【中学歴史】飛鳥時代(2) – 大化の改新をわかりやすく

飛鳥時代 中学歴史
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今回は、飛鳥時代の第2区分の前半として、中大兄皇子(後の天智天皇)の政治改革を取り上げたいと思います。中大兄皇子の時代は、天皇中心の中央集権的な政治の目標設定が行われた時代でした。いわゆる「大化の改新」と呼ばれる政治改革です。

飛鳥時代第1区分の聖徳太子の時代の政治の復習はこちら

聖徳太子の時代の晩期の中国(チャイナ)の状況を簡単に説明した後、国内の様子を説明したいと思います。

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中国(チャイナ)の様子 – 唐の建国

聖徳太子の時代の政治のところでも説明したとおり、西暦589年に建国された隋(ずい)という王朝は、高句麗(こうくり)などへの度重なる遠征や大規模な運河建設などを行いました。しかし、この影響で国内が大きく疲弊し、農民の反乱を招いてしまいました。

これが原因で、西暦618年に隋王朝は滅亡し、代わって唐(とう)が李淵(りえん)によって建国されました。都は長安(ちょうあん)と言います。

唐の2代目皇帝である李世民[太宗]の頃に「律令体制」を確立しました。3代目の高宗の頃には最大領土を獲得します。太宗や高宗の時代の対朝鮮半島政策(特に「高句麗への遠征」)は、朝鮮半島の国々の思惑とリンクし、それが日本にも影響を与えます

日本は遣唐使(けんとうし)を送り、唐のよいところを積極的に取り入れようとしました。西暦630年に第1次遣唐使として、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣されました。日本からの留学生は、隋が滅亡して唐が建国された様子を見ながら、唐が採り入れた律令制度などを学びました。唐の留学生たちが学んだことは、「大化の改新」以降の新しい国づくりに活かされていることになるのです。

聖徳太子の薨去後の政治情勢

聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇が政治の表舞台から去ると、蘇我馬子の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)が力を付けます。蘇我氏は第34代の舒明(じょめい)天皇に妃を送りこみ、外戚関係を築きました。

蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿(そがのいるか)も、聖徳太子の長男である山背大兄王(やましろのおおえのおう)をはじめとする聖徳太子の一族を一人残らず死に追いやったりして、思うがままの政治を行っていました。

中国(チャイナ)では唐王朝の勢いが増していました。唐は隋と同じように朝鮮半島を再び攻撃し始めました。日本としても、隣国の話なので緊張が走ります。天皇を頂点として国が1つにまとまらなければ唐に対抗できないと考える機運が高まっていったのです。

そこで、専横を行っていた蘇我氏を倒さねばならないと考えていた人たちが現れたのです。

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乙巳の変(西暦645年)

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)は蘇我氏を倒す計画を立てました。2人は蹴鞠(けまり)の会を通じて仲良くなっていきました。蹴鞠とは鹿の皮で作った球を蹴り合う競技です。サッカーの用語で言えば、複数人でボールを打ち上げるリフティングといったところでしょうか。

西暦645年6月に、朝廷では高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)と百済(くだら)の3国の朝貢(ちょうこう)の儀式が予定されていました。時の天皇の第35代の皇極(こうぎょく)天皇だけでなく、蘇我入鹿も参列することになっていました。この儀式には剣を持って参加できません。そこを中大兄皇子と中臣鎌足は狙って、蘇我入鹿の暗殺を試みました。

結果どうなったのかというと、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿の暗殺に成功、翌日には息子の蘇我蝦夷も討ち果たしました。

この事件を乙巳(いっし)の変と言います。乙巳とは六十干支による暦の表記方法ですね

乙巳の変をきっかけに大化の改新という政治改革が行われるのです。

大化の改新

史上初のご存命中のご譲位 – 皇極天皇から孝徳天皇へ

乙巳の変の翌日、皇極天皇は天皇の位を譲位をしました。これまでの天皇は崩御されるまで皇位継承が行われることはありませんでした。ここで初めてご存命のまま譲位を果たされることになりました。これまでは、皇位は天皇が崩御された後に豪族たちの合議によって決められていました。しかし、ご存命のまま譲位をなされるということは、天皇自らが後継者を決められることになります。その点で、大きな事件だったと言えます。

こうして第36代の孝徳(こうとく)天皇が即位しました。

日本最初の元号「大化」が定められる

西暦645年の孝徳天皇の時代に、「大化(たいか)」と呼ばれる元号が定められました。この元号は日本で使われた最初の元号でした。

中国(チャイナ)の漢王朝の武帝の時代に「建元(けんげん)」という元号が使われたことがきっかけに元号が使われるようになりました。西暦でいえば紀元前140年のことです。中国(チャイナ)の皇帝は時を支配していると言われていました。したがって、元号の制定は皇帝の大きな仕事だったのです。

ここに来て日本が独自の元号を制定するということは、中国(チャイナ)の冊封(さくほう)からの独立の意思表示をすることを意味しているのです。このように日本は独立国として国を発展させていくことを内外に誓ったのです。

現在の「令和」という元号まで、ほぼずっと元号は日本で使われてきました。元号は248号使われています。日本の伝統は大切にしていきたいモノですね。

最後に、試験対策としては、西暦645年という年号はとても大切です。

蒸しご飯 作って祝う 大化の改新

という有名な語呂合わせがありますが、これで覚えてもOKです。有名どころの年号はしっかりと記憶しておきたいものです。

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改新の詔

西暦646年に、孝徳天皇は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を全部で4箇条出しました。乙巳の変の中心人物になった中大兄皇子も詔の起草に大きく絡んでいることは言うまでもありません。

さて内容を簡単に見ていきます。

これらの項目は「このような方向性で国の運営を行いたい」ということを言っていて、必ずしも全部をこの時期に実現できているわけではないことに注意が必要です。

なお、試験として重要なのは1番目の「公地公民」です。

公地公民

すべての土とすべての国は国((おおやけ))のものにしますということです。

これを公地公民と言います。

これまではどうだったか覚えていますか?

大和政権は有力豪族たちの連合政権でしたね。豪族たちには、部曲(かきべ)という私有民がいて田荘(たどころ)という私有地を持っていました。つまり私地私民だったのです。しかし、これを公地公民にしようということです。

行政区画や行政組織を整える

これまでの有力豪族の連合政権でなく、中央集権的な国づくりのために、しっかりとした組織を作りたいなぁと詔では述べています。

班田収受法

戸籍を作って国民を管理し、これに基づいて土地を国から国民に貸し出す制度を作りたいと述べています。これを班田収受(はんでんしゅうじゅ)と言います。

新しい税制度を作りたい

新しい税制度を整えたいと述べています。

朝鮮半島情勢が日本にも影響

「改新の詔」で、日本の政治が目指すべき方向性を定めていた頃、大陸では大規模な戦乱になろうとしていました。

そしてそれが日本にも大きな影響をもたらすことになるのです。

それが白村江の戦いなのです。

朝鮮情勢を踏まえながら白村江の戦いについてわかりやすく解説

 

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