皆さんが知っている大和時代…
その背後にはどれだけの国際関係が存在していたのでしょうか?
この時代、日本は中国や朝鮮半島と深い関わりを持ちながら独自の国家形成を進めていました。他方では、中国[チャイナ]大陸では大国が衰え、朝鮮半島では国々が激しく争い、日本もその影響を大きく受けていました。
では、
- 日本は一体どのようにしてこの国際的な混乱の中で自らの道を見つけ出し、国を形作っていったのでしょうか?
- なぜ、日本の古墳時代が他の国々と比べて独自性を持ちながらも、国際的な流れに影響を受けた時代だったのか?
こうした問いに答えるためには、当時の中国や朝鮮半島の状況を理解することが重要です。
これから、私たちはその時代背景を探り、日本がどのようにして隣国との関わりを持ちながらも、自国の独立性を保っていったのか、その道筋を追っていきます。考古学的な証拠や歴史的資料をもとに、この時代の日本がどのように世界と繋がっていたのかを一緒に解き明かしていきましょう。
大和時代の中国[チャイナ]大陸の様子
我が国の弥生時代末期の記録では、晋という王朝が中国[チャイナ]大陸にありました。晋は邪馬台国の女王である卑弥呼が使者を送った魏という国の当時の皇帝が、自分の地位を司馬炎という人物に譲って(これを「禅譲」といいます)建国された王朝です。そして、邪馬台国の壱与という女王が晋に使者を派遣したことが「晋書」という歴史書に書かれています。
ところが、ここからしばらく中国[チャイナ]の歴史書からは日本(倭国)の記述がなくなってしまいます。なぜかと言うと、中国[チャイナ]大陸が戦乱の時代に入ってしまうためです。
日本(倭)の記録が残されていない当時の戦乱の中国史をザックリと見ていくことにしましょう。
西暦280年、「魏・呉・蜀」の三国の中で最後に残った呉を晋が滅ぼし、ついに三国時代は終わり、中国[チャイナ]は再び1つの国になりました。
しかし、晋の時代は長く続きませんでした。司馬炎が亡くなったあと、彼の家族(司馬氏)が皇帝の座を巡って「八王の乱」という戦いを始めます。これがきっかけで晋は弱くなり、北方や西方に住んでいた漢民族ではない5つの民族(例えば匈奴や鮮卑といった民族)が中国北部に侵入してきます。これらの5つの民族のことを五胡と言います。このような戦乱が続き、匈奴によって晋の都があった洛陽が陥落します。そして、中国[チャイナ]はまた分かれてしまいました。中国[チャイナ]の北部のことを華北と言いますが、華北はこの後約130年間に16個の王朝が興亡を繰り返しました。華北地域は後に北魏という王朝が統一したものの、急激な漢化政策(北魏の人たちは元遊牧民だったのに強引に漢化を進めた)ため、また西魏と東魏とに分裂してしまいました。このように、華北地域では、遊牧騎馬民族による王朝交代が行われていた時代でした。この時代を「五胡十六国時代」と呼びます。
一方、晋の司馬炎の一族である司馬睿は南の江南という地域に逃げては南下して都を建康という場所に移し、ここから東晋と呼ばれるようになりました(西暦317年)。南の地域は農業が盛んで、たくさんの人が移り住み、新しい農地を開発しました。西暦420年に禅譲によって宋という国が興りました。宋という国は後ほど日本(倭)と関係を持つことになります。覚えておきましょう。
まとめると、中国大陸は、北は遊牧民が、南は漢民族が支配する時代が続くことになったのです。
大和時代における朝鮮半島の様子
続いて朝鮮半島の歴史についても触れておきましょう。
大和時代より前の朝鮮半島の歴史については、以下のコンテンツに掲載しています。
さて、中国[チャイナ]大陸の政情が不安定になると、周囲の国も独自路線を歩み出すのが東アジア地域の特徴です。
満洲の森林地帯に住んでいたツングース系民族の王朝である高句麗が朝鮮半島の南部に進出してきます。
1世紀から4世紀頃、朝鮮半島の中南部には「韓族」という人たちが住んでいました。この地域には、馬韓、辰韓、弁韓という三つの国があり、小さな国々がたくさん集まっていました。この時代を「三韓時代」と言います。
他方、古代の朝鮮半島は、周辺地域や外部からの脅威、特に中国の影響や北方からの侵入があり、力を合わせて自国を強化する必要がありました。小国が乱立している状況では防御が不十分であり、敵に対して脆弱でした。そのため、より強力なリーダーの下にまとまることで、地域を一つにまとめ、外敵に対抗する力を強化する必要がありました。
そういったことから、4世紀になると、朝鮮半島の南西部の馬韓の地域は百済になり、南東部の辰韓の地域は新羅になりました。一方、朝鮮半島南部には小国家連合のままの地域がありました。それが弁韓の地域ですが、伽耶という国が成立しました。なお、「日本書紀」ではこの地域のことを任那と呼んでいます。
さて、韓族の国々が戦々恐々としていたのが、先ほど述べた朝鮮半島北部に勢力を持っていた高句麗の存在です。彼らはツングース系の民族で、馬術に優れていたのだそうです。西暦209年には、丸都城という城を建ててここを中心地とします。その後、楽浪郡を西暦313年に滅ぼし、翌年には帯方郡も支配下に置きました。これにより、中国の漢民族による直接的な支配は終わりました。高句麗はさらに南下を続けます。そういう流れの中で韓族の小国連合は前述したような統一国家を作るに至ります。
高句麗は主に百済に向けられました。百済はこれに対抗するために、中国[チャイナ]の南朝や日本(倭)に力を借りようとします。他方、新羅とは比較的友好関係を保ちながら、高句麗は勢力を南下させていきました。
日本の統一と朝鮮半島の関わり
ここでいよいよ日本の話をしていきます。
ヤマト政権による日本の統一
ヤマト政権とは?
ヤマト政権は、日本の古代国家の基盤を作った政権であり、その成立は3世紀の大和時代にさかのぼります。当時、日本列島には多数の小国や部族が存在していましたが、奈良盆地を中心とする大和地方に強力な勢力が誕生し、これが後にヤマト政権として知られるようになりました。
このヤマト政権が、各地の豪族や地域の支配者たちを統合し、日本全体を統一する国家へと発展していったのです。
前方後円墳と日本列島の統一
ヤマト政権による国内統一を語る上で、重要な象徴となるのが前方後円墳です。
当初は奈良盆地のみにあった前方後円墳は、4世紀後半には東北地方や九州地方にまでその存在が確認されるようになり、ヤマト政権の支配が各地に広がっていったことがわかります。このような大規模な墳墓の築造は、朝廷が強力な中央集権的な統治体制を築き上げていた証拠でもあります。
前方後円墳は、ただの墓ではなく、政治的な象徴でもありました。墳丘の大きさや形は、地域の支配者がどれだけヤマト政権と近い関係にあるかを示し、豪族たちは競って前方後円墳を築くことで、朝廷とのつながりや自らの権威を示したのです。
このように、墳墓は単に個人のために築かれたものではなく、国家としての秩序や統一を象徴するものでした。墳墓の数や規模の拡大は、ヤマト政権の支配が日本列島全域に広がっていった過程と重なり合っています。
古墳についてのくわしい解説については以下のコンテンツがおすすめです。
統一の手段:戦争ではなく外交と婚姻
ヤマト政権が国内を統一していく過程は、単純な武力による征服だけではありませんでした。
戦争はもちろん一部行われたものの、ヤマト政権は特に「外交」と「婚姻」を重要な手段として用いました。地方の豪族たちと婚姻関係を結び、彼らと協力しながら支配を広げていくことによって、戦争を最小限に抑えた平和的な統合が進められたのです。
豪族たちは、大王(天皇)やヤマト政権と連携することで、安定した地位と権力を維持しました。そして、大和政権は地方の有力者を味方にすることで、日本全体の統治を効率的に進めていきました。
このように、ヤマト政権は国内の多様な豪族たちを結びつけ、戦争ではなく結束によって国家の統一を達成していったのです。
鉄資源の重要性
日本列島における統一を進める上で、経済力の基盤となったのが「鉄資源」です。
当時の日本は、鉄が豊富ではなく、農業用具や武器の製造には鉄が不可欠でした。そのため、ヤマト政権は鉄資源を確保するために、朝鮮半島の国々との交易や関係強化に努めました。
特に、朝鮮半島からの鉄の供給が、国内統一に向けた農業生産力の向上や軍事力の強化に直結していたのです。
ヤマト政権と鉄資源の独占
大和時代の日本において、鉄は国家の発展や防衛にとって不可欠な資源でした。
鉄製の武器や農具は、国力を高めるための基盤であり、鉄をどのように確保するかが政権の重要課題でした。しかし、日本列島自体では鉄鉱石の供給が十分でなかったため、周辺地域との交易や支配を通じて、鉄資源を輸入する必要がありました。
この時期において、ヤマト政権が特に注目したのが朝鮮半島南部の伽耶(任那)地域です。この地域は鉄鉱石の産地として非常に重要な役割を果たしており、伽耶(任那)との関係を通じて日本は鉄の供給を確保し続けました。伽耶(任那)は地理的にも日本に近く、大和政権にとって戦略的な拠点として機能したのです。
史料と朝鮮半島における我が国の権益
4世紀から5世紀にかけて、ヤマト政権は朝鮮半島での影響力を強めました。他方、中国[チャイナ]が南北朝時代になって戦乱で明け暮れている中で高句麗が朝鮮半島を南下してくると、日本(倭)の伽耶(任那)の権益を損なうことになります。
この時期のヤマト政権の活動は、現存する数少ない史料によって確認できます。それが高句麗の長寿王によって作られた好太王碑です。ちなみに、長寿王は好太王の子どもで、現在は中国吉林省の鴨緑江流域に置かれています。内容は父親の功績を讃える内容です。
内容を見ると、西暦391年に日本(倭)の軍勢が朝鮮半島に渡り、百済や新羅といった朝鮮半島南部の国々を従えたと記されています。これは、ヤマト政権がこれらの国々と同盟を結び、高句麗との軍事的な対立に関わったことを示しています。さらに、こうした軍事行動の背景には、鉄資源を確保するための経済的な必要性があったと考えられます。他方、同じ好太王碑文の中に西暦404年に日本(倭)軍が高句麗軍によって朝鮮半島から撃退されるという出来事も記録されています。
ここで年表にまとめてみましょう。
西暦391年 朝鮮半島に出兵。百済と新羅を服属させる
西暦399年 日本と百済が同盟を結ぶ。日本と百済の連合軍が新羅に侵入
西暦400年 高句麗が新羅を助けて日本軍を任那伽耶まで追撃
西暦404年 高句麗軍が日本軍を撃退する
また、石上神宮に伝わる七支刀には、西暦369年に百済の王が倭王に贈る目的でこの刀を製作したということが書かれており、百済が日本に敬意を表していたことが刻まれており、これも鉄を含む貴重な資源や技術を交換し合う関係があったことを示唆しています。
また、朝鮮半島南部には前方後円墳がいくつも存在しています。前方後円墳は日本列島で発展した独自の文化ですが、朝鮮半島南部に広がったという事実から、ヤマト政権がこの地域に深く関与していたことがわかります。
朝鮮半島の国々にとって、ヤマト政権は軍事的に強力で、特に鉄資源や権益を巡って圧力を受ける相手でもありましたが、同時に文化や技術の交流を通じて経済的な恩恵も受ける存在でした。日本との関係を維持しつつも、高句麗など他の強国との間でバランスを取りながら、国を守るために巧妙な外交を展開していたと考えられます。
他方、日本は技術や文化の面で朝鮮半島から多くの影響を受けました。朝鮮半島から伝わった技術や仏教文化は、ヤマト政権の国内統一を強化し、その後の飛鳥時代に続く文化的な発展の基盤となりました。
ヤマト政権の外交政策
ヤマト政権は、鉄資源の確保だけでなく、朝鮮半島での影響力を高めるために、中国の南朝にも外交的な働きかけを行いました。
5世紀には、日本が南朝の宋に朝貢を行い、第21代の雄略天皇が宋の皇帝から朝鮮半島の軍事指揮権を認められたとされる記録が「『宋書』倭国伝」という中国[チャイナ]の書物に存在します。沈約という人物が編纂したと言われています。
以下もう少しくわしく概観していきましょう。
中国との関係と「倭の五王」
史料を確認してみましょう。
以下の部分が倭王武が宋の皇帝にアピールした部分です。
順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。
『宋書』倭国伝より
(中略)
詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す
雄略天皇の時代、日本は中国の南朝である宋と外交関係を持っていました。
中国の歴史書「『宋書』倭国伝」には、「倭の五王」という5人の倭の君主が記録されています。讃・珍・済・興・武です。このうち、済は第19代の允恭天皇、興は第20代の安康天皇と言われており、「武」が第21代の雄略天皇ではなかったかと言われています。雄略天皇は西暦478年に中国に朝貢(貢ぎ物を送ること)を行ったとされています。順帝の昇明二年という部分がそれに当たります。
当時、多くの国が中国[チャイナ]に朝貢を行うことで、中国皇帝からの称号や地位を得て、国内の正統性を高めていました。中国[チャイナ]に認められることは周辺国にとって大きな名誉だったのです。
しかし、当時の日本(やまと)の目的はそれだけでなく、日本は中国[チャイナ]との関係を通じて、朝鮮半島での影響力を強めようとしたのです。
雄略天皇は、宋の皇帝の順帝に対して官位を要求しました。具体的には「七国諸軍事安東大将軍」という官位です。「七国」とは、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓です。朝鮮半島南部にあたる地域です。ここに高句麗は含まれていません。
宋の皇帝の順帝は、最初は認めなかったものの、最終的には百済を除く「六国諸軍事安東大将軍倭王」に任じました。百済は日本以前に朝貢していたため認められませんでした。これは、日本が朝鮮半島での鉄資源などの権益を確保するための戦略的な行動でした。
中国の命名と「倭王」の称号
中国[チャイナ]では、朝貢を行う国々に対して、その国の君主に特定の称号を与える慣習がありました。日本の天皇も「倭王」という称号を与えられ、中国[チャイナ]側が名付けた個別の名前も使用されました。
しかし、これらの称号は日本国内では使われませんでした。日本にとって、これらの称号は外交上の名目であり、国内ではあくまで独自の政治体制と称号を重んじたのです。
雄略天皇の独立への道
西暦478年に中国に朝貢した後、雄略天皇は朝貢を中止し、中国[チャイナ]への依存から脱却する道を選びました。これは、中国の宋が西暦479年に滅亡したことも関係しています。これ以降、日本は中国への朝貢を行わなくなり、他国に依存しない独自の道を歩むことを選びました。
ヤマト政権の展開と統治の範囲について
最後に、ヤマト政権の国内の勢力拡大の様子を史料で確認して終わりにしましょう。
1つは、埼玉県の稲荷山古墳で発見された鉄剣。もう1つは熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀に「ワカタケル大王」と刻まれていたことです。
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
稲荷山古墳出土鉄剣銘文
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
江田船山古墳出土鉄刀銘文
この「ワカタケル大王」は、先ほど登場した第21代の雄略天皇のことであり、これらの遺物が発見されたことで、当時のヤマト政権の支配領域が埼玉から熊本まで広がっていたことが確認されました。
ちなみに、これらの鉄剣・鉄刀は、日本で最初に文字が刻まれた金属器であり、その年代も「日本書紀」に記されている雄略天皇の在位期間と一致しています。この発見により、前方後円墳がヤマト王権の統治範囲を示すものであることが明確になりました。
このように、ヤマト政権は動乱の大陸の状況を判断しながら日本国内を統一しようとしていたのです。