「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」(終戦の玉音放送)をわかりやすく解説します

大東亜戦争終結の詔書 大東亜戦争関連の詔勅
大東亞戰爭終結ノ詔書
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執筆:加代 昌広

本稿は、連合国が出してきた「ポツダム宣言」を受け入れ、大東亜戦争だいとうあせんそうを終結させることを日本国民に対して渙発かんぱつした「大東亜戦争終結に関する詔書」(終戦の玉音放送)を1文ずつわかりやすく解説していきたいと思います。

昭和16年(西暦1941年)12月8日に、日本は米英に対して宣戦布告し、日本陸軍はマレー半島に上陸してイギリス軍を撃破してシンガポールを目指して進軍を開始し、日本海軍はアメリカのハワイの真珠湾を攻撃しました。これが「大東亜戦争だいとうあせんそう」の始まりです。

なぜ日本がアメリカ及びイギリスに対して戦争を始めたのかについては、昭和天皇が詔勅しょうちょく渙発かんぱつされており、その内容を伺うことができます。内容はだいたい以下の通りです。くわしい内容については、「開戦のご詔勅」に掲載されています。

  1. 米英との対戦は支那事変しなじへん(教科書では「日中戦争」となっている)が原因である(中国(支那共和国)問題の解決)。
  2. 米英は蒋介石しょうかいせき政権を支援することで東アジアを意図的に混乱させて覇権を握ろうとしている。
  3. 日本との平和的交渉に際して日本側が到底受け入れられない条件を提示するなどして日本を弱体化しようとした。
  4. 我が国は東アジアの安定を図ろうと努力をしてきたが、日本の存立も危うい状況となった。
  5. こういった事情で、苦渋の決断を迫られて武力による解決をせざるを得なくなった。
  6. 自存自衛のため、日本は米英との戦争を決意するに至った。
大東亜戦争開戦の御詔勅をわかりやすく解説
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大東亜戦争の呼称について

ここで、「大東亜戦争」の定義を確認してみましょう。

昭和天皇が「開戦のご詔勅」を発布された後、昭和16年(西暦1941年)12月12日に東条英機とうじょうひでき内閣の閣議が開かれ、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」という閣議決定がなされました。

一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当リ戦地ト指定スルコトナシ
但シ帝国領土ニ在リテハ第二号ニ関スル個々ノ問題ニ付其他ノ状態ヲ考慮シ戦地並ニ取扱フモノトス

「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」昭和16年12月12日 閣議決定

本文中にある支那事変しなじへんとは昭和12年(西暦1937年)7月7日に勃発した盧溝橋事件ろこうきょうじけんにおいて始まったとされています。現在の歴史教科書には日中戦争と載っていますが、盧溝橋事件ろこうきょうじけんが勃発した当時は中国に対して宣戦布告をしていませんでした。あくまで偶発的な対中武力衝突であったと解釈されていました。また、パリ不戦条約により武力によって現状を変更することは認められていませんでした。

パリ不戦条約
第1条 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル

戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ不戦条約)

もしも武力衝突に「戦争」という呼称を使ってしまうと、国際世論を大きく刺激してしまう可能性がありました。そのために「戦争」ではなく「事変」という言葉を使ったとも言われています。さらに、日本は当時中国(「支那共和国」と呼ばれていました)と全面戦争を行う意志は持っていませんでした。あくまで局地的な武力衝突に過ぎないという意思表示を示したかったという解釈もされています。

したがって、我が国の立場では支那事変しなじへんと呼んでいました。

さて、閣議決定に話を戻すと、大東亜戦争という呼称が指す範囲は、前述した歴史的事実と重ねて解釈すると、昭和12年(西暦1937年)7月7日からであるということです(第1条)。

昭和17年(西暦1942年)2月に帝国議会において「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律」が承認され、「大東亜戦争」という呼称が正式に使われるようになりました。この法律の条文は1箇条しかなく、「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ爲シタル場合ヲ除クノ外各法律中「支那事變」ヲ「大東亞戰爭」ニ改ム」と規定があるのみです。

さて、教科書によく登場する呼称として、太平洋戦争というものがあります。これは大東亜戦争とイコールのものではありません。太平洋戦争は、昭和16年(西暦1941年)12月8日のハワイの真珠湾攻撃以降の対日戦について指す言葉です。

大東亜戦争が支那事変(現在の教科書でいう「日中戦争」)をも含むことと比較しておきましょう。

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大東亜戦争の戦局について

大東亜戦争の開戦の詔勅が渙発されると、日本海軍はアメリカ合衆国のハワイの真珠湾、日本陸軍はイギリス領のマレー半島に上陸しました。

大東亜戦争が始まった最初の半年間、日本は勝ち続けました。

マレー半島に上陸した日本陸軍は、開戦後70日で半島南端にあるシンガポールを占領しました。その頃、東南アジア諸国は欧米列強の植民地となっていました。つまり、東南アジアは白人によって支配されていたのです。しかし、同じ有色人種である日本軍が白人を倒してくれたので、日本軍は多くの人に歓迎されました。また、日本も白人からのアジアを解放するためこの戦争を続けるべきだという考え方がより強まりました。戦争を継続するためには東南アジアの資源が日本には必要でした。東南アジアでしか日本の戦争を支える資源が手に入らないからです。東南アジアの国々は日本の戦争に協力する人をリーダーにして、日本の戦争を支えました。

ところが、昭和17年(西暦1942年)6月のミッドウェー海戦で、日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗れたことをきっかけに劣勢になっていきます。日本には資源がないので、戦争が長期化すると日本は益々不利になっていきます。やがて学生が徴兵により出征していきました。これを学徒出陣と言います。彼らは家族や祖国を守るために勇敢に戦いました。

昭和19年(西暦1944年)7月にサイパンが陥落すると、アメリカはここを拠点とし、日本本土を空襲できる態勢を整えました。この年の終わりから爆撃機のB29による民間人の無差別爆撃が始まります。一方、日本はこの頃から飛行機や潜航艇せんこうていを使って敵艦に死を覚悟して体当たり攻撃を行う特別攻撃(特攻)が行われるようになりました。人々は敵から狙われやすい都会から田舎への疎開そかいを始めたり、配給制が導入されるなどして、生活は大きく制限されるようになりました。

昭和20年(西暦1945年)3月10日には東京大空襲により約10万人の犠牲者が出ました。3月末には沖縄が攻撃され始めました。日本軍は沖縄住民とともに戦いましたが、6月23日に日本軍が敗北して終結しました。他にも200余りの都市が空爆を受け、多くの人が犠牲になりました。

そのような中で、日本を攻撃していたアメリカとイギリスとソ連はドイツのポツダムという場所で会談を行い、「ポツダム宣言」が日本に対して出されました。日本に対して降伏を要求する文書です。なお、「ポツダム宣言」について解説したコンテンツは以下をご覧下さい。

ポツダム宣言が出された背景と全文について解説してみました

「ポツダム宣言」を突きつけられた日本は、受諾をめぐって大紛糾しました。受諾をめぐった議論を行っている間に、アメリカ合衆国によって広島と長崎に原子爆弾が落とされました。さらに日ソ中立条約を結んでいたはずのソ連に日本は攻められてしまいました。

時の総理大臣であった鈴木貫太郎は昭和天皇に聖断を求め、「ポツダム宣言」を受諾する旨を決定しました。

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今回学習する「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」は、昭和20年(西暦1945年)8月14日に発布されました。さらに、昭和20年(西暦1945年)8月15日にラジオ放送にて玉音ぎょくおんで全国民に伝えられました。玉音というのは天皇の肉声を指す言葉です。この時の放送は、一般的に玉音放送ぎょくおんほうそうと呼ばれます。厳密には玉音が発せられた放送は全部「玉音放送」と呼ぶのが道理ですが、一般的に玉音放送というと、この時のものを指すことが一般的です。天皇の玉音が流れたのは、当時でも2600年を超える我が国の歴史上で初めてのことです。それを決断された昭和天皇は、それだけ我が国が危機的な状況であったことを認識されていました。

それでは、ここから1文ごとにじっくりと見ていきましょう。

解説

現代語訳については、国語WORKSの松田雄一先生亀山神社の潮清史宮司の訳を参照いたしました。

この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

なお、内容をしっかりと理解しようと考えた場合、詔書をしっかりと奉読した方がよいです。松田雄一先生の素読動画が「チャンネル国語WORKS」でアップデートされているので、それを以下の通りご紹介したいと思います。

その1 – ポツダム宣言を受諾します

ちんふか世界せかい大勢たいせい帝國ていこく現狀げんじょうトニかんが非常ひじょうもっ時局じきょく收拾しゅうしゅうセムトほっここ忠良ちゅうりょうナルなんじ臣民しんみん

私(註:昭和天皇)は世界の情勢と大日本帝国の現状を考慮して、緊急の手段をもってこの状態を収めたいと思い、ここに忠誠心があって善良なるあなたがた臣民に告げます。

ちん帝國ていこく政府せいふヲシテべいえい四國しこくたい共同きょうどう宣言せんげん受諾じゅだくスルむね通吿つうこくセシメタリ

私(註:昭和天皇)は、帝国政府に、アメリカ、イギリス、中華民国及びソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)に対してポツダム宣言を受諾するように通告しました。

その2 – ポツダム宣言を受諾した理由

抑〻そもそも帝國ていこく臣民しんみん康寧こうねいはか萬邦ばんぽう共榮きょうえいたのしみともニスルハ皇祖こうそ皇宗こうそう遺範いはんニシテちん拳々けんけんカサルところ

そもそも、大日本帝国の臣民が平穏に安らかに暮らせるように心を傾け、世界の国々と共に栄えていく喜びを共にすることは神武天皇及び歴代の天皇が遺してくださった教えであり、私(註:昭和天皇)もいつもいつも心に留めているところです。

さきべいえい二國にこく宣戰せんせんセル所以ゆえんまたじつ帝國ていこく自存じそん東亞とうあ安定あんていトヲしょスルニ他國たこく主權しゅけんはい領土りょうどおかスカごとキハもとヨリちんこころざしニアラス

先に米英2国に対して宣戦したのも帝国の自衛東アジアの安定を願ったためであって(註: 米英両国に対する宣戦の詔書(大東亜戦争開戦の詔書)に記載)、他国の主権を排して他国の領土を侵略するようなことは、もとから私は考えてはおりません。

他国の主権を排して他国の領土を侵略するようなことは、もとから私は考えてはおりませんという部分は、ポツダム宣言第6項に書かれた文に対応するものであると解釈できます(ポツダム宣言第6項の解説はこちら)。

しかルニ交戰こうせんすで四歲しさいけみちん陸海りくかい將兵しょうへい勇戰ゆうせんちん百僚ひゃくりょう有司ゆうし勵精れいせいちん一億いちおく衆庻しゅうしょ奉公ほうこう各〻おのおの最善さいぜんつくセルニかかわラス戰局せんきょくかならスシモ好轉こうてんセス世界せかい大勢たいせいまたわれアラス

それなのに、大東亜戦争が始まってから既に4年が経ち、陸海軍の将兵は勇敢に戦い、公務員も精を出して仕事に励み、1億人の臣民もそれぞれが最善を尽くしたのにもかかわらず、戦局は好転せず、世界情勢もまた日本に不利な状況にあります。

加之しかのみならずてきあらた殘虐ざんぎゃくナル爆彈ばくだん使用しようシテしきり無辜むこ殺傷さっしょう慘害さんがいおよところしんはかルヘカラサルニいた

そればかりでなく、敵は新たな残虐な爆弾(原子爆弾)を使用してむやみに罪のない臣民を殺傷し、そのいたましい被害の及ぶ範囲ははかりしれないほど大きなものとなっています。

しかなお交戰こうせん繼續けいぞくセムカつい民族みんぞく滅亡めつぼう招來しょうらいスルノミナラスひい人類じんるい文明ぶんめいヲモ破却はきゃくスヘシ

しかも、なおこれ以上の交戦を継続すれば、我が日本民族の滅亡を招くのみならず、ひいては人類の文明をも破壊することになるでしょう。

かくごとクムハちんなにもっテカ億兆おくちょう赤子せきし皇祖こうそ皇宗こうそう神靈しんれいしゃセムヤ

そのようなことになれば、私(註:昭和天皇)は、何を以って1億人の我が子のような臣民を守り、さらに神武天皇以来の歴代天皇の御霊みたまに謝ることができましょうか。

ちん帝國ていこく政府せいふヲシテ共同きょうどう宣言せんげんおうセシムルニいたレル所以ゆえんナリ

これが、私(註:昭和天皇)が帝国政府に対してポツダム宣言の受諾に応じるように命じた理由です。

その3 – 友好国や帝国臣民へのねぎらいと昭和天皇の平和への願い

ちん帝國ていこくとも終始しゅうし東亞とうあ解放かいほう協力きょうりょくセルしょ盟邦めいほうたい遺憾いかんひょうセサルヲ

私(註:昭和天皇)は、大日本帝国とともにずっと東アジアの解放に協力してくれた諸国に対して申し訳ないという気持ちを表せざるを得ません。

帝國ていこく臣民しんみんニシテ戰陣せんじん職域しょくいきじゅん非命ひめいたおレタルものおよび遺族いぞくおもいいたセハ五內ごだいため

大日本帝国の臣民においても、戦地で命を失ったり職場で命を失ったり非業の死を遂げた者及びその遺族に思いを致せば、私(註: 昭和天皇)は身も心も引きちぎれそうな思いになります。

かつ戰傷せんしょう災禍さいかこうむ家業かぎょううしなヒタルもの厚生こうせいいたリテハちんふか軫念しんねんスルところナリ

そして、戦傷を負い、戦争の被害を受け、家業を失った者の生活に至っては、私(註: 昭和天皇)は深く心配するところであります。

おもフニ今後こんご帝國ていこくクヘキ苦難くなんもとヨリ尋常じんじょうニアラス

思うに、これからの大日本帝国が受けるであろう苦難は並大抵のものではありません。

なんじ臣民しんみん衷情ちゅうじょうちんこれ

私(註: 昭和天皇)はあなたがた臣民の心の内はとてもよく分かっています。

ここでの「臣民の心の内」とは、文脈から「戦争を継続したいという気持ち」だということが分かると思います。

しかレトモちんうんおもむところがたキヲしのがたキヲしのもっ萬世ばんせいため太平たいへいひらカムトほっ

けれども、私は時代やその状況に従いつつ、耐えがたいことに耐え、我慢ならないことにも我慢をして、未来のために平和な世の中が開かれてほしいと思っております。

その4 – ポツダム宣言を受諾した後に臣民に求めること

ちんここ國體こくたい護持ごじ忠良ちゅうりょうナルなんじ臣民しんみん赤誠せきせい信倚しんいつねなんじ臣民しんみんとも

私はここに天皇を中心としてまとまる国の姿を守ることができました。そして忠実にして善良なあなたがた臣民の真心を信頼しています。そして私は常にあなたがた臣民とともにあります

戦争に負けると、外国では国王が他国へ逃げていったりすることがあります(例えば、フランスにおけるヴァレンヌ逃亡事件など)が、天皇はずっと国民と共にあると言っています。とても慈悲深いお言葉だなと思います。

じょうげきスルところみだり事端じたんしげクシあるい同胞どうほう排擠はいせいたがい時局じきょくみだため大道だいどうあやま信義しんぎ世界せかいうしなフカごとキハちんもっとこれいまし

もし感情のおもむくままに事件を起こしたり、臣民同士がお互いに排斥したりして時局を混乱させ、正しい道を踏み外して世界から信用を失うようなことがあれば、私(註: 昭和天皇)はそれを最もいさめたいと思います。

よろシク擧國きょこく一家いっか子孫しそん相傳あいつたかた神州しんしゅう不滅ふめつしん任重にんおもクシテ道遠みちとおキヲおも總力そうりょく將來しょうらい建設けんせつかたむ道義どうぎあつクシそうかたクシちかっ國體こくたい精華せいか發揚はつよう世界せかい進運しんうんおくレサラムコトヲスヘシ

どうか、国を挙げて家族のように一致団結をし、我が国を子孫に伝え、神代から続く日本の不滅を信じ、これから責務は重く進む道は険しいとは思いますが、持てる力を国の将来の建設に傾けて、道義心を厚くして、決して揺るがない信念を持って、我が国のよいところを発揮して世界の流れから遅れをとらないようにしてほしいのです。

なんじ臣民しんみんちんたいセヨ

あなたがた臣民には私(註: 昭和天皇)の意図をよくよく理解して行動してもらいたいと思います。

原文

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ玆ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通吿セシメタリ

抑〻帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歲ヲ閱シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尙交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

內閣總理大臣 男爵 鈴木貫太郞
海 軍 大 臣 米內光政
司 法 大 臣 松阪廣政
陸 軍 大 臣 阿南惟幾
軍 需 大 臣 豐田貞次郞
厚 生 大 臣 岡田忠彥
國 務 大 臣 櫻井兵五郞
國 務 大 臣 左近司政三
國 務 大 臣 下村宏
大 藏 大 臣 廣瀨豐作
文 部 大 臣 太田耕造
農 商 大 臣 石黑忠篤
內 務 大 臣 安倍源基
外務大臣兼大東亞大臣 東鄕茂德
國 務 大 臣 安井藤治
運 輸 大 臣 小日山直登

現代語訳

(注)「詔書」は天皇の名において出されるものであるため、現代語訳にある「私」とは全て昭和天皇ご自身のことを指します。

—-

私は世界の情勢と大日本帝国の現状を考慮して、緊急の手段をもってこの状態を収めたいと思い、ここに忠誠心があって善良なるあなたがた臣民に告げます。私は、帝国政府に、アメリカ、イギリス、中華民国及びソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)に対してポツダム宣言を受諾するように通告しました。

そもそも、大日本帝国の臣民が平穏に安らかに暮らせるように心を傾け、世界の国々と共に栄えていく喜びを共にすることは神武天皇及び歴代の天皇が遺してくださった教えであり、私(註:昭和天皇)もいつもいつも心に留めているところです。先に米英2国に対して宣戦したのも大日本帝国の自衛東アジアの安定を願ったためであって他国の主権を排して他国の領土を侵略するようなことは、もとから私は考えてはおりません。それなのに、大東亜戦争が始まってから既に4年が経ち、陸海軍の将兵は勇敢に戦い、公務員も精を出して仕事に励み、1億人の臣民もそれぞれが最善を尽くしたのにもかかわらず、戦局は好転せず、世界情勢もまた日本に不利な状況にあります。そればかりでなく、敵は新たな残虐な爆弾(原子爆弾)を使用してむやみに罪のない臣民を殺傷し、そのいたましい被害の及ぶ範囲ははかりしれないほど大きなものとなっています。しかも、なおこれ以上の交戦を継続すれば、我が日本民族の滅亡を招くのみならず、ひいては人類の文明をも破壊することになるでしょう。そのようなことになれば、私は何を以って1億人の我が子のような臣民を守り、さらに神武天皇以来の歴代天皇の御霊に謝ることができましょうか。これが、私が帝国政府に対してポツダム宣言の受諾に応じるように命じた理由です。

私は、大日本帝国とともにずっと東アジアの解放に協力してくれた諸国に対して申し訳ないという気持ちを表せざるを得ません。大日本帝国の臣民においても、戦地で命を失ったり職場で命を失ったり非業の死を遂げた者及びその遺族に思いを致せば、私は身も心も引きちぎれそうな思いになります。そして、戦傷を負い、戦争の被害を受け、家業を失った者の生活に至っては、私は深く心配するところであります。思うに、これからの大日本帝国が受けるであろう苦難は並大抵のものではありません。あなたがた臣民の心の内はとてもよく分かっています。けれども、私は時代やその状況に従いつつ、耐えがたいことに耐え、我慢ならないことにも我慢をして、未来のために平和な世の中が開かれてほしいと思っております。

私はここに天皇を中心としてまとまる国の姿を守ることができました。そして忠実にして善良なあなたがた臣民の真心を信頼しています。そして私は常にあなたがた臣民とともにあります。もし感情のおもむくままに事件を起こしたり、臣民同士がお互いに排斥したりして時局を混乱させ、正しい道を踏み外して世界から信用を失うようなことがあれば、私はそれを最もいさめたいと思います。どうか、国を挙げて家族のように一致団結をし、我が国を子孫に伝え、神代から続く日本の不滅を信じ、これから責務は重く進む道は険しいとは思いますが、持てる力を国の将来の建設に傾けて、道義心を厚くして、決して揺るがない信念を持って、我が国のよいところを発揮して世界の流れから遅れをとらないようにしてほしいのです。

あなたがた臣民には私の意図をよくよく理解して行動してもらいたいと思います。

御名御璽

昭和20年8月14日

玉音放送を拝聴してみよう!

謹んで拝聴しましょう。

内容が理解できた上で玉音を拝聴すると、心にしみると思います。

海外で発表された大東亜戦争終結の詔勅 – Imperial Rescript on Surrender

海外で発表された昭和天皇による大東亜戦争終結の詔勅は以下の内容です。国際放送において文語体の英語で読み上げられ、西暦1945年8月15日付けのNew York Timesにて全文が発表されました。

参考までにご覧下さい。

To Our Good and loyal subjects:

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, Shina and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.

To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan’s self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one — the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan’s advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.

Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the innate glory of the Imperial State and keep place with the progress of the world.

英文はWIKISOURCEから転載しました。

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日本の終戦日は昭和20年(西暦1945年)8月15日ではありません!

これまで見たように、昭和20年(西暦1945年)8月14日に「大東亜戦争終結の詔」は発布され、ポツダム宣言は受諾されました。15日に玉音放送によって国民にその内容が伝えられました。

主な内容としては、「ポツダム宣言を受諾すること」とそれに関した「国民へのお願い」です。

詔書を拝読して分かるとおり、厳密には戦争を終了させることを仰った詔書ではありません。ポツダム宣言を受諾したことを昭和天皇が渙発されたのです。戦争終結の手続きは、実はここから始まるのです。もっとも、その間に当時の我が国の国民が勝手に武器を取って戦う期間はあったと思います。しかし昭和天皇の詔書が玉音にて公開されてからというもの、そういった者はいませんでした。つまり、8月15日は昭和天皇の玉音によって全国民が武器を置いた日とも言えるのです。したがって、この詔書は実質的な終戦を意味するものとなりました。

さて、戦争終結の手続きは、9月2日にアメリカの軍艦のミズーリ号の甲板で行われました。そこで降伏文書が調印され、ここで戦争が終結したのです。多くのマスコミや教科書ではあたかも8月15日に終戦をむかえたと書いてあるのですが、正確には9月2日です。降伏文書については外務省のウェブサイトに載っています。細かいところですが、法律の手続きは日付がとても大切です。

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日本はその後、GHQ(General Headquarters)によって間接統治が行われました。日本の国体とは何かというと、天皇と国民が一体となって(シラス政治とウシハク政治について)、まるで一つの家族のように仲睦まじく暮らす国を指します(神武天皇による「即位建都の詔」を参照)。海外の君主は国が滅びそうになると亡命する事例がありますが、昭和天皇は「自分はどうなってもかまわない」と仰ったと言われています。詔書にも「爾臣民ト共ニ在リ」という文言があります。また、下の動画で紹介されている御製ぎょせい(天皇が詠まれた和歌のこと)でも、そのお気持ちが拝察できます。

GHQは我が国の君臣の絆の強さが日本の強さであると知っていました。ですから、天皇と国民のお互いを信頼する関係を利用した統治を行いつつ、教育や報道を通じてプロパガンダを行って君臣の絆を弱めようとGHQは考えたのです。

GHQによる間接統治が終わったのは、サンフランシスコ講和条約が発効された昭和27年(西暦1952年)4月28日のことです。この日まで、我が国においてはGHQの意向が反映された政策が次々に実行されていきました。この日は、第2次安倍晋三内閣によって平成25年(西暦2013年)に「主権回復の日」と定められました。

詔書をこのように見てみると、一般的に言われている「終戦をむかえてホッとした」と考える人がいた一方で、「最後まで民族の誇りをかけて戦いたかった」と考えていた人もいたのだということをうかがい知ることができそうですね。どちらも本心だと思います。いずれにせよ、今日の私たちはこういった我々のご先祖さまたちの存在の上に成り立っています。昭和天皇の大御心を深く刻みつつ、私たちのご先祖さまの思いにも寄り添いながらこの詔書を刻んでいかなければならないのかなと思います。

 

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