今回は、日本の旧石器時代についてわかりやすく解説していきますね!
ちなみに、世界における旧石器時代についての説明はこちらの記事を見てくださいね。
日本における旧石器時代を扱う今回は、
- 日本における旧石器時代の特徴を把握すること
- 日本において旧石器時代が存在したと分かった遺跡がどんな遺跡だったのか?を把握すること
の2点を学んでほしいと思います。
国史(日本史)全体における旧石器時代の位置づけ
まずは、国史(日本史)全体の中で旧石器時代はいつなのか?について、簡単な年表を見て確認してみましょう。

全体から考えると、一番最初の時代ですね。
ザックリと国史(日本史)のストーリーを確認したい場合は、下のコンテンツを参照してみてください。
歴史を学ぶ方法には、大きく分けて考古学と文献学の二つがあります。文献学は、文字で記録された資料をもとに過去の出来事を分析する学問ですが、日本の旧石器時代には文字による記録が残されていません。そのため、この時代の研究は、主に地中から出土する遺跡や遺物をもとに人類の営みを解明する考古学の手法に頼らざるを得ません。
一方で、日本の歴史を語るうえでは、『日本書紀』や『古事記』といった文献に記載のある神話によって肇国を説明するのが筋ではあります。神話には、国の成り立ちや文化の起源を象徴的に表す役割があり、古代の人々がどのように自らの歴史を捉えていたのかを知る貴重な手がかりとなります。そのため、神話による歴史観については、別稿で詳しく取り上げることとします。
氷河時代のあらましと日本の旧石器時代の始まり
人類の祖先が地球上に現れたのは、今から約700万年前といわれています。その後、さまざまな進化を経て現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生し、世界各地へと広がっていきました。
地質年代の第四紀は、およそ1万年前を境に更新世と完新世に分かれます。更新世は、およそ260万年前に始まり、地球の気候が寒冷化する時期が何度も訪れた時代です。更新世は氷河時代とも呼ばれ、寒い時期(氷期)と暖かい時期(間氷期)が交互に繰り返されました。
氷期になると気温が低下し、大気中の水分が雪となって降り積もり、長い年月をかけて氷床へと変化しました。特に北半球の高緯度地域では厚い氷の層が形成され、大量の水が氷として陸地に固定されました。この影響で海水の総量が減少し、海面が低下しました。
最終氷期(紀元前25000年頃〜紀元前10000年頃)には、現在よりも100メートル以上も海面が低くなり、日本列島とユーラシア大陸は陸続きになりました。
この結果、北方からはマンモスやヘラジカ、南方や朝鮮半島からはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が移動してきました。ナウマンゾウは、19世紀(明治時代)に来日したドイツの地質学者であるハインリッヒ・エドムント・ナウマンの研究に基づいて命名されました。ナウマンは日本各地で地質調査を行い、日本の地質学の発展に貢献しました。その後、長野県の野尻湖では、多くのナウマンゾウの化石が発見されました。これらの化石とともに、当時の人類が使用したとされる打製石器も見つかっており、ナウマンゾウが狩猟の対象となっていた可能性が指摘されています。
さて、このように大型動物が日本にやってくると、それを追いかけるかのように、人類も日本にやってきました。
日本の旧石器時代の人々と日本人の起源
日本で発見される化石人骨は、すべて新人段階のものです。
日本人の原型は、約38,000年前に日本列島に渡ってきた南方系の古モンゴロイドだと言われています。彼らは東南アジア方面から移動し、寒冷な環境にも適応しながら日本各地で生活を営みました。現在の沖縄県では、日本最古の化石人骨とされる山下町第一洞人(沖縄県那覇市)が発見されており、同じ沖縄県では、白保竿根田原洞穴人(沖縄県石垣島)や港川人(沖縄県具志頭村)も見つかりました。さらに、静岡県では浜北人が発見されています。
彼らは狩猟採集生活を営み、獲物を求めて移動を続ける生活をしていました。
その後、弥生時代になると、北方系の新モンゴロイドが日本列島に到来し、古モンゴロイドと混血していったと考えられています。これが現在の日本人の起源の一つとされています。
また、日本語の語系はアルタイ語系に分類されると考えられており、言語のルーツも日本人の移動と深く関係しているとされています。
旧石器時代の植物と環境
旧石器時代の日本では、現在のような森林は少なく、寒冷な気候に適応した針葉樹林が広がっていました。特に、トウヒやカラマツなどの寒さに強い樹木が多く、草原も広がっていました。
これらの環境が、ナウマンゾウやオオツノジカのような大型草食動物にとって適した生息地となっていたようです。
旧石器時代の道具と生活
旧石器時代で特徴的なのは、石を打ち欠いて作った打製石器が用いられていました。
具体的には、多目的に利用された握槌や切断機能を持った石刃(ブレイド・ナイフ形石器ともいう)や突き刺す機能を持った(刺突用の)尖頭器(ポイント)などがあり、狩猟や採集の道具として使われました。
また、打製石器の中には骨や角に溝を刻み込んでそこに細石刃と呼ばれる打製石器を埋め込んだ細石器[マイクロリス]と呼ばれる種類の打製石器が見られるようになりました。北海道にある白滝遺跡は黒曜石と呼ばれる石の原産地としてよく知られていますが、細石器が大量に発見された遺跡としても有名です。
大型動物の群れはずっと移動しているので、それを食べている人類も当然ながら移動していきます。つまり、定住生活ではなく移住生活だったのです。
なお、この時代は土器は使われていませんでした。
日本における旧石器文化の遺跡
旧石器時代の日本の存在を証明するうえで、最も重要な発見が岩宿遺跡(群馬県)です。戦前の考古学界では「日本には旧石器時代は存在しない」と考えられていました。
しかし、1946年(昭和21年)、在野の研究者である相沢忠洋さんが関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見しました。
当時の考古学界では、関東ローム層は火山灰が繰り返し堆積してできた地層であり、その酸性土壌の性質から、人骨などの有機物の化石が残りにくいと考えられていました。そのため、この地層から旧石器時代の遺物が発見されるとは想定されていなかったのです。しかし、相沢忠洋さんの発見により、日本にも旧石器時代があったことが明らかになりました。その後、西暦1949年(昭和24年)には正式な発掘調査が行われ、さらに多くの打製石器が発見されました。この発見は、日本の考古学研究において画期的な出来事となり、それまでの通説を覆し、旧石器時代の存在が認められる大きな一歩となりました。
相沢忠洋さんの功績から私たちが学べることは多くあります。彼は学者ではなく在野の研究者でしたが、「日本には旧石器時代は存在しない」という当時の常識に疑問を持ち、自らの手で証拠を見つけました。相沢さんのように、既存の考えにとらわれず、自ら調べ、問いを持つ姿勢は、現代においても大切です。時には、専門家でなくとも情熱と探究心を持って取り組むことで、新しい歴史が明らかになることを、彼の発見は私たちに示しています。
まとめ – そして縄文時代(新石器時代)へ
日本の旧石器時代は、氷河時代の厳しい環境の中で、人々が狩猟や採集をしながら移動生活を営んでいた時代でした。大型動物とともに日本列島にやってきた彼らは、打製石器を駆使し、氷河期特有の植物や環境に適応しながら生き抜きました。また、氷期と間氷期が交互に訪れることで、環境が変化し、狩猟採集の形態にも影響を与えました。
そして、岩宿遺跡の発見によって、日本にも旧石器時代があったことが証明され、私たちの歴史の理解が大きく深まりました。相沢忠洋さんの偉業は、日本の考古学に大きな貢献をし、その探求心と努力の姿勢は現代を生きる私たちにも重要な示唆を与えます。今後も発掘や研究が進むことで、さらに多くのことが明らかになるかもしれません。
地球はやがて温暖化の方向へ向かいます。すると、海水面が上昇して大陸と日本列島は分離します。これが縄文海進です。
そして、大陸から大きな動物が来なくなり、代わって中小動物が日本列島では多くなってきます。これが縄文時代の始まりです。
縄文時代のストーリーは別でくわしくお話ししていきましょう!