今回は縄文時代の次の時代の「弥生時代」について解説をしたいと思います。
縄文時代には磨製石器が使われはじめ、縄文土器が使われていました。

しかし縄文時代の晩期から弥生時代の早期にかけて(紀元前500年頃)、ユーラシア大陸から次のようなものが伝わってきました。
- 稲作
- 金属器
今までの日本にはないものが伝わってきました。縄文時代の解説でも述べたように、縄文時代はカウントの仕方によっては約1万年ぐらい続いていました。その生活様式を変えることは決して容易(たやす)いことではありません。しかし、我々のご先祖さまたちはこれらを受け入れました。
これらを受け入れると、日本列島に住んでいた我々のご先祖さまたちはどのように変化していったのかを見ていきましょう。
大陸から人が移住する
紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけてユーラシア大陸では戦乱の世の中でした。この時代の中国(チャイナ)の戦乱の時代のことを春秋戦国時代と呼びました。
戦乱の中、中国(チャイナ)に住んでいた人々は戦乱を避けるために周辺諸国へ散らばっていきます。彼らが日本にもやってきます。
日本の縄文時代には古モンゴロイドと呼ばれる人たちが住んでいました。一方で中国(チャイナ)から来た人たちは新モンゴロイドと呼ばれます。弥生時代になると、古モンゴロイドと新モンゴロイドが混血したりして、現在の日本人が形成されていったのだと言われています。
稲作が中国(チャイナ)から伝わる
縄文時代の晩期の紀元前500年頃に、中国(チャイナ)の長江から九州地方に水田による稲作が伝わったと言われています。
稲作が日本に伝わると西日本一帯に急速に拡大し、東海地方まで一時的に拡がり、後に東北地方の海沿いに拡がっていきました。
稲作がもたらした生活様式の変化
生活様式は大きく変わりました。これまで小高い台地に住んでいたのが、稲作に適した平地に定住するようになります。稲作には水が必要なので、川などから水を引くための灌漑(かんがい)工事が行われます。稲作は設備を整えて田んぼで稲を育てるとなると、多くの人たちを要します。したがって、人々はムラを作り、共同作業を行うようになりました。
人々は竪穴住居に住んでいました。
生産された稲穂(いなほ)を乾燥させて、これらを保存するための倉庫として、高床式倉庫が建てられました。
稲作の道具
また、稲作に適した道具も作られました。
例えば、木鍬(きくわ)や木鋤(きすき)など田んぼを耕す道具が使われます。
田んぼはずっといると足が沈み込んでいきます。皆さんも経験はないですかね?これを防ぐための道具として田下駄(たげた)が使用されました。
また、稲刈りには石包丁という道具が使われました。
弥生土器の使用
そもそも、紀元前5世紀?から紀元後3世紀にかけての時代を弥生時代と言うようになったのは、西暦1884年(明治17年)に現在の東京都文京区弥生町の向ヶ岡貝塚で発見された土器に由来します。まさにこれが弥生土器です。

弥生土器の特徴は、次の通りです。縄文土器との比較で試験で問われるところです。
(縄文土器よりも)薄手でやや固く赤褐色
縄文土器としっかりと比較をしておきましょう。
縄文土器 | 弥生土器 | |
厚さ | 厚い | 薄い |
焼く温度 | 低い | 高い |
色 | 黒褐色 | 赤褐色 |
くわしくは、縄文時代のところを見ておきましょう!
縄文土器とは違って、弥生土器は煮炊き用(甕)だけでなく、貯蔵のため(壺)や盛り付けのため(高坏(たかつき))など、幅広い用途で使われるようになりました。
金属器の使用
弥生時代になると、金属器が大陸から伝わりました。
金属器というのは、青銅器(せいどうき)と鉄器(てっき)のことを指します。青銅というのは、銅(どう)と錫(すず)の合金です。
世界の歴史では、一般的には先に青銅器が登場し、後に鉄器が登場するという歴史をたどるところが多いです。ところが日本には一気に伝わります。
青銅器と鉄器はその性質から役割が異なります。
青銅器はあまり固い金属ではありませんが、非常に美しいです。したがって、主に祭具(さいぐ)として使用されました。銅鐸(どうたく)や銅鏡(どうきょう)などが有名です。縄文時代の神話や祭祀(さいし)の上に、弥生時代に誕生した新しい祭祀や神話が生まれ、今の私たちが信仰する神様が誕生していったのではないかと言われています。
一方で、鉄器は固いので実用的なものに使用されます。例えば、農具や工具や武器などとして使われました。
先ほど木器や石包丁などの磨製石器を紹介しましたが、時代を経るにしたがって金属器と合わせて使用されるようになりました。
戦争が始まる
大規模な水田などが作られるようになると、水をめぐるトラブルや食料をめぐるトラブルが起こります。すると、ムラに住む人たちは自分のムラを守ろうとします。集落のあり方も変容を遂げます。ムラの周りを塀や堀で囲むようになります。これを環濠(かんごう)集落と言います。
また、実際に武器を取って戦うようになります。戦争の始まりです。
中国(チャイナ)の歴史書には日本の状況が記録として残されています。文書の史料として参考になる部分もあります。
弥生時代における沖縄や北海道の様子
上で見てきたように、西日本から東北地方にかけては稲作が拡がりました。
しかし、稲作が拡がらなかった地域もあります。それが沖縄と北海道です。
沖縄は海で貝や魚がたくさん採れたりするので、手間暇のかかる稲作を行う必要はないですし、土地が狭く川も多くないため、そもそも稲作には適さない土地柄です。
北海道もエゾシカとかヒグマとかシャケとかが捕れます。それに今とは違って米は寒いところでは基本的には採れません。だから、わざわざ稲作を取り入れる必要はないのです。
弥生時代の遺跡
登呂遺跡(静岡県)
登呂(とろ)遺跡は西暦1943年(昭和18年)に発見された遺跡です。大東亜戦争の後に本格的な調査が行われました。戦後における弥生時代研究の先駆けとなった遺跡です。大規模な水田があったことでとても有名です。

吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
吉野ヶ里遺跡は環濠集落の跡として有名です。

唐古・鍵遺跡(奈良県)
唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡も環濠集落の跡があることで有名な遺跡です。

菜畑遺跡(佐賀県)・板付遺跡(福岡県)
縄文時代の終わり頃の紀元前500年頃に、稲作が中国(チャイナ)の長江から伝わったと考えられていますが、西日本で水田稲作が行われた跡が発見されたのが、菜畑遺跡(佐賀県)と板付遺跡(福岡県)です。