【中学歴史】平安時代前期 – 桓武天皇の政治を中心に

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今回は、平安時代の最初の頃の政治について取り上げたいと思います。

奈良時代の後期になると、貴族や寺院の勢力が強くなりすぎて、本来目指そうとしていた律令制が崩れ始めていました。

この情勢を重く見た第50代の桓武(かんむ)天皇は、山背国(やましろのくに)に長岡京(ながおかきょう)の造営を始めました。西暦784年(延暦3年)のできごとです。しかし、工事責任者だった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されたりして、10年余りで都を再び遷(うつ)すことを決意されました。(奈良時代の政治の流れについてはこちらを参照

西暦794年(延暦13年)に平安京(へいあんきょう)に都を遷しました。この時に活躍したのが、道鏡という僧によって皇統断絶が起こりかねない状況の中でそれを防いだ和気清麻呂(わけのきよまろ)でした(奈良時代の政治の流れについてはこちらを参照)。

平安京は山背国に置かれたわけですが、山背国とは奈良の背後(北)にある山の国ということで山背国と呼ばれていました。しかし、天皇のお住まいも遷されるので、山城国(やましろのくに)と改められました。

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桓武天皇の政治

桓武天皇の政治を以下の2点についてまとめてみます。

  1. 律令政治の立て直し
  2. 地方の立て直し

以下、くわしくみていきます。

律令政治の立て直し

奈良時代に律令を制定することで中央集権的な国づくりを目指したはずでしたが、墾田永年私財法の制定によって私有地を認めることになってしまい、公地公民の原則は崩れてしまいました。財力のある貴族や寺院は、重税によって逃れてきた農民などを雇って荘園(しょうえん)という土地を持つようになっていたのです(奈良時代の公地公民制の揺らぎについての復習)。

そのような中で、桓武天皇は農民の負担を和らげるような政策を行います。中学生の皆さんは細かいところまでは覚えなくてもよいです(奈良時代の農民の税負担の復習)。

  1. 農民の兵役の義務の廃止(九州地方など特定の地域を除く)。代わって郡司の子弟による新しい軍隊を作る(健児(こんでい)制)。これは平安京遷都前の西暦792年(延暦11年)のハナシ。
  2. 雑徭(ぞうよう)の負担軽減(60日から30日へ)
  3. 班田制の改正(6年に1回から12年に1回へ)

また、国司は中央の有力貴族が就任することが多かったのですが、国司の交代がスムーズに行われないなど不正が行われることもありました。そこで、勘解由使(かげゆし)という官職を置きました。後任の国司が前任の国司の不正がないことを証明する解由状(げゆじょう)という書面があったのですが、その書面を審査するのが勘解由使でした。

東北地方&九州地方の平定

東北地方にはまだ朝廷に対して反抗的な態度をとる勢力が存在していました。

奈良時代に、朝廷は日本海側については秋田まで勢力を伸ばしていました。一方で、太平洋側は多賀城(現在の宮城県)まで勢力を伸ばしていて、ちょっとだけ平定が遅れていました。

桓武天皇は中央集権的な国づくりを行うために、朝廷に反抗的な勢力を平定しようとしました。彼らを蝦夷(えみし)と言います。桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命します。坂上田村麻呂は蝦夷の首長のアテルイを降伏させました。アテルイは戦いによって領民が疲弊することを恐れていたからです。坂上田村麻呂はアテルイを平安京に連れて行きました。坂上田村麻呂は武勇にあふれ領民思いのアテルイを許すように朝廷に伝えました。アテルイに東北地方を治めさせた方がよいと考えたからです。しかしその願いはむなしく、アテルイは殺されてしまいました。西暦802年(延暦21年)のできごとです。

また、鹿児島県の大隅(おおすみ)国と薩摩(さつま)国を律令体制に取り込むことに成功しました。

桓武天皇は、東北地方を平定し九州地方の南部まで律令制を敷くことに成功したのです。

徳政相論

こういった政策を行っている中で都の造成は続いていました。東北地方の遠征などを行っていると、朝廷の出費は膨大なものとなっていました。

そこで、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が「都の造成」と「蝦夷討伐の事業」をやめた方がよいのではないかと桓武天皇に提案しました。桓武天皇はこれを聞き入れて、これらを一旦中止することにしました。

嵯峨天皇がやったこと

桓武天皇の後、第51代の平城(へいぜい)天皇を経て第52代の嵯峨(さが)天皇が即位されました。

嵯峨天皇の御代には一旦中止していた蝦夷の平定を再開しました。西暦811年(弘仁2年)に征夷大将軍だった文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)によって平定は終わりました。

嵯峨天皇の御代でも律令国家体制を守ろうとした政策が行われました。嵯峨天皇にはたくさんの御子がいらっしゃったため、臣籍降下(しんせきこうか)を行いました。臣籍降下というのは皇族がその身分を離れ、姓(かばね)を与えられて臣下となることを言います。嵯峨天皇の時代に臣籍降下が行われた有名な事例としては、源氏(げんじ)がいます。

また、律令政治をうまく進めるために、律令をまとめ直した「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」や律令の解説書である「令義解(りょうのぎげ)」や「令集解(りょうのしゅうげ)」を編さんしました。

第52代の嵯峨天皇、第53代の淳和(じゅんな)天皇、第54代の仁明(にんみょう)天皇の御代は政治的にも安定していましたが、それ以降、再び藤原氏が勢力を伸ばしてくるようになりました。

【平安時代中期】摂関政治とは何か?についてわかりやすく解説してみました。

 

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