6世紀に入ると、ヤマト政権による統治は危機に陥ります。皇位継承に危機がおとずれました。
また、この頃朝鮮半島に動乱が起こりました。大和政権は朝鮮半島に権益を持っていました。ですから、日本にも影響が及びます。
この後に、日本には百済から仏教が伝来しました。仏教の教えを日本に受け入れるかどうかでヤマト政権の中で議論がわきおこりました。
今回は、
- 6世紀前半における皇位継承の危機について
- 6世紀前半の朝鮮半島の動向について
- 日本に仏教が伝来した時の大和政権内での議論について
の3点について、分かりやすく解説をしていきたいと思います。
なお、このコンテンツの仏教の受容については、「日本が好きになる歴史授業」の齋藤武夫先生が作成された授業内容を大変参考にしております。謹んで御礼を申し上げたいと思います。
6世紀前半における皇統の危機について
6世紀の前半に、日本では皇位継承に重大な危機がおとずれました。
第25代の武烈天皇にはお子様がおられませんでした。皇位に就ける者はいわゆる「男系」でなければなりません。「男系」というのは、父と子の間の系統を意味します。つまり、皇位の継承者はお父さんをさかのぼると神武天皇にまで行きつき、さらにさかのぼると天照大御神まで行きつきます。三大神勅の1つである「天壌無窮のご神勅」にも記してあるとおりです(三代神勅を分かりやすく解説します)。

こういった原則が崩れそうになっていた時、当時の人たちはどのように解決したのでしょうか。現在、天皇陛下がいらっしゃるということは、この皇統断絶の危機を免れたからなのです。
大和政権の豪族たちは天皇の地位に就ける人を全国から探しました。もちろんアイドルのオーディションのように探したわけではありません。先ほど述べたように、「男系」の男子を探したのです。そうすると、越国にいらっしゃった男大迹王という方がいらっしゃいました。ここで言う「越国」とは現在の福井県です。男大迹王は、現在の福井県坂井市という場所にいらっしゃいました。男大迹王は、第15代天皇の応神天皇の五世孫(来孫)にあたります。

天皇の皇子で天皇に即位しなかった者の多くは、地方に下って地方の政治に携わっていたのです。ですから、地方にいらっしゃった皇子の子孫が中央にお戻りになることは何ら不思議な話ではありませんでした。
男大迹王は、後に継体天皇と呼ばれるようになります。第26代の天皇です。
朝鮮半島の情勢と大和政権
6世紀の朝鮮半島の情勢
日本では皇位継承で問題が起こっていた頃、朝鮮半島では北部にいた高句麗が勢力を拡げて南下していました。

これにつられるかのように、新羅と百済も南下を始め、伽耶諸国が圧迫されるようになります。「日本書紀」によると、新羅と百済は伽耶諸国を次々と併合していきます。
ヤマト政権は、朝鮮半島南部の伽耶諸国の一部である任那地域に影響力を持っていましたが、西暦512年に任那の4県は百済に割譲されました。百済はその見返りとして、五経博士と呼ばれる学者を日本に送りました。
国造磐井の乱
一方、新羅は伽耶諸国を圧力をかけ続けていました。
ヤマト政権は朝鮮半島における権益を守るために、伽耶諸国の救援をしようと考えました。
そこで、西暦527年に近江毛野率いる日本軍を朝鮮半島南部に出兵させようとしました。しかしここで邪魔が入りました。何と日本の豪族であった筑紫国の国造であった磐井が新羅と手を結び、この出兵を阻んだのです(俗に「磐井の乱」と呼ばれることがあります)。翌年に磐井は物部麁鹿火によって鎮圧されました。
結局、伽耶諸国への救援は失敗に終わりました。
結局、西暦562年、伽耶諸国は新羅に完全に併合されてしまいました。これによって、ヤマト政権は朝鮮半島の拠点を失う結果となりました。
仏教の公伝
朝鮮半島が動乱状態にある中で、日本に仏教が伝来するお話を解説していきます。なお、最近では「仏教の公伝」という言い方をすることが多いです。なぜかというと、「公伝」つまり公に伝えられる前に私的に伝えられていた(私伝)とされている証拠があるからです。
詳しくは大和[古墳]時代の文化のコンテンツで解説しています。
ここからは仏教の公伝についてお話を進めたいと思います。
なお、朝鮮半島から日本に伝わったのは大乗仏教の教えでした。仏教が誕生したお話は別で述べているのでそちらを参照してください。
いつ日本に公伝されたの?
仏教がいつ公伝したのかは様々な史料をもとに様々な学説が存在していますが、「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」が根拠の西暦538年に伝わったとされる説、もう1つは「日本書紀」が根拠の西暦552年に伝わったとされる説などが代表的です。
ただ、いずれの学説を採ったとしても、第29代の欽明天皇の御代に、朝鮮半島にあった百済の聖明王から伝わったとされていることだけは確かなことです。
「仏教の教え」を日本に取り入れるべきか? – 政策選択をしてみよう!
百済の聖明王は手紙で欽明天皇に対して次のように仰いました。
仏様はたいへんありがたい神さまです。いま中国も朝鮮の私たちの国も、この仏さまを信じています。ヤマト政権のみなさんも、これからは仏教を信仰して大和の国をさら立派にしていったらいかがでしょうか?
これに対して、欽明天皇は次のようにお答えになりました。
これほどありがたい教え、美しい仏は聞いたことも見たこともなく、たいへん心が動いている・・・しかし、国家の一大事なので自分一人で決めることはしません。
大切なことは必ずみんなで決める。これが日本が大切にしてきた価値観です。神話でもそうでしたね。国生みの時も天の岩戸の時もみんなそうです。
日本では昔から、外国から新しい文化や知識が伝わってくるたびに、「新しいものを取り入れるべきだ」という革新派と、「昔からあるものを大切にすべきだ」という保守派が真剣に議論していました。そしてこのとき、欽明天皇も仏教を取り入れるべきかどうか非常に悩まれました。なぜなら、仏教は「外国の神様」であり、日本には昔から日本を守ってくれる神様がいたからです。
たとえば、日本には「伊邪那岐命」や「伊邪那美命」や「須佐男命」や「天照大御神」といった神様がいらっしゃいました。これらの神様は、日本を作ったり、国を守ったりしてきたとされる神様で、特に天皇家のご先祖とされる「天照大御神」はとても大切にされてきました。また、日本には、山や海、土地の神様、そして古墳に祀られた王様の霊など、たくさんの神様がいるのです。
欽明天皇が「仏教を信じてよいものか?」とお悩みになられたのは、日本の神々に代わり「仏教という新しい神様」をお受け入れになるべきかどうか、ご迷いになられたからです。仏教を取り入れたいというお気持ちはお持ちでありながらも、「これまで信じてきた日本の神々をお忘れになってよいのだろうか?」とお考えになり、容易にはお決めになれなかったのです。
人々は「神様が私たちを守り、国を発展させてくれている」と考えていました。毎日神様に感謝し、神様の力で国も人も守られていると信じていたのです。ですから、欽明天皇は新しい神様である仏教を受け入れることで日本の神様をどうするか、非常に悩まれたのです。
だから、大事なことは天皇一人で決めるのではなく、家来や豪族たちが集まる大広間で大討論会を開こうとしたのです。
さて、皆さんもご先祖の一人になったつもりで討論に参加するという勉強です。日本の未来がかかっていますから、いい加減な気持ちでは困りますよ。ではお題を出します!
仏教を日本の宗教にすることに賛成か反対か?
皆さんは必ず賛成か反対かのいずれかの政策選択をしなければなりません。中間意見はダメです。そしてなぜそのような政策選択をしたのか?理由を述べなくてはいけません。まずは自分の意志で選択してみます。周りの人の意見はこうだから自分も…ではいけません。これが国の政治に参加するということです。
とは言っても、賛成する人と反対する人の意見が全くないとそれも決められないと思います。そこで、みなさんはヤマト政権の大広間に三井先生と一緒に行ってもらいます。そして仏教を国の宗教にすることを賛成する政治家と反対する政治家のお話を聞いてもらいます。そして自分の意見を固めてみることにしましょう。では、ここからは中学校の三井先生にお任せして一緒に考えていきましょう!
三井先生:「今日は、皆さんに仏教を日本の宗教として受け入れるべきかどうかを考えてもらいます。まずは、賛成派の蘇我稲目さんと反対派の物部尾輿さんにインタビューしてみましょう!」
仏教をとりれるべき!蘇我さんへのインタビュー
三井先生:「蘇我さん、あなたは仏教を日本に取り入れるべきだとお考えのようですが、その理由をお聞かせください。」
蘇我さん:「そうですね。仏教は今や世界の常識です。日本のお隣の朝鮮半島や中国の国々でも、仏教が大切にされています。中国にはたくさんのお寺が並び、あちこちで美しい仏様が礼拝されています。多くの人が仏教を信じ、仏教を中心に政治も文化も発展しています。強い国、文化が進んでいる国では、皆が仏様の教えを頼りにしながら国を治めているのです。これからの新しい時代に日本だけが独自の神様に頼っていては、国としての進歩に大きな遅れが出てしまうでしょう。私たちも、仏教のような進んだ思想を取り入れ、新しい時代にふさわしい国を目指すべきです。」
三井先生:「世界の常識に追いつくため、ということですね。日本が仏教を受け入れることで、どのような変化が期待されますか?」
蘇我さん:「はい。そもそも、私たちが今ここにいるのも、中国から学んだ文化や技術があったからです。米作りの方法や、銅や鉄を使った道具の作り方など、古くから中国からの知識が国の進歩に貢献してきました。さらに、中国で発明された文字である漢字や、高級な土器、豪華な着物、新しい学問などの進んだ文化はみんな、仏教とともにわが国に入ってきたのです。したがって、仏教を受け入れることでさらに多くの知識や技術が日本に伝わるでしょう。国民がみんな仏教を信仰するようになれば、文化や生活がさらに豊かになると思います」
三井先生:「なるほど。仏教を通じて新しい知識や技術がさらに入ってくるというお考えですね。日本の神様との関係についてはどうお考えでしょうか?」
蘇我さん:「正直申し上げて、日本の神様は新しい時代には合わないと思っています。仏教は理想を掲げ、人々の生き方を説く教えですが、日本の神様は気まぐれで、ルールも曖昧なところがあります。その時その時で考えが変わり、少しでも気に入らないことがあるとすぐに怒ってしまいます。それでは国民もリーダーも安心して従うことができません。仏教はお経に教えが文字で記されており、善悪の区別もはっきりしています。国民が仏教の教えを学べば、大王への信頼も高まり、皆がすすんで従うようになるでしょう。仏教は、人としての正しい生き方を教え、人々が心から国を支えたくなるような強い道徳を持っています。だからこそ、私は仏教を導入するべきだと思うのです。」
三井先生:「ありがとうございます!」
仏教をとりれるべきではない!物部さんへのインタビュー
三井先生:「物部さん、あなたは仏教の導入に反対されているようですが、その理由をお聞かせください。」
物部さん:「仏教が新しい宗教であるのはわかっています。しかし、私たち日本には古来から大切にしてきた神々がいます。その神々の中には、天皇家のご先祖である神様もおられます。この日本の神々を大切にし、春夏秋冬の祭りで祈りを捧げることこそ、大王の大切な務めです。もし仏教を導入して、日本の神々を軽視するようなことがあれば、神々の怒りを招きかねません。ご先祖様への感謝の気持ちを忘れるようでは、この国は滅びてしまうでしょう。」
三井先生:「ご先祖様への感謝を忘れてはならない、ということですね。仏教を受け入れることにどのような危険があるとお考えですか?」
物部さん:「仏教は確かに目を引く新しい教えですが、宗教はただの技術や知識と違い、人々の心の奥深くに根ざすものです。だからこそ、軽々しく外国の教えに飛びつくのは慎むべきです。今、仏様の姿が輝かしいからといって、すぐにそれに惹かれるのはあさはかで、恥ずかしいことです。神様は姿が見えないからこそ尊い。それが私たち日本の伝統であり、心の支えです。仏教のように、規律が厳しく理想が高いという点はありますが、日本の神様には温かみがあり、人々の状況を理解して下さいます。困ったときや悩んでいるときに私たちを優しく導いてくださり、時には厳しくも教えてくださいます。川や山、森や海にまで神々がおられ、私たちを見守っているのです。日本の神々は私たちにとって、欠かせない存在です。」
三井先生:「日本の神々が私たちの暮らしを見守っていると感じているのですね。仏教が広まることで日本の神々への信仰が薄れ、国がバラバラになる危険もあるとお考えですか?」
物部さん:「その通りです。私たち豪族が大和の大王を中心にまとまっているのは、大王が日本の神々の子孫であり、私たちを正しく導いてくださるからです。もし仏教を信仰するようになれば、日本の神々を敬う心が薄れ、誰でもリーダーになれると思う者が出てくるかもしれません。それではせっかく一つにまとまった国が、また昔のように豪族同士の争いでバラバラになってしまうでしょう。仏教のような外来の宗教を急に導入することで、私たちの伝統的な神様への信仰が崩れ、国が不安定になることこそ、最も避けるべきことです。」
三井先生:「ありがとうございました!」
議論をしよう!
三井先生:「蘇我稲目さんと物部尾輿さんから貴重な意見が聞けましたね。では議論をまとめながら教室に戻りましょう。」
三井先生:「それでは、蘇我さんと物部さんへのインタビューの内容を踏まえて、皆さんにも議論をしてもらおうと思います。読者の皆さんもぜひ賛成につくのか?反対につくのか?意見を紙や電子デバイスなどにしっかりと書いてみましょう。皆さんは蘇我さんや物部さんの立場に立って考えます。それでは皆さんも考えてみましょう!」
三井先生:「書けましたか?ぜひ書いていない人は書いてからここからの議論に参加してみましょう。自分の意見を目に見える形にすることで、頭の中でごちゃごちゃしていた考えが整理できて、自分でも理解しやすくなります。自分の意見を冷静に振り返ることもできるし、後で見直すこともできるから、考え方の変化を確認するのにも役立ちます。だから、意見をただ頭の中に置いておくだけじゃなく、ぜひ書いてみることをお勧めします!」
三井先生:「で、皆さんはひょっとしたら塾の授業や自分で勉強してくれたりして歴史の結果を知っているのかもしれませんが、必ずしもそれが日本にとって正しい選択だったとは限りません。試験ではないので、歴史の事実に合っているとか間違っているとかが大切なのではありません。あくまで、大和時代の状況でどちらの方が望ましそうか?という観点で賛成なのか?反対なのか?を判断するようにしてください。」
三井先生:「ではどちらかに手を挙げてください!」
三井先生:「賛成派の人は?16人の手が挙がりました。じゃぁ、反対派は?おぉ〜っと15人の手が挙がりました。半々ぐらいですね。面白くなってきました。」
生徒・山田君(蘇我氏の立場に賛成)
三井先生:「ではまず一番早く挙手してくれた山田君の意見を聞いてみましょう!」
山田くん:「僕は蘇我さんの意見に賛成です。仏教を受け入れることで日本が進んだ国になれると思うからです。仏教を信じることで、新しい知識や技術もどんどん入ってきて、生活も豊かになるはずです。日本は縄文時代から弥生時代にかけて大陸の文化を取り入れることで国が発展しました。だから、仏教を取り入れれば国を発展させられそうなので、仏教を取り入れるべきだと思います。」
三井先生:「なるほど、山田君は仏教を受け入れることで日本もさらに発展できると考えているんだね。縄文時代から弥生時代にかけて、大陸の文化を取り入れることで日本が成長してきたように、仏教も受け入れれば新しい知識や技術が増え、生活も豊かになるという意見だね。我が国の発展を心から願った素晴らしい意見です!」
生徒・佐藤さん(物部氏の立場に賛成)
三井先生:「反対側の意見の人はいますか?ちょっと自信なさげな感じですが、佐藤さん、意見と理由を言ってみてください。」
佐藤さん:「私は物部さんの意見に賛成です。日本には昔から私たちを守ってきてくれた神様がいます。その中には、神話の授業でも勉強しましたが、大王のご先祖様でもある神々がいらっしゃいます。大王が四季ごとに神々にお祭りをして平和を祈ってくださることで、国がまとまっていると思います。ヤマト政権が現在まとまっているのは日本の古来からの神々のおかげなのではないかと思います。そんなご先祖様との繋がりを軽視して、急に外国の仏教を信じるのは、ご先祖様への感謝を忘れることになるんじゃないかと不安です。」
三井先生:「佐藤さんは、日本には昔から私たちを守ってくれている神々がいて、その中には大王のご先祖様も含まれていることが重要だと考えているんだね。四季ごとのお祭りを通じて大王が日本古来の神々に平和を祈ることで、ヤマト政権が現在もまとまっていると考えているんだね。そうしたご先祖様との繋がりを軽視して急に仏教を取り入れることが、ご先祖様への感謝を忘れることになりはしないかという不安があるわけだね。最初は自信なさげだったけど、素晴らしい意見です!」
山田君(蘇我氏に賛成)と佐藤さん(物部氏に賛成)の議論
三井先生:「ここから議論をさらに深めていきましょう!」
山田君:「佐藤さん、日本の神様を大切にする気持ちはよく分かるけど、もし仏教を受け入れなかったら、他の国から『日本は時代遅れ』って思われるかもしれないです。それに、外国の文化とつながらないと、日本は進歩できないんじゃないかな?それでも仏教を受け入れない方がいいと思う?」
佐藤さん:「うん、それは確かにあるかもね。でも、大王が日本の神々を大切にして、神様にお祭りをすることで国が守られてきたっていう歴史があるんだよ。仏教を信じることでそのお祭りがなくなってしまったら、神様が国を守ってくれなくなって、平和が失われるかもしれない。日本の神様に感謝を忘れることは、進歩よりも大きな危険だと思うんだ。」
佐藤さん:「山田君は仏教を取り入れると技術や知識が増えるって言ってたけど、仏教を入れなくても、中国からの文化や技術だけを学ぶことはできるんじゃないかな?どうして仏教そのものを信じる必要があるの?」
山田君:「それはそうかもしれないけど、仏教はただの技術や知識だけじゃなくて、人の生き方を教える教えがあるんだ。例えば、仏教の教えに従えば皆が善い行いを心がけるから、国全体が平和になって大王を尊敬する気持ちも深まると思う。そういう教えも国の発展には大事なんじゃないかな?」
山田君:「佐藤さん、日本の神様は確かに温かく見守ってくれているけど、もし仏教を受け入れたとしても、日本の神様への感謝を完全に忘れるわけじゃないと思うんだ。仏教の教えも学びながら、日本の神様も大切にして共存することはできないのかな?」
佐藤さん:「なるほど、共存か。それも一つの方法かもしれないね。でも、日本の神様にお祭りを捧げて国家を守るのは、大王のご先祖様としての大切な役目なんだと思う。もし仏教を取り入れてそちらが重要になってしまうと、大王が行うべき日本の神々へのお祭りが軽く扱われるようになるんじゃないかと心配だよ。じゃあ、山田君は仏教を受け入れて、共存できるって考えているみたいだけど、もし仏教の考えが広がりすぎて、日本の神様を大切にする人が減ってしまったらどうする?日本の文化や信仰が薄れていくことにはならないかな?」
山田君:「それは確かに心配だけど、僕は仏教が広がっても、日本の神様を信じる気持ちと両立できると思っているんだ。仏教は『新しい生き方』を示すものであって、今の信仰を否定するものではないはずだよ。逆に、仏教を取り入れることでお互いの良さが引き立って、より豊かな文化になるんじゃないかと思うんだ。」
三井先生によるまとめ
三井先生:「みなさん、それぞれの立場でよく考え、相手の意見を尊重して質問をしていましたね。蘇我さんのように仏教のような新しい思想を取り入れて国を発展させようとする姿勢も重要です。一方で、物部さんのように大王がご先祖である日本の神々に祈りを捧げることを通じて国を守ることも、私たちの文化と伝統を保つ上で欠かせません。さてご先祖さまはどのような決断を下したのでしょうか?ここから歴史の進展を見ていくことにしましょう!」
なお、この議論は「授業づくりJAPANさいたま」の代表の齋藤武夫先生のご著書「学校で学びたい歴史」(青林堂)の第2章で、小学生を対象にした仏教伝来の授業の様子が書かれています。
大変面白いのでオススメです!
蘇我馬子vs.物部守屋の対立の結果は!?
仏教公伝ののち、日本は仏教を受け入れていったのでしょうか?排除したのでしょうか?仏教の教えを受け入れるかどうかの対立のことを崇仏論争と言いますが、その様子を見ていきます!仏教を日本に取り入れるべきだとする人たちのことを崇仏派、取り入れるべきではないとする人たちを廃仏派と呼んでいきます。
このとき、第29代の欽明天皇は次のように仰いました。
「蘇我稲目よ、あなたは仏教を信じたいと強く願っているようですね。それならば、まずはあなたに仏像を託します。試しに礼拝して、その教えを確かめてみるのがよいでしょう!」
このようにして、欽明天皇は仏教を信じたいと願う蘇我稲目に仏像を渡し、まずは彼に礼拝を試してもらうことにしました。欽明天皇は「とりあえず個人の自由にまかせてやってみるように」という形で許したのでしょう。
しかしながら、「仏教を信じるべきか、それとも昔から信じている神々を大事にすべきか」をめぐって、大きな対立は残ったままです。
欽明天皇の次の第30代敏達天皇の御代に大きな疫病が流行りました。疫病が流行したのは「新しい宗教を受け入れたから、古来の日本の神様が怒ったのだ!」という理由で仏法を止めるように仰いました。
次の第31代の用明天皇は、蘇我氏出身の女性との御子で、用明天皇が初めて天皇として仏教を受容しようという意思を明らかにしました。物部氏としては許せない状況になるでしょう。用明天皇の御代は約2年と長く続かず、崩御(=天皇がお亡くなりになること)します。
この後、大臣の地位の継承(皇位継承)をめぐっての対立もヤマト政権では起こります。廃仏派の物部守屋は穴穂部皇子を推します。一方の崇仏派の蘇我馬子は泊瀬部皇子を推し、次の天皇の地位を巡る争いも一層激化していきました。
そしていよいよ武力衝突にまで至りました。それが西暦587年に起こりました。
穴穂部皇子は蘇我馬子によって宮殿を包囲され、最後には捕らえられて命を落としました。その後、物部守屋も蘇我馬子に滅ぼされました。この時、のちにわが国の趨勢に影響を与える聖徳太子が蘇我氏側の軍勢に参加していました。当初、この戦いは崇仏派には不利な状況でしたが、打開するために自ら四天王像を彫り、「もしこの戦いに勝てたら、四天王を安置する寺を建てて、この世のすべての人々を救おう」と誓ったのだそうです。戦いに勝った後、実際にお寺が建立されました。それが現在の大阪府の天王寺にある四天王寺というお寺です。
蘇我馬子の推していた泊瀬部皇子が第32代の崇峻天皇となります。しかし、西暦592年に崇峻天皇は擁立していたはずの蘇我馬子の部下の東漢直駒によって暗殺されてしまいます。臣下によって天皇が暗殺された唯一の事件だと言われています。
次に即位なさったのが、第33代の推古天皇です。推古天皇の御代に厩戸皇子(聖徳太子)が支える体制が整います。蘇我馬子との血がつながった皇族です。推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子のトロイカ体制については以下のコンテンツがオススメですが、ここからは仏教がどのように受容されていったのか?いよいよクライマックスを迎えます。
聖徳太子はどのように仏教の受容をめぐる対立を解決したのでしょうか?
仏教の受容をめぐる対立を見事解決したのが、先ほど述べた聖徳太子です。この対立は、第29代の欽明天皇の頃から約50年は経過しています。
第33代の推古天皇の治世の西暦594年に、聖徳太子の進言により「仏教興隆の詔」が発布されました。いよいよ聖徳太子は仏教を取り入れていくことにします。
当時の日本では仏教の教えがとても難しかったため、その教えを理解できる人は限られていましたが、聖徳太子は仏教の教えをとてもよく理解していました。聖徳太子自身も「三経義疏」という経典の解説書を執筆したとされているぐらいです。三経というのは、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経のことです。さらに、先ほど述べた四天王寺や法隆寺を建立し、日本に仏教を広めるための大きな計画を進めたのです。こうして仏教は日本に少しずつ根付いていきました。
高校の日本史の教科書ですら、解説はここで終わっています。
が、大切なことが書かれていません。
日本の正史『日本書紀』には以下のような記述がされています。内容を要約して解説しましょう。
(推古十五年春、二月)九日詔して、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」と言われた
簡単に申せばこういうことでしょう。
「私たちの天皇は昔から神々を大切にし、山や川の神々に祈りを捧げてきた。これによって自然がうまく循環し、平和が保たれてきた。これからも神々に感謝し、お祭りを大切にするように。」
第33代の推古天皇や聖徳太子、仏教を進めた蘇我馬子は、政府の役人たちとともに日本の神々に向けて盛大なお祭りを行いました。この行動を通して、大和朝廷は「仏さまも日本の神さまもどちらも大事にする」という方針をはっきりさせたのです。
こうして、長く続いた「仏さまか神さまか」の争いは、両方を尊重する形で決着しました。この「仏教も神ながらの道も共に尊重する」という考え方を取り入れたことで、私たちの国づくりはさらに進むことができたのです。
他の国では、キリスト教が広がったときにオリンポスの神々やゲルマンの神々を排除したり、イスラム教が広がると元々の自然宗教が消えてしまったりしました。「仏教か神さまか」のように異なる宗教が衝突すると、普通はどちらか一方が消えてしまうことが多いのです。しかし、日本では両方を取り入れて、共存させるという方法を選びました。
聖徳太子は「仏教を広めよう」とする先頭に立ちながらも、日本の伝統的な神々も大切にすることを誓いました。これを「敬神の詔」と申します。
この考え方は、今後も外国から新しい文化を受け入れる際に活かされ、外からの文化と日本の伝統文化を調和させる日本の「文明戦略」として続いていったのです。