西暦672年に起こった壬申の乱に勝利した第40代の天武天皇は天皇を中心とした国家づくりを行いました。ワンポイントリリーフで第41代の持統天皇が即位して藤原京へ遷都。
第42代の文武天皇の治世において、西暦701年(大宝元年)に大宝律令が制定され、我が国独自の律令制度が確立しました。
今回は、日本が飛鳥時代に採用した律令制度の仕組みのうち、「二官八省一台五衛府」やその他律令政治における政治制度についてわかりやすく解説します。
「律令」とは?
律令とは「律」と「令」とを合わせたものです。
「律」は、刑罰についての法令です。
「令」は、政治の仕組みを定めた憲法や行政法、さらには民法の要素を含んだ法令のことです。
律令政治の元祖は唐王朝です。唐の2代目皇帝である李世民[太宗]の頃に確立させ、唐に留学していた留学生たちがこれを学んで帰国しました。
ただ、唐の律令制度をそのままパクったわけではありません。日本は唐ほど厳しい刑罰を必要とはしていませんでした。唐は異民族を従えていたので刑罰を厳しくせざるを得ませんでした。しかし、日本は肇国以来、天皇の「シラス」国です。そこまで刑罰を厳しくしなくても国の統治はできるのです。一方で、唐や朝鮮半島に対抗するための中央集権的な国づくりが求められていました。日本には新たな行政組織が求められていました。ですから、「令」を優先的に整備したのです。
天智天皇の時の近江令
天武天皇の治世の飛鳥浄御原令
いずれも「令」の方ばかりが制定されていたのです。
「律」と「令」が揃ったのが、大宝元年、西暦701年(大宝元年)に制定された「大宝律令」だったのです。
大宝律令の制定
時期はいつ?
西暦701年(大宝元年)のことです。
第42代の文武天皇の治世です。
誰が起草したの?
刑部親王と藤原不比等です。
刑部親王は天武天皇の皇子です。
藤原不比等は中臣鎌足の子で、法典の編さんにとても明るい人物であったことで知られています。なお、藤原不比等は大宝律令をアレンジした養老律令という法令を西暦718年(養老2年)に編さんしました(なお、実際に養老律令が施行されたのは西暦757年(天平宝字元年)のことである)。
律令体制下の政治機構
律令体制下の統治機構を中央と地方に分けて見ていきましょう。
中央官制 – 二官八省一台五衛府
まず中央から見ていきます。
ここでいう「中央」というのは、「宮」のことを指します。「宮」というのは「天皇のお住まい+政治を行う場所」を指します。
関連する用語としては「京」。「京」というのは「宮」の周囲にある寺院や庶民が住んでいるところも含まれた概念です。
「お城」と「城下町」の関係が「宮」と「京」の関係とイコールだと覚えておいてもよいと思います。「京」は「地方」扱いになりますので注意が必要です。

ではどのような官制が敷かれたのかを見ましょう。

まとめて、「二官・八省・一台・五衛府」と言います。中学校の教科書や参考書には「二官八省」と説明されているものが多いです。
まずは「二官」の部分を見ていきましょう。「二官」とは「神祇官」と「太政官」を指します。
神祇官とは?
神祇官は、律令国家における祭祀の最高機関であり、天皇に代わって神々への祈りを捧げる役所です。当時、国の安寧や五穀豊穣、天変地異を鎮めることは、すべて八百万神のご加護によるものと考えられており、神祇官はその信仰を形にする役割を担っていました。具体的には、春には豊作を願う祈年祭や、天皇即位の際には国家的儀礼である大嘗祭を主催し、時に疫病や干ばつを鎮めるための祈祷を行いました。また、神祇官は中央だけでなく、全国の神社や神職の統括も行い、地方においても祭祀が適切に行われるよう監督しました。神祇官は国家の精神的支柱として「神の声を聞き、国の安寧を祈る」という役割を果たしていたのです。そのため、神祇官は律令制度における「二官」の一つとして、太政官と並ぶ重要な存在でした。
太政官とは?
太政官は、律令国家の政治と行政を司る最高機関であり、神祇官と並ぶ「二官」の一つです。国家の方針や重要な政策はすべて太政官で決められ、現実の政治を動かす中枢として機能しました。

ここからは太政官の組織をもう少し詳しく解説していきます。
太政官のトップに立つ役職が太政大臣です。しかし、この太政大臣は常に置かれていたわけではなく、国家の非常事態や特に優れた人物が必要とされたときに臨時的に任命される地位でした。そういうことで、太政大臣のことを別名で「則闕の官」とも呼ばれます。この名称は、「則」=律令、「闕」=欠けるという意味から、律令に基づいて通常は空位(欠員)としておくことを前提とした役職であることを示しています。名誉職的な側面を持ちながらも、必要とされるときには天皇の信任を受けた特別な人物がその地位に就きました。
日常的な政務は、左大臣と右大臣を中心に進められました。左大臣は、太政官の最高責任者として国家の方針を定め、政策を指揮します。一方、右大臣はその補佐役として、左大臣を支えながら政治の遂行を補完しました。これらの役職は、律令国家における実務の中核を担っており、国政を動かす重要な役割を果たしていました。
また、左大臣・右大臣を支える形で大納言が加わります。大納言は、左大臣や右大臣に次ぐ高位の官職で、政策の議論や政務の遂行を補助しました。
彼らは公卿会議に参加し、国家の重要事項について議論を深め、最終的な方針を決定する役割を果たしました。ここで登場する「公卿」とは、律令制度下で太政官の高官として国家運営に携わる貴族たちを指します。具体的には、太政大臣、左大臣、右大臣、そして大納言などが公卿に含まれます(時代によっては中納言や参議も含まれる場合があります)。公卿は、天皇の信任を受け、国家の政策決定や行政執行を担う律令国家の中枢を構成していました。公卿会議では、租税の徴収方法や地方統治の方針、外交政策などが議題に上がり、それに基づいて具体的な行政運営が進められました。こうした公卿の協議による決定が、律令国家の安定と統治を支えていたのです。
その一方で、政策の実務面では、少納言や、後述する八省を指揮して政策を具体的に実行する左弁官と右弁官の役割が欠かせませんでした。
まず、少納言は、天皇の名前で発せられる天皇の意思を国家全体に伝える公式文書である詔勅を作成したり公布するにあたって必要となる天皇のハンコである御璽や太政官のハンコである太政官印を管理し、中務省で起草された草案を整えることで、天皇の命令を公式な文書として確定させる役割を担っていました。詔勅が完成すると、少納言はこれを地方に伝達する手続きも担当し、行政の根幹を支える「秘書官」としての役割を果たしました。少納言のこのような事務作業は、太政官全体の政務を円滑に進めるために不可欠なものでした。
八省とは?
一方、政策が詔勅として整えられた後、その実行を支えたのが左弁官と右弁官です。
左弁官は、天皇に近い業務を監督し、中務省、式部省、治部省、民部省といった省庁を統括しました。中務省は天皇の詔勅を起草し、宮中の政務や儀式を管理する役所であり、詔勅の作成において少納言と密接に連携しました。式部省は官僚(特に文官)の人事や教育を担当し、国家を支える人材を確保する役割を果たしました。治部省は外交や文化政策を担当し、国家の儀礼や仏教に関連する事務を管理しました。さらに、民部省は地方行政を統括し、土地や戸籍の管理、租税の徴収を行うなど、国家財政を支える中心的な役所でした。

右弁官は、財政、軍事、司法といった国家運営の基盤を支える分野を統括しました。兵部省は軍事や国防を担当し、兵士の採用や訓練、武器の管理を行いました。刑部省は司法を司り、犯罪の取り締まりや裁判を通じて国家の法秩序を維持しました。大蔵省は国家財政を管理し、租税として集められた物資を一元的に運用しました。また、宮内省は天皇の私的財産や宮廷の運営を担当し、宮中生活を支える役割を果たしました。
少納言が詔勅を整え、左弁官と右弁官が統括する八省を通じて政策が実行される。この一連の流れが太政官全体の統治機構を支え、中央から地方へと天皇の命令を浸透させる仕組みを作り上げていました。
一台五衛府とは?
律令国家において、一台五衛府は、太政官を補佐し、国家の安全や秩序を維持するために重要な役割を果たしていました。「一台」とは司法機関としての機能を担う弾正台を指し、「五衛府」は都や宮中の治安維持や防衛を担う軍事組織です。
一台=弾正台とは?
弾正台は、律令国家の司法や監察を担当する機関で、主に中央官僚や地方役人の不正を取り締まりました。この役所は、行政や司法における権力の乱用を防ぐために設置され、国家運営の健全性を維持する役割を果たしました。また、弾正台は、庶民や官人の訴えを受け付ける窓口としても機能し、公平な裁判や調査を行うことで、律令国家の法秩序を支えました。現代で言えば、内部監査機関や行政監察機関に近い存在です。
五衛府とは?
五衛府は、都や宮中を守る防衛機関として、軍事的な役割を担っていました。この組織は、律令国家の中心である宮城の安全を確保し、国家運営を支える重要な存在でした。五衛府は次の五つの部門で構成され、それぞれが特定の防衛任務を担当していました。
衛門府は、宮城の門を警備する役所であり、出入りする人々を監視する役割を果たしました。不審者の侵入を防ぐことを主な任務とし、都の出入口を守る「門番」としての役割を担いました。このように、物理的な境界の防衛を通じて、宮中の安全を確保していました。
左右衛士府は、左右に分かれて宮中内部の警備を担当しました。宮中で行われる儀式や行事の際には警護を行い、天皇の身辺の安全を直接守る重要な役割を果たしました。昼夜問わず警備にあたり、宮中の平穏を維持しました。
左右兵衛府は、軍事力をもって国家の防衛を担う組織でした。緊急時には兵士を動員し、戦時には防衛の中核として機能しました。また、左右に分かれて都やその周辺地域の治安維持にも従事し、国家の安全を確保しました。
五衛府はこのように分担された役割を通じて、律令国家の中枢部である都と宮中の安全を支える防衛機構として機能しました。
後に、五衛府は平安時代になると組織改編を経て六衛府になります。ここで左右の近衛府が誕生します。近衛府は天皇の親衛隊として天皇の身辺警護を専属で担当しました。この設置は、宮中や天皇を守る体制をより強化する目的があり、天皇に最も近い役所として機能しました。近衛府は貴族の子弟が武官として名誉を得るための登竜門としても重要視されるようになります。やがて、宮廷警護の中で最も格式の高い役所となります。のちの時代に、右近衛大将になった人物として有名なのが源頼朝です。
地方官制
地方区分1 – 要地に定められた役所
大宝律令が制定された段階で、日本の都である京やその周辺を統治・管理するために、いくつかの役所が設置されました。これらの役所は、律令制国家の政治・経済・物流を支える基盤として重要な役割を担っていました。
まず、左右京職は、京を管理するために設置された役所です。「左京職」と「右京職」は、それぞれ京の左京と右京を分けて管轄しており、京内の治安維持や住民の管理、さらには建築物の整備や火災の予防といった都市全般の運営を担当しました。左右京職は、京という律令国家の中枢を安定して運営するための行政機関として機能しました。例えば、京の住民の戸籍を管理し、労役や租税を徴収する役割を果たしていました。また、京内での事件や争いごとを裁定することも職務の一環でした。
次に、東西市司は、京内の経済活動を管理するために設置されました。当時の平城京には、東市と西市と呼ばれる二つの市場があり、それぞれが京内外からの物資の流通を担う経済の中心地でした。東西市司は、この二つの市場の運営と監督を行う役所であり、市場における商品の品質や価格の管理、不正取引の取り締まりを担当しました。また、地方から京へ運ばれる特産品や輸入品が集まり、これらを通じて地方と中央の経済的なつながりを維持する重要な役割を担っていました。
さらに、京から少し離れた場所に設置された摂津職も、大宝律令の施行において重要な位置を占めました。摂津職は、現在の大阪府摂津地域を中心に設置された役所で、物流と外交の拠点として機能しました。この地域は瀬戸内海に面しており、全国から集まる物資を船で京へ輸送する中継地点でした。また、外国からの使節や貢物がまず摂津に到着し、そこから京へ運ばれるため、摂津職は外交の窓口としても重要な役割を果たしました。摂津職の業務には、港湾の管理や物資の集積・再分配、そして外交儀礼の遂行が含まれました。
これにより、地方から京へと物資や情報が円滑に流れる仕組みが構築され、中央集権的な律令国家がその力を発揮することが可能になったのです。
地方区分2 – 五畿七道
律令国家では、広大な領土を効率的に管理し、統治を行うために全国をいくつかの行政区画に分ける仕組みが採用されました。この仕組みは、畿内、七道で構成され、それぞれが行政、治安、防衛の要として機能しました。畿内および七道の中には国が構成され、年代によって変遷はありますが、全国で66カ国あったとされています。厳密にはこれに壱岐島と対馬を加えた国がありました。

以下には全国の国名が紹介されています。もちろん全部暗記しなくてもいいです。律令国家になった日本を一緒に旅する気分で気軽に読み進めていってください。
まず、畿内(五畿)は、都を中心とした国家の中枢地域を指し、大和国(現在の奈良県)、山背国(後に平安京の遷都が実施されてからは山城国、現在の京都府南部)、摂津国(現在の大阪府北部および兵庫県南東部)、河内国(現在の大阪府東部)、和泉国(現在の大阪府南部。西暦757年に河内国から分離して成立)の5つの国から構成されていました。この地域は天皇を中心とした政治、文化、経済の中枢であり、特に平城京を擁する大和国が律令国家の中心地として機能しました。また、摂津国や和泉国は港湾機能を持ち、海外との交流の拠点としても重要な役割を果たしていました。畿内は、国家の統治機能が集中的に運営される特別な地域であり、律令国家における象徴的な位置づけを持っていました。
西海道は、九州全域をカバーする律令国家の主要な地方区分で、現在の福岡県、大分県、熊本県、長崎県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県がこれに含まれます。この道は、九州全体を統治するための基盤であると同時に、日本と大陸、朝鮮半島を結ぶ外交・防衛の最前線として機能しました。九州の豊かな自然資源や農産物、海産物を中央に供給し、また外敵からの防衛においても重要な役割を果たしました。西海道の中心には、大宰府(現在の福岡県太宰府市)が置かれました。大宰府は「遠の朝廷」とも呼ばれ、律令国家における地方の行政、外交、防衛の中心地として機能しました。大宰府の漢字に注意をしましょう。
まず、現在の行政区画では太宰府と書きます。しかし、昔は「太」ではなく「大」という字を書きます。そして「宰」の字は本当によく間違えます。
大宰府
大宰府の「宰」の字。うかんむりの中は幸せではありません。辛いです。大宰府勤務はホントにむっちゃ辛いんです!これでもう覚えましたね(笑)。
大宰府では外交交渉や軍事防衛が行われました。また、防人が配備され、唐や新羅からの外敵に備える軍事体制が整備されていました(白村江の戦いの後に大野城という山城ができたことを学習しましたね!)。西海道は、単なる交通路を超えた国家運営の要として、外交・防衛の中心地となっていたのです。
西海道の中心には、筑前国(現在の福岡県北西部)が位置しました。筑前国には、大宰府(現在の福岡県太宰府市)が置かれました。筑前国は、博多湾を擁する地理的利点から、大陸との交易や交流の拠点ともなりました。豊かな米や海産物が生産され、大宰府を中心に物流網が発展しました。隣接する筑後国(現在の福岡県南部)は、筑後川流域に広がる肥沃な農業地帯でした。筑後国で生産された米は、九州全域や中央へ供給され、大宰府を支える重要な食糧供給地としての役割を果たしました。東に進むと豊前国(現在の福岡県東部および大分県北部)があります。豊前国は瀬戸内海に面しており、九州と本州を結ぶ中継地点として機能しました。漁業や農業が盛んで、海産物や農産物が大宰府を通じて中央に供給されました。さらに西海道は南下し、豊後国(現在の大分県)に至ります。豊後国は、温暖な気候と肥沃な土地に恵まれた農業地帯でした。また、別府温泉などの温泉地を擁し、古代から人々に利用されてきました。その西側には、肥前国(現在の佐賀県および長崎県東部)があります。肥前国は、日本海と有明海の両方に面し、海上交通の拠点として機能しました。また、九州西端の地理的特性から、大陸との交流や防衛の前線としても重要でした。九州中部には肥後国(現在の熊本県)が広がります。阿蘇山周辺の特異な地理環境を活かして、畑作と稲作(平野部)、そして畜産業が発展する地域でした。特に牛馬の生産は、九州の軍事や物流において欠かせない存在であり、大宰府と密接に関わりながら九州の安定に貢献しました。さらに南に進むと、日向国(現在の宮崎県)があります。日向国は、太平洋に面した温暖な気候を生かし、農業や漁業が盛んでした。特に沿岸部では漁業資源が豊富で、九州南部の物流の要所として機能しました。西海道の南端には、薩摩国(現在の鹿児島県西部)と大隅国(現在の鹿児島県東部)が位置しました。しかしながら、実はこの2国は律令制度の初期段階ではまだ存在せず、元々は日向国に含まれていました。しかし、大宝律令の成立前後に九州南部の統治を強化する必要性から、薩摩国と大隅国が分割され、新たに設置されました。この分割は、中央集権的な統治体制を九州南部にも拡大するための措置として行われました。
山陽道は、本州側の瀬戸内海沿岸を含む地方区分で、現在の兵庫県南西部、岡山県、広島県、山口県がこれに含まれます。温暖な気候と平坦な地形に恵まれ、物流や人々の移動が効率的に行われる交通の要衝でした。瀬戸内海沿岸の港湾を活用しながら、陸上と海上の交通を結ぶ重要な役割を果たすと同時に、西海道との連携においても中心的な役割を担いました。山陽道は、畿内に接する播磨国(現在の兵庫県南西部)から旅を始めることにしましょう。現在では近畿地方とされている播磨国が、畿内ではなく山陽道に含まれるという点は注意しておきたいところです。播磨国は、農業と海運が発展した地域で、特に塩の生産が盛んでした。瀬戸内海に面した港湾から塩や農産物が中央へ供給され、物流の拠点として機能しました。次に、山陽道は備前国(現在の岡山県東部)へと至ります。備前国は、瀬戸内海沿岸に広がる平野部を活用した農業地帯で、米やその他の作物の供給地として重要でした。また、備前焼で知られるように陶芸文化が発展し、文化的な側面でも律令国家を支える一端を担いました。その後、山陽道は備中国(現在の岡山県西部)に入ります。備中国は、山陽道沿いの物流の中継地点として機能し、農業だけでなく、木材や漁業の産物が豊富な地域でした。また、吉備津神社を中心とする信仰の地としても知られ、文化的な発展が見られました。さらに西へ進むと、山陽道は備後国(現在の広島県東部)を通ります。備後国は、瀬戸内海と中国山地に挟まれた地形を持ち、山岳資源や農業が発展しました。また、港湾都市が発展し、瀬戸内海を通じた海上交通と連携する重要な拠点となりました。次に、山陽道は安芸国(現在の広島県西部)を通過します。安芸国は、広島湾を中心とした港湾地域として栄え、物流と人々の移動の中心地でした。また、温暖な気候を利用した農業や漁業が盛んで、産物が中央に供給されました。さらに、厳島神社(宮島)などの神社仏閣が信仰の中心地としても機能しました。最後に、山陽道は周防国(現在の山口県東部)と長門国(現在の山口県西部)を通ります。周防国は、瀬戸内海沿岸の温暖な地域で、農業や海産物の供給地として重要でした。長門国は日本海と瀬戸内海に接し、海上交通の要所として、また防衛上の拠点としての役割も担いました。そして、西海道における主要拠点である大宰府(現在の福岡県太宰府市)との接続をスムーズにするため、物流と外交の要所として機能しました。周防国や長門国から九州への海上ルートが整備され、瀬戸内海を通じた物流が効率的に行われました。九州は中国や朝鮮半島との外交や貿易の最前線であり、そこへの物資供給を支えたのが山陽道です。たとえば、中央から大宰府へ送られる武器や食糧、また九州から中央へ運ばれる海産物や特産品が山陽道を経由して行き交いました。このように、山陽道は単なる国内交通路としてだけでなく、大陸との接続を支える重要な役割を担っていたのです。
山陰道は、日本海沿岸を縦断し、現在の京都府北部、兵庫県北部、鳥取県、島根県などが含まれる地方区分です。この場所は、山間部と海岸線が隣接する地形を持ち、豊かな自然資源を活用した物流や交通の基盤として機能しました。現在では近畿地方とされている丹波国や丹後国や但馬国が、畿内ではなく山陰道に含まれるという点は注意が必要です。それでは、山陰道の旅は畿内に接する丹波国(現在の京都府中部および兵庫県東部)から旅を始めましょう。丹波国は、山間部に位置しながらも農業が発展しており、中央への米の供給地として重要でした。次に、山陰道は丹後国(現在の京都府北部)を通ります。丹後国は、日本海に面した地域で、漁業が盛んでした。特に海産物が中央へ供給される主要な輸送拠点であり、また古代から織物が生産される地域としても発展しました。その後、山陰道は但馬国(現在の兵庫県北部)へと至ります。但馬国は、山間部と海岸部が調和した地形を持ち、牛や馬の飼育が盛んでした。また、鉱物資源にも恵まれており、鉄などの産出が重要な産業の一つでした。続いて、山陰道は中国地方に入り、因幡国(現在の鳥取県東部)を通ります。因幡国は、農業と漁業が盛んな地域であり、特に日本海での漁業資源が中央に供給されていました。また、『因幡の白兎』の神話で知られるように、神話的な背景を持つ地域でもあります。次に、山陰道は伯耆国(現在の鳥取県西部)へと進みます。伯耆国は、大山を中心とする自然豊かな地域で、山間部では木材や農作物の生産が行われていました。日本海を活用した物流も盛んで、内陸部からの物資を日本海沿岸経由で中央に送る拠点となっていました。さらに、山陰道は出雲国(現在の島根県東部)を通ります。出雲国は、出雲大社を中心とした信仰の中心地として非常に重要な位置を占めていました。また、豊かな平野部では農業が盛んで、食糧供給地としても機能していました。最後に、山陰道は石見国(現在の島根県西部)に至ります。石見国は、鉱山資源に恵まれた地域で、銀の産出が特に有名でした。中世以降には石見銀山として発展し、国内外に銀が輸出される拠点となりましたが、律令国家時代から鉱物資源の供給地として重要な役割を果たしていました。
南海道は、紀伊半島および四国全域を結ぶ地方区分です。現在の和歌山県、三重県南部、兵庫県淡路島、徳島県、香川県、高知県、愛媛県などが含まれます。現在の比較として面白いところは、現在では近畿地方になっている紀伊国(現在の和歌山県)が、畿内ではなく南海道に含まれるという点です。今でも南海電車という名前の鉄道が走っているので、関西にお住まいの皆さんはイメージが掴めるのかもしれません。同じく兵庫県にある淡路島も近畿地方に属しますが、五畿七道の時代の淡路国が南海道に属しているという点も興味深いところです。南海道は、険しい山岳地帯や島々を含む複雑な地形を特徴としていますが、紀伊水道や瀬戸内海の海上交通を利用することで、陸と海を結ぶ物流路として機能しました。南海道の旅はまず、畿内に接する紀伊国(現在の和歌山県および三重県南部)を通ります。紀伊国は険しい山岳地帯を抱えながらも、豊富な林業資源や海産物の供給地として重要でした。また、熊野信仰の中心地として宗教的な影響力を持ち、熊野古道を通じて参詣客が集まる場所としても知られていました。次に、南海道は淡路国(現在の兵庫県淡路島)に至ります。淡路国は、瀬戸内海と紀伊水道を結ぶ海上交通の結節点として機能し、紀伊国と讃岐国をつなぐ中継地として重要な役割を果たしました。島全体が農業や漁業の供給地としても機能し、中央への物流を支える重要な地域でした。その後、南海道は紀伊水道を渡り、四国の阿波国(現在の徳島県)に入ります。阿波国は、四国の東部に位置し、瀬戸内海と太平洋に面する地理的利点を生かして、物流の中継地点として機能しました。続いて、南海道は讃岐国(現在の香川県)へと進みます。讃岐国は、温暖な気候と平坦な地形に恵まれ、瀬戸内海に面した海上交通の要所として重要でした。特に塩の生産が盛んで、弥生時代から土器で作られていることが分かっています。そして中央への供給源として機能していました。さらに、南海道は四国南部の土佐国(現在の高知県)を通ります。その後、西へ進むと伊予国(現在の愛媛県)に入ります。伊予国は、道後温泉のある地としても知られ、聖徳太子も入ったと伝えられます。このように、南海道は紀伊国から淡路国、四国全域に至るまで、それぞれの地域の地理的特性や資源を活用した交通路として機能しました。陸上交通が険しい山岳地帯に制限される一方、紀伊水道や瀬戸内海の海上交通との連携によって物流の効率化が図られました。南海道は、地方と中央を結ぶ重要なルートとして、律令国家の物流や経済を支える役割を果たしたのです。
東日本を結ぶルートとしては、東山道と東海道があります。
東山道は、畿内から東日本へ至る内陸を縦断する重要な地方区分の1つで、現在の滋賀県、岐阜県、長野県、群馬県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県、青森県などの大部分の東北地方がこれに入ります。現在では近畿地方とされている滋賀県(近江国)が、畿内ではなく東山道に含まれるという点です。河川の渡河を避けられることから、律令国家の成立初期には主要なルートとして利用されました。東山道の旅はまず、畿内に接する近江国(現在の滋賀県)から始めましょう。琵琶湖を中心としたこの地域は、豊かな水資源に恵まれ、農業や物流の拠点として機能しました。近江国は都からの交通の要所であり、近畿地方と東国を結ぶ玄関口でもありました。次に、東山道は美濃国(現在の岐阜県南部)へと至ります。美濃国は木曽川や長良川といった河川が流れ、農業や物流の拠点となっただけでなく、東日本と西日本の境界線にもなりました。美濃国から北へ進むと、飛騨国(現在の岐阜県北部)に入ります。飛騨国は険しい山岳地帯が広がる地域ですが、林業や山間部の資源に恵まれた地域でもありました。その後、東山道は信濃国(現在の長野県)を通過します。信濃国は、内陸部に広がる高地で、農業だけでなく山間部の資源も豊富でした。東山道はこの地域を縦断し、周囲の国々と中央を結ぶ役割を果たしました。信濃国を越えると、上野国(現在の群馬県)を通ります。すると、山岳地帯から平野部へと景観を変えていきます。上野国では利根川が交通の要として利用され、関東平野の農産物が物流網を通じて中央へ供給されました。さらに、下野国(現在の栃木県)を通ることで、関東の北部を縦断しました。東山道は、関東地方を抜けて東北地方に入り、陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)を通ります。陸奥国は東北地方の広大な範囲をカバーしており、東山道はこの地域の統治と物流の基盤として不可欠でした。陸奥国は馬の産地としても重要であり、その資源が中央へ運ばれるルートとして機能しました。最終的に東山道は、出羽国(現在の秋田県および山形県)にも接続しました。出羽国は山岳地帯と日本海側を抱えた広範な地域であり、太平洋側の陸奥国と並んで東北地方の開発と統治の中心地となりました。このように、東山道は近江国から陸奥国、出羽国に至るまで、旧国を縦断しながら、日本列島の内陸部を結ぶ重要な交通路として機能しました。初期の律令国家では河川の渡河を避けられる利点が重視され、東海道よりも安全で安定したルートとして利用されていました。この道は、各地域の資源や産物を中央へと運ぶ物流網の中核であり、律令国家の成立と運営を支える基盤となったのです。
一方、東海道は、畿内から東日本へ至る地域区分の1つで、現在の三重県、愛知県、静岡県、山梨県、神奈川県、東京都、茨城県、千葉県などが含まれます。東海道は、平坦な地形を利用できる利便性がある一方、大河川の多さから律令国家の初期には利用が限定されていましたが、橋や渡し場の整備が進む平安時代以降に重要性を増していきました。東海道っぽくないイメージなのが現在の茨城県にあった常陸国や現在の千葉県にあたる上総国や下総国が含まれる点は注意しておきたいところですね。東海道は、まず畿内に接する伊賀国(現在の三重県西部)を通ります。この地域は山岳地帯を含み、関西から東国への玄関口としての役割を果たしました。次に、伊勢国(現在の三重県中部)を通り、この地には伊勢神宮があり、宗教的・文化的な重要性を持つ地域として知られていました。その後、東海道は尾張国(現在の愛知県西部)を経由します。尾張国は、豊かな農産物を中央に供給する役割を担い、物流の重要拠点として機能しました。そして三河国(現在の愛知県東部)では、太平洋沿岸部を通るルートが特徴的で、東海道の海上交通とも連携していました。続いて、遠江国(現在の静岡県西部)と駿河国(現在の静岡県中部)を経て進みます。この地域は、東海道の中でも交通の難所として知られ、天竜川や大井川といった大河川が行く手を阻む主要な障害でした。さらに、伊豆国(現在の静岡県東部および伊豆半島)を通じて東海地方から関東地方への接続が進められました。東海道はその途中で甲斐国(現在の山梨県)を通ります。甲斐国は山岳地帯を抱えながらも交通の要衝として機能し、中央から東国への物流を支える重要な中継地でした。特に山岳地帯を活用した防衛上の役割や、甲斐の馬などの産物が供給されたことで、経済的な価値も高い地域でした。現在の関東地方に入ると、東海道はまず相模国(現在の神奈川県)を通ります。この地域は、平坦な地形と豊かな資源を生かして発展し、関東地方の入り口として重要な位置を占めていました。その後、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県一部)に入ります。武蔵国は元々は東山道に属していましたが、西暦771年に東海道に所属変えになっています。武蔵国は広大な平野を擁し、農業生産が盛んで、江戸時代にはさらに大都市へと発展する拠点となりました。さらに、東海道は関東地方東部の上総国(現在の千葉県中部)と下総国(現在の千葉県北部および茨城県南部)へと至ります。これらの地域は、豊かな農産物や海産物を供給することで経済的に重要な役割を果たしました。そして最終的に、常陸国(現在の茨城県)へと到達し、広大な平野を通る交通の大動脈として機能しました。このように、東海道は畿内から関東地方、さらに東北地方へ至るまで、各旧国をつなぎながら物流と経済の発展を支える重要な交通路として機能しました。沿線には農産物や海産物が豊富な地域が点在し、橋や渡し場の整備が進むにつれて、その利用価値はさらに高まり、平安時代以降には日本の主要な物流路として確立されました。
最後に、北陸道を紹介します。北陸道は、日本海沿岸を縦断する地方区分で、現在の福井県、石川県、富山県、新潟県を結ぶ律令国家の主要な地域を含みます。北陸道は日本海側の豊かな自然資源と農業地帯を活用しながら、中央と北陸地方、さらに現在の東北地方を結ぶ物流路として機能しました。また、気候や地形の影響を受けつつも、各地の特産物や文化が中央と地方の交流を支える基盤となりました。北陸道の旅は、畿内に接する若狭国(現在の福井県南部)から始めましょう。若狭国は、日本海に面した豊かな漁業資源を持つ地域で、特に若狭湾で取れる海産物が中央に供給されました。また、「鯖街道」と呼ばれる街道を通じて、魚を含む多くの特産品が京都まで運ばれるなど、物流の拠点として機能しました。次に、北陸道は越前国(現在の福井県北部)へと至ります。越前国は、農業が盛んな地域でありながら、良質な和紙の産地としても知られています。また、北陸地方の中心地として、文化や行政の拠点となり、物流の中継地としても重要でした。その後、北陸道は加賀国(現在の石川県南部)を通ります。冬季には雪が多い一方、夏季には稲作に適した環境が広がっていました。この地域は肥沃な土壌を持ち、農業が発展し、特に稲作を中心とした農産物の生産が律令国家における供給地として重要な役割を果たしました。気候的には冬季の積雪が交通の障害となることもありましたが、日本海沿岸の豊かな自然資源を生かした生活が営まれていました。続いて、北陸道は能登国(現在の石川県北部)に進みます。能登国は、日本海に突き出た能登半島を含む地域で、漁業が盛んでした。また、海運の拠点として、日本海沿岸の地域を結ぶ役割を果たし、物資の輸送を支える重要な地域でした。次に、北陸道は越中国(現在の富山県)を通ります。越中国は、北アルプスに囲まれた地形を持ち、山岳資源や農産物の供給地として発展しました。特に稲作が盛んであり、北陸地方全体の食料供給地として機能しました。また、富山湾では漁業が発展し、海産物が中央に運ばれました。さらに北陸道は越後国(現在の新潟県)へと至ります。越後国は、広大な平野と信濃川の流域を活用した稲作が発展し、日本有数の米どころとして知られていました。また、佐渡国(現在の新潟県佐渡市)にある佐渡金山は後の時代に全国的に知られる資源地となりますが、律令時代から鉱山資源が経済に寄与していました。
これら七道は、それぞれの地理的特性に応じて設置され、中央集権体制を支える物流や人々の移動を支えました。特に西海道や山陽道は、西国を中心とした国家運営に不可欠なルートとして機能し、律令国家の外交・防衛・経済を支える重要な基盤となっていました。この七道の整備によって、天皇を中心とした中央集権的な統治体制が日本全国に浸透していったのです。
三関について
三関とは、古代日本において重要な交通路を守るために設けられた三つの主要な関所を指します。不破関、鈴鹿関、愛発関がこれに該当し、それぞれが畿内を囲む形で設置されました。これらの関所は、単なる交通管理の場であるだけでなく、律令国家の防衛・統治体制を支える重要な施設でした。
不破関(現在の岐阜県垂井町)は、東山道の交通の要所であり、美濃国(現在の岐阜県)に設置されました。この関所は、畿内と東国を結ぶ重要なルートを監視するために機能しました。防衛拠点としての役割も担い、外敵や反乱軍の侵入を防ぐとともに、特定の時期には通行を制限する措置が取られることもありました。
鈴鹿関(現在の三重県亀山市)は、東海道の関所で、伊勢国(現在の三重県)に位置していました。この関所は、東国から畿内への交通を監視し、物流や人的移動を厳格に管理しました。また、鈴鹿山脈の地形を利用して、軍事的な防衛拠点としても活用されました。
愛発関(現在の福井県敦賀市付近)は、北陸道に設けられた関所で、越前国(現在の福井県)に位置していました。この関所は、日本海沿岸の交通と物流を監視し、中央と北陸地方を結ぶ重要な役割を果たしました。
このように、三関は、不破関、鈴鹿関及び愛発関の三つを指しますが、平安時代の初期になると愛発関から逢坂関(現在の滋賀県大津市)が三関の一つとして重要視されるようになります。平安京への遷都が影響しているものと思われます。
これらの関所では、特定の儀式や緊急時に「固関」が行われました。たとえば、天皇の即位や大嘗祭といった国家的な儀式の際には、畿内の神聖性を保つために関所を閉じ、外部からの出入りを厳しく制限しました。また、反乱や外敵の侵入が懸念される際にも固関が行われ、畿内の安全が確保されました。
地方の統治に携わった役人 – 国司・郡司・里長
各国には、都から派遣された国司が置かれました。国司は、天皇を中心とした中央集権的な統治を実現するために、中央から選ばれた貴族が任命されました。国司の任期は6年と定められており(後に4年となる)、定期的な交代制が取られていました。国司は国衙と呼ばれる役所で事務を執り行いました。
現代で言えば「県庁」のようなイメージで捉えるといいと思います。なお、国衙が置かれるなどその国の中心地のことを国府と言います。この制度により、地方の行政や税収管理が中央の直接的な監督下に置かれ、地方豪族の独立的な支配を抑える仕組みが作られました。
律令制度のもとで、国司は地方行政の中心的存在として、農地の調査、税収の確保、治安維持などを担当しました。天皇の名のもとで国を治める国司の派遣は、地方に天皇の権威を及ぼすと同時に、中央と地方をつなぐ役割を果たしました。この仕組みは、日本全国を統一的に管理し、律令国家としての基盤を確立する上で極めて重要なものでした。
国の下部組織として郡が置かれました。ここには、地方の有力豪族(元は国造など)が任命される郡司が置かれました。郡司は国司を補佐し、地方の具体的な運営を担いました。主な職務としては、徴税、農業の管理、住民の統治などがあり、郡という単位を通じて地方の行政が行われました。郡司は、地方豪族がその地位を継承する形で任命されるため、中央の統治機構の一部でありながら、地域の実情に通じた統治が可能でした。
なお、この「郡」という名称をめぐって、日本史学界では郡評論争と呼ばれる論争が起きました。この論争は、律令制下の「郡」が、大宝令(西暦701年)以前には「評」と呼ばれていたのではないかという問題をめぐるものです。論争の背景には、大宝令以前の金石文や出土した木簡に「評」という用字が見られる一方で、『日本書紀』の改新の詔(西暦646年)や第36代の孝徳天皇の治世の記事では「郡」という用字が記されている点があります。これに対し、改新の詔や『日本書紀』の記述が、後世の大宝令に基づいて改変された可能性が指摘されました。しかし、藤原宮跡から出土した木簡により、浄御原令(西暦689年頃)の時点では「評」という名称が用いられ、大宝令において「郡」と改称されたことが確認され、一応の決着を見ました。
さらに「郡」の下位には、里[郷]という単位が設けられ、ここには里長が置かれました。里長も在地の有力者が任命され、地域住民の生活を支える役割を果たしました。里は戸籍や課税の最小単位であり、里長がその管理を担うことで地方行政が末端まで浸透しました。
駅制と伝馬制とは?
律令時代の交通・通信制度は、現代でいう高速道路や郵便ネットワークのような役割を果たしていました。当時の日本では、広大な領土を統治し、中央と地方をつなぐために駅制が導入されました。
駅制とは、都と地方の国府を結ぶ駅路に約30里(約16km)ごとに駅家を設置し、官吏や使者が移動する際に利用できる制度です。駅家には、必要に応じて馬が用意され、駅鈴と呼ばれる通行証を持つ者だけがその馬を使うことができました。これは特別な「通行パス」のようなもので、駅鈴を持っていることで、国を横断しながら迅速に情報や物資を運ぶことができました。駅家との間の距離は、人や馬が無理なく移動できる範囲として計算されたものです。この駅家の存在は、単に「移動」を支えるだけでなく、中央集権国家の維持や地方統治の安定に欠かせないものでした。駅制がなければ、地方の情報は都に届かず、逆に都の命令も地方へ伝わらなかったでしょう。
地方では、駅路から離れた国府や郡衙を結ぶ伝路が発達しました。これは「伝馬制」と呼ばれ、駅制よりも細かく網目状に広がる通信網です。地方の役人たちは、これを使って情報を伝え、税の徴収や災害時の対応を迅速に行いました。現代のローカル道路のように、地域内の細かい移動や物流を支えたのが伝馬制でした。
余談ですが、現在の鉄道などで使われている「駅」という言葉は、この「駅家」に由来しています。普段何気なく使っている「駅」という言葉には、律令時代の交通制度が由来しています。「駅」が明治時代にstationの訳語として採用されたのは、律令時代の駅家が交通の要所であり、公的な交通機関という共通点があったためです。駅家は中央と地方を結ぶ施設で、鉄道が国策として整備された明治の状況と重なりました。また、「駅」はシンプルで馴染みやすい言葉であり、日本の伝統を活かしつつ近代化を進める明治政府の方針にも合致していたため、ステーションの訳語として選ばれました。
公務員について
律令制度の下で、五位以上の官人は貴族と呼ばれ、多くの特権を持つ階級として社会の中枢を担いました。彼らは政治的にも経済的にも優遇されており、その地位は次の世代へと受け継がれる仕組みが整えられていました。
貴族の政治的特権
貴族には、「官位相当の制」と「蔭位の制」という二つの大きな政治的特権がありました。
官位相当の制とは、それぞれの位階に応じた官職に自動的に任命される制度です。たとえば、五位の官人であれば五位にふさわしい役職に就くことができました。これにより、貴族がその位階に応じた官職を得られる仕組みが確立され、位階がそのまま官職の保証となりました。
蔭位の制は、高位の官人の子や孫が、自動的に父祖の位階に応じた官職を得られる制度です。五位以上の官人の子は五位に、三位以上の孫は三位に任命されることが定められていました。これにより、有力な家系は官職を世襲し、特権が次世代へと受け継がれる仕組みが作られました。結果として、貴族層は固定化され、官職は特定の家柄に集中することになりました。
経済的特権
貴族は、自身の位階や官職に応じて田地や封戸を得ることができました。「封戸」とは、貴族が税を取る権利を持つ家(農民)を割り当てられる制度です。「この農家の収穫物は〇〇大臣に納めなさい」というイメージを持ってもらえるといいと思います。これには次の4つの種類がありました。
- 位田 – 位階に応じて与えられる田地
- 位封 – 位階に応じて統治できる封戸
- 職田 – 官職に応じて与えられる田地
- 職封 – 官職に応じた封戸
貴族はこれらの田地や封戸から得られる収穫物の一部を自らの収入とすることができました。さらに、田地の管理や封戸を治めるのを通じて、地方の経済にも大きな影響力を持っていました。こうした経済的特権によって、貴族の生活は非常に豊かで安定していました。
税や兵役の免除
庶民が負担していた租・庸・調といった税や、兵役が貴族には免除されていました。この特権により、貴族は税負担や軍役の義務から解放され、政治活動や官職の職務に専念することができました。
減刑の特典
貴族が罪を犯した場合でも、通常は実刑を免れ、罰金や軽い処分で済むことが多くありました。これにより、貴族は法律上でも一般庶民よりも優遇されていました。
ただし、例外として「八虐」と呼ばれる天皇や国家に対する重大犯罪については、この特権は適用されませんでした。八虐には、天皇への反逆や国家の転覆を狙う反乱などが含まれます。貴族であっても、八虐を犯した場合は他の官人と同様に厳しい処罰が下されました。
五刑の制度
律令制度では、「五刑」と呼ばれる五つの刑罰制度が存在していました。これは、貴族を含むすべての人々に適用される刑罰体系であり、次のように分類されます。
• 笞 – むち打ち
• 杖 – 杖で打たれる刑罰
• 徒 – 労役刑
• 流 – 流罪(地方への流刑)
• 死 – 死刑
貴族に対しては、通常であれば流罪や死刑が減刑されることが多く、罰金や軽い処罰で済まされました。しかし、前述の八虐の罪に問われる場合には、これらの減刑特典は適用されず、貴族であっても厳格に処罰されました。