【中学歴史】古墳文化の特徴をまとめてみました

古墳時代 歴史
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奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡で前方後円墳と呼ばれる古墳が3世紀前半に現れ、およそ150年の間に北海道や沖縄を除いて前方後円墳が全国に拡がっていきました。

今回は古墳文化が華開いた、3世紀から6世紀までの頃の特徴について、まとめてみました。

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古墳について

古墳が生まれた背景

古墳文化の主役はやっぱり古墳です。

古墳(こふん)は、権力者の大きなお墓のことを言います。大きなお墓を造ることができるということは、多くのヒト・モノ・カネが動かせる力を持っていたということですね。昔は強制的に造らされていたのだと書いてある書物も多かったのですが、今ではリーダーへの感謝と祈りをこめて造られていたと言われています。世界で一番大きなお墓であると言われている仁德(にんとく)天皇陵であると言われる大仙(だいせん)古墳は、墳丘の前長は486mもあります(詳細のデータは堺市ウェブサイトを参照)。このようなお墓を強制力だけで造ることはできないでしょう。

また、古墳を造るには技術が必要です。古墳は今でも日本各地に残っていますが、大きな古墳を造るには、それ相当の土木技術がなければすぐに崩れたりしてしまいます。

その代表的な勢力が大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれる連合政権。大和朝廷の古墳の大きな特徴として、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と呼ばれる上から見たらカギ穴のような形をしている古墳であるということ。前方後円墳が誕生したのが3世紀の初めで、およそ150年の間に前方後円墳が南は鹿児島県から北は岩手県まで、全国各地に約5200基も存在するようになりました。これは大和朝廷の勢力が全国に拡がっていったことを意味しています。

古墳の種類

古墳には様々な種類があります。

  • 方墳(ほうふん)・・・上空から見て、四角い形をした古墳
  • 円墳(えんぷん)・・・上空から見て、丸い形をした古墳
  • 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)・・・上空から見てカギ穴のような形をした古墳。
  • 前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)
  • 上円下方墳(じょうえんかほうふん)

方墳と円墳と前方後円墳ぐらいはテストに出ますので、こういう形があるのだなという感じで覚えておくとよいでしょう。

出土品

古墳にはご遺体以外にも多くのモノがお供えしました。

まず、埴輪(はにわ)と呼ばれる焼き物が収められています。埴輪には、古墳の上に置かれた円筒埴輪(えんとうはにわ)と呼ばれる埴輪や、家や人物や馬などの動物など当時の人々の様子がしのばれる形象埴輪(けいしょうはにわ)と呼ばれる埴輪があります。

副葬品は古墳時代の時期によっても変化していきます。前期の頃は鏡や勾玉(まがたま)のような呪術的な色彩の強い副葬品が多かったのですが、時代が下るにつれて武具や馬具などの副葬品も増えていきました。

代表的な前方後円墳

以下のようなモノが有名です。

  • 箸墓古墳(奈良県)・・・最古の前方後円墳。3世紀中頃のもの。
  • 大仙古墳(大阪府)・・・世界最大のお墓。仁德天皇陵とも言われています。
  • 誉田御廟山古墳(大阪府)・・・仁德天皇のお父様でいらっしゃる応神天皇陵と言われてます。
  • 五色塚古墳(兵庫県)・・・昔の姿の古墳が復元されている。兵庫県最大の前方後円墳。
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渡来人から様々な技術を学ぶ

5世紀以降、日本には中国(チャイナ)や朝鮮半島からの渡来人(とらいじん)が増えました。

この頃、中国(チャイナ)や朝鮮半島は激しい対立が起こっており、戦乱の世でした。それを逃れるために来日したのではないかと言われています。

ここからは大陸から伝わったものを紹介していきます。

漢字の伝来

同じく、百済(くだら)から漢字が伝わりました。

埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山古墳(いなりやまこふん)や熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)から出土された鉄剣や鉄刀に文字が記されています。

獲加多支鹵大王

という文字です。ワカタケルと読み、これは第21代の天皇である雄略(ゆうりゃく)天皇であると言われています。

中国(チャイナ)の歴史書「『宋書』倭国伝」の中には倭王武と書かれていますが、倭王武と雄略天皇は同一人物であると言われています。

この鉄剣は、5世紀の終わり頃のものだと言われているため、この頃には日本で漢字が使われていたことが明らかになっています。

これとともに、雄略天皇の御代には、少なくとも埼玉県から熊本県までは、大和朝廷の勢力下にあったことが分かります。

儒教の伝来

同じく、百済(くだら)から儒教(じゅきょう)が伝わりました。

儒教は中国(チャイナ)の春秋・戦国時代に、理想の国のあり方について多くの思想家(諸子百家)が論じ、その中に儒教がありました。

儒教は後に日本の政治や文化にも大きな影響を与えることになりました。

仏教

6世紀中頃に、仏教が中国(チャイナ)、朝鮮半島にあった百済(くだら)を経て日本に伝わってきました。

仏教を日本で受け入れるのかどうかについては、対立が深まりました。くわしくは別に記したいと思います。

須恵器の伝来

弥生時代には弥生土器が使われていましたが、古墳時代になると弥生土器の技術が発展して土師器(はじき)と呼ばれる土器が使われるようになっていました。弥生土器と同じく赤焼きです。ロクロを使わなかったりのぼり窯を使って焼いたりするものではありませんでした。

古墳時代に、朝鮮半島から須恵器(すえき)と呼ばれる土器が伝わりました。須恵器は、ロクロを使ってのぼり窯で焼いて灰色で今までの土器と比べても固い点に特徴があります。

その他

他にも土木建築技術や織物技術や金属工芸などの技術も取り入れ、大和朝廷はこういった技術を積極的に取り入れていきました。こうして大和朝廷も力を付けていったのです。

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日本の文化

住居

かまどが家に付けられる

古墳時代になると、家の中に竈(かまど)が付けられるようになりました。

民(たみ)の竈(かまど)のお話

竈(かまど)といえば、第16代の仁德天皇の「民の竈」の話が有名ですね。「古事記」や「日本書紀」に記されています。

ある日、仁德天皇が高台から遠くをご覧になっていたときに、人家の竈(かまど)から煙が立っていないことに気づかれました。

「五穀が実らず、民(たみ)の生活が困窮しているのではないか?都ですらこの状況なので、地方はもっと困窮しているはずであろう。今から3年間、全ての課税と役務(えきむ)を止めて、民の苦しみを和らげよ。」

とお命じになりました。それから宮中では倹約生活が始まりました。宮殿の垣(かき)が破れても造らず、屋根の茅(かや)が外れても葺き替えもしなかったので、部屋から星が見えるほどの有様だったそうです。

3年が経過すると、民の生活は豊かになりました。天皇が高台にお上りになると、竈からは炊煙が立っていました。

「天が君主(天皇)を立てるのは、民のためであり、君主にとって民は根本である。だから、民が一人でも飢えているのであれば、君主は自らを責めなくてはいけない。」

仁德天皇は皇后陛下に対してそのように仰ったそうです。

今度は民が仁德天皇のために税を納めて宮殿を建て直さなくてはいけないと言いました。しかし天皇はこれを拒みました。

さらに3年が経過した後、仁德天皇はようやく課役を命ぜられました。すると、民たちは誰から催促をされるわけでもなく知恵を絞りながら仁德天皇のために新しい宮殿を造りました。

竹田恒泰「天皇の国史」(PHP出版)

仁德天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれていますが、こういったエピソードがありました。世界最大のお墓が造られたのもうなづけますね。

農耕にまつわる祭祀

現代ほど技術が発展していたわけではないので、農作物が採れないと人々の生活は追い込まれます。

古墳時代の人々はやはり神様に豊作の祈りを捧げたり、逆に実りがあると神様にお礼を捧げたりします。豊作を祈る「祈年(としごい)の祭り」や収穫を感謝する「新嘗(にいなめ)の祭り」が行われていました。

この伝統は今でも引き継がれており、毎年2月17日に宮中で「祈年祭(きねんさい)」が行われていたり、毎年11月23日には「新嘗祭(にいなめさい)」が行われています。「新嘗祭」は「勤労感謝の日」でもありますね。今でも働いて日々の生活が送れることを感謝する日でありたいものですね。

 

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