今回の原稿を読むと、以下の内容を知ることができます。
- 鎌倉幕府が滅ぼされていくプロセスを知ることができる。
- 鎌倉幕府がなぜ滅亡の道を進んでしまったのかを理解できる。
日本の危機であった元寇を、鎌倉幕府を中心に乗り越えましたが、幕府に仕えていた御家人の力が弱まり、北条氏の権限は元寇を機に強まっていきました。
さらに、皇位継承を巡って対立が起こっていた朝廷の問題について鎌倉幕府が裁定を下す事件も起こりました。
鎌倉幕府の助言により、後深草天皇系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)とが代わりばんこで天皇に即位することにしたのです。これを両統迭立と言います。
皇位継承の問題で混乱させた朝廷もよろしくないとはいえ、臣下である鎌倉幕府が皇位継承について助言をするという状況もやはり望ましい形ではありません。
そのような中で、朱子学という南宋から伝わってきた学問を学んだ後醍醐天皇が第96代天皇として即位しました。
[コラム]
朱子学では理性を持った人間が庶民を支配すべきであると唱えます。それは国家間でも同様であり、理性のある国が野蛮な国を支配すべきであるという価値観につながります。具体的には、理性のある国(南宋)が野蛮な国(金)を支配すべきであるということです。朱子学は中国(チャイナ)の北部を金によって支配されていたため、その正統性を唱えた学問だったのです。くわしい経緯は、平氏政権のコンテンツで説明しているので、よかったらご覧ください。
朱子学を学んでいる後醍醐天皇は、「日本の中心は天皇である」という考え方をお持ちになることは想像に難くありません。
それでは、鎌倉幕府の倒幕の様子を見ていきたいと思います。
なお、このコンテンツを見る前提として、鎌倉幕府の衰退のコンテンツを一読されることをオススメします。
また、鎌倉時代の全体像を復習したいという人は、以下のコンテンツを学習することをオススメします。
2度の倒幕計画(その1) – 正中の変
後醍醐天皇は徳のある天皇であろうとし、都の政治に精を出します。飢饉の時にも、「天は庶民ではなく朕を罰せよ」と言っているぐらいです。
また、家柄に関係なく能力のある公家を登用します。後醍醐天皇は彼らを中心に倒幕計画を練ります。彼らは六波羅探題を襲撃する計画を練っていました。六波羅探題は覚えていますか?承久の乱(承久の変)で出てきましたね。鎌倉幕府の京都にある機関です。
しかし、この計画は途中で鎌倉幕府側に漏れていました。朝廷は幕府に対して後醍醐天皇がこの計画に関与していないことを申し開きをしました。幕府はこの申し開きを認めました。
これを、西暦1324年(正中元年)という元号からとって「正中の変」と呼ばれます。
後醍醐天皇は倒幕計画が一度漏れたからと言ってあきらめることはしませんでした。
2度の倒幕計画(その2) – 元弘の変
後醍醐天皇は皇子の護良親王を延暦寺の天台座主(=延暦寺の中でもっとも偉い人)に就けて、寺院勢力を後醍醐天皇の味方にしようとしたりして、倒幕に向けて精力的に活動します。
しかし、西暦1331年(元弘元年)に倒幕計画は再び鎌倉幕府に見つかります。幕府は後醍醐天皇に向けて兵を差し向けます。後醍醐天皇は三種の神器を持って笠置山に逃れます。
後醍醐天皇が笠置山に滞在していたある夜、不思議な夢を見たと言います。ここで、河内地方(現在の大阪府)にいた悪党である楠木正成の存在を知ったと軍記物の「太平記」には書かれています。ちなみに、研究によれば、後醍醐天皇の夢に登場する前から楠木正成の存在は知っていたとのことです。軍記物なので、あくまでも物語です!
後醍醐天皇に仕えていた日野俊基が幕府に捕らえられ、鎌倉に送られる場面は「太平記」の中で美しい色彩感覚で描かれています。七五調で書かれているので、とてもリズムがよいです。
落花の雪に踏み迷う 片野の春の桜狩り 紅葉の錦着て帰る 嵐の山の秋の暮れ 一夜を明かす程だにも 旅宿となれば懶きに 恩愛の契り淺からぬ 我が故郷の妻子をば 行方も知らず思いおき 年久しくも住みなれし 九重の帝都をば 今を限りと顧みて 思わぬ旅に出で給もう 心の中ぞ哀れなる。
「太平記」巻第2 – 日野俊基の妻との別れの際の場面
戦前の教科書には名文として載っていたと言われています。一度、素読をしておきたいですね。
楠木正成らの活躍はあったものの、後醍醐天皇側は鎌倉幕府軍に敗れました。後醍醐天皇は隠岐に流されました。
鎌倉幕府は後醍醐天皇を廃帝とし、次に持明院統の光厳天皇を擁立しました。
鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇は隠岐に流されても決して倒幕をあきらめることはありませんでした。
西暦1332年(元弘2年)に護良親王や楠木正成が近畿地方で蜂起しました。
また、後醍醐天皇も警備の隙をついて隠岐の脱出に成功しました。烏賊の漁船で烏賊まみれになっていたのだとか…。
さらに、鎌倉幕府に仕える御家人からも後醍醐天皇の倒幕運動に参加するものが現れました。その代表格が足利高氏です。中学校の歴史教科書には足利尊氏と書かれていると思います。鎌倉幕府が滅亡する頃は足利高氏と名乗っていました。「高」の字は北条氏の中で当時権勢を誇っていた北条高時の「高」の字をもらっています。「尊」の字になるのは、鎌倉幕府が滅亡してからです。彼は鎌倉幕府の中でも有力御家人の1人です。足利氏は源義家の三男からの流れを汲む家柄です。つまり、源氏であり名門です。足利高氏はもともと後醍醐天皇討伐を幕府から命ぜられていました。京都に着いた時、幕府を裏切って六波羅探題を攻めます。結果は成功しました。
鎌倉を攻めたのは、同じく源氏の流れを汲む新田義貞でした。新田義貞は当初兵を集められませんでしたが、足利高氏の息子である足利義詮(当時は千寿王)が挙兵。当時はまだ4歳。もちろん足利高氏の代わりです。足利高氏は京都におり、京都から出られる状況にありません。足利義詮の挙兵を知るや否や、大量の兵が駆け付けます。
軍記物「太平記」には次のような言い伝えが書かれています。新田義貞は稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしていましたが、ここを越えることができませんでした。当時の稲村ヶ崎は切り立った崖となっていて、道が狭く軍勢を進ませることができなかったのです。しかし潮が引くとそこから一気に鎌倉に入れます。そこで新田義貞は金の太刀を海に投げ入れました。すると潮がひき、新田義貞率いる軍は鎌倉の市街地へ進軍。北条高時らは自害をしました。黄金の太刀の逸話はホントかどうかはよく分かりませんが、新田義貞が鎌倉を討ったことは史実です。
こうして、西暦1333年(元弘3年)鎌倉幕府は約140年の歴史に幕を閉じることとなりました。
鎌倉幕府がなぜ滅んだのかについては、学者によってさまざまな意見が主張されていますが、後醍醐天皇による倒幕運動に対して有力御家人の足利高氏が立ち上がったことが直接的であると言ってもよいでしょう。無論、勤皇家である楠木正成の活躍などがあったことは言うまでもありませんが…。
この後、後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、天皇親政を行います。一般的に建武の新政(建武の中興)と呼ばれます。