大化の改新とは? – 天皇中心の政治vs実力者による政治の結末

大化の改新をわかりやすく解説します 飛鳥時代
大化の改新 - 実力者による統治?天皇を中心とした統治?
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飛鳥時代、日本の政治を支えていた第33代の推古天皇聖徳太子、そして蘇我馬子が歴史の舞台から退いた後、蘇我氏の影響力はさらに強まりました。特に、蘇我蝦夷そがのえみしとその息子、蘇我入鹿そがのいるかが台頭すると、その勢力は極めて強大なものとなりました。彼らは朝廷で強い権力を振るい、時には天皇と並び立つかのような振る舞いを見せることさえありました。

この状況に危機感を抱いた人たちがいました。彼らは「このままでは日本の未来が危うい」と考え、蘇我氏の専横を許せば国家の安定が損なわれると深く憂慮していました。

こうした不安と危機感の中、天皇を中心とする強固な国家を再び築くべきだという声が高まり、新たなリーダーが立ち上がります。その名は、中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたり――彼らの決断と行動が、歴史的な大改革「大化の改新」へとつながっていくのです。

今回は、「(蘇我氏などの)実力者による政治にすべきか?」「天皇中心の政治にすべきか?」という政策選択の発問を設けました。歴史の事実を淡々と解説するものではなく、当時の政治家の立場で一緒に国の舵取り方法を考えることで、結果として有権者としてのトレーニングを図ろうという大胆なコンテンツも含めています。一緒に考えましょう。

なお、このコンテンツは、「日本が好きになる歴史全授業」の齋藤武夫先生の手法をふんだんに取り入れています。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

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聖徳太子の薨去後の政治情勢

聖徳太子しょうとくたいしは、冠位十二階や十七条の憲法の制定などを通して、国内の調和を重んじる統一国家の建設を目指しました。その成果として、政治制度や外交関係の基盤が整えられ、日本は確実に進化を遂げていました。しかし、聖徳太子が薨御こうぎょ(=皇族がお亡くなりになること)した後、その理想は次第に遠のきます。蘇我氏が再び力を強め、政治の実権を握るようになり、さらには聖徳太子の一族までも排除される事態に陥ったのです。

皇位については、第33代の推古天皇の次は第34代の舒明じょめい天皇が継ぐことになりました。蘇我氏と血縁関係を結びました。舒明天皇の御代に第1回遣唐使犬上御田鍬いぬかみのみたすきが派遣されています(西暦630年)。

皇族と蘇我氏の関係 - 系図でまとめてみた
皇族と蘇我氏の関係 – 系図でまとめてみた

舒明天皇に続いて、第35代の皇極こうぎょく天皇が即位あそばしました。推古天皇に続くお2人目の女帝です。女帝ですが、男系を遡っていくと第30代の敏達びだつ天皇にたどり着くため、やはり男系です(皇位継承については日本国憲法第2条で詳しく解説しています)。

歴代女性天皇一覧
歴代女性天皇一覧

さて、次に蘇我氏についても見ておきましょう。蘇我馬子が死去した後は蘇我蝦夷そがのえみしが跡をついていました。また、その息子である蘇我入鹿そがのいるかは、唐から帰国した留学生たちが教える塾で最も優秀と評され、朝廷でも実力を発揮していましたが、その行動は次第に天皇の権威を脅かすものとなっていきました。蘇我氏は、天皇の宮殿に匹敵する屋敷を「みかど」と呼ばせ、また天皇専用であるはずの「みささぎ」という言葉を自らの古墳に用いさせるなど、天皇と同等の存在であることを誇示しました。

一方で、蘇我氏の専横を食い止めようとする動きもありました。多くの豪族たちは、聖徳太子の子である山背大兄王やましろのおおえのおうに期待を寄せ、彼を天皇として蘇我氏の勢力を抑えることを望みました。しかし、これに危機感を抱いた蘇我蝦夷と入鹿の親子は、ついに武力行使に踏み切ります。西暦643年、山背大兄王の屋敷の斑鳩宮を攻撃し、追い詰めました。

『日本書紀』によれば、逃亡を勧める家臣たちを前に山背大兄王はこう語ったとされています。

「私が戦えば、多くの国民の命を奪うことになる。私一人の死で国がまとまるなら、それが男子の道ではないか。」

こうして山背大兄王は自ら命を絶ち、一族もその後を追いました。この瞬間、聖徳太子の血統は途絶えました。

一方、中国[チャイナ]大陸では唐王朝の勢いが増していました。西暦644年、第2代の皇帝であった太宗たいそうの時代に、隋と同じように朝鮮半島にあった高句麗を再び攻撃し始めました。日本としても、隣国の話なので緊張が走ります。日本としては1つにまとまらねばならない状況に置かれました。

政策選択:誰のもとで日本を統一した方がいいのか?

日本はまたもやピンチの状況です。難局を乗り越えなければなりません。

ここで読者の皆さんには政策選択をしてもらうことにしましょう。皆さんは当時の大和朝廷のリーダーの立場になってみてください。皆さんはどちらの方がいいと思いますか?またその理由はなぜでしょうか?

A: その時その時の実力者(蘇我氏など)が天皇になって政治を進める国の方がよいと思う。
B: 皇室(天皇家)の血筋を持つ方が天皇になる方がいいと思う。

皆さんは必ずAかBかのいずれかの政策選択をしなければなりません。まずは自分の意志で選択してみます。周りの人の意見はこうだから自分も…ではいけません。これが国の政治に参加するということです。自分の意見を紙に書いたりデバイスに打ち込んだりしてみましょう。自分の意見を目にみえる形で表現した方が自分の考えに整理がついたりします。それでは5分時間を取りたいと思います。

どうぞ!

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書けましたか?

ここからは、とある高校の日本史[国史]の授業を覗きながら議論の様子を見ていくことにしましょう。

先生:「それでは、Aを選んだ人から意見を聞きましょう。山田君、どうぞ。」

山田太郎:「僕はAを選びました。理由は、蘇我入鹿のような実力者がリーダーになった方が効率的に政治が進むからです。特に、隣国の唐がどんどん強大化している時期に、内部で権力争いをしている場合じゃないと思います。最も能力のある人がリーダーとなって迅速に決定を下す方が、国の発展にとって良いと思うんです。歴史を見ても、その時々で実力者がリーダーになる方が成功するケースが多いと思います。」

佐藤花子:「でも、山田君。それだと天皇の存在が軽んじられてしまうんじゃない?天皇って、単に政治のリーダーというだけじゃなくて、国全体をまとめる象徴でもあるよね。その象徴を失うと、国全体のまとまりが失われてしまうと思うの。」

山田太郎:「確かに、象徴としての天皇は重要かもしれない。でも中国を見てみると、実力者が王朝を次々と変えていく中で新しい文化や技術が生まれて発展しているよね。だから短期間で強力なリーダーが交代する方が、国の成長にはプラスになると思うんだ。」

鈴木健一:「でもそのたびに戦争が起きてるよね?その戦争でどれだけの人が苦しんだかも考える必要があると思う。日本だと、戦乱を避けて安定を保つ方が大事だと思うな。その安定があるからこそ、文化や社会が長く続いてきたんじゃないかな?」

先生:「良い議論が始まりましたね。それでは、Bを選んだ人の意見を聞きましょう。佐藤さん、どうぞ。」

佐藤花子:「私はBを選びました。天皇が中心にいることで、日本は長期的な安定を維持できると思います。蘇我氏のような実力者が次々と権力を握るようになると、内乱が絶えなくなって国全体が弱体化してしまう可能性が高いです。それに、天皇を中心とした体制があれば、どんなに強力な実力者が現れても国の基本構造が揺らぐことはないと思うんです。」

田中翔太:「でも、花子さん。もし天皇が政治の実務をしっかりこなせなかったらどうするの?優秀なリーダーがいなければ、結局国は停滞してしまうんじゃないかな。実力者がリーダーになった方が、実際の政策はスムーズに進むと思うよ。」

佐藤花子:「そのために天皇の周りには優秀な臣下がいるんじゃない?天皇を中心に据えながらも、政治を補佐する人たちが実務を担えばいいと思います。日本はそういう形で長く続いてきた国だと思うの。」

山田太郎:「でも結局、その臣下が実際には権力を握るなら、最初から実力者がトップに立つ方が効率的なんじゃない?」

鈴木健一:「山田君、それだとまた別の問題が出てくると思うよ。実力者同士が権力を争って戦乱になる可能性が高いんじゃないかな?それで国民が苦しむことになったら、本末転倒だと思う。」

山田太郎:「確かに戦争が起きるリスクはあるよね。でも、戦争がなかったとしても、国が停滞してしまうのも問題だと思うんだ。特に、外部の圧力が強い時には、新しいリーダーが必要だと思うよ。」

佐藤花子:「でも、日本の強みは安定性にあるんじゃないかな。天皇を中心に据えることで、文化や社会が途切れずに続いてきた。それが日本の発展を支えてきたと思うの。」

先生:「ここで思い出してほしいのは、以前学んだ仏教公伝の話です。当時、日本は新しい仏教という思想を取り入れつつも、これまで大切にしてきた日本の神々も同時に尊重しましたよね。新しいものを受け入れながらも、自国の伝統を守るという選択がありました。この点をどう考えますか?」

田中翔太:「あの話、面白かったですよね。新しいものを受け入れつつも、日本らしさを失わないという姿勢が日本の独自性を支えてきたと思います。それが天皇中心の体制にもつながっているんじゃないでしょうか?」

佐藤花子:「そうですね。仏教を取り入れた時も、日本の神々を捨てることはありませんでした。それと同じように、天皇を中心にしながら実務を有能な人に任せるバランスが重要だと思います。」

山田太郎:「でも唐は、王朝が変わるたびに新しい文化や技術が発展してきたよね。それが中国の強みだったと思うんだ。日本ももう少し大胆に変革を起こすべきだったんじゃないかな?」

鈴木健一:「でもその裏でどれだけの戦乱があったかも考えないとね。唐は確かに発展してきたけど、そのたびに戦争が起きて、多くの人が苦しんだんじゃないかな。日本は戦乱を避けつつ、唐の良いところを取り入れて自国の発展に生かした。それが日本らしい発展の仕方だったと思うよ。」

先生:「皆さん、議論が深まりましたね。では、最終的にもう一度、自分の意見をまとめてみましょう。田中君、どうぞ。」

田中翔太:「僕は、日本が天皇を中心としながらも、実務を実力者に任せる体制を築いたのはとてもバランスが良いと思います。それが日本の長期的な安定を支えてきたんじゃないかなと思います。」

佐藤花子:「私もそう思います。日本は唐の影響を受けつつ、自国の独自性を守るという、両方の良いところを取り入れる道を選びましたよね。」

先生:「皆さん、本当に素晴らしい議論でしたね。今日の議論を通じて、当時の日本がどのような選択を迫られていたのかを深く考えることができました。それでは、実際の歴史で日本が選んだ道について見ていきましょう。当時の日本はB、つまり天皇を中心とした体制を選びました。この選択によって、国内の安定を確保しつつ、唐や仏教など外部の文化や技術を柔軟に取り入れることができました。」

山田太郎:「なるほど、確かに安定を重視したことが日本の強みになったんですね。でも、やっぱり僕は、唐のように大胆な変革をもっと積極的に進めるべきだったんじゃないかという思いも捨てきれません。時代によっては、リスクを取ってでも大きな変化を求めるべき場面もあったんじゃないかと思います。」

先生:「山田君の視点もとても重要ですね。実際、歴史の中で日本は変革を恐れずに挑戦する場面もありました。大化の改新はその一例ですし、明治維新のように、時には大胆な変革によって国全体を新しい方向に導いたこともあります。日本は安定を基盤としながらも、必要な時にはリーダーシップを発揮して大きな改革を行ってきたのです。」

佐藤花子:「でもその変革も、天皇を中心とした体制があるからこそ可能だったんですよね?天皇が国民をまとめる象徴として存在していたから、改革の方向性がぶれなかったというのは大きいと思います。」

田中翔太:「確かに、天皇という象徴があることで、どんな変革があっても日本という国の一体感は保たれてきましたよね。それがないと、変革のたびに国そのものが分裂してしまう可能性もあったと思います。」

鈴木健一:「それに加えて、日本は外来の文化や技術をそのまま受け入れるだけじゃなくて、自分たちの風土や価値観に合わせてアレンジするのが上手ですよね。仏教公伝の時もそうでした。」

先生:「その通りです。日本の歴史を振り返ると、外来の影響をただ受け入れるのではなく、自国に合った形で発展させるという特徴があります。これは日本の「適応力」とも言えます。この適応力が、日本の長期的な安定と発展を支えてきたのです。」

山田太郎:「そうですね。議論を通して、天皇を中心とした体制の価値も理解できました。でも僕としては、未来の日本でも状況によっては大胆なリーダーシップが必要になる時があると思います。そのバランスをどう取るかが課題になりそうですね。」

先生:「素晴らしいまとめですね、山田君。まさにその通りで、歴史の中で私たちは安定と変革のバランスを取りながら進化してきました。今回の議論で学んだことを踏まえ、これからの日本がどのように進むべきかを考えるヒントにしてほしいと思います。」

ではここからは具体的にどのように日本が天皇中心の国へと舵を切っていったのかを見ていくことにしましょう。

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乙巳の変(西暦645年)

ここからの主人公は中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりです。

西暦626年、中大兄皇子は第34代の舒明じょめい天皇と第35代の皇極こうぎょく天皇の間に生まれた。皇子は幼い頃から並外れた知恵と決断力を持ち、青年に育ちました。皇子は天皇家の未来を担う者として、聖徳太子の築いた「和をもって貴しとなす」という理念を胸に秘めていました。一方、西暦614年に生まれた中臣鎌足は、日本の神々を祀る家系に生まれ、早くからその才覚を周囲に認められていました。

二人が初めて出会ったのは、雅やかな蹴鞠けまりの会でのことです。蹴鞠とは鹿の皮で作った球を蹴り合う競技です。サッカーの用語で言えば、複数人でボールを打ち上げるリフティングといったところでしょうか。蹴鞠に興じる中で、共通の思いを抱く者同士として互いに惹かれ、すぐに親友となりました。彼らは同じ塾で学びながら、蘇我入鹿そがのいるかの専横に対抗する策を練るようになります。

当時の朝廷では、蘇我氏が絶大な権力を握っていました。蘇我入鹿は父・蝦夷えみしと共に、天皇の権威を脅かす存在となっていました。自らを「みかど」と呼ばせ、天皇と同格であるかのように振る舞う入鹿の姿に、人々は不安を募らせていました。

「このままでは、日本の未来は危うい」

中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏の力を削ぎ、天皇を中心とした国家を取り戻すための計画を立てます。彼らは夜遅くまで密談を重ね、ついに行動を起こす日を定めました。

西暦645年(皇極天皇4年)6月12日、舞台は皇極天皇が政務を執る飛鳥板蓋宮いたぶきのみやの大極殿でした。この日は、朝鮮半島の三国――高句麗、百済、新羅――からの使者が到着する重要な日。厳かな儀式の中で、歴史を変える計画が静かに進行していました。

計画では、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろが上表文を読み上げている間に、隠れていた中大兄皇子と中臣鎌足、そして刺客である佐伯子麻呂さえきのこまろ葛城稚犬養網田かつらぎのわかいぬかいのあみたが蘇我入鹿を討つ手筈になっていました。上表文というのは、天皇や偉い人に対して意見や報告や要望を正式に伝えるための文書のことを言います。ここでは、朝鮮の三国からの貢物(進貢品)に関する内容を皇極天皇に伝えるものでした。

しかし、緊張が極限に達する中で、刺客たちは動けません。倉山田石川麻呂が上表文を読み始めても、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は震える手足を抑えられず、蘇我入鹿を前に一歩も踏み出せなかったのです。

その間に、蘇我入鹿は蘇我倉山田石川麻呂の態度の異変に気付き、鋭い目で周囲を見回しました。計画が露見するか――その瞬間、中大兄皇子が静寂を破ります。

中大兄皇子は剣を抜き、力強く立ち上がりました。鋭い声が大極殿に響き渡ります。

「蘇我入鹿は天皇を滅ぼし、自らが天皇になろうとしています!これ以上許してはならない!」

その言葉と共に、皇子は剣を振り下ろしました。一閃、入鹿の胸に深々と刃が突き刺さります。驚愕する入鹿の姿を見て、遅れて佐伯子麻呂さえきのこまろ葛城稚犬養網田かつらぎのわかいぬかいのあみたも動き出し、計画通りに襲撃は成功。蘇我入鹿はその場で命を落としました。

蘇我入鹿を討った後、中大兄皇子はすぐに飛鳥寺に向かい軍勢を集めました。一方、蘇我蝦夷は邸宅に立て籠もります。ここで中大兄皇子は、蘇我入鹿の遺体を蝦夷の邸宅に送り届け、蝦夷に圧力をかけます。

息子の無残な姿と、中大兄皇子の軍勢が迫る様子を目の当たりにした蘇我蝦夷は、自らの運命を悟りました。

「息子よ、すべてはおまえがやりすぎたからだ……」

その言葉を最後に、蝦夷は邸宅に火を放ち、静かに命を絶ちました。立ち上る炎と煙は、蘇我本宗家の終焉を象徴するものでした。

この事件を乙巳いっしの変と言います。乙巳とは六十干支による暦の表記方法ですね

乙巳の変をきっかけに大化の改新という政治改革が行われるのです。

大化の改新

史上初のご存命中のご譲位 – 皇極天皇から孝徳天皇へ

乙巳の変の翌日、第35代の皇極天皇は天皇の位を譲位をしました。

これまでの天皇は崩御されるまで皇位継承が行われることはありませんでした。ここで初めてご存命のまま譲位を果たされることになりました。これまでは、皇位は天皇が崩御された後に豪族たちの合議によって決められていました。しかし、ご存命のまま譲位をなされるということは、天皇自らが後継者を決められることになります。その点で、大きな事件だったと言えます。

こうして第36代の孝徳こうとく天皇が即位しました。

日本最初の元号「大化」が定められる

西暦645年の第36代の孝徳天皇の時代に、「大化たいか」と呼ばれる元号が定められました。この元号は日本で使われた最初の元号でした。

中国[チャイナ]の漢王朝の武帝の時代に「建元けんげん」という元号が使われたことがきっかけに元号が使われるようになりました。西暦でいえば紀元前140年のことです。中国の皇帝は時を支配していると言われていました。したがって、元号の制定は皇帝の大きな仕事だったのです。

ここに来て日本が独自の元号を制定するということは、中国(チャイナ)の冊封からの独立の意思表示をすることを意味しているのです。このように日本は独立国として国を発展させていくことを内外に誓ったのです。

元号は、この後「白雉」「朱鳥」と使われましたが、連続的に使われませんでした。しかし、西暦701年に制定された「大宝」からは現在の「令和」まで連続して使われています。

元号は「大化」から「令和」までいくつの元号が使われていたか知っていますか?

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元号はこれまで248号使われています。

「元号」については別添のコンテンツでくわしく解説しました。

日本で使われている元号は日本人によって守られるものだと思います。グローバル社会だからこそ、世界の中での多様な文化の1つとして「元号」を守っていきたいものですね。

大化の改新を支えた主要なメンバー

さて、大化の改新を支えた主要なメンバーたちとその役割について詳しく見ていきましょう。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)――改革の指導者

改新の中心人物であった中大兄皇子は、当時皇太子の地位にありました。後に天智天皇となる彼は、抜群の知性と決断力を持つ若きリーダーでした。天皇を中心とした統一国家を築くという理想を掲げ、改革を主導しました。中大兄皇子はこの時、改革の最高責任者として、国家の未来を切り開くために全力を尽くします。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)――皇子を支えた親友

中臣鎌足は、中大兄皇子の親友であり、改新の立案者の一人です。彼は内臣うちのおみという役職に任命されました。内臣は、現在でいう首相のような役割を担い、中大兄皇子とともに改革を進める中心人物でした。後に藤原姓を与えられた鎌足は、日本の政治の新たな方向性を形作る上で欠かせない存在でした。

高向玄理(たかむこのくろまろ)と旻(みん)――中国の知識を活かす

高向玄理と旻は、遣隋使として中国(唐)に留学し、最先端の政治制度を学んだ経験を持つ知識人です。この2人は前の遣隋使のコンテンツで登場したことを覚えていますか?聖徳太子の時代の政策が身を結んでいることが分かりますね!

この二人は、唐の中央集権体制を日本に取り入れるための指南役として活躍しました。国博士くにのはかせという役職に任命され、日本における法律や行政の整備に大きく貢献しました。特に、地方行政や税制の改革において、唐の制度を参考にした施策が実現されました。

阿倍内麻呂(あべのうちまろ)――国家の中枢を担う左大臣

阿倍内麻呂は、改新において重要な政治家の一人です。彼は左大臣に任命され、天皇や皇太子に次ぐ高い地位で国家運営の実務を担いました。

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)――転機をもたらした右大臣

蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我氏出身でありながら蘇我入鹿や蘇我蝦夷に反対し、中大兄皇子と手を組みました。彼は右大臣に任命され、左大臣である阿倍内麻呂とともに国家の重要な役割を担いました。

改新の詔

西暦646年に、孝徳天皇は「改新の詔」を全部で4箇条出しました。乙巳の変の中心人物になった中大兄皇子も詔の起草に大きく絡んでいることは言うまでもありません。

さて内容を簡単に見ていきます。

第1条 公地公民

それまでの日本では、天皇や豪族たちがそれぞれの土地や人民を治めていました。豪族たちは自分の土地(田荘たどころ)や支配する人々(部曲かきべ)を持ち、独自に管理していました。この体制では、地方ごとにバラバラな支配が行われており、国としての統一性に欠けていました。

改新の詔の第1条は、このような豪族たちの「私的な所有」を廃止し、土地も人民も「天皇のもの」として一元管理する「公地公民」を目指すものでした。これは、天皇を中心に国を一つにまとめるための重要な基盤となります。

ただし、実際にはすぐに豪族たちの土地・人民統治の体制が完全になくなったわけではありません。この考え方が本格的に実現するのはさらに後の時代でした。

第2条 行政区画や行政組織を整える

第2条では、新しい首都(難波長柄豊碕宮)を設置し、国全体を管理するための地方行政組織を整備することが示されました。難波長柄豊碕宮への遷都は孝徳天皇の御代に行われました。飛鳥(奈良県)の地から難波(現在の大阪)へ遷都することを決定したのは、以下のような理由がありました。

第1に、難波が交通の要所であったという点です。難波は瀬戸内海を通じて中国や朝鮮半島と結ばれる国際的な港であり、国内でも淀川や大和川を通じて畿内(奈良や京都などの地域)や北陸、東海地方とつながる交通の拠点でした。このような地理的な条件から、外交と国内物流の中心地として最適でした。

第2に、難波は外交や軍事の拠点となりうることです。当時は唐や新羅など外国からの使節が難波津なにわづに到着し、そこから大和(奈良)に進む手順になっていました。難波の地は「日本が後進国ではない」ことを示すための重要な舞台であり、新しい政治体制を内外に示す象徴的な場所として選ばれました。

第3に、政治刷新の意図がありました。長年、蘇我氏が権力を握っていた飛鳥を離れることで、政権の刷新を国内外に示し、新しい時代を切り開く決意を表す目的がありました。

さて、変わったのは天皇がお出ましになる宮殿だけではありません。それまでの地方の支配は、豪族がそれぞれの領地を支配する形に頼っていましたが、地方を朝廷が直接管理する仕組みが導入しようとしていました。

具体的には、次のような改革が進められました。

  • 地方を「畿内」「国」「郡」に分ける(当時の郡は「評」と呼ばれた)。
  • 国司や郡司(評督など)を朝廷が任命し、地方行政を担当させる。
  • 中央と地方を結ぶ「駅伝制えきでんせい」を整備し、効率的な交通や連絡網を構築する。

これにより、地方の豪族が自立して政治を行う体制から、天皇が全体を一元管理する体制へと変わり始めたのです。

第3条 班田収受法

第3条は、土地と人民を正確に把握するための仕組みを定めています。戸籍や計帳(税の記録)、班田収授法(一定年齢に達した人民に土地を配分し、その土地から税を徴収する制度)について述べられています。

まず、戸籍を作成することで、全国の人民を把握し、人口を正確に管理する仕組みを目指しました。これにより、誰がどこに住み、どれだけの土地を与えられているかを記録することが可能になります。また、計帳(税の記録簿)を導入することで、税の徴収も効率化されました。ただし、実際に全国的な戸籍が完成するのは、大化の改新から20年以上経過した西暦670年の庚午年籍こうごねんじゃくが最初です。当時はまだ構想段階に留まっていました。

さらに、班田収授法はんでんしゅうじゅのほうという土地制度が導入されます。この制度では、一定年齢に達した人に土地を与え、その土地から税を納めさせる仕組みを構築します。これにより、土地の利用が公平になり、農業生産の拡大と安定した税収が期待されました。

第4条 新しい税制度を作りたい

第4条では、税制の改革について示されています。それまでは豪族がそれぞれ異なる基準で税を徴収していましたが、改新の詔では田地の面積に応じて公平に税を納める仕組みを目指しました。

この税制は、後の律令制で実施される調の基礎となるもので、田租(たそ)と呼ばれる土地税がその原型です。こうした改革により、国全体の税収が増え、大規模な公共事業や軍事体制の整備が可能になりました。

まとめ

改新の詔は、日本を唐に倣った中央集権国家へと変革する第一歩でした。

それまで地方ごとに分かれていた支配体制を見直し、天皇を中心とする統一国家の基盤を築くことを目指したのです。この理念はすぐに完全実現したわけではありませんが、後の律令制度の基盤となり、現代の日本の形を形作る重要な一歩となりました。

孝徳天皇が崩御したのち、皇極天皇が再び即位します。同じ人物が再び天皇になることを重祚ちょうそと言います。わが国史上初の重祚の事例です。第37代の斉明天皇の誕生です。斉明天皇は、難波から再び都を飛鳥に移し、これから述べる蝦夷や粛慎みしはせの使節を招き入れるための都を整えることになります。

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朝鮮半島情勢が日本にも影響

「大化の改新」は、国内の情勢の影響だけでなく、中国大陸に唐という新しい王朝が誕生したことも大きかったのだろうと思います。西暦644年に唐の2代目の皇帝であった太宗が朝鮮半島の高句麗を攻略するために遠征を始め、再び東アジアに緊張が走ります。最初の唐による高句麗遠征は失敗に終わりますが、唐の野心はそのままです。

そのような中で、大化の改新後に、我が国は日本海側を中心とした守りを固めようとしました。理由は唐による高句麗遠征で北東アジア方面への侵攻に対応する意図があったと言われています。そして、まだ朝廷の統治に服していなかった蝦夷と呼ばれる人たちへの対応を行います。

第36代の孝徳天皇は、越後(新潟県)に西暦647年に渟足柵、翌年に磐舟柵を設けました。柵というのは政治的または軍事的な拠点になり、ここに北陸地方や関東地方から人を移動させて警備にあたらせました。

西暦658年、第37代の斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫あべのひらふは、秋田や津軽方面に蝦夷と粛慎みしはせに対する遠征を行いました。蝦夷の中には、日本政府に協力的な集団と対立的な集団が混在していました。阿倍比羅夫の遠征は、対立的な蝦夷を制圧すると同時に、協力的な蝦夷との関係を強化することを目的としていました。この遠征により、日本政府は東北地方への影響力を一層拡大し、北方地域の安定化を図ろうとしました。

このように日本海側を中心に朝廷の力をつけるための施策をとっていた頃、朝鮮半島で大きな事件が起こり、それが我が国にも大きな影響を及ぼすことになります。

それが白村江の戦いなのです。

次回はこの部分を詳しく見ていくことにしましょう。

朝鮮情勢を踏まえながら白村江の戦いについてわかりやすく解説

 

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