【中学歴史】白紙に戻す遣唐使 – 学問の神様 菅原道真の提案

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今回は、日本が遣唐使を停止する結論に至ったその理由に迫ってみたいと思います。

平安時代の全体の流れが怪しい人は、以下のコンテンツを見てください。

平安時代の流れをわかりやすく解説しています

さて、遣唐使の停止について高校入試対策として押さえてほしい知識は、

西暦894年菅原道真(すがわらのみちざね)の建議によって遣唐使が停止された!

この1点だけです。あとは理由も!時間に余裕がない人は、一番最後の部分の「遣唐使の停止」の部分だけを読んでもらえれば大丈夫です。

まほろば社会科研究室のコンテンツでは遣唐使のハナシをまとめて載せていなかったのと中国(チャイナ)史にあまり触れていなかったので、ココに書いてみました。中国(チャイナ)史については、あんまり言葉が難しくならないように、歴史用語は極力排除して書いてみました。ストーリーとして軽く流してもらえるとありがたいです。

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奈良時代の遣唐使と唐の動向

奈良時代の遣唐使の様子

日本は西暦663年に白村江の戦いで中国(チャイナ)の王朝であった唐と新羅の連合軍と戦い、敗れました。その後しばらく唐との国交はなくなりましたが、大宝律令が制定された翌年の西暦702年(大宝2年)に遣唐使が復活しました。再開した遣唐使(第8回遣唐使)には、後に「万葉集」で「貧窮問答歌」を詠んだ山上憶良がいました。

奈良時代には多くの日本人が唐に渡り、様々なものを吸収してきました。その最たるものが天平年間に栄えた天平文化です。唐は広大な領土を支配していました。シルクロードを通じて西アジアの国々との交易も盛んでした。それが日本に伝わってきたのです(くわしくは天平文化の解説をご覧ください)。

遣唐使で唐に渡った日本人の中には唐の皇帝に仕える者もいました。後に日本に帰国して橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の時に活躍した吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)という僧、逆に日本に帰国できずに唐で客死した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)などがいました。

さて、阿倍仲麻呂が帰国しようとしていたのと同じ時期に、日本に向かおうとしていた唐の僧がいました。その人の名前は鑑真(がんじん)です。鑑真は日本来日に5回失敗していたのです。6回目にしてようやく日本に渡ることができました。

このように見てみると、奈良時代において、日本人は危険をおかしながらも唐の優れた文化を積極的にとり入れていったのです。

唐の動向

唐は「武韋の禍(ぶいのか)」と呼ばれる政治的混乱を収めた玄宗(げんそう)が第6代皇帝に就きました。玄宗の頃に唐の政治は再び安定したと言われ、「開元の治(かいげんのち)」と言いました。しかし、唐も日本の律令体制と同様の問題が起こっていました。重税のために農民が田んぼから逃げ出すことが多発していました。そうすると税金が取れません。また兵役に就く人もいなくなる一方で領土が大きいので兵士不足にもなっていたのです。そこで、兵役(府兵制)はやめて募兵制を採用しました。兵士になりたい人を募集しましょう!ってことです。そして、国境沿いにいた司令官(節度使という)に徴税権を認めて税を取れるようにしました。だから、節度使の力が強くなるのは言うまでもありません。

当初、玄宗は政治に熱心に取り組んでいたのですが、晩年になると、楊貴妃(ようきひ)という美女を溺愛(できあい)しました。男は美女に弱いんです(笑)。こういった状況に嫌気がさした節度使だった安禄山(あんろくざん)が、西暦755年に「安史(あんし)の乱」という反乱を起こしました。唐の周辺に住んでいた遊牧民族のウイグル人の力を得て西暦763年に鎮圧され、安禄山は敗れました。ウイグル人の力を得なければ唐は反乱を鎮圧できなかったわけなので、国力が弱くなったことを意味します。力を付けた節度使が、藩鎮(はんちん)といって、半分独立国のようなものができはじめます。唐は王朝として続いてはいたものの、その勢いは衰えていました。

唐の第12代皇帝の徳宗(とくそう)の時代に、人に対して課税を行うのではなく、土地に対して課税を行う税制に改革をしました。しかし、徴税権を握った節度使の力は強く、税収をうまくあげることができませんでした。

日本はこの頃、平安時代を迎えます。

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平安時代の遣唐使と唐の動向

平安時代の遣唐使

西暦794年(延暦13年)に桓武天皇により都が平安京に遷されました(平安時代前期の頃の政治の様子はこちら)。

唐の勢いは衰えていましたが、日本はまだ唐のよいところを採り入れようと、命がけの遣唐使の派遣を行っていました。

西暦804年(延暦23年)に遣唐使が派遣されました。有名な最澄(さいちょう)空海(くうかい)などが唐に渡ります(平安時代初期の仏教について)。日本に帰国後、新しい仏教の教えを確立しました。

西暦838年(承和5年)に、事実上の最後の遣唐使が派遣されました。最澄の弟子の円仁(えんにん)という僧が唐に派遣されました。

唐の動向

さて、唐の動向です。中国(チャイナ)は節度使が作ったいくつもの藩鎮(はんちん)がしのぎを削っていて、混乱の状態です。

唐王朝は皇帝よりも役人が力を付けていました。彼らは塩の専売制を導入します。塩税(えんぜい)で財政再建をしようと考えたのです。唐王朝の役人たちは塩に高い税率をかけます。塩は生活必需品。民衆は困ってしまいます。こういう時に現れるのが密売人。高い税率のかかった塩なんて買いません。唐王朝は当然取り締まります。密売人だった黄巣(こうそう)たちが民衆の支持を受けて反乱を起こします。西暦875年から884年まで続いた「黄巣(こうそう)の乱」です。結局、黄巣の乱は密売人の一派から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう)によって鎮圧されました。寝返ったのは唐が朱全忠に対して大きな商業都市を管轄する節度使に任命することを約束したから。実際に反乱が鎮圧されると、朱全忠は節度使になりました。そして力を付けていきました。

遣唐使の停止

日本でこういった唐の混乱を見ていたのが菅原道真(すがわらのみちざね)でした。

菅原道真は、西暦894年(寛平6年)に第59代の宇多天皇に対して遣唐使の停止を進言しました。

白紙(894)に戻す遣唐使

という古典的な年号の語呂合わせもあります。年号もしっかりと覚えておきましょう。

ここまでものすごく長く遣唐使についてのエピソードを語ってきたので、理由は何となく分かると思います。みなさんが菅原道真であれば宇多天皇に対してどのように建議しますか?

史料によると、菅原道真が述べた理由は次の2つです。

  1. 唐が衰退しているので、学ぶべきモノはあまりなくなりました。
  2. 航海が危険すぎます。

いずれもこれまで散々お話ししたとおりです。これまでは、命をかけてでも唐の優れたところを吸収してきました。それぐらいの価値があったからです。でもこのように唐が戦乱で衰退していたら、命がけで行って学ぶべきものなんてありません。あと、遣唐使にはばくだいなカネがかかります

こういった背景で遣唐使の停止は正式に決定されました。

理由は高校入試でも狙われますから、理由までちゃんと覚えてください!

この政策決定は、日本では国風文化が栄える原因ともなりました。

国風文化についてわかりやすく

唐の滅亡

菅原道真の建議によって遣唐使は停止されましたが、唐は西暦907年に先ほど出てきた朱全忠によって滅ぼされました(朱全忠の反乱)。皇帝を殺害し、役人たちをたくさん殺したのです。

朱全忠は後梁(こうりょう)を建国しましたが、まもなく滅亡。五代十国時代という統一王朝のない時代が続きます。西暦979年に北宋(ほくそう)が中国(チャイナ)を統一しました。

朝鮮半島も新羅が滅び、西暦936年に高麗(こうらい)という国が朝鮮半島を統一しました。

 

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