【全体構造編】 室町時代とはどんな時代なのかをわかりやすく解説します!

室町時代 中学歴史の全体構造
室町時代
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今回は、室町時代とはどんな時代なのかのあらましをわかりやすく解説していきます。

室町時代は、西暦1338年(暦応りゃくおう元年)から西暦1573年(天正てんしょう元年)までのおよそ273年間の時代を指します。

室町時代の前期は朝廷が我が国に2つ存在していた時代で、南北朝時代とも呼ばれます。また、室町時代の後期の時代は各地方で戦国大名が誕生しました。この時代を戦国時代と呼ぶこともあります。

本稿では、室町時代の大まかな流れを征夷大将軍を中心にしながら解説していきます。

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我が国の歴史全体の流れの中の室町時代

歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。

中学歴史の全体構造
中学歴史の全体構造

室町時代は国史(日本史)の中でどこに位置するのかを確認してから勉強を始めます。大きな視点を軽視して歴史の勉強を始めると、たちまち迷子になってしまいます。特に歴史が不得意だと思う人は、こういう大きな視点を持って、落下傘らっかさんで上から降りて細かいところに少しずつ入り込んでいくようなイメージで勉強していくとよいでしょう。

室町時代は鎌倉時代の次の時代にあたります。関東の鎌倉に源頼朝が幕府を開き、武家が中心の政権が日本に誕生しました。その後、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政(建武の中興)を経て武家政権を引き継いだのが足利尊氏あしかがたかうじでした。

西暦1467年(応仁元年)に京都で始まった応仁の乱が終わると、いよいよ室町幕府の勢いが弱体化し、地方では戦国大名が勢いを増します。戦国時代が始まり、各地で戦乱が起こります。

これらの戦乱を鎮めたのが、織田信長であり豊臣秀吉です。織田信長は西暦1573年(天正元年)に室町幕府を実質的に滅ぼし、安土桃山時代を迎えることになります。

なお、国史(日本史)全体の復習はこちらを参照してください。

日本の歴史の全体構造をわかりやすく解説しています
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武士の時代の中の室町時代

上の年表で少し見たとおり、鎌倉時代から江戸時代までは武士の時代です。基本的には、天皇が征夷大将軍という位を武士に与えて、天皇の代わりに政治を行った時代といってもいいでしょう(例外的な期間もあるが…)。

日本型統治の図
日本における統治の概念図

上の図を見てみましょう。鎌倉時代、室町時代及び江戸時代の征夷大将軍とは「権力者」の部分に征夷大将軍や幕府の職制の図が入ってくるのだという視点が必要です。

室町時代のしくみについて詳しく解説してみました

室町時代の流れの捉え方

室町時代の時代の流れを押さえるためには、征夷大将軍の名前を順番に記憶していくとよいです。主人公がいないストーリーは話がつかみづらいですからね。将軍の名前を順番に覚えた後に、どの将軍の時にどんな出来事があったのか?を押さえていくとうまく出来事を整理することができます。

室町時代の征夷大将軍は15人もいますが、試験対策的には全員の名前を覚える必要はありません。赤字の名前の人は高校入試レベル、緑字の名前の人は大学入試レベルで絶対に押さえてほしい名前です。

  1. 足利尊氏たかうじ
  2. 足利義詮よしあきら
  3. 足利義満よしみつ
  4. 足利義持 よしもち
  5. 足利義量よしかず
  6. 足利義教よしのり
  7. 足利義勝よしかつ
  8. 足利義政よしまさ
  9. 足利義尚よしひさ
  10. 足利義稙よしたね(元々は足利義材よしきと名乗っていた。11代将軍の足利義澄の後に再び将軍の座に着いていた)
  11. 足利義澄よしずみ
  12. 足利義晴よしはる
  13. 足利義輝よしてる
  14. 足利義栄よしひで
  15. 足利義昭よしあき

一度に全部を完璧にしようとすると失敗します。学習は継続が大切です。まずは赤字、次に緑字を押さえて、順番に言えるようにする!

こんな感じで学習を進めていきましょう!

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室町時代の大まかな時代の流れ

南北朝時代

鎌倉幕府の倒幕の中心に立ったのが、後醍醐天皇ごだいごてんのうでした。後醍醐天皇は幕府から政治の実権を取り戻し、元号を「建武」と改めます。一般的に、建武けんむ新政しんせい(建武の中興ちゅうこうと呼ばれる政治を行います。天皇中心の政治(天皇親政)です。

後醍醐天皇による親政「建武の新政」をわかりやすく解説

ところが、後醍醐天皇の政治は短期間で失敗に終わってしまいました。あまりに急進的な改革を行おうとしたため、旧来の公家からの支持も少なかっただけでなく、鎌倉時代の武家社会の慣習を無視した政治を行ってしまったため、訴訟が乱発されて政務が停滞しました。さらに、何よりも鎌倉幕府の倒幕に参加した武士たちへの恩賞が不公平であったため、武士からの不満が高まったからです。

これらの武士たちの支持を背景に後醍醐天皇に対して挙兵をしたのが足利尊氏でした。天皇に対して刃をむけることはあってはならないことです。それは足利尊氏も分かっていたはずです。実際に、当初は足利側は不利な状況に陥り、九州まで落ち延びました。この状況で、足利尊氏は持明院統側の光厳上皇から院宣をいただき、何とか形勢を整えて後醍醐天皇を破ります。

両統迭立
鎌倉時代の両統迭立

後醍醐天皇は敗れて、吉野(現在の奈良県)というところに落ち延びました。一方、足利尊氏側は光明こうみょう天皇が践祚せんそ(天皇が位に就くこと)しました。つまり、我が国の中にはお二人の天皇がいらっしゃる状態となってしまいました。後醍醐天皇側の朝廷のことを南朝なんちょう、足利尊氏が中心となって作られた朝廷を北朝ほくちょうと言い、ここに南北朝時代と呼ばれる時代が始まりました(西暦1336年(建武3年))。

2年後の西暦1338年(暦応元年)に、足利尊氏は北朝の天皇であった光明天皇から征夷大将軍に任ぜられます。これが室町幕府の誕生です。

南北朝の対立は約60年余り続きました。

南北朝の争乱の時代についてわかりやすく解説しました

これを終わらせたのは3代将軍の足利義満あしかがよしみつです。将軍に就いた後、足利義満は北朝方の天皇の後見的な立場になり、さらに足利家の脅威になる守護大名たちの討伐を始めていました。そのような足利義満は、大覚寺統(南朝方)と持明院統(北朝方)と交互に天皇を出すことを条件にして南北朝を統一することに成功しました。これが西暦1392年(明徳3年/元中9年)の出来事でした。

足利義満の時代

足利義満は西暦1394年(応永元年)に朝廷の最高位である太政大臣に太政大臣にのぼりつめることに成功しました。武家が太政大臣になったのは平清盛以来2人目のことになります。ちなみに、武家の最高位の征夷大将軍と公家の最高位である太政大臣を兼務したのは足利義満が最初です。

また、足利氏にとって脅威になりそうな守護大名の討伐は相変わらず進めていきます。

このように、足利義満は政治を思うがままに動かすようになっていました。

日明貿易(勘合貿易)についてわかりやすく解説しました

この時代に中国(チャイナ)ではみんという国が建国されていましたが、足利義満は明と貿易をすることを決心しました。そして、莫大な利益を獲得することに成功しました。これが日明貿易(勘合貿易)です。

室町時代は明を中心に東アジアの経済の仕組みがダイナミックに変化した時期でした。琉球王国では中継貿易で潤い、蝦夷地でも津軽を経由して日本中に蝦夷地の特産物が日本中に広がりました。

足利義満の頃の文化のことを北山文化と呼びます。足利義満の別荘が京都の北山というところにあったことからそのような呼び名が付きました。金閣寺(鹿苑寺金閣)があまりに有名ですね。

足利義満はもう少しで息子(次男)を天皇の地位に就かせようとするところまで勢力を伸ばしていましたが、その直前に死にました。

足利義政の時代

時は下って、8代将軍の足利義政あしかがよしまさの時代になっていました。この頃の幕府の政治的な力は足利義満の頃と比べても随分弱くなっていました。

足利義政には当初世継ぎとなる子どもが生まれずに、義政の弟を次の9代の征夷大将軍に就かせようと義政は考えていました。しかし、ここでめでたく子どもが誕生しました。後の足利義尚よしひさです。子どもが生まれると親としては息子を将軍の地位に就かせたくなるものです。特に母親はそういう感情を持ちがちです。足利義尚の母親は日野富子ひのとみこという女性です。ここで、次期将軍は誰が継ぐべきなのかで対立が起こります。将軍の足利義政が指導的な役割を果たせばよかったのですが、足利義政は決断を下すことができません。

これに有力な守護大名の勢力争いが複雑に絡み合います。

こうしたことがきっかけで起こったのが応仁の乱です。西暦1467年の出来事です。この戦いは京都を中心に10年以上にもわたって続き、大きな戦災をもたらしました。

こういった時代でしたが、足利義政の時代には、現代の日本の生活様式の基礎になるような侘び寂びを大切にした文化が芽生えました。これが東山文化です。銀閣寺(慈照寺銀閣)などが有名です。

戦国時代の幕開け

結局、義政の息子である足利義尚が9代将軍になりました。

一方、守護大名同士の対立は続き、京都で守護大名同士で争いをやっているうちに、守護大名の自分の領土では有力な家来たちが守護大名を倒す現象が次々と起こります。このように、下の立場の者が上の立場の者を打ち破る下克上げこくじょうと呼ばれる状態が日本各地に起こります。そして、戦国大名が誕生します。

そのうちの1人であったのが尾張(現在の愛知県西部)で勢いを増していた織田信長おだのぶながです。織田信長は足利義昭を室町幕府の15代将軍に就くようにバックアップしました。しかし後に対立し、足利義昭を京都から追い出しました。実質的に西暦1573年(天正元年)に室町幕府が滅びた瞬間でした。

室町時代の産業について

室町時代はいよいよ日本国内に起こっていた貨幣経済の流れが地方にも波及します。

技術の発展が生産力の向上につながり、生産物を取引するために交通網が発展し、貨幣経済が普及するに至りました。

 

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