【中学歴史】平氏政権の特徴をわかりやすくまとめてみました

平安時代 歴史
平安時代
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保元の乱と平治の乱という平安京の中での武士による2つの戦いに勝利したのは平清盛たいらのきよもりが率いる平氏でした。

保元の乱と平治の乱についての解説

これまでは「北面の武士」と言って、上皇がお住まいの院の警護をする役割でした。しかしこれらの戦いの後、平清盛率いる平氏が政治の表舞台に登場します。そして、絶大な力を持つようになっていきました。

院政とは何か?についての解説

今回は平氏政権の特徴をわかりやすくまとめてみました。

なお、以下を読む前に平安時代全体の流れが怪しいと思う人は、平安時代の全体像を把握しておくとよいでしょう。

平安時代の流れを解説してみました
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平氏が朝廷の要職を占めるようになる

平清盛、太政大臣になる

平清盛は西暦1160年(永暦元年)に参議さんぎという朝廷の政治に直接参加できる公卿くぎょうの地位を手に入れました。後白河上皇との関係を深めつつ、平清盛の朝廷での発言力がどんどん増していきます。

西暦1167年(仁安2年)に、平清盛はついに朝廷の最高位である太政大臣だいじょうだいじんまで上りつめました。

二官八省一台五衛府
二官八省一台五衛府

平清盛の一族である平氏も次々と昇進を果たしていきます。

皇族の外戚となる

平清盛は、娘の徳子とくこを第80代の高倉たかくら天皇の皇后としました。武士が実質的に皇位を決めてしまうことは前代未聞の出来事でした。平氏政権の絶頂期とも言えるでしょう。

高倉天皇と徳子との間に生まれた御子が第81代の安徳あんとく天皇です。

何かしら摂関政治の頃の藤原氏とよく似た構造ですね。

後白河上皇はどこへ行ったのでしょうか?くわしくは、源平の合戦のページのところでくわしく解説します!

平氏政権の特徴

このように見ると、平氏政権は初めての武士による政権ではありましたが、貴族的性格を持った政権であったことが分かりますね。

平氏政権の経済的基盤

世の中はやっぱり腕力(武力)とカネです。2つがないと強い政権は維持できないことが普通です。

ここでは平氏政権の経済的基盤を2つ紹介します。

日宋貿易

宋の歴史

五代十国時代を経て中国(チャイナ)を統一した王朝について簡単に触れておきたいと思います。

唐の滅亡から五代十国時代までの解説

宋は前半は北宋、後半を南宋と呼んでいます。

北宋の初代皇帝である趙匡胤ちょうきょういんの弟の2代目の太宗たいそうが西暦979年に中国(チャイナ)の南部を統一しました。北宋は節度使が力を付けて苦しんでいた状況を見て、皇帝の直属軍を強化し官僚を中心とした文治政治を展開しました。

北宋の外交政策です。中国(チャイナ)北部にあったモンゴル系民族のりょうという国に対して、宋は絹や銀を贈り、澶淵せんえんの盟という平和条約を結びました(西暦1004年)。りょうはモンゴル系で、本来は万里の長城の外側の民族なのに万里の長城の内側の燕雲えんうん十六州に領地を持っていました。北宋は遼に絹や銀をばらまいて和平を結んだのです。

北宋時代の中国(チャイナ)

西暦1115年、満洲まんしゅうにツングース系女真族じょしんぞくきんという国が建国されました。きんはとても勢いのある国でした。北宋はきんを利用して遼の領土を奪おうと考えました。きんに対しての条件はやっぱりここでも歳弊。北宋は金に対して言いました。

「歳弊を払うから遼を倒してほしい。」

夷を以て夷を制すのが中華帝国の伝統芸!

結果はどうなったかというと、北宋は燕雲えんうん十六州を奪うことに成功しました。マズかったのはここから。北宋は調子に乗って金に歳弊を払わなかったのです。今度は領土を失って西方に逃げていた遼(西遼せいりょうと呼びます)と手を結んできんを倒そうとしたのです。

これに激怒した金は北宋を攻撃、都の開封かいほうを占領しました(靖康せいこうの変)。宋の皇族のほとんどが拉致され、残った高宗こうそうが南部に落ちのびます(西暦1126年から1127年)。臨安(現在の杭州)に亡命政権が樹立されました。ここから、南宋と呼ばれる時代に入るのです。

その後、南宋はきんに対して金品を支払いつつ和平を行うことにしました(西暦1142年)。金の皇帝が主君で南宋皇帝が臣下になることを約束されてしまいます。

ここまでみると、宋はとても軟弱な王朝だったかのように見えます。しかし、公地公民制が崩れた唐王朝の末期から都市の中で自由な商業活動が行われるようになります。貨幣をたくさん作らないと商業活動を支えることができなくなってきます。そこで、政府が発行していた銅銭に加えて、紙幣が世界初で造られるようになりました(北宋の時代)。南宋になってもこの状態が続きます。経済活動は発展します。だから文化も発達します。後のヨーロッパ社会で大きな影響を与えたとされる「三大発明」(火薬、磁針、木版印刷)も宋王朝の時代に中国(チャイナ)で生まれました。

日宋貿易の内容

さて、日本と宋の関係ですが、唐王朝の時とは異なって正式な国交は結ばれませんでした。しかし、私的な交流は盛んで、政府は宋の船の来日を許可していました。例えば、平清盛のお父さんである平忠盛たいらのただもりは、越前えちぜん国(現在の福井県)の国司を務めていたときに宋との交易に目を付け、後に、瀬戸内海にいた海賊をしたがえた後に日宋貿易をスタートさせます。

貿易では、金や火薬の原料になる硫黄、刀剣などが日本から輸出され、宋銭そうせん(銅銭)や陶磁器とうじきや薬品が宋から輸入されました。どうして宋銭が輸入品に入っているのかというと、先ほど述べたように、宋で紙幣を大量に造られるようになると、宋銭が国内で余ってしまいます。そこで、宋は日本や高麗こうらいやベトナムなどの周辺諸国に宋銭を輸出します。国内の政治が弱いからと言っても他の国と比べると宋の経済力はやっぱり強い。通貨の価値は政府の信用力で決まります。現在の私たちでもアメリカのドルと途上国が発行した通貨とどちらが価値があるか?と言われたらアメリカのドルと答えるでしょう。宋銭と日本が発行している通貨とでは当時は宋銭の方が強かった。だから輸入をしました。お金を持っている人は強い。そこに目を付けたのが平忠盛と平清盛だったのです。

ここまでが前置きです。ここからは教科書にも載っている範囲です。平清盛が登場したのは南宋の時代です。平清盛が行った日宋貿易朝貢ちょうこう貿易ではありませんでした。宋政府に余裕がない中で朝貢貿易を行えるはずがありません(朝貢冊封体制についての説明)。だから日宋貿易は私貿易だったのです。

平清盛は、摂津せっつ国に大輪田泊おおわだのとまり(現在の兵庫県神戸市)という港を作りました。ここを日宋貿易の拠点とします。さらに、瀬戸内海の航路を整備し、宋の商船を瀬戸内海に入りやすくしました。

このようにして平清盛は宋銭を国内に流入させて莫大ばくだいな利益を上げていたのです。また、日宋貿易は日本に貨幣経済を浸透させるきっかけを作りました。

荘園などから利益を得る

平氏は国内におよそ500ぐらいの荘園を手に入れ、さらに全国のうち半分ぐらいを知行国ちぎょうこくとして手に入れました。知行国というのは、平氏一族や家臣を国司として推薦し、そこから上がる収益の大半を得ることができる国のことです。朝廷は税を取れないので、貴族たちにお給料を払えません。知行国があることで、貴族たちに収入を得る道を開いたというわけです。

全国に荘園や支配地ができると、平氏一族だけで土地の管理を行うことは難しくなります。そこで、血のつながりのない武士たちを従えます。彼らを家人けにんとして主従関係を結びます。また、彼らを地頭じとうに任命し、土地の管理に充てました。地頭は後の鎌倉幕府の政治でとても大切になってくるのですが、その基礎は平氏政権のもとで作られました。

このように、平氏政権は貴族的な性格を持つ一方で、鎌倉時代以降の基礎となる武家的な性格も持つ政権だったと言えます。

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平氏政権への不満

このように、平氏政権は一族で政治を回すようになってきます。日宋貿易からの利益も独占されるようになりました。

すると、官職を失った旧勢力や平氏以外の武士からの信頼も失っていきます。

当初は親密だった後白河上皇との関係も悪化するようになります。そして、打倒平氏の気運が高まりました。

そのような中、西暦1181年(治承5年)に平清盛が死去すると、その動きは本格化します。続きは別稿にて解説します

 

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