歴史の勉強で大切なのは、いつ?どこで?何が?どのように起こったのか?を理解することです。特に大切なのが、いつ起こったのか?を理解することです。これは年代をどのように数えるのか?という問題につながっていきます。
年代の数え方のことを、難しい言葉で、紀年法と言います。
今回は年代のカウントの仕方のパート2ということで、和暦について勉強していきます。
和暦というのは、日本で使われている紀年法のことをまとめて指す場合に言います。歴史の勉強をする際に、特に覚えておいた方がよい和暦の紀年法は元号です。また、日本人として知っておいた方がよい2つの紀年法、すなわち六十干支と皇紀についてもわかりやすく解説します。
元号について
日本の歴史上、元号はいくつ存在するのか?
今は「令和」という元号が使われていますね。
現代においては、ご在位されている天皇陛下が御代代わりした時に元号が代わります。
これを改元と言います。
平成31年4月30日で「平成」という元号は使われなくなり、令和元年5月1日から「令和」が使われています。
日本は「大化」という元号が使われ始めてからこれまでどれぐらいの元号が使われていたか知っていますか?
何と248号(元号は「号(ごう)」と数えます)も使われてきました。
改元のパターンは歴史上4パターンある!
江戸時代よりも前はいろんな理由で改元が行われていました。
ここで改元の4パターンを紹介しますね!
- 代始改元
天皇陛下や征夷大将軍が代替わりをされる時の改元のこと
(例)平成から令和など - 祥瑞改元
おめでたいことが起こったという理由で行われる改元のこと
(例)霊亀から養老など - 災異改元
災害や疫病が流行ったりしてその影響を断ち切ろうとするための改元のこと
(例)元禄から宝永など - 革年改元
革令〈甲子の年〉、革運〈戊辰の年〉及び革命〈辛酉の年〉の年に行われる改元のこと。
中国(チャイナ)の古い教えで、大きな変化が起こるとされている年が60年のうちに3つの年にあるとされ、それが「甲子の年」「戊辰の年」「辛酉の年」です。革令〈甲子の年〉・革運〈戊辰の年〉・革命〈辛酉の年〉の年については後ほど解説します。
(例)万延→文久・・・江戸時代末期 など
今は1.だけですが、江戸時代よりも前にはいろんな理由で改元がありました。
「元号」ってなぜあるの?
ところでなぜ「元号」があるのでしょうか?
それは昔の東アジアは中国(チャイナ)がトップで、朝鮮などの周囲の国は中国(チャイナ)の家来のような国だという秩序がありました。日本もそれに組み込まれていました。
中国(チャイナ)のトップに立つ皇帝は、改元することで時間を自由に操る存在であるとも言われていました。だから、中国(チャイナ)の秩序に組み込まれている国々は、最初は中国(チャイナ)の元号を使用していました。ちなみに、世界最古の元号は、中国(チャイナ)にかつて存在した漢(前漢)という王朝の皇帝の武帝の時代に「建元」という元号が使われたことがきっかけでした(西暦でいう紀元前140年)。
しかし、聖徳太子をはじめとする我が国の政治家たちはこういった中国(チャイナ)を中心とした国際秩序の中に入っていくことを「よし!」とは思っていませんでした。日本独自の元号を使用し始めたのは、日本の独立を内外に示す目的があったのだと言われています。聖徳太子と隋の皇帝であった煬帝との外交上の駆け引きについては別の記事でくわしく解説しています。
こういった駆け引きを経て、西暦701年(大宝元年)に「大宝律令」という法令が制定されてから、日本では元号がずっと使われるようになったのです。
「貞享暦」の誕生 – 日本人によるオリジナルの暦
元号は中国(チャイナ)と独立して使うようにはなりましたが、暦は相変わらず輸入して使っていました。日本は中国(チャイナ)とは朝貢冊封体制の秩序からは外にいたため、暦を正式なルートで取り入れることはできませんでした。したがって、私貿易などのルートで中国(チャイナ)から暦を仕入れていたようです。
しかし、外国の暦をそのまま日本で使うには無理があります。緯度が異なったりするので、月などの天体の満ち欠けや気候も異なるため、農作業などに影響が及びます。
暦を作るには天文学や数学や測量など、とても高度な学問が要求されました。したがって、暦を自分で作ることは余程の文明国でなければ難しかったのです。
暦が日本人によって作られるようになったのは江戸時代になってからでした。その暦のことを、当時の元号「貞享」から、貞享暦と言いました。渋川春海が作りました。実はこのハナシについては映画「天地明察」(主演: 岡田准一さん)にもなっているので、ぜひ時間のある人は見てみましょう。
明治時代以降の元号について
現行の暦は、西暦1873年(明治6年)に太陽暦であるグレゴリオ暦が導入され、西暦1873年(明治6年)1月1日から国内で運用されています。
もちろん元号は明治になっても使い続けられています。大日本帝国憲法と皇室典範が制定されてからは、「大宝律令」に代わって「皇室典範」に基づいて発布された「登極令」という法令の中に元号についての条文が記されています。これが大日本帝国憲法下の日本における元号についての根拠法令です。
第二條 天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム 元号ハ樞密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス
登極令より https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%99%BB%E6%A5%B5%E4%BB%A4
第三條 元號ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス
しかし、大東亜戦争に敗れた日本は、GHQによる占領政策のもとで「皇室典範」が改正されました。その結果、元号についての規定が消えてしまいました。
日本国憲法下で新たに「元号」について法的根拠ができあがったのは、昭和54年(西暦1979年)の時でした。「元号法」という法律ができました。時の内閣は大平正芳内閣です。
1 元号は、政令で定める。
「元号法」(昭和五十四年法律第四十三号)
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
実際に「元号法」に基づいて改元がされたのは、昭和から平成への改元の時が最初です。昭和天皇が昭和64年(西暦1989年)1月7日に崩御され、この時に公布された「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)が公布されました。そこでは、新しい元号を「平成」とすることや「平成」という元号は1月8日から使われることが規定されました。
現在、世界の中で「元号」が使われているのは日本だけです。日本の大切な文化を守っていきたいものです。
六十干支について
六十干支と読みます。
これは、十干十二支を組み合わせて作った紀年法です。
なお、六十干支については高校の「古文」の授業で触れられることが多いです。
ちなみに、荻野文子先生の「マドンナ古文常識」は高校生の皆さんにも読みやすい参考書です。楽しく古文常識を学びたい人におすすめの参考書です。
十二支とは?
十二支というのは皆さんご存じですね。
子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・
辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・
申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)
という動物が登場しますね。
十二支は、年を数えるだけでなく、時刻を表現したり方角を表現したりする場合にも使われます。
十干とは?
十干というのは、元々は日にちを順番に10日のまとまりで数えるための呼び名でした。
具体的には以下の通りです。
甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・
戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・
壬(じん)・癸(き)
の10種類があります。
十干は「木・火・土・金・水」の5つの要素と結びついていきます。世界のあらゆるものはがこれら5つの要素から成り立っていて、木・火・土・金・水がその5つの要素にあたるということです。これを「五行説」と言います。また、世の中のあらゆるものはプラスとマイナスの2つの側面があるという「陰陽説」という考え方があります。この2つの考え方を合わせて「五行陰陽説」と言います。
「木・火・土・金・水」の5つの要素にそれぞれプラスとマイナスがあるので、全部で10個の要素が登場します。これと十干が結びつきます。
兄がプラス、弟がマイナスを意味するものだと思ってください。甲は木の兄だから「きのえ」、乙は木の弟だから「きのと」のような感じで組み合わされていきます。
六十干支の作り方について
そして、十二支と十干とをくっつけて暦が作られます。
1年目の年は、十干の1番目と十二支の1番目と組み合わせて甲子という名前の年になります。音読みで「かっし」とか「こうし」などとも読みます。2年目の年は十干の2番目と十二支の2番目と組み合わせて乙丑という名前の年になります。このように十干と十二支とを組み合わせていくのです。
十干も十二支も順番に進んでいきます。十干の一番最後の癸(みずのと・き)と十二支の一番最後の亥(いのしし・い)が組み合わさるのは、10と12の最小公倍数である60番目の暦になります。それを示したのが上の画像です。十干は6廻り目、十二支は5廻り目でピッタリ終わっていることに気づいてもらいたいです。60年経つとまた甲子(きのえね)に戻ります。グルッと暦が還ってくるので還暦と言います。60歳の人のことを還暦と言いますよね。これはココから来ています。
六十干支の表が国立国会図書館のウェブサイトにあったので、以下ざっくりと見てみましょう!
番号 | 干支 | 音読み | 訓読み | 番号 | 干支 | 音読み | 訓読み |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 甲子 | こうし | きのえね | 31 | 甲午 | こうご | きのえうま |
2 | 乙丑 | いっちゅう | きのとうし | 32 | 乙未 | いつび | きのとひつじ |
3 | 丙寅 | へいいん | ひのえとら | 33 | 丙申 | へいしん | ひのえさる |
4 | 丁卯 | ていぼう | ひのとう | 34 | 丁酉 | ていゆう | ひのととり |
5 | 戊辰 | ぼしん | つちのえたつ | 35 | 戊戌 | ぼじゅつ | つちのえいぬ |
6 | 己巳 | きし | つちのとみ | 36 | 己亥 | きがい | つちのとい |
7 | 庚午 | こうご | かのえうま | 37 | 庚子 | こうし | かのえね |
8 | 辛未 | しんび | かのとひつじ | 38 | 辛丑 | しんちゅう | かのとうし |
9 | 壬申 | じんしん | みずのえさる | 39 | 壬寅 | じんいん | みずのえとら |
10 | 癸酉 | きゆう | みずのととり | 40 | 癸卯 | きぼう | みずのとう |
11 | 甲戌 | こうじゅつ | きのえいぬ | 41 | 甲辰 | こうしん | きのえたつ |
12 | 乙亥 | いつがい | きのとい | 42 | 乙巳 | いつし | きのとみ |
13 | 丙子 | へいし | ひのえね | 43 | 丙午 | へいご | ひのえうま |
14 | 丁丑 | ていちゅう | ひのとうし | 44 | 丁未 | ていび | ひのとひつじ |
15 | 戊寅 | ぼいん | つちのえとら | 45 | 戊申 | ぼしん | つちのえさる |
16 | 己卯 | きぼう | つちのとう | 46 | 己酉 | きゆう | つちのととり |
17 | 庚辰 | こうしん | かのえたつ | 47 | 庚戌 | こうじゅつ | かのえいぬ |
18 | 辛巳 | しんし | かのとみ | 48 | 辛亥 | しんがい | かのとい |
19 | 壬午 | じんご | みずのえうま | 49 | 壬子 | じんし | みずのえね |
20 | 癸未 | きび | みずのとひつじ | 50 | 癸丑 | きちゅう | みずのとうし |
21 | 甲申 | こうしん | きのえさる | 51 | 甲寅 | こういん | きのえとら |
22 | 乙酉 | いつゆう | きのととり | 52 | 乙卯 | いつぼう | きのとう |
23 | 丙戌 | へいじゅつ | ひのえいぬ | 53 | 丙辰 | へいしん | ひのえたつ |
24 | 丁亥 | ていがい | ひのとい | 54 | 丁巳 | ていし | ひのとみ |
25 | 戊子 | ぼし | つちのえね | 55 | 戊午 | ぼご | つちのえうま |
26 | 己丑 | きちゅう | つちのとうし | 56 | 己未 | きび | つちのとひつじ |
27 | 庚寅 | こういん | かのえとら | 57 | 庚申 | こうしん | かのえさる |
28 | 辛卯 | しんぼう | かのとう | 58 | 辛酉 | しんゆう | かのととり |
29 | 壬辰 | じんしん | みずのえたつ | 59 | 壬戌 | じんじゅつ | みずのえいぬ |
30 | 癸巳 | きし | みずのとみ | 60 | 癸亥 | きがい | みずのとい |
上の画像と合わせて見てもらえるとよりよく分かると思います。
五行陰陽説からこのような暦を作っているので、五行には属性があるので年には個性があるということになります。これが占いの素になっているのです。
今年が六十干支で言うとどんな年になるのか?についてはネットで調べてみましょう。
六十干支はどのように使われるのか?
六十干支は占いのためだけに使われるのではありません。実はちゃんとした暦として使われています。
中国(チャイナ)の殷と呼ばれる時代から使われていることが記録の中で残っているそうです(殷についての解説はこちら)。随分長く使われています。日本でもよく使われています。
壬申の乱
戊辰戦争
甲子園
歴史の用語でも使われています。甲子園なんて言うと、阪神タイガースファンとか野球部の子たちは興奮してしまいそうですが、阪神甲子園球場は甲子(きのえね、こうし)の年にできたから「甲子園」って言うんです。
また、江戸時代よりも前の庶民は六十干支の方をよく使っていたのだそうです(ちなみに、お役人さんは元号も使っていました)。元号はコロコロ代わっていました。1つの元号の使用期間を平均すると5年半に1回の割合で改元が行われてます。改元されたと思ったらすぐに改元される。暦としては使いにくいことこの上ないですよね。昔は60年も生きる人は多くありませんでしたから、六十干支の方が使いやすい感じだったのです。
[補足] 革年改元について
元号の解説のところで、改元の4パターンのうちの1つで「革年改元」というものを取り上げました。復習をしておくと、革令〈甲子の年〉・革運〈戊辰の年〉・革命〈辛酉の年〉の年のことを指します。この年は昔から大きな出来事が起こりやすい年とも言われており、あらかじめ改元しておいて悪いことから逃れようということなのです。
皇紀(神武天皇暦)について
最後に皇紀について触れておきましょう。ひょっとして初代の天皇の名前を卑弥呼だと思っている人もいるかもしれませんが違います!初代の天皇の名前は神武天皇と申し上げます。神武天皇は、今の奈良県の橿原の地で即位されました。神武天皇が即位したときに、神々に対してお誓いをされました。
兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
——–
六合を兼ねてもって都を開き、八紘をおおいて宇と為んこと、またよからずや
と仰って、「天地四方八方の果てに至るまで、この地球上に所属するすべての民族があたかも一軒の家に住むように仲良く暮らしていけるよう、そんな国づくりをしていきます(橿原神宮ウェブサイトより)」ということを神々に誓いました。神武天皇ご即位の年を元年としてカウントする紀年法が皇紀です。くわしくは、「神武天皇の肇国の詔」の解説をご覧ください。
今でも神社なんかではよく見ます。初詣なんかに行く機会のある人は探してみてください。
今年の様々な表記方法を調べてみよう! -我が国は多様な年代の表記方法があります
今年は何年なのか?を表現してみよう!
- 西暦
- 世紀
- 元号
- 六十干支
- 皇紀(神武天皇暦)
これだけ多くの表現方法があるのは、日本が文化的にとても豊かであることの現れとも言えますね。
神社で絵馬に何かをお願いするときは西暦よりも和暦を使った方が相応しいかもしれません。逆に教会や欧米の人とやりとりをしたり時代をまたいで年数の計算をするときは西暦を使った方が便利です。
このように、時と場合に応じて使い分けができる人の方が教養があるなぁと思います。これを日本まほろば社会科研究室の客員研究員の加代昌広先生は「暦のコーディネート」と呼んでいます。服をTPOに合わせてコーディネートをするのと同じように、年代表記もまたコーディネートができればいいのではないかということです。
世の中には様々な意見があります。「和暦を無くしたほうがいい」という意見もたくさん聞かれます。西暦は世界中の人が使いますが、和暦はほぼ日本人しか使いません。逆に言えば、日本人が和暦を使わなければ世界から和暦が消えてしまいます。世の中はグローバル化が進んでいると言われていますが、一方で世界にはいろいろな文化が存在して然るべきです。世界に1つの文化しかない状況は普通に生きていてつまらないですよね。我が国のご先祖さまが残してくださっている文化は利用することで残っていくのです。
せっかくの日本の財産ですし、西暦だけでなく和暦もガンガン使って大切にしていきたいものですね。
この意見は国語WORKSの松田雄一先生から頂いたものですが、大賛成です!