【中学歴史】御成敗式目は誰が作ったの?内容を簡単に解説します!

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本稿を読むと、以下の内容を知ることができます。

  1. 御成敗式目(貞永式目)を作った3代執権の北条泰時が行った政治について知ることができます。
  2. 御成敗式目(貞永式目)の内容について知ることができます。

源頼朝が武家による政権である鎌倉幕府を開いたものの(幕府成立までのプロセス)、源氏は3代しか続かず、代わって幕府の中心で政治を行ったのが北条氏の一族でした。これを朝廷でご覧になっていた後鳥羽上皇承久の乱(承久の変)を起こしたものの幕府に敗れてしまいました(源氏の滅亡から承久の乱にかけてのプロセス)。

本稿はその続きです。

なお、鎌倉幕府が力を誇っていた鎌倉時代の全体の流れは以下のコンテンツを参照して下さい。

鎌倉時代の大まかな流れをわかりやすく解説しました
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北条泰時の政治

承久の乱(承久の変)が西暦1121年(承久3年)の後の西暦1224年(貞応3年)に2代執権の北条義時が急死し、義時の長男であった北条泰時ほうじょやすときが3代目の執権となりました。

北条泰時は、執権を補佐する役割として連署れんしょを設置しました。連署には北条氏の一族が就きました。また、有力な御家人を集めて重要な政務を合議体で決定するための組織が作られました。それが評定衆ひょうじょうしゅうです。

また、空位になっていた征夷大将軍は、京都から満7歳の藤原頼経が就くことになりました(西暦1227年(嘉禄2年))。

御成敗式目(貞永式目)の制定

なぜ御成敗式目は制定されたのか?

承久の乱(承久の変)が終わった頃に時計の針を戻しましょう。

幕府は承久の乱(承久の変)の前までは東国を中心とした地域でしかその影響力はありませんでした。しかし、承久の乱で幕府が後鳥羽上皇の勢力を打ち破り、六波羅探題ろくはらたんだいが京都に置かれると、西国にも幕府の支配権が及ぶようになりました。

西国には新たな地頭が任命されます。すると、新たな地頭をめぐって対立が起こり始めました。これまでは源頼朝時代の「先例」を基準にもめ事をおさめてきましたが、次第に限界がみえるようになってきました。

北条泰時は、これまでの公家が作った律令を参考にしたり、源頼朝以来の「先例」や武士社会の健全な常識である「道理」を参考にしたりして、もめ事をうまく収める法整備に着手することにしたのです。

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御成敗式目(貞永式目)とはいつ作られたの?

御成敗式目ごせいばいしきもく西暦1232年(貞永元年)に制定されました。制定当初は単に式目と呼ばれていましたが、後に裁判の基準という意味で御成敗という言葉がくっついて、御成敗式目と言われるようになりました。また、制定の頃の元号をとって貞永じょうえい式目とも呼ばれます。

御成敗式目(貞永式目)は何箇条あるか知っていますか?

御成敗式目(貞永式目)の内容をザッと言えば、以下の2つのポイントが条文の中に入っていると言われています。

  1. 源頼朝以来の先例
  2. 源頼朝以来の道理(武家社会の慣習)

こういった内容が51箇条にわたって書かれています。51箇条というのが意外なポイントです。51という数字は17の倍数ですよね。我が国の歴史上、17といえば、聖徳太子が制定した「十七条の憲法」ですよね(聖徳太子の偉業についてはこちらで解説)。51箇条という条文数はココから来ています。なお、後に「式目追加」と言って、条文はどんどん追加されていきます。

御成敗式目(貞永式目)は、後に室町幕府の初代将軍になった足利尊氏によって出された「建武式目」や戦国大名の「分国法」などにも影響を与えました。武家法の基本法といった存在ですね。

ここからは内容に入っていきます。

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御成敗式目(貞永式目)とはどのような内容か?

ここからは高校生以上が学習対象になりますが、意欲のある中学生の皆さんにもぜひ呼んでもらえると嬉しいです。

第1条&第2条 神社や寺院を敬おう

教科書や学習参考書にこの条文はあんまり紹介されないのですが、とても面白い内容なので紹介したいと思います。

一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。然れば則ち恒例の祭祀は陵夷りょういを致さず、如在にょざい礼奠れいてんは怠慢せしむるなかれ。これによつて関東御分の国々ならびに庄園に於ては、地頭神主らおのおのその趣を存し、精誠を致すべきなり。兼てまた有封うふの社に至つては、代々の符に任せ、小破の時はかつがつ修理を加へ、もし大破に及び子細を言上 せば、その左右さうに随てその沙汰さたあるべし。

御成敗式目(貞永式目)第1条

上の条文は第1条ですが、「神社を修理してお祭りを大切にしよう」という内容です。冒頭は「神様は人が尊敬の気持ちを持っているとそのパワーは増します。人は神の徳をいただいて運を開くことができる」という内容です。

第2条は仏教のお話ですが、御成敗式目(貞永式目)の最初の2条が神社とお寺を敬いましょうという内容だったのは驚きです。

一、寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事
右、寺社異なると雖も崇敬これ同じ。よつて修造の功、恒例の勤め、宜しく先条に准じ後勘こうかんを招ぐことなかるべし。但しほしいままに寺用を貪り、その役を勤めざるの輩に於ては、早く彼の職を改易せしむべし。

御成敗式目(貞永式目)第2条

第3条 守護のお仕事について

この条文は重要です。

一、諸国守護人奉行の事
右、右大将家の御時定め置かるゝ所は、大番催促、謀叛、殺害人<付、夜討、強盗、山賊、海賊>等の事なり。しかるに近年に至りて代官を郡郷に分補し、公事を庄保に宛て課せ、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以て無道なり。
そもそも重代の御家人たりと雖も、当時の所帯無き者は、駆催すことあたはず。兼てまた所々の下司庄官以下、その名を御家人に仮りて、国司領家の下知と対捍すと云々。しかる如きの輩は、守護役を勤むべきの由たとへ望み申すと雖も一切催を加ふべからず。
早く右大将家御時の例に任せ、大番役ならびに謀叛殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし。もしこの式目 に背き自余の事に相交る者、或は国司領家の訴訟により、或は地頭土民の愁鬱につき、非法の至り顕然たる者は、所帯の職を改められ穏便の輩を補すべきなり。また代官に至つては一人を定むべきなり。

御成敗式目(貞永式目)第3条

簡単に言えば、守護に与えられた権限をこえたことに手を出しちゃいけないよということです。赤字で強調した部分が、御成敗式目(貞永式目)の内容が「源頼朝以来の先例」という特徴が出ていますね。

第8条 取得時効の規定

この条文は実は今の民法にも通じる条文としても有名です。

一、御下文を帯ぶると雖も知行せしめず年序経たる所領の事
右、当知行の後、廿箇年を過ぎたる者は、右大将家の例に任せ、理非を論ぜず、改替するあたはず。而るに知行の由を申し御下文を掠め給はるの輩、彼の状を帯ぶと雖も敘用するに及ばず。

御成敗式目(貞永式目)第8条

支配を放棄して20年経った場合は、源頼朝の時の先例にならって、その理由の如何を問わず、支配権は消滅したものとされます。

言い回しは異なりますが、20年という年数は現在にも引き継がれている点が面白い点です。

民法第162条第1項
二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の者を占有した者は、その所有権を取得する。

民法第162条第1項

第18条&第23条 御成敗式目(貞永式目)における女性の取り扱い

御成敗式目()において女性がどのように取り扱われているのかを見ていきます。

まずは第18条です。まず御家人は女性でもなることができます。大学入試ではもう少し細かいことが問われますが、ここではひとまずパスします。

一、所領を女子に讓り与へたる後、不和の儀あるによつて、その親悔い還すや否やの事
右、男女の号異なると雖も、父母の恩これ同じ。法家の倫申す旨有りと雖も、女子則ち悔い還さゞるの文に 頼みて、不孝の罪業憚るべからず。父母また敵対の論に及ぶを察し、所領を女子に讓るべからざる歟。親子義絶の起りなり、既に教令違犯の基 な り。女子もし向背の儀有らば、父母宜しく進退の意に任すべし。これによつて、女子は讓状を全うせんがため忠孝の節を竭し、父母は撫育を施さんがため慈愛の思ひを均しうするものならん歟。

御成敗式目(貞永式目)第18条

続いて第23条。女性の御家人が養子をもらってもOKなのか?という話です。公家の法律ではNGだったのですが、御成敗式目(貞永式目)ではOKという判断になりました。武家は戦わければならないので戦死の可能性が高まります。ですから、事前に跡継ぎを確保するためにも養子を取っておいてもよいのではないかという価値観です。

一 女人養子の事
右、法意の如くばこれを許さずといへども、右大将家の御時以来当世に至るまで、その子なきの女人ら所領を養子に讓り与ふる事、不易の法勝計すべからず。しかのみならず都鄙の例先蹤これ多し。評議のところもつ とも信用に足る歟。

御成敗式目(貞永式目)第23条
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御成敗式目(貞永式目)ができると朝廷はヤバくなるの!?

承久の乱(承久の変)で幕府側が勝ちましたが、朝廷はなくなったわけではありません。律令など公家が作った法律も相変わらず残っています。そのような中で御成敗式目(貞永式目)が制定されるわけです。朝廷からすれば幕府を警戒するでしょう。

この点について、北条泰時はこのように述べています。京都にいる北条泰時の弟である北条重時に宛てた手紙(消息)を紹介します。このお手紙は、西暦2005年(平成17年)の東京大学の日本史の入試問題に載っていた史料を引用することで探ってみたいと思います(史料の原文ではありません)。

この式目を作るにあたっては、何を本説(1)として注し載せたのかと、人々がさだめて非難を加えることもありましょう。まことに、これといった本文(2)に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すところを記したものです。(中略)あらかじめ御成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように、子細を記録しておいたものです。この状は、法令(3)の教えと異なるところも少々ありますが、(中略)もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです。これによって、京都の御沙汰や律令の掟は、少しも改まるべきものではありません。およそ、法令の教えは尊いものですが、武家の人々や民間の人々には、それをうかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください。

(注)(1)本説、(2)本文:典拠とすべき典籍ないし文章
 (3)法令:律令ないし公家法

御成敗式目(貞永式目)の趣旨「北条泰時消息文」

ここでいう武家というのは御家人のことです。言い換えると、御成敗式目に書かれている裁判基準とは鎌倉幕府に従う御家人のための裁判基準であるということです。その上で、「朝廷が作った法令については変更しないので安心して下さいと朝廷の人に伝えてね」と北条泰時は重時に言っています。

こういった中で制定されたのが御成敗式目だったのです。

 

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