今回の記事を読むと、以下のことが分かるようになります。
- モンゴル帝国がどのように誕生したのか?
- モンゴル帝国がどのように世界に拡散していったのか?
日本では、鎌倉幕府が成立してから、源頼朝を中心とした政治を行っていたものの、源氏が途絶え、代わって北条氏が中心となった御家人による連合政権が誕生しました。
その頃、中国(チャイナ)大陸においては北部からモンゴル系の国家が南下してきている時代でした。一方の宋は南部の臨安に逃れ、南宋という王朝が存在していました。日本との正式な国交はありませんでしたが、私的な交流は続き、主に僧が南宋にわたって、日本には浄土教や禅宗を学ぶために留学していました。
中国(チャイナ)よりもさらに内陸部にいたのはモンゴル系民族でした。13世紀になると、彼らが勢力を拡げます。それがやがて日本にもやってきます。これが元寇です。
今回は、日本を攻めてきたモンゴル帝国が拡大していった歴史を学んでいきたいと思います。
モンゴル帝国の誕生
チンギス=ハンの時代
モンゴル系契丹族の国である遼は、ツングース系女真族の金によって西方に追われました。遼が去ったモンゴル高原では遊牧騎馬民族同士の争いが激しくなりました。
西暦1206年にモンゴル部族の長であったテムジンが部族長会議(クリルタイ)で草原の君主(ハン)に選ばれました。テムジンはチンギス=ハンと名乗りました。チンギス=ハンはモンゴル帝国を建国しました。
チンギス=ハンは、西暦1208年にトルコ系遊牧民のナイマンを滅ぼし、西暦1220年にはイスラム系のホラズム=シャー朝に遠征、西暦1227年にはチベット系タングート族の国である西夏に遠征を行い、滅ぼしました。チンギス=ハンはその途中に没しました。
オゴタイ=ハンの時代
チンギス=ハンの跡を引き継いだのは三男のオゴタイ=ハンでした。オゴタイ=ハンは、西暦1234年には勢いのあった金を滅ぼしました。これによって、淮河以北の中国(チャイナ)の領土を併合することに成功しました。オゴタイ=ハンはカラコルムに都を置きました。モンゴル系民族は遊牧民なので君主(ハン)がいるところが都のようなものでしたが、都を定位置に置くことで行政の集権化を図ろうとしました。
オゴタイ=ハンの時代にはさらに遠征を進めました。ヨーロッパ遠征です。オゴタイ=ハンの甥にあたるバトゥを任命し、南ロシアのキエフ公国を滅ぼし、ハンガリーとポーランドを荒廃させた上で、神聖ローマ帝国にまで迫りました。西暦1241年にドイツ・ポーランドの連合国軍を打ち破りました(ワールシュタットの戦い)。連戦連勝のモンゴル軍でしたが、オゴタイ=ハンが死亡した知らせがバトゥにもたらされると遠征は中止されました。しかし、バトゥはモンゴルの都であるカラコルムに戻ることはなく、南ロシアのキプチャク草原に自分の国(ハン)を作ってしまいます。キプチャク=ハン国と言います。ロシアはここから約200年間、モンゴル人の支配下に置かれることになります。
モンケ=ハンの時代
チンギス=ハンから見ると孫にあたる第4代のモンケ=ハンは2人の弟に遠征させます。
弟のうちの1人のフビライにはチベットや雲南に遠征させました。そして、南宋を目指します。南宋は水田や湿地が多いため、モンゴル人が得意としている騎馬戦法が得意とする場所ではありません。そこで、チベットの人々を利用したり、さらなる人員増強のために朝鮮半島にあった高麗や我が国日本を服属させ、彼らを従えて海軍の力でも南宋を攻めようとしました。フビライは西暦1254年に大理国を滅ぼしました。さらに、高麗は江華島などで抵抗を続けてきたものの、西暦1259年に高麗はついにモンゴル帝国に降伏します(高麗が滅亡したわけではない)。実質的に、我が国の目と鼻の先にモンゴル帝国が出現した形になります。
もう1人の弟のフラグには西アジア方面に遠征させます。現在のイラクの首都でもあるバグダッドを攻略。イスラム系国家のアッバース朝の征服に成功します(西暦1258年)。その後、フラグのウルス(国)を建国します。これをイル=ハン国と呼びます。
フビライ=ハンの時代
モンケ=ハンの弟であるフビライがハンの位に就くと、ハンの地位を巡って同族から反発が起こり、結果としてフビライの影響力は東アジアに限定されるようになります。
フビライは、オゴタイが作ったカラコルムを捨て、紆余曲折を経た上で大都(現在の北京)に都を遷しました。そして、中国(チャイナ)風の名前である元(大元ウルス)と国号を改めました。
このように、朝鮮半島からヨーロッパ、アラビア半島に接するぐらいの広大な勢力を誇っているモンゴル帝国がいよいよ日本に押し寄せてきます。それが元寇です。
元寇の様子は以下のコンテンツを参照して下さい。
モンゴル帝国の歴史的意義
最後に、モンゴル帝国の歴史的な意義についてお話ししておきましょう。
モンゴル帝国は、結果として東アジアとヨーロッパを結びつけた国です。これは世界史史上初です。陸路だけでなく海路も東アジアとヨーロッパをつなげました。宋の時代に発明されたヨーロッパ社会で大きな影響を与えたとされる火薬や木版印刷などがモンゴル帝国の時代にヨーロッパに伝えられました。
イタリアのベネツィア出身のマルコ=ポーロはフビライ=ハンのもとに仕え、のちに帰国した際にマルコ=ポーロの証言を元に書かれた「世界の記述」という書物には日本のことも紹介されています。日本では「東方見聞録」という名前で知られていますね。これを読んだのがクリストファー=コロンブス。彼は西暦1492年にインドを目指して海路を使ってスペインから旅発ちます。
まさに、モンゴル帝国の拡大は世界史の始まりとも言えるのです。