【中学歴史】最澄と空海の登場 – 平安時代の新しい仏教

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平安時代初期の9世紀の初め頃は、まだ遣唐使(けんとうし)が送られていました。日本はこの頃の唐の文化の影響を受けていました(遣唐使の歴史についてはくわしくはこちら!)。当時の元号から弘仁・貞観文化と言います。

平安初期に唐に送られた僧の中に最澄(さいちょう)空海(くうかい)がいました。

まとめると、最澄と空海は次の宗派を作りました。

最澄空海
宗派天台宗(てんだいしゅう)真言宗(しんごんしゅう)
寺院比叡山に延暦寺
(現在の滋賀県)
高野山に金剛峯寺
(現在の和歌山県)
平安時代初期の仏教

入試対策としては、上の表は確実に暗記しておかなければなりません。

2つの宗派が共通しているのは、山の中で厳しい修行を行い、祈りをとおして災いを取り除こうとしていました。奈良時代末期は政情不安で、疫病なども流行っていたため、人々には祈りが必要だったのです。

それでは以下、簡単に解説を加えていきます。

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最澄 - 天台宗を比叡山延暦寺で開く

西暦804年(延暦23年)に、宮中に仕えていた最澄(さいちょう)遣唐使(けんとうし)として唐に派遣されました。最澄は唐で法華教(ほっけきょう)を中心に学びました。

翌年に帰国した最澄は、桓武天皇に認められて、近江国(しがけん)の比叡山(ひえいざん)天台宗(てんだいしゅう)を開きました。最澄が学んできた法華教を大切にしつつも、禅や密教の伝法を採り入れ、家柄には関係なく人々はもともと誰でも仏になれるという独自の教えを唱えました。最澄の死後、清和天皇から伝教大師(でんぎょうだいし)という名前を贈られました。

延暦寺というお寺の名前は最澄の死後に名付けられましたが、これは「延暦」年間に建てられたお寺であるところから名付けられました。延暦寺は平安京の鬼門の方角にあたる北東に位置しているので、都を護る「王城鎮護(おうじょうちんご)」の寺院とされています。現在では世界文化遺産になっています。

延暦寺では、後に鎌倉時代になってから登場する鎌倉仏教の開祖たち(一遍を除く)も仏教を学んでいます。

空海 – 真言宗を高野山金剛峯寺で開く

西暦804年(延暦23年)に、宮中に仕えていた空海(くうかい)遣唐使(けんとうし)として唐に派遣されました。最澄とは違う船に乗っていたそうです。空海は唐で密教(みっきょう)を集中的に学びました。密教は秘密の教えと書きますね。経典を読んだりするのではなく、仏様の本当の教えは体得しないと分からないから修行をとても大切にします。

帰国後、空海は真言宗(しんごんしゅう)を開きます。そして、現在の和歌山県にある高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)というお寺を作りました。また、第52代の嵯峨天皇にその才華が認められ、都に教王護国寺(きょうおうごこくじ)を与えられました。東寺(とうじ)という名前の方が有名だと思います。2つの寺院はともに世界文化遺産にもなっていますよ。

高野山金剛峯寺
教王護国寺(東寺)

空海は土木事業や学校の開設などにも尽力しました。空海の没後、第60代の醍醐(だいご)天皇から弘法大師(こうぼうだいし)という名前が贈られました。

空海はとても字が上手でした。嵯峨天皇や橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに、三筆(さんぴつ)と呼ばれたりします。

弘法も筆の誤り
弘法筆を選ばず

ということわざを聞かれたことがあると思います。

「弘法」というのは弘法大師、つまり空海のことだと言われています。

 

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