本稿では、昭和20年(西暦1945年)8月14日に渙発された「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」(いわゆる終戦の「玉音放送」)について、全文を確認した上で、現代語訳と1文ずつの解説を通して、当時の歴史的背景と文書の意味を読み解きます。
玉音放送と聞くと、多くの人は「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び…」という一節を思い浮かべるのではないでしょうか。実際、学校やメディア報道でもこの部分だけが切り取られて紹介されることが多く、「敗戦を国民に伝える放送」という印象だけで終わってしまいがちです。
しかし、詔書全文を読むと、戦争終結の決断がどのような国際関係の中で下されたのか、その判断がどの価値観にもとづいていたのか、そして敗戦後の日本が国家としてどのような姿勢で再出発しようとしていたのかが、具体的な言葉で記されています。
まずは全文の現代語訳を提示し、その後に原文と逐語解説を通して、詔書が伝えようとした本来のメッセージを読み解いていきます。
なお、日本が米英と戦争に至った背景については「開戦のご詔勅」に詳しく述べられています(「開戦のご詔勅」についての説明はこちらをご覧ください)。
この解説を作成するにあたっては、国語WORKSの松田雄一先生やLearn JapanのHall Noriko様、宮司の潮清史 様や「日本が好きになる歴史授業」の齋藤武夫先生や渡邉尚久先生の講座や授業内容を多分に参考にいたしました。この場を借りて心から感謝申し上げます。
玉音放送(大東亜戦争終結ニ関スル詔書)の現代語訳:全文 by 加代昌広
(注)「詔書」は天皇の名において出されるものであるため、現代語訳にある「私」とは全て昭和天皇ご自身のことを指します。
—-
私は世界の情勢と大日本帝国の現状を考慮して、緊急の手段をもってこの状態を収めたいと思い、ここに忠誠心があって善良なるあなたがた臣民に告げます。私は、帝国政府に、アメリカ、イギリス、中華民国及びソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)に対してポツダム宣言を受諾するように通告しました。
そもそも、大日本帝国の臣民が平穏に安らかに暮らせるように心を傾け、世界の国々と共に栄えていく喜びを共にすることは神武天皇及び歴代の天皇が遺してくださった教えであり、私(註:昭和天皇)もいつもいつも心に留めているところです。先に米英2国に対して宣戦したのも大日本帝国の自衛と東アジアの安定を願ったためであって、他国の主権を排して他国の領土を侵略するようなことは、もとから私は考えてはおりません。それなのに、大東亜戦争が始まってから既に4年が経ち、陸海軍の将兵は勇敢に戦い、公務員も精を出して仕事に励み、臣民もそれぞれが最善を尽くしたのにもかかわらず、戦局は好転せず、世界情勢もまた日本に不利な状況にあります。そればかりでなく、敵は新たな残虐な爆弾(原子爆弾)を使用してむやみに罪のない臣民を殺傷し、そのいたましい被害の及ぶ範囲ははかりしれないほど大きなものとなっています。しかも、なおこれ以上の交戦を継続すれば、我が日本民族の滅亡を招くのみならず、ひいては人類の文明をも破壊することになるでしょう。そのようなことになれば、私は何を以って1億人の我が子のような臣民を守り、さらに神武天皇以来の歴代天皇の御霊に謝ることができましょうか。これが、私が帝国政府に対してポツダム宣言の受諾に応じるように命じた理由です。
私は、大日本帝国とともにずっと東アジアの解放に協力してくれた諸国に対して申し訳ないという気持ちを表せざるを得ません。大日本帝国の臣民においても、戦地で命を失ったり職場で命を失ったり非業の死を遂げた者及びその遺族に思いを致せば、私は胸の奥深くまで張り裂けるような思いになります。そして、戦傷を負い、戦争の被害を受け、家業を失った者の生活に至っては、私は深く心配するところであります。思うに、これからの大日本帝国が受けるであろう苦難は並大抵のものではありません。あなたがた臣民の誠を持った心の中のことはとてもよく分かっています。けれども、私は時代やその状況に従いつつ、耐えがたいことに耐え、我慢ならないことにも我慢をして、未来のために平和な世の中が開かれてほしいと思っております。
私はここに天皇を中心としてまとまる国の姿を守ることができました。そして忠実にして善良なあなたがた臣民の真心を信頼しています。そして私は常にあなたがた臣民とともにあります。もし感情のおもむくままに事件を起こしたり、臣民同士がお互いに排斥したりして時局を混乱させ、正しい道を踏み外して世界から信用を失うようなことがあれば、私はそれを最もいさめたいと思います。どうか、国を挙げて家族のように一致団結をし、我が国を子孫に伝え、神代から続く日本の不滅を信じ、これから責務は重く進む道は険しいとは思いますが、持てる力を国の将来の建設に傾けて、道義心を厚くして、決して揺るがない信念を持って、我が国のよいところを発揮して世界の流れから遅れをとらないようにしてほしいのです。
あなたがた臣民には私の意図をよくよく理解して行動してもらいたいと思います。
御名御璽
昭和20年8月14日
大東亜戦争終結ニ関スル詔書|原文(玉音放送)【史料】
大東亜戦争終結ニ関スル詔書 – 原文(日本語:昭和20年〈西暦1945年〉8月14日渙発)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ玆ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通吿セシメタリ
抑〻帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歲ヲ閱シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尙交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
內閣總理大臣 男爵 鈴木貫太郞
海 軍 大 臣 米內光政
司 法 大 臣 松阪廣政
陸 軍 大 臣 阿南惟幾
軍 需 大 臣 豐田貞次郞
厚 生 大 臣 岡田忠彥
國 務 大 臣 櫻井兵五郞
國 務 大 臣 左近司政三
國 務 大 臣 下村宏
大 藏 大 臣 廣瀨豐作
文 部 大 臣 太田耕造
農 商 大 臣 石黑忠篤
內 務 大 臣 安倍源基
外務大臣兼大東亞大臣 東鄕茂德
國 務 大 臣 安井藤治
運 輸 大 臣 小日山直登
英語原文(Imperial Rescript on the Termination of the Greater East Asia War / Jewel Voice Broadcast Text)
海外で発表された昭和天皇による大東亜戦争終結の詔勅は以下の内容です。
国際放送において文語体の英語で読み上げられ、西暦1945年8月15日付けのNew York Timesにて全文が発表されました。
To Our Good and loyal subjects:
After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.
We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, Shina and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.
To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan’s self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one — the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan’s advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.
We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.
Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the innate glory of the Imperial State and keep place with the progress of the world.
英文はWIKISOURCEから転載しました。
解説|大東亜戦争終結までの流れ
大東亜戦争の勃発 – なぜ日本は米英と衝突したのか?
昭和16年(西暦1941年)12月8日、日本はアメリカとイギリスに対して宣戦布告しました。同日、日本陸軍はマレー半島に上陸してイギリス軍と交戦し、シンガポール攻略へ向け進軍を開始します。また日本海軍は、アメリカ領ハワイの真珠湾を攻撃しました。これらの軍事行動を契機として、後に「大東亜戦争」と呼ばれる戦争が始まります(「大東亜戦争」の呼称については後述します)。
日本が米英との戦争に踏み切った理由については、昭和天皇が渙発された「開戦の詔書」にその経緯と認識が示されています。以下は、その詔書に基づく当時の政府見解の概要です。より詳細な内容については別稿「大東亜戦争の開戦のご詔勅」をご参照ください。
- 米英との対立の背景には、当時日本政府が「支那事変(現在の教科書では日中戦争)」と位置付けていた中国(支那共和国)情勢の問題の解決が必要であると認識していた。
- 米英が蒋介石政権を支援することで東アジアの秩序を混乱させ、覇権を握ろうとしていていると判断した。
- 平和的交渉の過程で、米英は日本側が到底受け入れられない条件を提示し、日本を弱体化しようとしたと受け止めた。
- 日本は東アジアの安定のために努力したものの、日本の存立が危機に瀕する状況となった。
- こうした事情から、最終的に武力による解決を選ばざるを得なくなった。
- 以上を踏まえ、自存自衛のため日本は米英との戦争を決意した。
いつから「大東亜戦争」と呼ぶようになったの?
日本政府が「大東亜戦争」という呼称を正式に用いるようになったのは、昭和16年(西暦1941年)12月12日、第40代の東条英機内閣における閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」に基づきます。これは、昭和天皇が「開戦のご詔勅」を渙発された後に定められたもので、当時の政府が戦争をどの範囲で捉えていたかを明確に示す文書です。なお、太字は筆者が付したものです。
一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
昭和16年12月12日「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」閣議決定
二、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当リ戦地ト指定スルコトナシ
但シ帝国領土ニ在リテハ第二号ニ関スル個々ノ問題ニ付其他ノ状態ヲ考慮シ戦地並ニ取扱フモノトス
この第1項により、
大東亜戦争=対米英戦争+その情勢に伴う戦争(支那事変を含む)
と定義されました。
したがって、当時の政府見解では、戦争の起点は昭和12年(西暦1937年)に始まった支那事変まで遡ることになります。
支那事変(現在の教科書では「日中戦争」)と呼称の背景
本文中にある支那事変とは、昭和12年(西暦1937年)7月7日の盧溝橋事件に始まる中国との武力衝突を指します(当時の内閣は、第34代の第1次近衛文麿内閣)。現在の教科書では「日中戦争」と表記されますが、当時日本政府は中国(当時は「支那共和国」と呼ばれていました)に対して宣戦布告をしておらず、「局地的な武力衝突」であるという立場から「事変」という語を用いていました。そのため、日本側の公文書では「支那事変」と呼称されました。
この呼称には国際的・法的な背景があります。当時の国際法秩序では、国家間の武力行使を「戦争(war)」と名付ける場合、宣戦布告を行うことが通例とされていました。公式に「戦争」と認定すると、戦時国際法の適用や交戦国としての地位の扱いなど、国際法上の義務が生じることになります。日本政府は宣戦布告を行っていなかったため、この武力行使を「戦争」と位置付けず「事変」と称したと理解できます。
さらに、当時にはパリ不戦条約(正式名称は「戦争ノ抛棄ニ関スル条約」と言い、世界史の教科書には「ケロッグ・ブリアン協定」という名前でも掲載されている)が存在し、国際紛争の解決手段として戦争を用いることを放棄するという国際的潮流がありました。
パリ不戦条約
戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ不戦条約)
第1条 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル
こうした状況のもとで、武力衝突に「戦争」という名称を付すことは国際世論を刺激し、侵略意図を持つと受け取られる可能性がありました。日本政府としては事態を限定的な武力行使と位置付け、全面戦争であるとの印象を避けようとしたと解釈されます。
なお、戦後の歴史叙述では「日中戦争」という呼称が一般化しましたが、法的手続として戦争状態が宣言されていない以上、この武力行使全体を「戦争」と呼ぶことは用語上の整合性を欠く可能性があります。実際、戦後しばらくの間は公文書や新聞でも「日華事変」という呼称が一般に用いられていました。
こうした歴史的経緯を踏まえると、筆者としては、宣戦布告を伴わない武力衝突を総称する語としては「支那事変」とか「日華事変」とかという呼称を維持する方が、当時の国際法的理解とも整合的なのではないかと考えています。
法令上の正式呼称としての「大東亜戦争」
昭和17年(西暦1942年)2月には帝国議会において「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律」が承認され、法令上も「大東亜戦争」という呼称が正式に用いられることになります。
条文は一条のみであり、
勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ爲シタル場合ヲ除クノ外各法律中『支那事變』ヲ『大東亞戰爭』ニ改ム
大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律(昭和17年法律第9号)https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9E%E6%88%B0%E7%88%AD%E3%83%8E%E5%91%BC%E7%A8%B1%E3%83%B2%E5%AE%9A%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8B%E4%BC%B4%E3%83%95%E5%90%84%E6%B3%95%E5%BE%8B%E4%B8%AD%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%B3%95%E5%BE%8B
と規定されました。
ここにおいて、法規文書での「支那事変」表記は「大東亜戦争」へと統一されます。
「太平洋戦争」と「大東亜戦争」は同義ではない
現代の教科書やメディアでよく用いられる「太平洋戦争」という呼称は、大東亜戦争と同義ではありません。
太平洋戦争は一般に、
昭和16年(西暦1941年)12月8日の真珠湾攻撃以降、太平洋地域を中心に展開した対米英戦争
を指す概念であり、日中戦争(支那事変)(西暦1937年<昭和12年>〜)から太平洋戦争が始まるまでは含みません。
すなわち、
| 呼称 | 時期 | 含まれる範囲 | 基準 |
|---|---|---|---|
| 大東亜戦争(戦時呼称・日本政府) | 1937年<昭和12年>〜1945年<昭和20年> | 支那事変を含む | 日本の戦時法令 |
| 太平洋戦争(戦後呼称・国際/学術) | 1941年<昭和16年>〜1945年<昭和20年> | 対米英戦争中心 | 国際的研究文脈 |
| 日中戦争(現代教科書) | 1937年<昭和12年>〜1945年<昭和20年> | 支那事変一連 | 歴史学用語 |
この違いを押さえておくと、当時の詔書や法律文書の意図が理解しやすくなります。
大東亜戦争(「太平洋戦争」の期間)の戦局
昭和16年(西暦1941年)12月8日、日本はアメリカおよびイギリスに対して宣戦布告し、日本海軍はハワイ真珠湾、日本陸軍はイギリス領マレー半島へ攻撃を開始しました。これを契機として、後に「大東亜戦争」と呼ばれる戦争が本格化します(呼称の詳細は前節参照)。
開戦から半年ほどは、日本軍は東南アジア・太平洋で連戦連勝を続けました。マレー作戦では70日でシンガポールを占領し、当時欧米列強の植民地支配下にあったアジア諸地域では、日本軍を「白人支配からの解放者」として歓迎する声もありました。日本側もまた、アジアの解放と自存自衛を掲げ、戦争継続の根拠を強化していきます。同時に、南方資源(石油・ゴム・ボーキサイトなど)は日本の戦争遂行を支える生命線となり、戦局は資源確保と補給線維持を前提とする長期戦の色彩を帯びていきました。
しかし昭和17年(西暦1942年)6月のミッドウェー海戦で日本連合艦隊が大敗すると、戦況は転機を迎えます。日本は欧米に比べ資源生産力・工業力で不利であり、戦争が長期化するほど国力差が拡大しました。徴兵対象は学生にも広がり、いわゆる「学徒出陣」が行われるなど、社会全体が総力戦体制へ移行していきます。
昭和19年(西暦1944年)7月にサイパンが陥落すると、アメリカはここを拠点とし、日本本土を空襲できる態勢を整えました。この年の終わりから爆撃機のB29による民間人の無差別爆撃が始まります。一方、日本はこの頃から飛行機や潜航艇を使って敵艦に死を覚悟して体当たり攻撃を行う特別攻撃(特攻)が行われるようになりました。人々は敵から狙われやすい都会から田舎への疎開を始めたり、配給制が導入されるなどして、生活は大きく制限されるようになりました。
昭和20年(西暦1945年)に入ると攻撃の規模と範囲はどんどん拡大し、3月10日の東京大空襲では首都が大規模な焼夷爆撃を受け甚大な被害を受けました。空襲は東京だけでなく名古屋や大阪などの大都市だけでなく多くの地方都市などにも爆撃が及び、同年8月まで空襲は続きました。
同年4月には沖縄戦が始まり、住民を巻き込んだ激戦となりました。日本軍は必死に沖縄を守ろうと勇敢に戦いましたが、6月23日に牛島満軍司令官と長勇参謀長が糸満市摩文仁で自決し、組織的抵抗は終結しました。ただし、その後も各地で散発的戦闘や住民被害は続きました(沖縄戦について)。
その頃、アメリカ・イギリス・ソ連はドイツのポツダムで会談し、日本に降伏を要求する「ポツダム宣言」を発表しました(拙稿「ポツダム宣言全文の解説」)。日本政府内では受諾をめぐり激しい議論が行われましたが、その最中に広島・長崎への原子爆弾投下、さらに日ソ中立条約を結んでいたソ連の対日参戦が重なりました。
こうした情勢を踏まえ、時の総理大臣であった第42代の鈴木貫太郎は昭和天皇にご聖断を仰ぎ、最終的にポツダム宣言受諾が決定されます。
昭和20年(西暦1945年)8月14日に「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」が渙発され、翌15日にはその趣旨が天皇の玉音放送によって国民に示されました。「玉音」というのは天皇の肉声のことを指しますが、天皇の肉声が国民に直接放送されるのは、2600年以上続く日本の歴史上で初めてのことでした。この歴史的放送は、戦争終結の決断がいかに国家的危機の中で行われたのかを象徴しています。
【全文逐語解説】大東亜戦争終結ニ関スル詔書を一文ずつ読み解く
ここからは、昭和20年(西暦1945年)8月14日に渙発された「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」の内容を読み解いていきます。
まず全体像をつかむために、原文に触れます。
文章の流れや語彙を身体感覚として味わうため、国語WORKSの松田雄一先生による素読の動画をご覧ください。文語文は、一文一文の意味を分析するだけでは本来のリズムや語気が見えにくいことがあります。そのため、本文の逐語解説に入る前に、声に出して読み、音として文章の構造を掴むプロセスを置くことは意義があります。
素読によって言葉の流れを掴んだうえで、次からは詔書を一文ずつ読み解き、その歴史的背景や表現の意図を丁寧に整理していきます。
その1 – ポツダム宣言を受諾します
原文と現代語訳:「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ…」
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ玆ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク
私(註:昭和天皇)は世界の情勢と大日本帝国の現状を考慮して、緊急の手段をもってこの状態を収めたいと思い、ここに忠誠心があって善良なるあなたがた臣民に告げます。
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通吿セシメタリ
私(註:昭和天皇)は、帝国政府に、アメリカ、イギリス、中華民国及びソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)に対してポツダム宣言を受諾するように通告しました。
解説: 天皇が帝国政府に対してポツダム宣言を受諾するように通告した理由
大日本帝国憲法は、天皇を統治権の総攬者と位置づけ(第4条)、国家の最終的な権威としての地位を有していましたが、政治の具体的遂行と責任は国務大臣が負うと定められていました(第55条「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」)。実際の政策形成も、内閣や枢密院などによって行われ、天皇が日常的に政策を独断で決定することは制度慣行上ほとんどありませんでした。
終戦のご聖断は、この通常の決定経路が政府内や軍部内の対立により機能不全となった局面で、天皇が統治権の最終的象徴として意見を示し、判断を統一させた極めて例外的な統治行為と評価できます。
しかし、その判断が示されたからといって、その瞬間に降伏が国際法上成立したわけではありません。天皇が示した方針は、あくまで国家意思の方向付けとして位置づけられ、正式な受諾通告や外交文書の発出などの手続は政府が国家行為として執行する必要がありました。したがって終戦の過程は、「天皇による例外的な意思表明」と「政府による法的手続」という二層構造によって成立しています。
その2 – 終戦のご詔勅(玉音放送)に述べられたポツダム宣言を受諾した理由は?
その2-1 原文と現代語訳:「抑〻帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ…」
抑〻帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
そもそも、大日本帝国の臣民が平穏に安らかに暮らせるように心を傾け、世界の国々と共に栄えていく喜びを共にすることは神武天皇及び歴代の天皇が遺してくださった教えであり、私(註:昭和天皇)もいつも心に留めているところです。
その2-1 解説: 「拳々措カサル所」とは?
「拳々措かざる」は、「拳=こぶしを握るように大切に保つ」「措く=離す・疎かにすること」の組み合わせによる漢語表現で、「大切にして決して手放さない」「深く心に留め続ける」という意味を持ちます。繰り返しの「拳々」はその強調で、「絶えず敬意を抱いて保持する」ニュアンスとなります。
皇室の詔勅・勅語においてはしばしば用いられる語彙で、重要な理念や国家の方針を「常に念頭に置き忘れないこと」を表す定型表現としても知られています。本稿ではその意味を踏まえ、「いつも心に留めている」と現代語訳しています。
その2-2 原文と現代語訳:「曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ…」
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
先に米英2国に対して宣戦したのも帝国の自衛と東アジアの安定を願ったためであって(註: 米英両国に対する宣戦の詔書(大東亜戦争開戦の詔書)に記載)、他国の主権を排して他国の領土を侵略するようなことは、もとから私は考えてはおりません。
その2-2 解説: 大東亜戦争は侵略を目的とした戦争だったのか?
他国の主権を排して他国の領土を侵略するようなことは、もとから私は考えてはおりませんという部分は、ポツダム宣言第6項に書かれた文に対応するものであると解釈できます。条文を引用します。太字になっている部分は筆者が付したものです。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
「ポツダム宣言」第6項の解説
この部分についてのコメントだと考えられます(詳細はポツダム宣言第6項の解説)。
また、「なぜ大東亜戦争を始めたのか?」については「開戦のご詔勅」にもおっしゃっている通りで、やはり侵略の意志はなかったということを昭和天皇はおっしゃっています。
その2-3 原文と現代語訳:「然ルニ交戰已ニ四歲ヲ閱シ…」
然ルニ交戰已ニ四歲ヲ閱シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
それなのに、大東亜戦争が始まってから既に4年[=四歲]が経ち[=閱シ]、陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの公務員のみなさん[=百僚有司]も精を出して仕事に励み、臣民もそれぞれが最善を尽くしたのにもかかわらず、戦局は好転せず、世界情勢もまた日本に不利な状況にあります。
その2-3 解説: 4年間にわたって戦争を続けたが…
これは前述した「大東亜戦争の戦局」の章で説明した通り、日本は開戦当初こそ南方資源地帯の確保に成功し、欧米勢力の植民地支配下にあった各地で一定の支持や協力を得ました。しかし戦争が長期化するにつれて、国力差・補給網の脆弱さ・航空機や艦船の生産力といった根本的な構造的弱点が表面化していきます。特にミッドウェー海戦(昭和17年<西暦1942年>)での敗北は、主力空母と熟練搭乗員の喪失という致命的打撃となり、日本は防戦へと転じざるを得ませんでした。
国内では徴兵の拡大と物資統制が進み、学生たちが戦地に赴く「学徒出陣」、都市部の空襲と疎開、配給制の開始など、社会全体が総力戦体制へと巻きこまれていきます。それでも政府はなお「講和より継戦」を選び続けました。その背後には、資源確保の必要に加え、欧米によるアジア再支配への警戒、そして敗北=国体(国家体制)の危機という切迫した認識があったと考えられます。
ここで、一億衆庻という言葉に着目したいと思います。これは「日本全体の国民」を総称した表現です。当時の日本本土だけの人口は約7000万人程度ですが、台湾・朝鮮(いずれも当時は帝国領)や南洋群島の住民も含めた“帝国全体”を指す場合、概数として「1億」という言い方が用いられていました。
さて、こうした軍・政府・国民それぞれが最善を尽くした努力にもかかわらず、戦局は好転せず、世界情勢は日本に不利な方向へ傾いていった――この詔書の一節は、そうした状況認識の共有を国民に促すものと読めます。単に「戦争が不利になった」という事実説明ではなく、「なぜ多くの努力を重ねてもなお状況が悪化したのか」を歴史的背景とともに示した点が重要です。
その2-4 原文と現代語訳: 「加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ…」
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
そればかりでなく、敵は新たな残虐な爆弾(=原子爆弾)を使用してむやみに罪のない臣民を殺傷し、そのいたましい被害の及ぶ範囲ははかりしれないほど大きなものとなっています。
而モ尙交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
しかも、なおこれ以上の交戦を継続すれば、我が日本民族の滅亡を招くのみならず、ひいては人類の文明をも破壊することになるでしょう。
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
そのようなことになれば、私(註:昭和天皇)は、何を以って1億人の我が子のような臣民を守り、さらに神武天皇以来の歴代天皇の御霊に謝ることができましょうか。
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
これが、私(註:昭和天皇)が帝国政府に対してポツダム宣言 [共同宣言]の受諾に応じるように命じた理由です。
その2-4 解説: 国民の生命を守るためには「戦争の継続」「戦争の降伏」どちらを選択すべき?
以上の部分で示されているのは、戦争継続が日本国家そのものの存立を危うくし、ひいては国民生活の基盤を失わせるとの危機認識です。当時の政府内部では、「国家が滅びれば国民を守れなくなる」という論点と、「これ以上の戦闘継続は国民生命を失わせる」という論点が鋭く対立していました。すなわち、国家の形式的存続と、国民の生命・文化の維持という二つの価値が、極限状況のなかで衝突していたのです。
昭和天皇は、大日本帝国憲法の下で統治権の総攬者(第4条)として、通常は内閣・軍・枢密院の合議によって形成される政策過程を尊重してきました。しかし終戦期には、意思統一が不可能となった政府内の対立を調停し、国体(国家の継続)と国民生命の双方を守る最終的な道筋として、戦争終結を選択されたと読み取れます。
この詔書には、単に戦闘停止を宣言するだけでなく、「国体の護持」と「赤子(国民)を保全する」ことを両立させようとする大御心が表現されています。つまり、ここに示されているのは、国家と国民をともに未来へ残すための決断としての終戦であり、昭和天皇が国民の苦難を受け止めつつ国家の方向性を定めた、きわめて例外的な統治行為であったと理解できます。
その3 – 友好国や帝国臣民へのねぎらいと昭和天皇の平和への願い
その3-1 原文と現代語訳: 「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ…」
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
私(註:昭和天皇)は、大日本帝国とともにずっと東アジアの解放に協力してくれた諸国に対して申し訳ないという気持ちを表せざるを得ません。
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク
大日本帝国の臣民においても、戦地で命を失ったり職場で命を失ったり非業の死を遂げた者及びその遺族に思いを致せば、私(註: 昭和天皇)は胸の奥深くまで張り裂けるような思い[=五內爲ニ裂ク]になります。
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
そして、戦傷を負い、戦争の被害を受け、家業を失った者の生活に至っては、私(註: 昭和天皇)は深く心配する[=軫念]ところであります。
その3-1 解説: 昭和天皇の犠牲に対する深い悼みと平和への切実な願いを感じてみよう!
ここでは、昭和天皇が諸外国への謝意や戦没者・遺族への思いを述べています。
とりわけ注目すべきは、単に戦争終結を宣言するだけではなく、犠牲を背負った人々の心境に寄り添おうとする深い感情が表現されている点です。
原文の後半には、
「其ノ遺族ヲ想フ致セハ五內爲ニ裂ク」
という一節があります。
「五内」とは、五臓六腑を指す古い言い回しで、「胸の奥底・内臓の深部=心の核心」を比喩的に示します。「爲ニ裂ク」は「引き裂かれるほど苦しい」という意味です。つまりこの語句全体では、「胸の奥深くまで張り裂けるような思い」という強烈な感情表現になります。
一般的に歴史教科書では、詔書を政治決定として説明することが多く、文章が帯びた情緒や心情の響きは触れられにくいところです。しかし、この箇所には戦没者の家族が背負った悲しみを我がことのように痛感する昭和天皇の深い思いが示されています。
ここで示される感情は、戦争責任の所在や政治判断の評価を超えた次元で、
国民が払った犠牲に対する深い悼みと、平和への切実な願い
を読み取ることができます。
その3-2 原文と現代語訳: 「惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス…」
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
思うに、これからの大日本帝国が受けるであろう苦難は並大抵のものではありません。
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
私(註: 昭和天皇)はあなたがた臣民の誠を持った心の中[=衷情]はとてもよく分かっています。
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
けれども、私は時代やその状況に従いつつ、耐えがたいことに耐え、我慢ならないことにも我慢をして、未来のために平和な世の中が開かれてほしいと思っております。
その3-2 解説: 「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ…」未来に繋げたいという昭和天皇の強いお気持ち
ここで昭和天皇が「臣民の心の内をよくわかっている」と述べているのは、国民が多くの犠牲を払って戦ってきたことへの共感だけでなく、「最後まで戦って祖国を守りたい」「戦死した人たちの想いを無駄にしたくない」という気持ちを理解している、という意味だと考えられます。
日本の各地が空襲を受け、家族や仲間が亡くなる中で、「ここで戦いを止めたら犠牲が無駄になる」という思いが国民の中に強くあったことは自然なことです。
しかし昭和天皇は、そうした気持ちを十分に理解した上で、これ以上戦い続ければ国全体が壊滅し、未来を担う子どもたちまで失われてしまうと判断し、受け入れがたい苦渋の決断として終戦を選びました。「耐え難きを耐えよ」という呼びかけは、今の苦しさに耐え、未来の平和を守るために踏ん張ってほしいという願いを国民に伝える言葉だったと解釈できます。
その4 – ポツダム宣言を受諾した後に臣民に求めること
その4-1 原文と現代語訳: 「朕ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ…」
朕ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
私はここに天皇を中心としてまとまる国の姿を守ることができました。そして忠実にして善良なあなたがた臣民の真心[=赤誠]を信頼[=信倚]しています。そして私は常にあなたがた臣民とともにあります。
その4-1 解説: 「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」の意味
戦争に敗れた国では、国家元首が国外へ逃亡したり、国民を置き去りにする例も多く見られます。しかし日本では古代以来、天皇は民を支配する「うしはく」存在ではなく、民の安寧を思い慈しむ立場から国を「しらす」存在として位置づけられてきました(「しらす」と「うしはく」について)。
ここでの「しらす」とは、民が統治主体になるという意味ではなく、国家の中心に立つ天皇が、民の生活と運命を切り離さずに治めるという伝統的統治観を指します。
明治期の大久保利通や伊藤博文らも、新しい国家体制を構想する中で「君民共治」──君主と国民がそれぞれの役割を担いながら国家を支えるという理念を重要視しました。天皇が国民と運命を共にするという感覚は、昭和に突然生まれたものではなく、歴史的思想の流れの中に位置づけられます。
昭和天皇は国民に対して「忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ」という言葉を使っています。「赤誠」という言葉には少しのうそいつわりもない心という意味があります。昭和天皇の大御心を深く感じることができます。
そして、「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」という詔書の一節は、単なる「慰めの言葉」ではありません。戦局が悪化し、国家存亡が問われる中で、天皇自らが国民から離反せず、最後まで苦難を共に担う立場を明確にした宣言であり、天皇が日本という共同体の中心に立ち続ける覚悟を示した非常に重い言葉だと言えます。
その4-2 原文と現代語訳: 「若シ夫レ情ノ激スル所…」
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
もし感情のおもむくままに事件を起こしたり、臣民同士がお互いに排斥したりして時局を混乱させ、正しい道を踏み外して世界から信用を失うようなことがあれば、私(註: 昭和天皇)はそれを最もいさめたいと思います。
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
どうか、国を挙げて家族のように一致団結をし、我が国を子孫に伝え、神代から続く日本の不滅を信じ、これから責務は重く進む道は険しいとは思いますが、持てる力を国の将来の建設に傾けて、道義心を厚くして、決して揺るがない信念を持って、我が国のよいところを発揮して世界の流れから遅れをとらないようにしてほしいのです。
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
あなたがた臣民には私(註: 昭和天皇)の意図をよくよく理解して行動してもらいたいと思います。
その4-2 解説: 昭和天皇の日本(我が国)を作っていく決意
この結びの段落では、昭和天皇は「戦いの継続か、国家としての継承か」という痛烈な分岐点に立つ日本に対して、明確に後者を選ぶ道を示しています。
それは単なる降伏表明ではなく、日本が断絶ではなく継承を選ぶための条件を国民に求めたということです。
戦争による怒りや不満から国内が混乱し、人々が互いに憎しみ合い、世界からの信頼を失うような事態になれば、戦争が終わっても日本という共同体は内部から崩壊してしまいます。だからこそ天皇は、国民に対して「一致団結し、未来の建設に向けて道義心と信義を失うな」と呼びかけています。
ここで強調されているのは、敗戦後の日本を再び世界の中に立て直す主体が、政府でも軍でもなく「国民自身」であるという視点です。
そして最後に置かれた「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」という言葉には、先ほどの「共にある」宣言と呼応しながら、国の未来を担う責任を国民に託す覚悟が込められています。
天皇が国民と共に残り、痛みを分かち合う決断をしたうえで、
その未来の担い手を「あなたがた」に託す――
この構造こそが詔書全体の締めくくりであり、日本が戦後どう歩むかを方向付けたメッセージと言えるでしょう。
玉音放送を拝聴してみよう!
玉音放送を再び拝聴するにあたって、細かな語句の意味や歴史的解釈は、すでに本文で十分に整理できたはずです。
ここから先は、知識だけでなく、御声そのものに耳を澄ませていただきたいと思います。詔書の一字一句に込められたお覚悟や、臣民を思し召される深い御心は、文字ではなく声の抑揚の中に息づいています。沈黙の「間」、言葉が落ち着く瞬間、そして言い切る時の静かな強さ――それらを感じ取ろうとする姿勢こそが、拝聴するという行為の意味ではないでしょうか。
この国の行く末を案じ、国民とともにあらんとされた昭和天皇の大御心に、静かに向き合っていただければ幸いです。
日本の終戦は「8月15日」ではない――玉音放送・降伏文書・平和条約で見る3段階の終戦
本の「終戦日」は昭和20年(西暦1945年)8月15日と広く認識されていますが、厳密にいうとこの日は戦争行為が法的に終了した日ではなく、昭和天皇の玉音放送によって国民が武装解除に向かった日です。
実際には、昭和20年(1945年〔昭和20年〕)8月14日に昭和天皇が「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」を渙発され、その中でポツダム宣言受諾の方針が示されました。翌15日に玉音放送を通じてこの内容が全国民に伝えられ、事実上の戦闘停止が広く共有されました。ここで詔書が宣言したのは「戦争終結そのもの」ではなく、「ポツダム宣言受諾」という政治的決断である点に注意が必要です。
武装解除や停戦の法的手続きは、この後に段階的に進められました。
戦争終結の正式な手続きは、同年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書が調印されたことにより国際的に確認されました(降伏文書については外務省のウェブサイトに載っています)。しかしこの段階でも、日本は依然としてGHQによる占領統治下に置かれており、国家の主権を完全には回復していません。GHQは、国際法の通義に違反して、日本社会の再編のため憲法・教育・報道・統治体制に大きな変更を加え、国体の基盤である天皇と国民の結びつきにも影響を与えました。しかし昭和天皇は「爾臣民ト共ニ在リ」と詔書に記された通り、国民と苦難を共にし、日本再建に取り組まれました。この姿勢は、亡命する君主が多い世界史の中でも特異であり、歴代の「しらす」統治の伝統を示すものといえます。
日本が国際社会において法的に独立した国家として復帰したのは、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年(西暦1952年)4月28日のことです(第3次吉田茂内閣の時代)。ゆえに、戦争が国際法的に終結し、「国家としての再出発」が可能になった時点を終戦とみなすなら、昭和27年をもって終戦と理解することができると考えられます。この日は平成25年(西暦2013年)の第2次安倍晋三内閣の時に「主権回復の日」と定められました。しかしながらこの時代、沖縄はいまだにアメリカ合衆国の領土でした。沖縄が日本に返還されたのは、第3次佐藤栄作内閣の時代の昭和47年(西暦1972年)5月15日のことでした。
おわりに
終戦をめぐる国民の受け止めは一様ではありませんでした。
戦火の苦しみから解放された安堵を覚えた人もいれば、最後まで戦い抜きたいと願った人もいました。どちらの思いも、国家と家族を守ろうとした真剣な願いから生まれたものです。私たちはその多様な祈りと覚悟の上に立っていることを忘れてはならないでしょう。
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