この記事を読むと、以下のような内容が理解できます。
- 元寇がどのようなきっかけで起こったのか?
- 元王朝に立ち向かう鎌倉時代の武士たちの様子について
- 元寇が終わった後の日本と元の影響について
我が国では源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が開かれて以来、天皇を頂点としつつも武家による統治が行われるようになりました。時代が下ってくると、御家人の1つであり源頼朝の妻の実家である北条氏が力を付け始めました。
その頃、中国(チャイナ)大陸においては南部では南宋が統治を行っていましたが、北部ではモンゴル系の金が勢力を誇っていました。やがて、中国(チャイナ)のさらに内陸に位置するモンゴル帝国が大帝国を築き、中国(チャイナ)へ南下し始めます。
紆余曲折を経て、モンゴル帝国は国号を元と改め、東アジアでの覇権の野望を具体化していきます。そして、日本もそのターゲットになりました。
我が国は元に2度にわたって攻められましたが、結果として撃退に成功しました。この事件を元寇と言います。
今回も対立を押さえるフレームワークを使って、元寇の様子を見たいと思います。
文永の役
元寇(1回目: 文永の役)はなぜ起こったの?(理由)
元が我が国を攻めようとした理由
中国(チャイナ)大陸においてはモンゴル帝国がその勢力を拡げ、全盛期にはヨーロッパからアラビア半島そして我が国に接するところまで勢力を広げました。
しかし、モンゴル帝国の5代目皇帝にあたるフビライ=ハンの時代になると、皇帝の地位を巡って同族から反発が起こり、結果としてフビライの影響力は東アジアに限定されるようになります。フビライは東アジアでの勢力拡大を狙います。大きな目標となるのが南宋の討伐です。
モンゴル人はもともとは遊牧民族なので騎馬戦が得意です。しかし、南宋は水田や湿地帯です。こういった土地では騎馬戦法は強さを発揮しません。馬が湿地に足を取られてしまうからです。そこで、かつての金の領土の中にいた漢人の歩兵部隊を南宋攻めに投入しました。
モンゴル帝国は東西で南宋を挟み撃ちにしようとしました。
西からは陸路でチベットの国々を征服して南宋と対峙しようとしました。
一方、東からは海路で南宋を攻めようとしました。元にとって、我が国は海路から南宋へ向かう際の拠点となる場所になります。既に元に服属していた朝鮮半島にあった高麗は、フビライ=ハンに対して日本も服属させることを勧めました。これを受けて、フビライ=ハンは国書を日本に送りました。
我が国の反応
フビライ=ハンは我が国に対して以下のような内容の国書を送ってきました。国書は西暦1268年に送られたものなので、まだ元と国号を変更する前のお話です。
天のいつくしみを受ける大蒙古(モンゴル帝国)皇帝が、日本の王に書く。
「蒙古国牒状」より
私の考えでは、おまえのような小さな国の王というものは、国境を接している大きな国と友好につとめるものだ。
私は、天の命令で、世界を支配している。
だから、まわりの小さな国はみな、私の力をおそれ、尊敬して、したってくれている。いまや中国も朝鮮も、私の支配下にある。
昔から、考え深い者は、世界を一つの家にしたいと願うものである。おまえの国も、他の小さな国と同じように、私の国に使いをよこして、仲良くしようと努力すべきではないか。わざわざ軍隊を送っておまえたちを征服するようなことは、ほんとうはやりたくはない。日本の王よ。このことをよく考えて、返事をよこすがよい。
至元3年(西暦1268 年) 8月 大蒙古国皇帝フビライ
これを受け取ったのは、鎌倉幕府の8代執権であった北条時宗でした。要するに日本に対して服属を要求してきたのです。相手は大帝国です。日本は正式な国交はなかったものの、南宋とは私的なお付き合いがあり、モンゴル帝国による支配の様子を聞いていたと思われます。当時の北条時宗は18歳。今で言えば高校3年生とか大学1年生ぐらいです。北条時宗はどのような判断をしたのでしょうか?皆さんならどうしますか?
北条時宗はこの国書を無視します。モンゴル帝国は何度も使いを日本に送ってきます。この間の西暦1271年にフビライ=ハンの版図にある中国(チャイナ)の地域を元という国号に改めます。都も大都(現在の北京)に遷都しました。
さて、こういった国書を何度ももらっていた北条時宗は考えたのです。
「フビライからの手紙は一見友好の意志を示しているように見えるが、実際は日本を支配したいのだな。時間稼ぎをして備えよう!」
北条時宗は戦う決心をしていたのです。そのために備えをします。どのような備えをしたのかというと、まず鎌倉幕府の中にいた元との内通者を厳しく取り締まりました。北条氏の中にもそのような人がいました。彼らを政権から遠ざけることで、戦うことについての意志統一をしたのです。また、朝廷も幕府と同じような歩調をとりました。
さらに、幕府は西日本の御家人たちに防備を命じました。
南宋の要塞都市、襄陽の陥落
日本が元による侵略に備えている一方で、元は南宋を攻めます。南宋には北の燓城、南の襄陽という要塞都市がありました。元は特に襄陽の攻略に5年を費やしていましたが、耐え抜いた南宋の守備隊長がついに元に投降しました。襄陽がここで陥落します(西暦1273年)。
元は南宋攻略の目処が立ったため、いよいよ矛先が日本に向いてきました。
元寇(1回目: 文永の役)はいつ起こったの?(年号)
西暦1274年(文永11年)に、元と高麗の連合軍が朝鮮半島から攻めてきました。途中、対馬や壱岐に上陸し、民家に火を付けたり、多くの民間人を殺戮した後に博多湾にやってきました。
元寇(1回目: 文永の役)はどことどこが戦ったのか?(当事者)
日本は元と高麗の連合軍が軍船900隻、33000人の兵士と勇敢に戦いました。
元寇(1回目: 文永の役)の結末はどうなった?(結果)
まずは元・高麗の連合軍の1000の兵が現在の長崎県の対馬に上陸しました。日本側は宗助国という武将がわずか80騎で勇敢に戦い、玉砕しました。
次に、元・高麗の連合軍は現在の長崎県にある壱岐に上陸しました。日本側は平景隆率いる100騎の兵で勇敢に迎え撃ちましたが、玉砕しました。
元・高麗の連合軍は、対馬や壱岐などで乱暴狼藉をはたらき、多くの民間人が犠牲になりました。
元・高麗の連合軍は、西暦1274年(文永11年)10月20日に博多に上陸しました。日本側は勇敢に戦いましたが、敵の火薬(てつはう)の攻撃に苦戦します。日本側は防衛ラインを博多湾から大宰府まで下げます。具体的には、飛鳥時代の白村江の戦いの後に作られた水城まで防衛ラインを下げました。
日没をむかえた時、元・高麗連合軍はこれ以上の内陸攻めは危ないと判断し、夜のうちに兵の撤退を決めました。翌朝、博多湾はもぬけのからと化していました。戦闘は1日で終了しました。
元・高麗の連合軍の派兵の目的がもともとデモンストレーションだったとも言われていますが、ともあれ日本全体が征服されることはありませんでした。元・高麗連合軍は帰路に海上で暴風雨に遭い、大きな被害を受けました。
この戦いのことを文永の役と呼びます。
元寇(1回目: 文永の役)の後にどうなった?(影響)
鎌倉幕府は、再度元・高麗連合軍が日本に攻めてくることは分かっていました。そこで、朝廷と協力して以下のような施策を打ち出しました。
- 元・高麗軍が上陸するのは博多湾しかないため、石塁を築かせて上陸を防ぐ。
- 異国警固番役の強化を行う。
- 朝廷の許可をもらい、御家人ではない武士も警護に投入される。
- 九州地方から北陸地方の守護を北条氏一門に入れ替える。
- 亀山上皇(第90代の天皇)が神仏に祈りを捧げた。今でも福岡県にある筥崎宮には、亀山上皇の御宸筆(天皇や上皇が自ら筆をとって書いたもののこと)であると言われている「敵状降伏」の文字が残っている(筥崎宮ウェブサイト)。
- いつ元・高麗軍が攻めてくるかを把握するために情報収集を行った。
このようにして、再度の元の来襲に備えたのでした。
弘安の役
元寇(2回目: 弘安の役)はなぜ起こったの?(理由)
文永の役が終わってから数年経った西暦1279年に、元は南宋を滅ぼしました。南宋は元の領土になりました。
旧南宋の将軍たちは、フビライ=ハンに対して再度の日本遠征を提案します。元は再び国書を日本に持って行きました。鎌倉幕府は元からの使者を大宰府で斬りました。
今回は、元・高麗軍(東路軍)の4万人に加え、旧南宋軍の水軍(江南軍)10万人を加えた兵を投入して再び日本に襲いかかりました。
元寇(2回目: 弘安の役)はいつ起こったの?(年号)
西暦1281年(弘安4年)のできごとです。
元寇(2回目: 弘安の役)はどことどこが戦ったのか?(当事者)
日本は、元・高麗連合軍(東路軍)に加えて、旧南宋軍(江南軍)と勇敢に戦いました。東路軍は対馬と壱岐を経て博多湾にやってきました。江南軍は長崎県の平戸にやってきました。
迎え撃つ日本側は、今回は12万人の兵を集めました。
元寇(2回目: 弘安の役)の結末はどうなった?(結果)
元・高麗の連合軍(東路軍)は博多への上陸を試みますが、博多湾に石塁を築いているため上陸ができません。武士たちも必死で抵抗をしました。やがて東路軍は博多上陸を断念し、志賀島へ引き返しました。しかしここも日本側が攻撃してそれが成功します。東路軍は壱岐まで兵を引き上げ、江南軍の到着を待ちました。
江南軍が長崎県の平戸に到着し、東路軍も平戸へ移動します。ところがここで薩摩の御家人たちが追撃をします。現在の長崎県の伊万里浜にある鷹島というところに移動した元・高麗軍は日本側の総攻撃を受けて動けなくなりました。ここで暴風雨が襲います。これが後の世に神風と呼ばれるようになります。元・高麗軍の船隊は壊滅的なダメージを受け、逃走を始めました。
「日本は神国で神風が吹いたので元に勝てた」というハナシとして理解をしている人が多いですが、実際は武士たちの活躍によって元・高麗軍の上陸を阻んでいたのです。
日本は大勝利を飾りました!
元寇(2回目: 弘安の役)の後にどうなった?(影響)
日本側の影響と敵国の影響をそれぞれ見ていきましょう。
日本側の影響
まずは日本側の影響を見てみましょう。箇条書きでまとめてみました。
- 北条氏の力がさらに強まりました。元の来襲に備えて、御家人ではない武士を動員したり、北条氏一門の力を結集したからです。その結果、北条氏に仕える家臣が御家人を凌ぐほどの力を付けました。
- 御家人が困窮します。封建制度が維持できるのは土地があるからです(御恩と奉公に基づく封建制度についての解説はこちら)。御家人によって元・高麗軍を追っ払うことは成功しましたが、新しい土地が手に入りません。新しい土地が手に入るから幕府は恩賞を出すことができるのですが、幕府にはそれができません。
- 西国の警戒態勢(異国警固番役)は強化されっぱなしです。元がいつ来襲するとも限らないからです。警備には当然費用が発生します。費用は警備している武士が出しています。ですから、ここでも武士の困窮の問題が起こります。
弘安の役の3年後、元寇を仕切った8代執権の北条時宗は34歳の若さで亡くなりました。18歳の時に元(当時はモンゴル帝国)の国書が届いてからというもの、元から日本を守るために必死で戦い抜いて、一生を終えた執権でした。
元の影響
日本に2回軍隊を送っていずれも日本を征服することができなかった元王朝はその後どうなったのかを見ていきましょう。
日本に敗れてフビライ=ハンの威信は傷つき、元王朝の中で内紛が起き始めました。その威信を回復しようと、今度は東南アジアのジャワ遠征を行いましたが、これも失敗に終わりました。さらに、元は3度目の日本派兵計画を立てましたが、西暦1294年にフビライ=ハンが死去したため、計画は未遂に終わりました。
フビライ=ハンの死後、モンゴル支配に抵抗を示した漢民族の国が誕生します。それが明王朝です。モンゴル人たちは北方へと退いていきました。
軍歌「元寇」を楽しもう!
最後に、軍歌「元寇」の歌詞とメロディを鑑賞してみましょう。この歌は、日本が日清戦争開戦前の西暦1892年(明治25年)に永井建子によって作詞・作曲されました。先ほど亀山上皇による「敵状降伏」という御宸筆が筥崎宮に奉納されたというハナシを述べましたが、亀山上皇の銅像が筥崎宮に建立されることを記念して作られた曲です。
大正天皇もこの歌を大変愛され、とてもリズムやメロディも親しみの持てる曲です。弘安の役の様子を歌詞にしています。
四百余州を挙 十万余騎の敵
軍歌「元寇」1番
国難此処に見る 弘安四年夏の頃
何んぞ怖れん我れに 鎌倉男児在り
正義武断の名 一喝して世に示す
多々良浜辺の戎夷 其は何蒙古勢
軍歌「元寇」2番
傲慢無礼者 倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛えし我が腕
此処ぞ国の為 日本刀を試しみん
心筑紫の海に 浪押し分けてゆく
軍歌「元寇」3番
益荒男猛夫の身 仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂潔し
天は怒りて海は 逆巻く大浪に
軍歌「元寇」4番
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人
何時しか雲晴れて 玄界灘 月清し
メロディは下のYoutubeです。とても心地よいので聴いてみて下さい。
このように鎌倉武士が活躍したのですが、これが鎌倉幕府の衰退へと繋がっていきます。くわしくは下記のコンテンツをご覧ください。