大和時代[古墳時代]の流れと特徴をわかりやすく解説しました!

大和時代について学ぼう 歴史の全体構造
大和時代について学ぼう
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みなさんは、日本各地に点在する「古墳」をご覧になったことはありますか?

鍵穴のような形をした「前方後円墳」や、円形・方形の古墳など、さまざまな古墳が全国に存在します。これらの古墳は、古代日本のリーダーたちの力や権威、そして国家形成の過程を象徴しています。

今回は、ヤマト王権の成立とともに日本列島に広がった古墳時代にスポットを当て、この時代の重要性と面白さに迫ります。

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我が国の歴史全体の流れの中の大和時代[古墳時代]

歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。

中学歴史の全体構造
中学歴史の全体構造

多くの教科書には古墳時代と書かれています。

しかし最近では、大和やまと時代と呼ばれるようになっています。実は、歴史の専門家の間で「古墳時代」よりも「大和時代」の方が適切ではないか、という意見が出てきています。なぜなら、3世紀から7世紀にかけての時代には都が大和地方(現在の奈良県桜井市あたりを中心とした場所)に置かれていたからです。

考えてみてください。奈良時代や平安時代は、都が奈良や平安京にあった時期のことを指しています。同じように、都が大和にあったこの時期は、本来「大和時代」と呼ぶべきではないかというわけです。そのため、最近の研究者の論文では、特に若手の学者たちが「大和時代」という名称を積極的に使い始めているのです。

さらに興味深いのは、日本の古代の国号です。みなさんは「」という言葉を聞いたことがありますか?中国の歴史書や、古代の外交文書などで日本は「倭」と記されています。

しかし、この「倭」という名前は、中国の王朝が日本を呼ぶためにつけた名前で、あまりよい意味ではなかったのです。実際、日本が自らの国号として名乗っていたのは「やまと」だったと考えられています。「倭」とはあくまでも中国の王朝がつけた名前であり、日本人自身が名乗ったわけではないのです。

そのため、3世紀の日本の地図には「やまと」と記されるべきだ、という考え方が浸透しつつあります。

この時代は、日本の国家形成において極めて重要な時期です。しかし、この時代にはまだ文字が使用されておらず、前半部分の記録がほとんど残されていないため、謎に包まれている部分も多くあります。考古学の進展によって徐々に解明されているとはいえ、古墳の建造やその背景に関する不明点も多い時代です。それでも、この時代に日本列島が一つの国家へと統合されていく過程は、非常に興味深く、私たちの歴史を理解する上で欠かせないものです。

謎めいた巨大な古墳の数々

「大和時代 [古墳時代]」は、3世紀から7世紀にかけて続いた時代で、「古墳」と呼ばれる巨大なお墓が造られたことが特徴です。

特に有名なのが「前方後円墳ぜんぽうこうえんふん」という、鍵穴のような独特な形の古墳であり、日本各地に点在しています。大和時代[古墳時代]を通じて墳丘の長さが200メートル以上の古墳は37基ありますが、そのすべてがこの前方後円墳です。

その中でも特に大きい墳丘を紹介しましょう。それは、第16代の仁徳天皇の古墳とされる大仙陵古墳(大山古墳)で、縦486メートル、横が305m、高さが35mにも及び、古代エジプトのクフ王のピラミッドや中国(チャイナ)の始皇帝陵と並ぶ世界最大級の古代墳墓です。とても大きいですね!(詳細のデータは堺市ウェブサイトを参照)

ところで、

「なぜ古代の人々はこんな大きなお墓を造ったのだろう?」

と思うかもしれません。ここでみなさんに考えてほしいのが、古墳を造った古代の人々の気持ちです。

彼らはどんな想いで、時間も労力もかかる古墳を造ったのでしょうか?
1. 支配者に無理やり命令されて、いやいや造った。
2. リーダーへの感謝と祈りを込めて、喜んで造った。

どちらだと思いますか?AさんとBさんに話し合ってもらいましょう。司会は岩田先生です。

岩田先生:「ちょっと話し合ってみましょうか?」

Aさん:「そうですね…私は、支配者に無理やり命令されて造ったんじゃないかと思います。古墳ってすごく大きいし、造るのに何年もかかりますよね?あんなに大変なものを喜んで造るとは考えにくいです。しかも、昔の王様やリーダーって強い力を持っていたはずだから、命令されたら断れなかったんじゃないかな。」

岩田先生:「なるほど、確かに古墳は巨大で、一つを造るのに多くの人々の労力が必要だったのは間違いありませんね。では、Bさんはどう思いますか?」

Bさん:「私はAさんとは違う意見で、当時の人々はリーダーに感謝や祈りの気持ちを込めて古墳を造ったんだと思います。昔の日本ってリーダーや王様をすごく大切にしていた文化があったって聞いたことがありますし、リーダーが亡くなったときにその人をしっかり弔うことで、自分たちの生活が守られたり繁栄したりすると考えたんじゃないかと思います。だから、古墳を造るのはリーダーに対する尊敬の表れだと思うんです。」

岩田先生:「AさんとBさん、それぞれ違う視点からの意見でとても面白いですね。実は、昔の人々が古墳を造った理由については、Bさんの意見も有力に唱えられるようになってきました。」

Aさん:「そうなんですか!でも、どうしてそんなに大きくて大変なものを喜んで造ったんでしょうか?」

岩田先生:「いい質問ですね。当時の人々にとって、リーダーや王様は自分たちの生活を守り、社会を安定させる大切な存在でした。そして、リーダーが亡くなると、その人への感謝の気持ちや、その人の魂が安心して安らかに眠ることを祈って、古墳を造ったと考えられています。特に前方後円墳のような巨大な古墳は、ただのお墓ではなく、リーダーや王様の力の象徴であり、信仰の対象でもあったんです。」

Bさん:「なるほど…。つまり、古墳を造ることでリーダーに敬意を表し、その人の存在が生き続けるようにと願っていたんですね。」

岩田先生:「その通りです。当時の人々はリーダーを大切にし、またリーダーも自分の民を守るために努力していました。その関係性があったからこそ、あんなに大きな古墳を多くの人々が協力して造ることができたんですね。」

Aさん:「そうか…無理やり命令されて造らされたわけじゃなくて、みんなが感謝の気持ちを込めて造っていたと考えられているのですね。それだと確かに納得です。」

岩田先生:「いい気付きですね。実は、古墳を造った当時の人々の気持ちを考えるうえで、第16代の仁徳にんとく天皇『民の竈(かまど)』のエピソードはとても参考になります。このお話は『日本書紀』に書かれているんですけど、少し紹介しましょうか。」

Aさん・Bさん:「ぜひ聞きたいです!」

岩田先生:「では、簡単にお話しますね。ある日、仁徳天皇が高台から民衆の暮らしを見ていたとき、民の家から竈の煙がほとんど立っていないことに気づかれました。煙が出ていないということは、炊事ができていない、つまり民が貧しくて食事が十分にできていないということです。

そこで、天皇は心配され、3年間の課税と役務を免除し、民の生活を立て直すよう命じました。その間、宮中では倹約生活が続き、宮殿が壊れても修理せず、屋根のかやが破れても葺き替えないほど、質素に暮らしました。」

Bさん:「すごい…それだけ民のことを思いやっていたんですね。」

岩田先生:「そうなんです。3年が経ち、再び高台に上ったとき、今度は竈から煙が立ち上るのが見えました。民の生活が豊かになり、笑顔が戻ったことを示していたんですね。そして、仁徳天皇は『天が君主を立てるのは民のためであり、民が根本だ。だから、民が一人でも飢えているならば、君主は自らを責めなくてはならない』とおっしゃったそうです。

その後、豊かになった民たちは自ら天皇のために税を納め、壊れた宮殿を建て直そうとしましたが、天皇はすぐにはそれを受け入れず、さらに3年待ちました。そして7年目にやっと課役を命じたとき、民たちは喜んで天皇のために新しい宮殿を造ったといいます。」

Aさん:「だから、古墳もリーダーへの感謝の気持ちを込めて造られたんですね!」

岩田先生:「まさにその通りです。この『民の竈』のエピソードからも、仁徳天皇がどれだけ民を大切にし、民からどれだけ愛されていたかがわかります。だからこそ、世界最大級の古墳である大仙陵古墳が彼のために造られたというのも、納得できますよね。古墳には、そんな人々の深い想いが込められているんです。」

Bさん:「仁徳天皇は、まさに『聖帝ひじりのみかど』と呼ばれるにふさわしいですね。」

岩田先生:「そうですね。このようにエピソードを知ると、古墳に込められた想いや当時の人々の気持ちがより理解できると思います。皆さんも、そんな視点で古墳を見てみると、また新しい発見があるかもしれませんね。」

ありがとうございました!

仁徳天皇の精神は、現在の天皇陛下にまで脈々と受け継がれています。

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古代の日本と天皇のつながり

そもそも、前方後円墳にはどのような意味があるのでしょうか?

実は、前方後円墳はヤマト政権の勢力拡大と国家統合を象徴するものだと言われています。世界の墳墓の形状を見ても、前方後円墳は日本オリジナルのもの(朝鮮半島にも前方後円墳がありますが、日本の前方後円墳よりも新しいものなのだそうです)と言っても過言ではありません。したがって、単なる墳墓ではありません。

前方後円墳は、データを見ていると、九州地方(鹿児島県)から東北地方(岩手県)にかけて全国で作られました。このことから、歴史学者は日本で起こった大きな変化を推理しました。それはなんでしょうか?少しだけ考えてみましょう。

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古墳の形や出土品などから、いくつかの重要な事実がわかります。

  1. 前方後円墳は大和(奈良県)で最初に造られた。
  2. 巨大な古墳は大和地方と大阪に集中している。
  3. やがて全国で前方後円墳が造られるようになり、副葬品も同じ形式になった。

これらの事実から、当時の日本が大きく変わったことがわかります。

最初に奈良で作られた日本独自の前方後円墳は全国へと広がっていきました。しかも最大の古墳群は大和にあることから、ヤマト政権が日本を統一したと考えられます。

ここでもう少し考察してみます。

前の時代の弥生時代の我が国の様子を振り返ってみましょう。弥生時代の我が国はどのような状況だったか覚えていますか?

中国の歴史書によれば、百余国→30余の国に分かれていたと書いてありました。忘れてしまったみなさんは、ぜひ上のリンクをクリックして内容を確認してみてください。

弥生時代も小さなクニが少なくなっているので国の統一が進んでいることが分かるのですが、さらに統一された「ヤマト政権」と呼ばれる政権が表れました。この政権のリーダーは、「王の中の王」という意味で、「大王おおきみ」と呼ばれました。

このように日本を統一した大王は、実は現在の日本の天皇のご先祖にあたります

約1600年前のご先祖がわかっていて、その系図が途絶えずに続いているのは世界的にも非常に珍しいことです。

現在の天皇陛下は、その長い歴史を受け継ぐ126代目にあたります。これは日本の歴史の長さと深さを示す、誇るべき事実です。

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大和時代[古墳時代]の時期区分と代表的な古墳

ここからは大和時代[古墳時代]の変遷を概観していくことにしましょう。

大和時代[古墳時代]は、その造営される古墳の形態や副葬品の特徴により、前期・中期・後期(および終末期)に分けられます。古墳時代は時期ごとに古墳の造営形態や副葬品が変化し、それによって被葬者の権威や社会の状況がうかがえます。

それぞれの時期にどのような古墳が築かれ、どのような副葬品が納められたのか、具体的な古墳名を挙げながら見ていきましょう。

前期(3世紀後半~4世紀)

古墳時代の前期には、主に畿内や西日本を中心に丘陵地や台地に古墳が築かれました。

古墳の形状としては、前方後円墳や前方後方墳、円墳、方墳などがあります。

墳丘の表面には葺石ふきいし円筒埴輪形象埴輪(動物や人物をかたどった埴輪)が並べられました。特に、形象埴輪は素朴な表情や微笑みのある表情が表現されており、先ほどAさんとBさんの話し合いの中で登場したBさんの考え方が表れているのではないかと感じられます。

埴輪をめぐらせた墳丘の頂上に、埋葬施設として「竪穴式石室」が使われるのが一般的でした。

副葬品としては、銅鏡、碧玉へきぎょく製の腕飾り(鍬形石や車輪石など)、勾玉まがたま管玉くだたまといった呪術的な意味を持つものが納められています。これらの副葬品は、被葬者が宗教的・祭祀的な権威を持っていたことを示しているとされています。

この時期の代表的な古墳として、奈良県桜井市にある「箸墓はしはか古墳」を最初に挙げなくてはいけません。これは纏向まきむく遺跡の近くにある前方後円墳です。ここには、第10代の崇神すじん天皇や第11代の垂仁すいにん天皇、第12代の景行けいこう天皇の宮があったと「日本書紀」などに記録が残っています。最初の前方後円墳と言われています。纒向遺跡では、ほぼ同時期に90メートル級の古墳が5基も建造されており、これがいかに当時の国家が強大であったかを示しています。このサイズの古墳は小さな国では建設が不可能であり、国家的な規模での建設が行われたことがわかります。

また、奈良県天理市にある「黒塚古墳」は33面の三角縁神獣鏡さんかくふちしんじゅうきょうが出土された古墳としても有名です。その他の同時期の古墳としては、京都府南部の木津川市にある「椿井大塚山つばいおおつかやま古墳」もあり、ここからも三角縁神獣鏡さんかくふちしんじゅうきょうが出土されています。

中期(4世紀末~5世紀)

続く古墳時代中期には、畿内の平野部で前方後円墳がさらに巨大化し、ほり陪塚ばいちょうが造られるようになりました。前方後円墳は、畿内を中心にヤマト政権の影響力が強まるとともに、全国各地に広がりを見せます。群馬県の上毛野かみつけぬ吉備きび、島根県の出雲いずも、福岡県の筑紫つくし、宮崎県の日向ひゅうがといった地方でも大規模な古墳が次々と築かれました。これらの地域での古墳築造は、ヤマト政権が畿内から離れた地方にまでその影響を及ぼしていたことを示しています。

墳丘には、前期と同様に葺石ふきいしが敷かれ円筒埴輪、形象埴輪が並べられましたが、この時期の副葬品は、鉄製の武器(甲冑や馬具、鉄剣など)や冠や金銀製の装身具といった、より軍事的な性格のものが多く見られます。

この時期の代表的な古墳として、特に注目すべきなのは、大阪府の大仙陵だいせんりょう古墳(大山古墳)と「誉田御廟山こんだごびょうやま古墳」です。前述した通り、大仙陵古墳は仁徳天皇陵とされ、誉田御廟山古墳は第15代応神天皇の陵とされており、どちらも全長400メートルを超える巨大な前方後円墳です。これらの古墳は、ヤマト政権が大阪府付近を拠点にして強大な権力を持っていたことを示しています。

また、日本最北端にある前方後円墳として知られるのが、岩手県の「角塚つのづか古墳」です。さらに、群馬県の「太田天神山おおたてんじんやま古墳」は東日本で唯一、全長200メートルを超える古墳として名高く、東日本における重要な古墳のひとつです。

近畿地方では、兵庫県の「五色塚ごしきづか古墳」が有名で、兵庫県内最大の前方後円墳であるとともに、全国で初めて築造当時の形に復元された墳丘としても知られています。

さらに、岡山県の「造山つくりやま古墳」は、全国で4番目の大きさを誇る前方後円墳です。この地域を支配していたとされる吉備氏の勢力を象徴するものと考えられています。

他にも、宮崎県の日向地方では、西都原古墳群に属する「男狭穂塚おさほづか女狭穂塚めさほづか(西都原古墳群)」ななどの大規模な古墳が築かれており、これらもヤマト政権の影響が及んでいたことを示す重要な遺構です。

このように、大和時代[古墳時代]中期には、ヤマト政権の力が全国に広がるとともに、各地で前方後円墳が造営されました。各地域での大規模な古墳の存在は、ヤマト政権が日本全土にその影響力を拡大していった証拠といえるでしょう。

後期(6世紀~7世紀 終末期)

後期になると、畿内では引き続き巨大な前方後円墳が造られ続けましたが、それ以外の地域では小規模な円墳や横穴墓が山間部や丘陵地に広がりました。

また、墳丘内の埋葬施設も「竪穴式石室」から「横穴式石室」へと変わりました。これは朝鮮半島から伝来した家族墓の形態を取り入れたものです。横穴式石室は「玄室」と「羨道せんどう」という空間を持ち、家族の埋葬に適した構造となっています。試験ではよく追葬が可能になったと書かせることが多いです。

副葬品も変化し、鉄製の武器だけでなく、日常生活用の土師器や須恵器すえき、農具、工具などが多く納められるようになります。これは、古墳が死者の生活の場と考えられるようになったことを示しています。

この時期の古墳には、群集墳装飾古墳壁画古墳が数多く登場します。

群集墳はリーダーだけでなく有力農民のお墓にもなりました。たとえば、群集墳としては和歌山県の「岩橋千塚いわせせんづか古墳」、奈良県の「新沢千塚古墳にいざわせんづか」、埼玉県の「吉見百穴よしみひゃくあな」などがあり、装飾古墳や壁画古墳としては奈良県の「高松塚古墳」や「キトラ古墳」、福岡県の「竹原古墳」や「王塚古墳」、熊本県の「チブサン古墳」、茨城県の「虎塚古墳」などが挙げられます。

また、その他の後期の代表的な古墳として、奈良県の「石舞台古墳(蘇我馬子の墓とされる)」や「藤ノ木古墳」、福岡県の「岩戸山古墳(磐井の墓とされる)」などが知られています。

古墳の消滅(7世紀後半)

7世紀後半になると、古墳の造営は次第に減少していきます。

その要因としては、大化の薄葬令(西暦646年)による華美な古墳造営の抑制、仏教思想の普及による火葬の一般化、豪族の権威誇示の手段が古墳造営から寺院(氏寺)建設へと変化したことが挙げられます。

とは言いつつも、古墳は形を変えて造り続けられました。7世紀中頃からは正八角形の八角墳はっかくふんと呼ばれる墳墓が作られるようになりました。正八角形になったのは道教思想の影響と言われ、天皇固有の墳墓となります。例えば、天智天皇陵や天武・持統天皇陵などがこれにあたると言われています。

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ヤマト政権による日本の統一

これまでは古墳をベースに大和時代の変遷を外観してきました。

以下のリンク先は、我が国の周辺諸国との関係を踏まえながら、ヤマト政権による日本の統一の様子を説明しています。

少し難しい内容も入っていますが、ぜひご覧ください。

まとめ:古墳から見える日本の姿

古墳時代は、日本が大和朝廷によって統一され、リーダーへの感謝や祈りの気持ちが大きな古墳として形に残された時代でした。巨大な古墳は、当時の人々の想いと力を伝え、現在までその姿を保ち続けています。

現代の日本人として、古墳時代に生きた先祖たちの気持ちに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。彼らの残した古墳や歴史が、私たちに日本の誇りとつながりを感じさせてくれるはずです。

 

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