華皇帝は、冊書(さくしょ)と呼ばれる任命書に周辺国の支配者を「王」としての称号を与えることで支配を認め、お返しの品を贈ります。また、農耕をするにあたって暦は大切です。そもそも暦を作ることはとても難しいです。中華で使っている暦を中華皇帝が使ってもいいよ、と与えます。ピンチになったら助けてくれることもあります。これを冊封(さくほう)と言います。

このようにして「王」に封じられた国は、中華皇帝の臣下(しんか)つまり家来となります。秦や漢が誕生した頃、周辺国も小国同士が衝突して戦乱の世になっていました。中華皇帝に「OK!」と言われたら百人力!中国(チャイナ)はそれだけ東アジアで抜きん出た力を持っていたのです。だから、こういった関係が成立していたのです。

2つ合わせて朝貢冊封体制(ちょうこうさくほうたいせい)と呼ばれます。

この考え方は、我が国(日本)の歴史を学ぶ際に、中国(チャイナ)との関係を理解するのにとても大切になってきます。トラブルが起こったりすることも多々あります。そのあたりについては、別でじっくり解説していきたいと思います。

 

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