飛鳥時代ってどんな時代なのかを簡単にまとめてみた

飛鳥時代 歴史の全体構造
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今回は、飛鳥あすか時代とはどのような時代なのかをざっくりまとめてみました。

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我が国の歴史全体の流れの中の飛鳥時代

歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。

中学歴史の全体構造
中学歴史の全体構造

飛鳥時代は国史(日本史)の中でどこに位置するのかを確認してから勉強を始めます。大きな視点を軽視して歴史の勉強を始めると、たちまち迷子になってしまいます。特に歴史が不得意だと思う人は、こういう大きな視点を持って、落下傘らっかさんで上から降りて細かいところに少しずつ入り込んでいくようなイメージで勉強していくとよいでしょう。

歴史の流れを鳥の目目線でコンパクトに説明したコンテンツ

飛鳥時代は、西暦593年に第33代の推古すいこ天皇が即位されてから西暦710年の第43代の元明げんめい天皇の御代に平城京へいじょうきょうに遷都が行われるまでの時代を指します。

仏教を受け入れてからは、仏教の影響を受けた文化が花開きます。これが飛鳥あすか文化白鳳はくほう文化です。

飛鳥文化を紹介します

政治や軍事面や外交においても中国(チャイナ)や朝鮮半島の動向の影響を受けた時代です。細かいところは別で述べたいと思います。

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飛鳥時代は大きく3つに区分できます

飛鳥時代は大きく3つの時代に分けると分かりやすいです。

推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のトロイカ体制 – 天皇中心の政治のヴィジョンを定めた時期

1つ目は、西暦593年に第33代の推古すいこ天皇が天皇に即位した時代です。初めて女性が天皇の位に就きました。

それを補佐したのが聖徳太子しょうとくたいしです。最近の教科書では厩戸王うまやどおうと書かれているものもありますが、ここでは聖徳太子でいきます!聖徳太子は摂政せっしょうという地位に就きました。摂政というのは、天皇が幼かったり女性だったりした場合に補佐をする地位です。

推古天皇と聖徳太子に加え、親戚であった蘇我馬子も政治加わり、この3人が中心となって政治が行われた時代がありました。

この時代は天皇が有力豪族の蘇我馬子に暗殺されたり、仏教を受け入れるか排斥すべきかで争ったりして国内の秩序が大きく乱れた時期でした。また、国外に目を向けると、中国(チャイナ)大陸に、ずいという王朝が建国され、勢力拡大を狙って次々に出兵していました。我が国は、まさに内憂外患の時代でした。

そのような時代の中で、聖徳太子は次の3つの方針で国づくりを行ったと評価してもいいでしょう。

  1. 外国の文化に学び、日本の伝統も守る国
  2. 天皇中心に1つにまとまる国
  3. 中国と対等に付き合う独立国

まず第1の方針について。

我が国は朝鮮半島にあった百済という国から仏教を伝えられました。その受容をめぐって崇仏派と廃仏派が国内で激しく対立しましたが、それを解決したのが聖徳太子でした。

仏教の受容をめぐった崇仏派と廃仏派の議論を追体験したのちに、聖徳太子はどのようにこの対立を収めたのだろうか?

結果として、我が国は仏教の教えを受け容れることになったのですが、聖徳太子はそれだけでなく古来の日本の神様も大切にしていく方針も示しました。外国の文化を学んでよいところは取り入れながらも日本の伝統も大切にしようという価値観を築くことになりました。

次に第2の方針について。

隋という大国が中国[チャイナ]大陸で誕生しました。そうすると国力を付けないと、下手をすると侵略されかねません。内政も天皇が暗殺される事件が起こるなど、混乱していました。

そこで、聖徳太子は天皇を中心とした政治秩序を整えることを決意しました。それが冠位十二階十七条の憲法の制定です。

国内の整備のほかに、聖徳太子は隋に対してどのように立ち向かったのでしょうか?

それが第3の方針です。

聖徳太子は遣隋使けんずいしを送りました。大陸からは優れた技術や制度を取り入れた一方で、日本独自の文化と融合させることで、国の発展を目指したのです。

聖徳太子の頃の政治・外交についてまとめてみました

このように、聖徳太子を中心として、天皇中心の政治のヴィジョンを固めていったのです。

なお、聖徳太子が活躍していた頃に栄えた文化のことを飛鳥文化と言います。

聖徳太子は皇太子であったため次の天皇の地位を約束された人物でした。しかし推古天皇が崩御する前に薨去こうきょ(皇族が亡くなること)されてしまいました。当時は天皇がご存命のまま譲位される習慣がありませんでした。したがって、推古天皇が先に即位していたことから、推古天皇が退位して聖徳太子が天皇に即位することはあり得なかったのです。

聖徳太子の薨去の悲しみは「日本書紀」にも記録が残っています。

聖徳太子の死をすべての人がなげき悲しんだ。
年老いたものは子を失ったかのように若い者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声がみちあふれた。田畑を耕すものは手に持った鋤をとめ、米をつく女はきねを動かそうともしない。
口々に、『太陽も月も輝きを失い、天地はくずれ落ちてしまったような気持ちです。この後、私たちは何を頼りにして生きていけばいいのでしょうか』と訴えるありさまだった。

「日本書紀」の現代語訳より(斎藤武夫先生「日本が好きになる!歴史全授業」プリント資料より)

また、蘇我馬子も推古天皇が崩御される前に逝去しました。

このように、6世紀末から7世紀初頭にかけて政治の中心にいた、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人が政治の表舞台からいなくなると、再び皇位継承をめぐって争いが起こりました。

結局、推古天皇が推していた田村皇子たむらのみこが第34代の舒明じょめい天皇となりました。

中大兄皇子(天智天皇)の時代

聖徳太子が薨去し、まもなく推古天皇も崩御ほうぎょ(天皇がお亡くなりになること)されると、蘇我氏の勢いが相対的に高まりました。

ただ、これを良しとしなかった皇族がいらっしゃいました。中大兄皇子なかのおおえのおうじです。中大兄皇子は中臣鎌足なかとみのかまたりの助けを借り、蘇我氏を滅ぼします。

中大兄皇子は天皇中心の政治を目指しました。これが大化たいかの改新です。

大化の改新についてわかりやすく

中大兄皇子の時代には朝鮮半島の混乱に巻き込まれました。百済くだら新羅しらぎによって滅ぼされると、百済から亡命してきた人たちがいました。中大兄皇子はこれを助けようとして出兵しますが、中国(チャイナ)にあった強大な王朝、とうと組んだ新羅に大敗北してしまいます。これが白村江はくすきのえ/はくそんこうの戦いです。

白村江の戦いについてわかりやすく解説

後に中大兄皇子は第38代の天皇として即位されました。天智てんじ天皇と申し上げます。

天武天皇・持統天皇の時代

天智天皇が崩御されると、皇位継承をめぐって争いが起こります。天智天皇の御子でいらっしゃる大友皇子おおとものおうじと天智天皇の弟である大海人皇子おおあまのおうじとの対立です。この対立は日本国内で内乱となりました。これが壬申じんしんの乱です。

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、第40代の天皇の位として即位しました。天武てんむ天皇と申し上げます。

天武天皇の時代には富本銭ふほんせんと呼ばれる貨幣を作るなど、天皇中心の政治を再び目指し始めました。これも壬申の乱の時に支持を集めた豪族たちの協力もあったために成功しましたが、天智天皇の頃に唐や新羅に敗れて国としてまとまらねばならなかったという当時の国内の事情もありました。まとまらなければ唐や新羅に負けてしまうからです。

天武天皇が目指した政治は、天武天皇が崩御してからも第41代の持統じとう天皇や第42代の文武もんむ天皇へと引き継がれていきました。文武天皇の時は、唐の法制度を参考にして、大宝律令たいほうりつりょうという法典を完成させました。これは明治時代になるまで日本の統治の基本となった法典になりました。

壬申の乱と大宝律令をわかりやすく解説してみました
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歴史の勉強はストーリーを説明できることを目指そう

歴史は英語でhistoryと言います。historyというスペルの中にstoryというスペルは見つかりますか?

歴史とは物語なのです。物語の中にはさまざまな出来事があります。その内容をしっかりと説明できるようになると、歴史の基礎は身につきます。

今回説明した飛鳥時代についてもストーリーを説明できるようにしましょう。そして教科書や参考書にある年表を見てみましょう。年表を丸暗記する人もチラホラいますが、面白い勉強ではないのでなかなか覚えられませんし、試験でもあまり使えません。年表は鳥が地上を見るように、全体の中での事件の位置づけを確認するために使う道具です。

ぜひ、飛鳥時代についてのまとめの説明を自分の言葉で説明できるまで何度も何度も取り組んでみましょう。

 

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