【中学歴史】古墳時代の頃の中国と朝鮮半島の様子をわかりやすく

古墳時代 中学歴史
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今回は、古墳時代の頃の中国と朝鮮半島の様子をわかりやすく解説します。

弥生時代のところで、晋(しん)という王朝が中国(チャイナ)を統一したのですが、長くは続きませんでした。

大陸の国家が弱くなると、周辺諸国も慌ただしく動き出すようになります。日本からほど近い朝鮮半島もそうです。

まず中国(チャイナ)の様子を見た後で朝鮮半島の様子を見ます。さらに、ここに我が国はどのように関わっていったのかを最後に見ていきたいと思います。

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日本における古墳時代の頃、中国(チャイナ)は分裂の時代

くわしくは高校の世界史で学習しますが、簡単にどうなっていくのか流れを見ていきます。覚える必要は全くありません。

南北朝時代の中国(チャイナ)

日本が弥生時代から古墳時代になり、大和朝廷によって日本の小国がまとまろうとしていた頃、中国(チャイナ)は逆に分裂状態になります。

晋(しん)は中国(チャイナ)を統一しましたが(西暦280年)、政治が安定せず、権力をめぐって争いが起こりました。8人の王位継承者が争ったところから、八王の乱という内乱が起こります。その中で、五胡(ごこ)と呼ばれる5つの北方の遊牧騎馬民をお金で雇って兵士として重用しました。彼らが中国(チャイナ)に入ってきました。すると、既に万里の長城の南に移住していた五胡のうちの1つであった匈奴(きょうど)によって晋(しん)の都の洛陽(らくよう)が陥落します。晋の一族は南下して都を建康(けんこう)という場所に移し、ここから東晋(とうしん)と呼ばれるようになりました(西暦317年)。

中国(チャイナ)の北部のことを華北(かほく)と言いますが、華北はこの後約130年間に16個の王朝が興亡を繰り返しました。これを五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代と呼んでいます。華北地域は後に北魏(ほくぎ)という王朝が統一したものの、急激な漢化政策(北魏の人たちは元遊牧民だったのに強引に漢化を進めた)ため、また西魏と東魏とに分裂してしまいました。華北地域では、遊牧騎馬民族による王朝交代が行われていた時代でした。

一方、華南(かなん)では、東晋がクーデターによって滅亡した後に宋という国が興り、後に上のように、漢民族の王朝が次々と変わっていった時代でした。

中国(チャイナ)大陸がこのような状態であったため、朝鮮半島や日本の動きも活発化します。怖い先生がいなくなった後の教室がサファリパークみたいになるような感じですね(笑)。

日本の古墳時代における朝鮮半島

朝鮮半島は、漢(後漢)によって直接支配されていました。「『後漢書』東夷伝」にも登場した楽浪郡や、「『魏志』倭人伝」にも登場した帯方郡というのは、朝鮮半島を直接的に治めようとした役所です。

上で見たように中国(チャイナ)が弱体化すると、周辺の民族は元気になります。

古墳時代の朝鮮半島の様子

朝鮮半島北部の満洲(まんしゅう)に住んでいたツングース系民族の王朝である高句麗(こうくり)が朝鮮半島に南下してきました。そして西暦313年に楽浪郡を滅ぼしました。

一方、朝鮮半島の南部では韓族(かんぞく)、つまりもともと朝鮮半島に住んでいた民族が小国家連合を作り始めました。それが、4世紀半ばには、朝鮮半島西部に百済(くだら)、朝鮮半島東部に新羅(しらぎ)へと発展していきました。

一方、朝鮮半島南部には小国家連合のままの地域がありました。ここを伽耶(かや)とか加羅(から)などと呼んでいます。なお、「日本書紀」ではこの地域のことを任那(みまな)と呼んでいます。

日本と朝鮮半島の関わり

任那(伽耶)の地域は鉄の産地でした。日本の大和朝廷が鉄資源を確保するため、朝鮮半島に拠点を持っていたのです。実際に、朝鮮半島に前方後円墳が何基か存在しているのです。

それでは、朝鮮半島との関わりを年表にまとめてみました。

西暦391年 朝鮮半島に出兵。百済と新羅を服属させる
西暦399年 日本と百済が同盟を結ぶ。日本と百済の連合軍が新羅に侵入
西暦400年 高句麗が新羅を助けて日本軍を任那伽耶まで追撃
西暦404年 高句麗軍が日本軍を撃退する

これらの話は、石上神宮(いそのかみじんぐう)七支刀や5世紀初めに朝鮮半島に立てられた好太王碑文(こうたいおうひぶん)に文字史料として残っています。

日本、南朝に朝貢する

中国(チャイナ)では、大王(おおきみ)のことを倭王(わおう)と呼んでいました。

中国(チャイナ)の南朝の宋(そう)という国の歴史書の中にある「『宋書』倭国伝」(そうじょわこくでん)には、倭の五王が宋に朝貢していたことが分かっています。倭の五王とは、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)と書いてあります。讃と珍については説が定まっていないのですが、斉(せい)は第19代天皇の允恭(いんぎょう)天皇、興(こう)は第20代天皇の安康(あんこう)天皇、そして武(ぶ)は第21代天皇の雄略(ゆうりゃく)天皇であるとされています。

朝貢冊封体制

朝貢の目的は、朝鮮半島南部における軍事・外交上の立場を有利にするためであったとされます。大和朝廷は既に国内で大きな古墳を作れるぐらいの勢力を持っていました。だから、わざわざ国内を支配するにあたって中国(チャイナ)の後ろ盾は必要ないはずです。弥生時代に中国(チャイナ)へ朝貢していたのと理由は違います。

雄略天皇は、宋の皇帝の順帝に対して官位を要求しました。「七国諸軍事安東大将軍」という官位です。「七国」とは、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓です。高句麗は含まれていません。

宋の皇帝の順帝は、最初は認めなかったものの、最終的には百済を除く六国諸軍事安東大将軍倭王に任じました。百済は日本以前に朝貢していたため認められませんでした。

このできごとは西暦478年のことでしたが、翌年の西暦479年に宋は滅亡してしまいました。

 

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