【中学歴史】鎌倉時代とはどんな時代?全体像を解説してみました

鎌倉時代 中学歴史の全体構造
鎌倉時代
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今回は、鎌倉時代とはどんな時代なのかを年代順にまとめてみました。

鎌倉時代かまくらじだいはいつから始まるのか?についてはいろいろな議論があります。源頼朝みなもとのよりとも後白河上皇ごしらかわじょうこうから守護や地頭の任命権を認められた西暦1185年から始まるという説が教科書では採用されています。このサイトでも、鎌倉時代のカテゴリーは西暦1185年(文治元年)から解説を始めるようにしています。しかし、ボクはこの説は採用しません。源頼朝が西暦1192年(建久2年)に後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられた年をもって鎌倉時代が始まるという説を採用します。

さて、鎌倉時代はいつ終わるのか?については、そのまま鎌倉幕府が滅亡したとされる西暦1333年(元弘3年)までとされています。およそ140年間を鎌倉時代と呼びます。

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我が国の歴史全体の流れの中の鎌倉時代

歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。

中学歴史の全体構造
中学歴史の全体構造

鎌倉時代は国史(日本史)の中でどこに位置するのかを確認してから勉強を始めます。大きな視点を軽視して歴史の勉強を始めると、たちまち迷子になってしまいます。特に歴史が不得意だと思う人は、こういう大きな視点を持って、落下傘らっかさんで上から降りて細かいところに少しずつ入り込んでいくようなイメージで勉強していくとよいでしょう。

鎌倉時代は平安時代の次の時代にあたります。鎌倉時代が終わると、朝廷が2つに分かれてしまう南北朝なんぼくちょう時代、さらに足利氏が政治の中心に立つ室町むろまち時代になります。

国史(日本史)全体の復習はこちらを参照してください。

歴史は全体から部分という発想が大切です

武士の時代の中の鎌倉時代

 上の年表で少し見たとおり、鎌倉時代から江戸時代までは武士の時代です。天皇が征夷大将軍という位を武士に与えて、天皇の代わりに政治を行った時代といってもいいでしょう(例外的な期間もあるが…)。

日本型統治の図
日本における統治の概念図

上の図を見てみましょう。鎌倉時代、室町時代及び江戸時代の征夷大将軍とは「権力者」の部分に征夷大将軍や幕府の職制の図が入ってくるのだという視点が必要です。

鎌倉幕府のしくみについてわかりやすく解説してみました

さて、鎌倉時代についてもう少しだけくわしく解説をしますが、鎌倉時代の最初の方は、征夷大将軍が幕府のトップにいましたが、征夷大将軍の源氏が滅亡すると、形式的な征夷大将軍は置かれますが、政治の実権は執権しっけんと呼ばれる地位にいた北条氏ほうじょうしが握ることになります。

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鎌倉時代の流れの捉え方

鎌倉時代の時代の流れを押さえるためには、征夷大将軍の名前と執権の名前を順番に記憶していくとよいです。主人公がいないストーリーは話がつかみづらいですからね。もちろん全員を知っておく必要はありません。

鎌倉時代に登場する主要人物(中学校編)
鎌倉時代に登場する主要人物(中学校編)

前期:源氏将軍がいた時代

前期は西暦1192年(建久2年)から西暦1226年までと位置づけます。

平氏から政治の実権を奪い取った源氏のトップである源頼朝が鎌倉に本拠地を置き、後鳥羽天皇から征夷大将軍という地位に任ぜられ、そこからしばらく源氏が征夷大将軍を継いでいきます。

鎌倉幕府が成立した経緯を解説しています

しかし、源頼朝が死亡し、その後幕府内の様々な政治的な権力争いに巻き込まれた2代目、3代目の将軍が暗殺されると、源氏が滅びます。

征夷大将軍を失って困ってしまった鎌倉幕府は、京都から征夷大将軍を呼ぼうと画策をします。しかし当時の朝廷の中心だった後鳥羽上皇は拒否します。なぜならば、幕府が開かれてからというもの、武士のための政治体制が着々と築き上げられてたことで、朝廷は危機感を募らせたからです。そこで、幕府に対して兵を差し向けた大事件が起こりました。それが承久じょうきゅうの乱(承久の変)です(西暦1221年)。この戦いで勝利したのは幕府側でした。

承久の乱はなぜ起こったのかを経緯とともに解説しました

勝利した幕府は政治体制を整え、京都から将軍を迎えることができました(西暦1226年)。しかし将軍職は形式的なもので、実質的に政治の実権を握っていたのは執権しっけん北条氏でした。

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中期:執権政治の確立期

中期は、執権に就いている北条氏が将軍が実質的にはいない幕府の組織を整えていきます。これを執権政治しっけんせいじと呼びます。幕府にはもちろん北条氏以外の人たちもいましたが、中心だったのは北条氏です。3代執権の北条泰時ほうじょうやすときは、西暦1232年(貞永元年)に御成敗式目ごせいばいしきもく貞永じょうえい式目)という法を作り、武士のならわしなどをまとめました。

御成敗式目(貞永式目)の内容を解説してみました

中学校の教科書には出てきませんが、その後、北条氏は対抗してくる他の御家人を破りつつ、幕府内での立場を盤石なものにしていきます。

後期:元寇

日本に危機が訪れたのは2度の元寇げんこうと呼ばれる事件です。「元寇」とは、当時のチャイナ(中国)の地域を治めていたモンゴル人の「げん」という国が九州に攻めてきた事件です。多くの武士ではない一般の日本人が残虐な行為により殺されました。若い8代執権の北条時宗ほうじょうときむねを中心とした幕府軍が元の軍隊を2度にわたって守り抜き、日本の危機を脱しました。

元寇についてわかりやすく解説してみました

元寇の後、幕府に仕えていた武士たちは元寇による出費等で貧乏になってしまい、借金が返せなくなってしまいます。そこで、御家人を救うために「永仁えいにん徳政令とくせいれいという法令を幕府が出しました。しかし、お金を貸す側がお金を貸しにくい状況になり、お金が必要な御家人はお金が手に入らなくなってしまい、かえって御家人の生活は困窮してしまう結果となってしまいました。

元寇後の鎌倉幕府の様子と御家人の窮乏についてわかりやすく解説

一方で、元寇を率いて戦った北条氏はますます幕府の中で力を付け、他の武士たちと比べても圧倒的な力を持つようになります。また、皇位継承についても幕府は関与します。次第に他の御家人や朝廷からも反感を持たれるようになりました。

そこで、幕府を倒そうと立ち上がった人たちが現れます。その中心人物が第96代の後醍醐天皇ごだいごてんのうでした。また、鎌倉幕府の有力御家人であったはずの足利高氏あしかがたかうじや悪党と呼ばれた楠木正成くすのきまさしげらが蜂起しました。ついに西暦1333年(元弘3年)に鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府の滅亡のプロセスをわかりやすく解説

これが鎌倉時代の大まかな流れです。試験ではもっと細かい部分が出てきますが、大ざっぱな部分をきちんと暗記していくと、プラスの知識を身につけることが楽になります。

 

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