【中学歴史】武士のおこりと地方での反乱

平安時代 歴史
平安時代
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平安時代の中期になってくると、武士と呼ばれる人たちが出現しました。彼らの家には深い堀や高い塀があり、彼ら自身は刀や弓で武装していたのです。これは弥生時代の環濠集落とよく似ていますね

今回は、武士と呼ばれる人たちがどのような背景から起こったのかを解説するとともに、平将門の乱と藤原純友の乱という2つの武士の反乱についてわかりやすく解説してみました。

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なぜ武士が生まれたのか?

寄進地系荘園が増えてくると税のかからない田が増えます。不輸租田と言います。これでは政府は税金が取れなくなってしまいます。そこで、政府は地方を任せている国司に対して税を取る権限を与えました。国司に対しては都に納める分の税を確保したら、残りは自分のものにしてもよいことになりました。これは強大な権限です。だから、国司は一生懸命税を取り立て始めます。やがて国司は地方でやりたい放題になりました。重税で苦しむのは一般庶民です。地方はこのようにして治安が悪化していきました。

また、都の中でも泥棒が貴族の家の中に入ったりして、治安が悪化していました。

こういった状態に対して、朝廷の貴族たちはどのように対応していったのでしょうか。

貴族たちは自ら武器を持って戦うことはありません。彼らの近く(さぶ(侍)らふ)にいた者たちが治安維持に務めました。彼らが後の武士になっていきます。

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武士団の成長

武士団の形成

貴族たちの中には、出世争いに負けたりする者が現れます。彼らは都にいても出世できないわけですから、地方に行って活路を見いだします。

一方、地方は治安がとても悪いので、自ら武装しないと自分の田畑を守れません。また、権威があると自分の荘園などの領地を守っていけるという実態がありました。

ここで、貴族と地方にいる有力者との利害が一致します。

武士団の形成
武士団の形成

地方にいる武士たちは貴族の権威を利用しようと考えます。ブランドが合った方が箔がつくじゃないですか?やがて、都からやってきた貴族やその末裔まつえいをあがめ、彼らを棟梁とうりょうとする武士団を形成していきます。

代表的な武士団の誕生 – 源氏と平氏

ここで、代表的な武士団を2つ紹介します。

それが源氏と平氏です。

源氏の誕生

源氏は臣籍降下しんせきこうかと言って、皇族がその身分を離れることを指します。今でもそうですが、皇族には姓がありません。皇族に姓を与えて皇族から離れていきます。

源氏も臣籍降下によって誕生しました。皇族と源流を同じくするというところから付けられているようです。第52代の嵯峨さが天皇には23人の皇子がいたとされていますが、そのうちの17人の皇子が臣籍降下をし、源氏姓を名乗りました。このような臣籍降下を行った理由としては諸説ありますが、朝廷の経費削減という目的があったのではないかと言われています。

さて、後の時代に鎌倉幕府を開いた源頼朝みなもとのよりともも源氏ですが、直接的につながるのは、第56代の清和せいわ天皇の第6皇子にあたる貞純さだずみ親王の子である経基王が臣籍降下により源姓を賜り源経基みなもとのつねもとと名乗ったところからです。この家柄を清和源氏と呼びます。

平氏の誕生

さて、平氏もまた臣籍降下によって誕生しました。

平氏は第50代の桓武天皇の系統が臣籍降下して誕生しました。有名なのは桓武天皇の御孫である高望王たかもちおうが臣籍降下して平高望と名乗った家柄で、後の平清盛たいらのきよもりは高望王の子孫ということになります。彼らを桓武平氏と呼ぶことがあります。

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武士の反乱 – 承平天慶の乱

このように武士の棟梁と呼ばれる人たちが誕生しますが、早速彼らが主役になった反乱を2つ紹介します。

平将門の乱

平将門たいらのまさかどは、関東地方で、伯父の平国香たいらのくにかとの内紛に勝利しました。そして、武家の棟梁になりました。

この頃の国司は地元にいる郡司たちにワイロを支払うことを要求するなどむちゃくちゃな状況でした。「ワイロを支払ってやったら○○してあげる」みたいな感じですね。

関東地方も同様でした。法外なワイロを請求された関東地方の郡司はこれを拒否したため、武蔵国に赴任してきた国司の源経基みなもとのつねもとは激昂して郡司の邸宅を焼き討ちにします。「助けてくれ」と転がり込んだのが平将門のところでした。平将門は郡司の利益を守るために挙兵をしました。源経基はこれを朝廷に対する謀反だと報告し、衝突します。

「一国を盗るも、坂東(関東)を盗るも同じこと」

そのように平将門をそそのかした側近がいました。皇族の身分の人です。平将門は自ら新皇しんのうと名乗って戦いを始めました。これが西暦935年(承平5年)のことです。

結局は、平国香の子である平貞盛たいらのさだもり藤原秀郷ふじわらのひでさとが平将門を鎮圧しました。これが平将門の乱です。

平将門は京の都に捕らえられ、処刑されました。処刑された後の3日目の夜に平将門の首が飛び上がり、関東地方まで移動したという伝説が残っています。将門の首が着地したと言われるところには、将門の首塚が現在もあります。東京駅からほど近くのところにあります。日本の三大祭りの1つであるとされる神田祭が行われる神田明神にも平将門が祀られています。

さて、平将門の乱の後の関東地方は、もう少し時代が下ると、先ほどチラっと出てきた源経基みなもとのつねもとの子孫たち、つまり清和源氏が治めていきます。そして、その子孫には、後の鎌倉幕府の初代将軍になる源頼朝みなもとのよりともがいます。源氏は摂関家とくっつき、大きく勢力を伸ばしていきます。

一方の平氏は、拠点を関東地方から伊勢国に移すことになり、そこで海賊を手なづけて、勢力を拡大していきます。その子孫には、後に武士で初めて太政大臣に就く平清盛たいらのきよもりがいます。平氏は院とくっつき、大きく勢力を伸ばしていきます。

藤原純友の乱

一方、西日本で起こったのが、藤原純友の乱です。

藤原の家に生まれても、全員が高い地位に就けるわけではありません。地方に行かされたりするのです。

この乱の主役である藤原純友もその一人です。彼を担ぎ出したのは、瀬戸内にいた海賊でした。最初、藤原純友は海賊退治のために都から派遣されました。ところが、藤原純友は彼らと手を組んでしまったのです。海賊たちは政府の締め付けを嫌うものです。そして、藤原純友は彼らとともに政府に反抗しました。

西暦939年(天慶3年)に藤原純友が反乱を起こしました。ここで鎮圧に向かったのが、先ほど登場した源経基と小野好古でした。つまり、反乱は武士によって鎮圧されたのです。

まとめ

2つの反乱を収めたのは、いずれも武士の力でした。

このように少しずつ武士の存在感が増していったのです。

 

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