本稿を読むと、承久の乱(承久の変)が、
- なぜ起こったのか?
- その経過はどうなったのか?
が簡単に分かるような内容になっています。
その手段として、まほろば社会科研究室のコンテンツでは、歴史上の戦いなどが起こった時に情報を整理するためのフレームワーク(枠)に基づいて解説を加えています。
そのフレームワークは以下の通りです。
承久の乱(承久の変)でも、この5つのポイントを押さえていきます。
なお、鎌倉時代を鳥の目の視点で見たいという人は、以下のコンテンツを参照してもらえるとよいかと思います。
なぜ承久の乱(承久の変)は起こったの?
源頼朝の死去後の鎌倉幕府の政治
鎌倉幕府の初代将軍であった源頼朝は、晩年、藤原氏や平氏と同じように自分の娘を天皇の后にしようとしていましたが失敗していました。西暦1199年(建久10年)に不慮の事故で亡くなりました。
その後、源頼朝の長男である源頼家が2代目の征夷大将軍に就きました。源頼家はまだ16歳と若く、有力御家人13人による合議制によって鎌倉幕府の政治が行われるようになりました。しかし、源頼家が御家人の所領を削るなどして御家人が不満を持つようになっていました。御家人同士の対立も深まり、滅んでいきました。これらの騒動をおさめたのが、源頼朝の妻である北条政子の実家である北条氏でした。
北条氏はやがて征夷大将軍である源頼家と対立するようになり、やがて源頼家を暗殺してしまいました(西暦1204年(元久元年))。
次に第3代の征夷大将軍に就いたのが源実朝でした。源実朝が将軍職に就いている間も御家人同士の争いは絶えませんでした。西暦1213年(建暦3年)に侍所の別当(長官)であった和田義盛が北条義時によって倒され(和田合戦)、北条義時は侍所の別当と政所の別当とを兼ねるようになりました。これを執権と呼ぶようになりました。
後鳥羽上皇による院政
ここで朝廷の様子も少しだけ見ておきましょう。
まずは第82代の後鳥羽天皇です。源頼朝を征夷大将軍に任命した天皇ですね(鎌倉幕府が開かれるまでの経緯)。後鳥羽天皇が践祚(天皇の地位を引き継ぐこと)された際に、いわゆる三種の神器を持っていませんでした。安徳天皇が三種の神器をもって源氏の兵に追われていたからです。くわしい経緯については、源平の合戦のコンテンツで説明しています。後鳥羽天皇は自分がイレギュラーな形で即位しているところから、朝廷の権威を復活させようという気持ちが強かったのではないかと言われています。
後鳥羽天皇は、源頼朝が死去する前年の西暦1198年(建久8年)に第83代の土御門天皇に譲位なさい、院政を開始しました。後鳥羽上皇は、その後、第84代の順徳天皇、第85代の仲恭天皇のもとで23年間にもわたって院政を行いました。鎌倉時代の初期において朝廷で実権を握っていたのは後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は源実朝と友好的な関係を結びつつ、朝廷の権威を復活させようとしていました。後鳥羽上皇の狙いは源実朝を重く用いることでうまく取り込んで鎌倉幕府を統制しようとしていたのです。2人の共通点としてあげておいてよいと考えられるのは、和歌の才能に優れていた点です。源実朝は「金槐和歌集」という和歌集、後鳥羽上皇は「新古今和歌集」という勅撰和歌集をそれぞれ編纂しました。和歌の交流があったと言われています。
後鳥羽上皇はこのほかにも西面の武士と呼ばれる機関を設置し、軍備を整えました。
源氏の滅亡
しかし、3代将軍の源実朝は弟の公暁によって暗殺されてしまい、その公暁も暗殺されてしまい、源頼朝から続いた源氏による征夷大将軍は3代限りで終わりをむかえてしまいました。
4代目の鎌倉幕府の将軍を誰にすべきか?
征夷大将軍のいない幕府はあり得ません。鎌倉幕府は後鳥羽上皇の皇子から将軍を出すことを求めました。しかし後鳥羽上皇は幕府からのその申し出を断りました。鎌倉幕府の将軍になるということは鎌倉に下ることを意味し、やがては朝廷が2つに分かれる危険性を察知していたからです。
これまで皇室の血を継いでいた源氏ではなく、もともとは一御家人だった北条氏が幕府の実質的なトップに立つことについて朝廷は快く思っていませんでした。後鳥羽上皇の父君は平清盛に苦しめられ、鎌倉幕府に幕府を開くことを最後まで固辞していた後白河上皇です。後鳥羽上皇は幕府が力を持ちすぎることに警戒感をお持ちだったのです。
そこで、西暦1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は執権の北条義時の討伐を命ずる院宣を出しました。院宣とは上皇の命令のことです。これがいわゆる承久の乱(承久の変)の始まりです。
承久の乱(承久の変)は「いつ」起こったの?
西暦1221年(承久3年)のことです。
試験対策としてこの年号は覚えておく必要があります。
承久の乱(承久の変)の当事者は「だれ」ですか?
後鳥羽上皇と鎌倉幕府の執権の北条義時との戦いです。
実際に戦場におもむいて指揮を執ったのは、北条義時の息子である北条泰時でした。
承久の乱(承久の変)はどのような結末をむかえたのか?
御家人を説得する北条政子の演説の内容とその背景
天皇や上皇に弓を引くなどということは我が国の歴史の経験則から考えてあってはいけないことです。征夷大将軍という地位も全て天皇から任命されている地位だということを忘れてはいけません。
天皇が征夷大将軍を任命なさっていることに言及している鎌倉幕府の組織図は、皆さんが使っている教科書や参考書を見かけたことがありません(あるかもしれませんが…)。その点を考えると、最近の歴史教科書や参考書は天皇というご存在が軽んじられているように思えます。
それはさておき、天皇が日本で一番大切な存在であることはこの戦いに挑もうとしている鎌倉幕府側についている武士(御家人)にも分かっていました。御家人は悩みます。
そのような中で、初代征夷大将軍の源頼朝の妻である北条政子が御家人に向けて演説を行ったと言われています。
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
出典:『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条。
——
[現代語訳]
今は亡き源頼朝は鎌倉に幕府を開いて以来、官位といい俸禄といい、その御恩は山よりも高く海よりも深いです。この御恩に対する感謝の気持ちはどれぐらい深いことでしょうか。しかし後鳥羽上皇から道理には合わない北条義時を討伐せよという院宣が出てしまいました。名誉を重んじる者は三代にわたる将軍のあとをしっかり守ってほしいです。
現代語訳は金谷俊一郎「日本史史料一問一答集」より編集
北条政子の演説は御家人の忠誠心を厚くしました。幕府軍は団結し、後鳥羽上皇率いる朝廷の軍に立ち向かうことになりました。
北条義時の息子の北条泰時は幕府軍を率い、西に兵を進ませました。
上皇に弓を向けることに悩んだ北条泰時
実は上皇に弓を引くことに悩んでいたのは御家人だけではありませんでした。実は承久の乱(承久の変)で幕府軍を率いる北条泰時自身も悩んでいました。
北条泰時は鎌倉幕府軍を率いて鎌倉を出立した翌日、総大将なのに一人鎌倉に戻ってきました。朝廷軍が後鳥羽上皇が御自ら兵を率いていた場合、現場でどのような対処をすべきなのか?父である執権の北条義時に訊きに来たのです。
「君(上皇)の御輿に弓は引いてはいけません。その時は兜を脱ぎ、弓の弦を切って降伏しなさい。そして上皇にその身をまかせなさい。しかし上皇が京の都においでになって戦場にいらっしゃらなければ戦いなさい。」
「増鏡」に掲載されたエピソードより
「敵の総大将が現れたら降伏せよ!」という発想は普通では考えられないことです。「真っ先にお命を頂戴せよ!」と言うべきところです。しかし上皇がお出ましになったら話が違うのです。これが我が国の国柄なのです。
さて、これで迷いのなくなった北条泰時は軍に戻り、今日に向けて進軍を開始しました。
幕府軍の勝利で幕を閉じる
後鳥羽上皇は院宣の効果を過大評価していたようでした。というよりも、鎌倉幕府の御恩と奉公の関係による主従関係が想定よりも強固なものだったようです。
当初は後鳥羽上皇も自ら武装され兵を集められておりました。しかし、後鳥羽上皇は戦場にはお出ましになりませんでした。
幕府軍は現在の愛知県と岐阜県の県境付近や富山県と石川県の県境付近で衝突しました。幕府軍はここでの戦いに勝利し、都に到着しました。
京都は幕府軍によって完全に制圧され、幕府軍が勝利する形でこの戦いは終幕をむかえました。
承久の乱(承久の変)の後、朝廷はどうなった!?
敗れた後鳥羽上皇たちの処遇と新帝践祚
鎌倉幕府は上皇や天皇のお命を奪うことはせず、配流することにしました。政界に復帰させないようにしたのです。承久の乱(承久の変)が終わった時点で、天皇や上皇をはじめとした皇室を廃して北条氏が日本のトップになることはできたはずです。しかし北条氏は皇室を残しました。仮に北条氏に尊皇の気持ちがなかったとしても、皇室を残した方が日本国内が混乱しないのです。実力のある者が国のトップに君臨すると、さらに実力のある者が倒し…という感じで争いの絶えない国になってしまうのです。お隣の中国(チャイナ)がそうですね。この時点において既に天皇をトップとする我が国の体制は、低く見積もっても1000年ぐらい続いているのです。天皇という権威を利用した方がよいと北条氏は考えたのでしょう。
さて、承久の乱(承久の変)の首謀者である後鳥羽上皇は現在の島根県にある隠岐へ、順徳上皇は佐渡(新潟県)へそれぞれ配流されました。隠岐や佐渡は都から遠いので、キツい配流だったと言えます。それに対して、後鳥羽上皇に挙兵を思いとどまるように進言していたとされる土御門上皇は土佐国に自ら赴きました。
時の天皇はまだ満2歳であらされた第85代の仲恭天皇でした。仲恭天皇は幕府から退位させられました。幕府が皇位に対して口を出した事例となりました。仲恭天皇は践祚(皇位を引き継ぐこと)からわずか78日でご退位あそばされました。歴代天皇の中で最もご在位の短い天皇です。
鎌倉幕府は後鳥羽上皇のお兄さまの御子を第86代の後堀河天皇としました。
六波羅探題の設置と西国への影響力
試験対策としてはこっちが大事です。
幕府は朝廷や西国を監視するための機関として、六波羅探題を設置しました。
鎌倉幕府は朝廷が持っていた荘園を取り上げました。また、鎌倉幕府は朝廷に味方した武士たちの所領を恩賞として幕府側についた御家人たちに分け与えました。
承久の乱(承久の変)よりも前は、鎌倉幕府は東国を中心とした武家政権でした。しかし、承久の乱(承久の変)の後は西国にまでその影響力を伸ばすことになったのです。
ちなみに、執権の下に連署や評定衆が置かれるようになったのは、次の執権である北条泰時の頃です。