6世紀に入ると、大和政権による統治は危機に陥ります。皇位継承に危機がおとずれました。
また、この頃朝鮮半島に動乱が起こりました。大和政権は朝鮮半島に権益を持っていました。ですから、日本にも影響が及びます。
この後に、日本には百済から仏教が伝来しました。仏教の教えを日本に受け入れるかどうかで大和政権の中で議論がわきおこりました。
今回は、
- 6世紀前半における皇位継承の危機について
- 6世紀前半の朝鮮半島の動向について
- 日本に仏教が伝来した時の大和政権内での議論について
の3点について、分かりやすく解説をしていきたいと思います。
皇統の危機
6世紀の前半に、日本では皇位継承に重大な危機がおとずれました。中学校の教科書には載っていないお話ですが、国史(日本史)を学ぶには重大な事件なので触れておきたいと思います。
第25代の武烈天皇にはお子様がおられませんでした。皇位に就ける者はいわゆる「男系」でなければなりません。「男系」というのは、父と子の間の系統を意味します。つまり、皇位の継承者はさかのぼると神武天皇にまで行きつき、さらにさかのぼると天照大御神まで行きつきます。三大神勅の1つである「天壌無窮のご神勅」にも記してあるとおりです(三代神勅を分かりやすく解説します)。
こういった原則が崩れそうになっていた時、当時の人たちはどのように解決したのでしょうか。現在、天皇陛下がいらっしゃるということは、この皇統断絶の危機を免れたからなのです。
大和政権の豪族たちは天皇の地位に就ける人を全国から探しました。アイドルのオーディションのように探したわけではもちろんありません。先ほど述べたように、「男系」の男子を探したのです。そうすると、越国にいらっしゃった男大迹王という方がいらっしゃいました。ここで言う「越国」とは現在の福井県坂井市です。男大迹王は、第15代天皇の応神天皇の五世孫(来孫)にあたります。
天皇の皇子で天皇に即位しなかった者の多くは、地方に下って地方の政治に携わっていたのです。ですから、地方にいらっしゃった皇子の子孫が中央にお戻りになることは何ら不思議な話ではありませんでした。
男大迹王は、後に継体天皇と呼ばれるようになります。第26代の天皇です。
朝鮮半島の情勢と大和政権
6世紀の朝鮮半島の情勢
日本では皇位継承で問題が起こっていた頃、朝鮮半島では北部にいた高句麗が勢力を拡げて南下していました。
これにつられるかのように、新羅と百済も南下を始め、伽耶諸国が圧迫されるようになります。「日本書紀」によると、新羅と百済は伽耶諸国を次々と併合していきます。
大和朝廷は伽耶諸国の中に任那と呼ばれる国を持っていました。西暦512年に任那の4県は百済に割譲されました。百済はその見返りとして、五経博士と呼ばれる学者を日本に送りました。
国造磐井の乱
一方、新羅は伽耶諸国を圧力をかけ続けていました。
大和朝廷は朝鮮半島における権益を守るために、伽耶諸国の救援をしようと考えました。そこで、西暦527年に近江毛野率いる日本軍を朝鮮半島南部に出兵させようとしました。しかしここで邪魔が入りました。何と日本の豪族であった筑紫磐井が新羅と手を結び、この出兵を阻んだのです。翌年に筑紫磐井は物部麁鹿火によって鎮圧されます。しかし、伽耶諸国の救援は失敗に終わり、伽耶諸国の多くは新羅に併合されてしまったのです。
ついに、西暦562年には伽耶諸国は新羅に完全に併合されてしまいました。
仏教の公伝
いよいよ日本に仏教が伝来するお話を解説していきます。なお、最近では「仏教の公伝」という言い方をすることが多いです。なぜかというと、「公伝」つまり公に伝えられる前に私的に伝えられていた(私伝)とされている証拠があるからです。細かくなるのでくわしくは述べませんが、今回は公に伝えられたエピソードをお話ししたいと思います。
なお、朝鮮半島から日本に伝わったのは大乗仏教の教えでした。仏教が誕生したお話は別で述べているのでそちらを参照してください。
いつ日本に公伝されたの?
仏教がいつ公伝したのかは様々な学説が存在していますが、「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」が根拠の西暦538年説、もう1つは「日本書紀」が根拠の西暦552年説などが代表的です。
いずれの学説を採ったとしても、第29代の欽明天皇の御代に、朝鮮半島にあった百済の聖明王から伝わったとされています。
仏教の教えを礼拝すべきか?について大和政権の中で議論になる
百済の聖明王は手紙で欽明天皇に対して次のように仰いました。
「仏様はたいへんありがたい神さまです。いま中国も朝鮮の私たちの国も、この仏さまを信じています。大和朝廷のみなさんも、これからは仏教を信仰して大和の国をさら立派にしていったらいかがでしょうか?」
欽明天皇は次のようにお答えになりました。
「これほどありがたい教え、美しい仏は聞いたことも見たこともなく、たいへん心が動いている・・・しかし、国家の一大事なので自分一人で決めることはしません。」
大切なことは必ずみんなで決める。これが日本が大切にしてきた価値観です。神話でもそうでしたね。国生みの時も天の岩戸の時もみんなそうです。
さて、賛成派の蘇我氏はこんなふうに申し上げました。
「西方の諸国はみんなこれを礼拝しています。我が国だけが礼拝しないわけにはいけません。」
一方の反対派の物部氏や中臣氏はこんなふうに申し上げました。
「天皇が王として天下を統治する根拠は、(天皇が)諸々の多くの神々への春夏秋冬の祭礼を主催することにあります。それなのに、いま隣国から移ってきた神を礼拝することは、我が国の神々の怒りを招くことになりましょう。」
欽明天皇は賛成派と反対派の意見を聞いた上で、
「礼拝を願っている蘇我氏に仏像を授けて試しに礼拝させてみることにせよ。」
と仰いました。
欽明天皇は仏教を公に認めることにしたのです。
ちなみに、「授業づくりJAPANさいたま」の代表の齋藤武夫先生のご著書「学校で学びたい歴史」(青林堂)の第2章で、小学生を対象にした仏教伝来の授業の様子が述べられています。大変面白いのでオススメです!
崇仏論争が激化します
次の第30代敏達天皇は、「疫病が流行したのは新しい神様を受け入れたから、古来の日本の神様が怒ったのだ」という理由で仏法を止めるように指示しました。
次の第31代の用明天皇は、蘇我氏出身の女性との御子で、用明天皇が初めて天皇として仏教を受容しようという意思を明らかにしました。ちなみに欽明天皇はお試しで受け入れてみようかという感じでした。この時代に蘇我氏と物部氏との対立が激化しました。仏教の教えを受け入れるかどうかの対立のことを崇仏論争と言います。
当時の蘇我氏の氏上であった蘇我馬子は物部氏の本拠地を攻めて滅ぼしてしまいました。蘇我氏の勝利です。こうして崇仏論争の決着は付けられることになりました。この時に聖徳太子が蘇我氏側の軍勢に参加していました。
この後、蘇我馬子の推挙により、崇峻天皇が第32代天皇として即位あそばされました。しかし、崇峻天皇は蘇我馬子らが謀って暗殺されてしまいました。臣下が天皇を殺めることは前代未聞のできごとでした。
次に即位なさったのが、第33代の推古天皇です。推古天皇の御代に聖徳太子が摂政に就き、いよいよ日本の国づくりが始まるのです。