鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇による建武の新政(中興)が始まるものの、主に武家からの反発が大きく、特に武家の棟梁である源氏の血を受け継ぐ足利尊氏のもとに武家が集まり、兵をあげました。
足利尊氏は光厳上皇から後醍醐天皇方につく新田義貞を撃てという院宣をいただき、やがて京の都に攻め上り、勝利をおさめました。
足利尊氏は後醍醐天皇がお持ちになっていた三種の神器を光厳上皇側に引き渡しました。
西暦1336年(建武3年)に、足利尊氏は建武式目と呼ばれる法典を出します。建武式目は北条泰時の「御成敗式目(貞永式目)」を手本として、「武士の慣習を大切にしていきます!」といったことを示した新しい武家政権の施政方針です。さらに、足利尊氏は光厳上皇の弟君である光明天皇を擁立し、即位させることに成功しました。
これに対し、後醍醐天皇は京都を抜け出し、奈良県の吉野へ向かいます。そして「我こそが本物の朝廷だ!」と宣言します。後醍醐天皇が光明天皇に渡した三種の神器は実はニセモノだと主張なさいました。
このようにして、我が国は1つの国のなかに2つの朝廷が存在するという南北朝時代に突入しました。
- 北朝:光明天皇、足利尊氏
- 南朝:後醍醐天皇、新田義貞
こんな感じになりました。
今回は、南北朝の争乱について簡単にまとめてみたいと思います。
足利幕府[室町幕府]の誕生
西暦1338年(暦応元年)に、足利尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍の地位に任ぜられました。これを足利幕府[室町幕府]が開かれたと解釈します。
ここで敢えて足利幕府[室町幕府]と表記にしたのには理由があります。
室町幕府の「室町」というのは京都の地名です。足利尊氏が征夷大将軍になった時代、まだ「室町」に幕府は存在していませんでした。三条坊門という場所で政務にあたっていました。「室町」に幕府が移ったのは、3代将軍の足利義満の時代になってからです。室町に幕府がないのに室町幕府と呼ぶのはおかしいのではないかということです。したがって、この段階では敢えて足利幕府と言うべきだと思います。ただこの話は一般的とも言い難いので、足利幕府[室町幕府]と表記したいと思います。試験対策的には室町幕府でもOKです。
ちなみに、3代将軍以降、足利将軍家のことを「室町殿」と呼ぶようになりました。
後醍醐天皇の崩御
後醍醐天皇は京都を奪還しようと考えていました。南朝側には北畠親房がいましたが、倒幕の頃に活躍した楠木正成は湊川の戦いで戦死し、新田義貞も戦死していました。つまり、南朝側の勢力は衰えていたと言ってもよいでしょう。
そのような中で、後醍醐天皇もついに病にふせるようになります。
軍記物「太平記」には後醍醐天皇は次のような言葉を遺したと書かれています(「太平記」はあくまで文学作品です!)。
玉骨は縦南山の苔に埋まるとも
「太平記」巻第21 後醍醐帝の違勅
魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ
ごくごく簡単に内容を解説すると、
自分が吉野で死してしばらく時間が経過したとしても、自分の魂はずっと京都に戻りたいと思うだろう
後醍醐天皇は西暦1339年(南朝: 延元4年)に崩御(=天皇がお亡くなりになること)しました。
後醍醐天皇の陵墓は通常の天皇陵とは異なる特徴があります。通常の天皇陵は南に面するよう作られます。しかし、後醍醐天皇陵は遺言により北の京都を向いて築かれました。京都を奪還したいという気持ちが強かったことの証左ですね。
後醍醐天皇の陵墓は奈良県の吉野山にある如意輪寺というところにあります。
観応の擾乱
このように見ると、何だか南朝が負けて北朝が圧倒的に有利だった!と結論づけられそうですが、一筋縄にはいきません。
足利幕府[室町幕府]の中で対立が生まれるようになりました。
- 足利尊氏の側近である高師直
- 足利尊氏の弟である足利直義
この2グループです。
高師直は軍事面が得意です。例えば、西暦1348年(正平3年/貞和4年)に高師直は楠木正成の息子の楠木正行(「小楠公」と呼ばれたりします)の軍勢を打ち破る四條畷の戦いに勝利したりしています。
一方、足利直義は戦にはそんなに強くありませんでしたが、文官として大いに活躍し、室町幕府を支えていました。
その対立がいよいよ表面化したのが、西暦1350年(観応元年)頃からです。これを北朝の元号から観応の擾乱と呼びます。
観応の擾乱 – 第一幕
高師直が四條畷の戦いで南朝のエース格であった楠木正行を打ち破り、その恩賞をめぐって対立していた足利直義を討とうとする
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足利直義はこれを察して逆に高師直を攻めようとするが、逆に高師直に攻められる。
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危険を感じた足利直義は足利尊氏の元に身を寄せる。高師直は手を出せなくなる。
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足利尊氏が仲介に入り、足利直義は隠居。代わって足利尊氏の息子である足利義詮(2代将軍)に政治を任せることで決着させたかのように見えた。
観応の擾乱 – 第二幕
まさかの足利直義の南朝への寝返り。南朝は憎き足利氏ということもあって足利直義を受け入れるか議論になるが、北畠親房の提案で結局受け入れる。足利直義が勢力を盛り返す。
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足利尊氏の実の息子で足利直義の養子であった足利直冬が中国地方や九州地方で大暴れ。高師直だけでは解決できず足利尊氏も出陣する。
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2人が京都を留守にしているうちに、足利直義は南朝の力を利用しながら足利義詮を京都から追い出す。
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高師直が足利直義方によって殺される。足利尊氏、満身創痍。
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足利尊氏と足利直義が和睦。足利義詮の政治を足利直義が後見するという形で、足利直義が幕府に復帰。
観応の擾乱 – 第三幕
足利直義が政治に復帰するものの、以下の点で不満がたまります。
- 2代将軍の足利義詮は「政治をさせてくれない」と不満
- 足利直義側についた武士からは恩賞が不十分で不満
- 足利直義を支持した南朝からは「オレたち(南朝)を正統と認めてくれないじゃないか!」という不満
足利直義に対しての不満が各方面からわきあがってきます。足利尊氏はこの不満を利用して足利直義を追い詰めていきます。
足利直義は足利尊氏によってどんどん追い込まれていく。
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足利直義は自分の勢力基盤のある関東に行く。
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足利尊氏は足利直義を討ちに関東へ出陣。
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足利尊氏は足利直義を打ち破る(足利直義死去)
こんな形で観応の擾乱は終結したという評価がされています。
しかし、足利直義が死んだからといってこの動乱は終わりを迎えることはありませんでした。足利尊氏の実の息子でありながら足利直義の養子となっていた足利直冬が、南朝と手を結んで足利尊氏と戦います。
足利尊氏が西暦1358年に病死した後、尊氏の跡を継いだ2代将軍の足利義詮が足利直冬と戦いました。
また、西暦1370年頃まで九州は南朝の勢力がとても強く、しばしば北朝側はこれに悩まされていました。
このように見ていると、南北朝の動乱がなぜ長引いているのかというと、以下の2点をその原因として見ることができます。
- 足利尊氏側も足利直義側も、実は自分が不利な状況に陥った時には南朝の権威を利用していた。このような状況であったため、南朝の方が圧倒的に不利だったのにも関わらず、息を吹き返していた。
- 九州地方など本当に南朝の勢力が強いところがあってギブアップせず、北朝を悩ませていた。
こういった南北朝の争いは、地方武士たちにも及んでいたのです。
地方の武士の動向と南北朝の争乱
南北朝の争乱が地方へ広がる背景
幕府内のこうした抗争は、実は彼らを取り巻く武士たちにも影響を与えます。
鎌倉時代の末期になると、これまで分割相続を繰り返してきたために、相続できる土地が少なくなっていました。すると、それぞれの家の中の嫡子(=家を継ぐ人のこと)が全部の所領を相続するという単独相続が一般的になっていました。
すると、嫡子ではない人たちとしては面白くなくなってしまいます。これが地方武士の兄弟げんかの火種です。
ここに、北朝か南朝かという対立構造、あるいは足利尊氏なのか足利直義なのかという対立構造が中央の政治から出てきます。
この対立を利用した兄弟げんかみたいなものが全国に広がっていくわけです。長男が北朝に付いたから次男は南朝に付こうとかそういうことです。
地方もこんな感じなので、我が国の中に2つの朝廷が存在するという状況は長く続いてしまいます。
守護大名の誕生
そのような中で、足利幕府[室町幕府]は自分たちの陣営に地方の武士たちを引きこもうという意図で次のような施策を打ちます。
足利尊氏は「荘園や公領の年貢の半分をその国の守護に与えよう」という半済令を出しました。西暦1352年(北朝: 観応3年)に最初にこの法令は出されました。当初は近江、美濃及び尾張の3カ国限定で1年限りのものでした。南北朝の動乱の激しかったこの地域限定で出されたものでしたが、西暦1368年(北朝: 応安元年)には皇族や寺社などの土地を除いてこの適用範囲は全国的なものとなり、期間限定もなくなりました。
これは守護の権限の拡大を意味します。鎌倉時代の守護の役割は、ざっくりと言えば簡単に言えば各地方(国)の警察権を担う存在でした。
それが年貢を取り立てる権限を得たわけです。守護たちは自分の領内の荘園や公領を自らの土地に組み入れます。そして領内の武士と主従関係を結ぶようになります。やがて国司の権限も手に入れ、強い力を持ちます。
鎌倉時代の守護よりも室町時代の方が強い権限を持っていったところから、区別して守護大名と呼ぶことがあります。
このように、足利幕府[室町幕府]は守護の力を強めて全国の武士や農民の統制を行おうとしたのです。
しかし、守護大名の力が強くなるということは、それだけ幕府に対して強い発言権を持つことにもつながります。その点が鎌倉時代とはやや趣が異なる点です。
南北朝の統一
細かい経緯を細かく記そうと思えばまだいくらでも述べることはできますが、細かすぎるとそれはそれで理解しにくくなるので、南北朝の争乱についての記述はこの辺にしておきましょう。
それではボチボチ南北朝が統一されるシーンを見ていきます。
南北朝時代が統一されるのは西暦1392年(北朝: 明徳3年、南朝: 元中9年)のことです。幕府の将軍は足利義満になっていました。足利尊氏の孫にあたります。
足利義満は強くなりすぎた守護大名の力を削ぐために合戦に明け暮れていました。一方で、南朝に対しては大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)とで交互に天皇を出す両統迭立を提案しました。2つの朝廷が同時に存在する状態をやめようと提案したのです。
南朝側はこれを受け入れました。
南朝側の天皇である第99代の後亀山天皇は北朝側の後小松天皇に三種の神器を引き渡されます。このようにして南北朝は統一されることになったのです。天皇の歴史の100番キリ番ゲッターは後小松天皇だということです。
朝廷のこの後のストーリーをほんの少しだけ紹介して終わりましょう。
では100代の後小松天皇の次の天皇は大覚寺統の天皇だったのかというと、実はそうではありませんでした。足利義満の死後に、101代天皇として即位したのは後小松天皇の皇子であった称光天皇でした。この後、大覚寺統の皇族に皇位継承が行われることはありませんでした。
現在、我が国では一応南朝側の天皇が正統な天皇であると明治時代に入ってから正式に位置付けられました。具体的な理由については、竹田恒泰「天皇の国史」(PHP出版)などに説明を譲りたいと思います。