壬申の乱から大宝律令へ―国家の礎を築くプロセスをわかりやすく解説!

壬申の乱から大宝律令まで 国家の礎を築くプロセスを解説 飛鳥時代
壬申の乱から大宝律令まで 国家の礎を築くプロセスを解説
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第38代の天智天皇の崩御ほうぎょ(=天皇陛下が亡くなること)を機に始まった壬申の乱は、皇位継承を巡る戦いとして知られています。

しかし、この乱は単なる内乱に留まらず、日本が独自の国家として歩みを進める壮大なプロセスの始まりでもありました。乱を制した大海人皇子(天武天皇)やそれを引き継いだ持統天皇は、中国[チャイナ]大陸の大帝国である唐の制度を学びつつも、独自の文化と伝統を大切にした国家体制を築き上げました。また、第41代の持統天皇の治世には、藤原京という日本初の本格的な都が誕生し、ついで第42代の文武天皇の治世においては律令制度の完成形ともいえる大宝律令が制定されます。

これらの改革は、日本がただ唐を模倣するだけではなく、自国の風土や伝統を活かしながら、東アジアの中でも独自性を誇る一流国家としての地位を目指した挑戦の連続でした。天皇を中心とした統治体制、地方豪族との微妙な協調、そして元号の制定に象徴される独立した文化。これらが混ざり合い、一つの国としての日本が形作られていったのです。

この激動の時代、国の礎を築き上げた人々の足跡をたどりながら、日本が目指した「独自性」と「国際性」の両立を紐解いていきましょう。

なお、このコンテンツの元号の話題については、日本が好きになる歴史全授業のプロデューサーである渡邉尚久先生が主催された「日本の元号を学ぶ講座」(後援: LearnJapan)の中での国語WORKSの松田雄一先生が仰っていたご発言をベースに作成したものです。

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壬申の乱とは? – わかりやすく解説します!

第38代の天智天皇が崩御ほうぎょ(=天皇がお亡くなりになること)した翌年、皇位を巡る争いが激化し、国内を二分する戦い――壬申じんしんの乱が幕を開けたのです。「壬申」という言葉は六十干支の言葉ですね。この戦いは単なる皇族間の対立を超え、国家を二分する戦乱へと発展し、日本の政治的・文化的未来を決定づけた重要な出来事となりました。

壬申の乱はどうして起こったの?

天智天皇は、日本を強力な中央集権国家へと導くため、急進的な改革を進めてきました。蘇我氏を倒した大化の改新に始まり、西暦663年の白村江の戦いの後には防衛体制を整え、近江大津宮への遷都や国家統治のための新たな法体系の整備に着手したのです。その一方で、これらの改革は地方豪族に大きな負担を強いるものであり、中央の安定と引き換えに地方の不満を積み重ねていきました。また、白村江の戦いの敗北により、朝鮮半島の百済が滅亡し、多くの百済王族や臣下が日本に亡命してきました。さらに、高句麗の滅亡も重なり、大量の渡来人が日本に移住しました。これにより、日本は大陸からの文化的・政治的影響を受けつつ、社会的緊張が高まる時期を迎えていました。白村江の戦いの顛末については以下のコンテンツでわかりやすく解説しています

天智天皇の崩御後、近江宮で即位したのは息子の大友皇子おおとものおうじでした(のちの時代に第39代の弘文天皇という追号がされています)。当時の慣例では兄弟が皇位継承で優先されていました。それでも大友皇子を指名した天智天皇の選択は、個人的な愛情や中央豪族との結びつきを重視した結果と考えられています。大友皇子は母の出自が低かったことや若さから特に地方豪族の支持を十分に得られていませんでした。

一方で、皇位継承の資格を持つもう一人の存在、大海人皇子おおあまのおうじが静かに機をうかがっていました。大海人皇子は天智天皇と同母の弟であり、父は舒明天皇で母は第37代の斉明さいめい天皇という高い血統を持ち、継承権を強く主張できる立場にありました。

そこで、皇位継承をめぐって不穏が空気が漂います。天智天皇が病床で崩御する直前、大海人皇子を呼び寄せて次期天皇になるよう説得しました。しかし、大海人皇子はこれを辞退し、出家を理由に吉野へ退きました。我が国の正史である「日本書紀」には、重臣たちがこれを「虎を野に放つようなものだ」と噂したと記されています。これは、大海人皇子が自ら退いた形を取りつつも、機を見て挙兵する意思を抱いていたことを示唆しています。

大海人皇子は地方豪族や農民たちと密かに絆を深め、挙兵の準備を進めていたのです。なお、近年の研究では、大海人皇子の妻であり、後の持統天皇となる鸕野讃良皇女うののさららのこうじょが皇位を巡る争いにおいて重要な役割を果たした可能性も指摘されています。彼女が吉野で大海人皇子を説得し、大友皇子を討つよう促したとも言われています。

大海人皇子の出兵

吉野の山深い地で、大海人皇子は決断の時を迎えました。大海人皇子は吉野を出発しました。これと同じ時期に、岐阜県にある不破道(現在の不破関付近とされる)の封鎖を命じました。現在の関ヶ原付近と言われています。これは、大友皇子が関東や東国から援軍を得る道を断つためです。大海人皇子は吉野を出発したのち、三重県の伊勢や桑名を経て美濃へ進軍します。

大海人皇子は自分たちの兵士を労うために桃を配ったと言われています。のちにそこは桃配山ももくばりやまと言われるようになります。この地はのちに徳川家康石田三成らと戦った関ヶ原の戦い(西暦1600年)の東軍の本陣を敷いた場所でもあります。

戦いは激しさを増し、大友皇子の軍は不破道を越えようと試みましたが、大海人皇子の軍に拘束されます。その後、戦いの場は近江(現在の滋賀県)、大和(現在の奈良県)、河内(現在の大阪府)、伊賀(現在の三重県)へと移り、大海人皇子の軍は次々と勝利を収めます。

最終的な決戦は現在の滋賀県の瀬田せた橋で行われました。瀬田は琵琶湖の東西をつなぐ交通の要衝であり、壬申の乱以外にも承久の乱などの舞台にもなりました。さて、大海人皇子の軍の猛攻により、大友皇子の軍は壊滅的な打撃を受け、大友皇子は自害に追い込まれました。

現在の岐阜県の不破にいた大海人皇子の元に、大友皇子の首が届けられたことで、壬申の乱は終結を迎えます。

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第40代 天武天皇の政治 – 天武天皇は何をした?

壬申の乱を制した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやで即位し、第40代の天武てんむ天皇となりました。この宮を拠点に、新たな国家体制の構築に向けた数々の改革を進めていきます。天武天皇の治世は、日本が天皇を中心とした中央集権国家として発展する基盤を整えた重要な時代でした。また、この時代に「天皇」という称号が用いられるようになったことが記録されていますが、遣隋使の時代にもこの称号が使用されているため、その使用開始時期には諸説があります。ただ、この称号が天武天皇の時代に国家の象徴として明確に定着したことは確かです。

天武天皇の治世の重要な特徴として、皇親こうしん政治が挙げられます。皇親政治とは、天皇が皇族(皇親)を中核として統治を行う体制であり、他氏族を下位におく政治を行います。これにより天皇の直系の親族が重要な役職を担うようになりました。

西暦675年、天武天皇は、豪族が所有していた領有民(部曲かきべ)を廃止し、豪族に対して食封(封戸)や布帛(禄)を支給する制度へと切り替えました。この改革は、豪族による私有民の直接支配を廃止し、国家の管理下に置くことで天皇を中心とした一元的な統治を実現するものでした。また、豪族の勢力を抑えつつも、彼らの経済的基盤を保障する点で、安定を図る柔軟な政策でもありました。

西暦681年には、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうの編纂が始まりました。これは律令制導入に向けた準備であり、後の大宝律令たいほうりつりょうの完成に繋がる重要な布石となりました。同時期に、天皇を中心とした国家の正統性を示し、国民に共有することを目的として「帝紀」「旧辞」という歴史書の編纂も進められました。これらの編纂は、日本の歴史や神話を整理し、国家としての一体感を高めるために重要な役割を果たしました。

西暦684年には、天皇を頂点とする社会秩序の再編を図るため、「八色やくさかばね」を制定しました。この制度では、真人まひと朝臣あそみ宿禰すくねなどの称号を豪族に与え、身分を明確化することで社会秩序を安定させました。

西暦685年には、官僚機構をさらに強化するため、冠位を48階制へと移行しました。これにより、官僚の役割がさらに細分化され、行政運営が効率化されました。また、地方豪族の権限を制限し、中央集権化を一層進めることができました。

また、貨幣経済の基盤を整えるために富本銭ふほんせんの鋳造が行われ、国内経済の安定と発展を目指しました。

天武天皇は、伊勢神宮いせのじんぐうの整備を進めました。伊勢神宮は天照大御神を祀る神社であり、古代から皇室の信仰の中心として特別な位置を占めていました。壬申の乱後、国内は深い分断を経験していましたが、天武天皇は伊勢神宮を国家と皇室を繋ぐ精神的な象徴と位置付け、国民の結束を図りました。伊勢神宮は天皇と天照大御神の関係を強調することで、国家全体に一体感をもたらし、天皇を中心とする統治体制を精神的にも支える役割を果たしました。

また、この時代に式年遷宮の制度が確立されたとも言われています。20年ごとに社殿を建て替えるこの制度は、常に新しい状態で神を祀るという神道の精神を反映したものであり、伊勢神宮が国家全体で共有される神聖な場であることを強調しました。

伊勢神宮の整備は、壬申の乱後の分断された国家を精神的に統一する象徴となり、天武天皇の治世における統治の安定を支える大きな要因となりました。この取り組みは、国家の精神的支柱を確立するだけでなく、皇室の伝統と信仰の継続にも重要な役割を果たしたのです。

このほかにも、お正月などの年中行事が決められたり大嘗祭などの現在も大切な皇室の行事が始まったのもこの時期だと言われています。

これら一連の改革により、天武天皇は日本を中央集権国家としての道へと導きました。彼の政策は、後の持統天皇や文武天皇に引き継がれ、律令国家の完成に向けた大きな流れを形成したのです。

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第41代 持統天皇の政治 – 百人一首でも有名な持統天皇は何をした?

持統天皇の治世における政治体制の特徴

西暦686年、天武天皇が崩御しました。壬申の乱を制し、中央集権国家の基盤を築いた天武天皇の死は、国家の安定に大きな影響を与える出来事でした。夫の死後、皇后であった鸕野讃良皇女うののさららのこうじょ(持統天皇)は、称制しょうせいを取りながら国政を引き継ぎ、天武天皇の構想を具体化していくことになりました。

というのも、実は天武天皇の跡を継ぐべき人物として期待されていたのが、天武天皇と持統天皇の皇子である草壁皇子くさかべのおうじでした。しかし、草壁皇子は若くして病に倒れ、天皇に即位することなく薨去こうきょ(=皇族や三位以上の人が死去すること)します。この予期せぬ出来事は、鸕野讃良皇女うののさららのこうじょが引き続き称制しょうせいを取る形で政務を執る決断へと繋がりました。

一方、天武天皇の別の皇子である高市皇子大津皇子も、それぞれ重要な役割を担っていました。高市皇子は、壬申の乱で父に従って戦功を挙げ、後の持統天皇の政治を支える存在となりました。一方で、大津皇子は俊敏で才気にあふれる人物として知られていましたが、謀反の罪を問われて自害を命じられました。この事件は、皇族間の緊張がまだ残っていたことを示すものであり、持統天皇が中央集権をさらに強化し、安定を図るきっかけの一つとなりました。

西暦690年に鸕野讃良皇女は第40代持統天皇として即位されます。

余談ですが、持統天皇といえば、以下の「百人一首」が有名ですね!

春すぎて 夏にけらし 白妙しろたへの 
ころもほすてふ あま香具山かぐやま

持統天皇(2番) 『新古今集』夏・175

飛鳥浄御原令の施行

持統天皇は、夫である天武天皇の構想を受け継ぎながら、政治の安定化に向けた具体的な施策を進めました。西暦689年に施行された飛鳥浄御原令は、その代表例です。このりょうは、国家を統一的に運営するための法体系であり、天武天皇が構想した制度を実際に運用するための基盤となりました。試験対策としては、制定と施行で区別をさせるところです。

庚寅年籍を作成

翌年の西暦690年、庚寅年籍こういんねんじゃくが作成されました。「庚寅」という言葉も六十干支の言葉です

庚寅年籍は、690年に持統天皇の治世で作成された全国的な戸籍で、西暦689年に完成した飛鳥浄御原令の「戸令」に基づいています。この戸籍は、全国の人々を記録することで、税や労役を公平に割り当て、天皇による直接的な支配を実現する目的で作られました。庚午年籍(西暦670年、天智天皇の時代)を基礎としつつ、6年ごとの更新と30年間の保存が義務付けられ、運用が大幅に改善されました。

試験対策としては、以下の表の項目は少なくとも明確にしておく必要があります。

項目 庚午年籍 庚寅年籍
作成年代 670年(天智天皇) 690年(持統天皇)
導入の目的 中央集権体制の初期的な基盤作り 国家規模での統治体制の運用強化
保存期間 永久 30年間保存、6年ごとに更新

庚寅年籍に基づき、西暦692年には近畿地方で班田収授が始まり、全国でも土地配分が進められました。この制度により、天皇を中心とした統治体制が強化され、地方豪族の独自支配が抑制されました。また、戸籍には家族構成や年齢、続柄が詳しく記載され、個々の人々を把握することが可能となりました。

庚寅年籍は現存していませんが、後の律令国家体制の基盤を築き、中央集権化を支える重要な役割を果たしました。その後の西暦702年に作成された半布里戸籍には、庚寅年籍の運用を発展させた形跡が見られ、庚寅年籍が律令制の完成に向けて大きな意義を持っていたことがうかがえます。

藤原京への遷都

持統天皇の治世における最大の業績の一つが、西暦694年の藤原京への遷都です。藤原京は、畝傍うねび山、耳成みみなし山、天香具あまのかぐ山という大和三山を内包する広大な地に築かれ、中国の都城制を模倣して設計された日本初の本格的な首都でした。

この都市は、国家の統一と天皇を中心とした統治体制をさらに強化する象徴となりました。

藤原京について
藤原京について

遷都は、単なる物理的な移動ではなく、精神的な意義も大きいものでした。藤原京の建設は、国民に「この地が天皇のもとに集う場所」であるという認識を与え、国家全体の結束を深めました。高市皇子もまた、この遷都を支える重要な役割を果たしたと考えられています。

藤原京は、西暦710年(和銅3年)に平城京に遷都されるまで、持統天皇→文武天皇→元明天皇の3代の天皇の治世で使われることになりました。

持統天皇の治世は、天武天皇の遺志を受け継ぎ、律令国家の完成を目指した時代でした。飛鳥浄御原令や庚寅年籍の整備、藤原京への遷都を通じて、天皇と国民の絆を深め、国民の生活を安定させました。また、草壁皇子の早世や大津皇子の事件といった皇族内の波乱を乗り越えながらも、持統天皇は国家の安定と発展に向けた改革を進めました。

持統天皇の取り組みは、天皇を中心とする国家体制を精神的にも物理的にも強化し、日本が律令国家としての形を整える基盤を築くものとなりました。

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第42代 文武天皇の政治

第42代の文武天皇もんむてんのうは西暦697年に即位されました。天武天皇と持統天皇の政策を受け継ぎ、日本を律令国家としてさらに発展させる役割を担いました。この時代、律令国家の基盤を確立するために重要な出来事がいくつか起こりました。

大宝律令とは?

西暦701年(大宝元年)に編纂された大宝律令は、中国の唐で使われていた『永徽律令えいきりつりょう』(西暦650年/高宗の時代に制定)をお手本にしながらも、飛鳥浄御原令をベースにして日本独自の工夫を加えた法典です。大宝律令は、天武天皇の皇子である刑部親王おさかべしんのうと中臣鎌足の息子で唐の律令にくわしい藤原不比等ふじわらのふひとにより編纂されました。唐の律令制度は、刑法にあたる「律」と行政や民法にあたる「令」という二つの柱で成り立っており、日本の律令もその仕組みを取り入れました。しかし、日本の律令には、当時の日本の実情や社会の仕組みに合うようなアレンジが加えられていた点が特徴的です。

まず、律(刑法)の部分については、中国のものをほぼそのまま採用しました。その一方、りょう(行政法・民法)では、日本の社会構造や伝統も色濃く反映されています。

まずはよく似ている部分について挙げてみましょう。官僚機構の整備という点では強い類似性を示しています。唐では「三省六部」という体制が整備され、政策立案・執行・監査がそれぞれ分業化されていました。これを参考に、日本では「二官八省」という中央官僚制度を採用しました。たとえば、「中務省」や「治部省」といった省庁が設置され、政治の実務を分担しました。このように、中央での政策運営を効率化する仕組みは、唐と日本でほぼ共通の理念に基づいています。

一方、異なる部分もありました。たとえば、日本には古くから中央の有力な氏族(豪族)や地方の国造くにのみやつこが存在しており、それぞれが地域社会を統治していました。大宝律令では、これらの氏族や国造の伝統を全て排除するのではなく、一部の権限を認めながら、新しい律令国家の枠組みに組み込む形が取られました。また、地方の統治についても、日本の独自性が見られます。唐では「道」「州」「県」の区分が採用されていましたが、日本では「国」「郡」「里」という区分が導入されました。また、地方豪族が持つ地元での影響力を完全になくすのではなく、彼らを律令体制の中で役割を果たす存在として位置づけました。たとえば、地方の有力者が「郡司」として任命され、中央からの命令を地方に伝える役割を担ったのです。このように、大宝律令は唐の仕組みを参考にしながらも、これまでの我が国の状況を考慮してアレンジされていました。

このように、大宝律令は唐の先進的な制度を取り入れつつ、日本独自の文化や社会の特性を反映した法典となりました。唐の制度をそのまま使うのではなく、「日本版の律令国家」を作り上げるための工夫がなされていたことが、大宝律令の特徴と言えるでしょう。

大宝律令において重要なのは、元号が律令制度の中で公式に位置づけられ、国家運営における時間管理の基本として用いられるようになったことです。「大宝律令」の「大宝」というのは元号です。この「大宝」という元号以降は元号の使用は途切れることなく、現在の「令和」まで続きます。元号については紀年法のコンテンツに詳しく解説されています

ここからは、高校の日本史[国史]の様子を覗いてみることにしましょう。元号について一緒に考えてみましょう。

先生: 「さて、今日は『元号』について学んでいきます。実は、世界で今も元号を使っている国はどこだと思いますか?」

鈴木さん: 「うーん…日本だけですか?」

先生: 「正解!かつては中国、朝鮮、ベトナムでも元号が使われていましたが、今も続いているのは日本だけなんです。」

田中さん: 「どうして他の国では使われなくなったんですか?」

先生: 「いい質問ですね。中国では西暦1911年の辛亥革命しんがいかくめいが滅んだことで元号は廃止されました。朝鮮やベトナムも歴史の流れの中で使われなくなりました。でも日本は途切れることなく元号を使い続け、今の『令和』にまでつながっています。」

山田くん: 「でも、元号ってどうして必要だったんですか? 時間を数えるだけなら中国の元号を使ってもいいかもしれないですし、現代社会であれば西暦でもいい気がしますけど…。」

先生: 「いい視点ですね。確かに元号は時間を区切るものですが、それだけではありません。中国では、元号を定めることで皇帝が『天命を受けた統治者』であることを示し、新しい時代の到来や国家の安定を象徴していました。また、周辺国が元号を使うことで、皇帝への服従を示すという意味もありました。」

佐藤さん: 「じゃあ、日本も中国の真似をして、天皇も皇帝と同じように天命を受けた統治者であることを示すために元号を制定したってことですか?」

先生: 「そう思うかもしれませんが、少し違います。確かに日本は唐から元号の制度を学びましたが、そこに独自の意味を込めたんです。日本の元号は、天皇が国家の安寧や繁栄を祈り、自らの権威を国内外に示すものでした。そして、唐の元号を使わずに独自の元号を立てたことで、『日本は独立国であり、唐と対等である』という姿勢を明確にしたんです。」

鈴木さん: 「そうなんですね。中国では元号が皇帝の権威を示すだけでなく、周辺国にも影響を与えていたのに対して、日本は独自の元号で独立を示したんですね。」

先生: 「その通りです!中国の元号の本質を理解したうえで、日本はそれを取り入れつつ独自化しました。元号の制定は単なる模倣ではなく、日本の文化や国家体制に適応させた独自の工夫だったんです。」

鈴木さん: 「なるほど…元号を立てること自体が、日本が独自の道を歩んだ証なんですね。」

先生: 「こうして日本が独自の元号を立てたことで、国家の独立性や天皇中心の体制を国内外に示すことができました。西暦701年、大宝律令が完成した際に定められた元号『大宝』は、元号が律令国家としての制度の中に正式に位置づけられた瞬間でもありました。」

田中さん: 「大宝律令って、律令国家を目指した重要な法律ですよね?」

先生: 「その通りです。日本は聖徳太子の時代から中国(隋や唐)の進んだ制度や文化を学び、律令国家を目指してきました。そして大宝律令によって法治国家としての体制が整い、元号がその中で象徴的に使われるようになったのです。」

山田くん: 「今も元号が続いているのは、その時代の努力があったからなんですね。」

佐藤さん: 「明治時代は文明開化、大正時代は大正デモクラシー、昭和時代は戦争と復興…確かに元号を聞くだけで、その時代の特徴が浮かび上がる気がします。」

山田くん: 「今も元号が続いているのは、その時代の努力があったからなんですね。」

先生: 「その通りです。元号は日本独自の文化として、明治・大正・昭和・平成、そして令和へとつながり、時代を象徴し続けています。」

佐藤さん: 「明治時代は文明開化、大正時代は大正デモクラシー、昭和時代は戦争と復興…確かに元号を聞くだけで、その時代の特徴が浮かび上がる気がします。」

先生: 「そうですね。元号にはその時代の人々の願いや国家の目標が込められていることが多いです。ただ、近年はグローバル化の影響もあって、西暦だけを使う風潮も強まっています。それ自体は効率的な面もありますが、日本には元号という誇るべき文化があり、それを軽視する動きも一部で見られるのが残念です。」

鈴木さん: 「たしかに。元号って歴史の深みを感じられるのに、使われる場面が減るのはもったいないですね。」

先生: 「その通りです。だからこそ、西暦と元号をTPOに応じて使い分けることが大切です。例えば、神社やお寺などの伝統的な場では元号を使う、公務員が公式文書で積極的に元号を使う、一方で、西洋の歴史や科学の話題では西暦を使う、というように状況に合わせた使い方ができます。こうした柔軟な使い分けは、まるで場面に合わせて衣装を選ぶようなものです。」

佐藤さん: 「そうですね!元号と西暦、それぞれを活かして使い分けるのって、文化を守るためにも大事なことですね。」

先生: 「そうです。元号は単に日本の文化を残すだけでなく、グローバル社会の中で日本人の個性や歴史の深みを世界に示す役割も果たします。TPOに応じた使い分けをすることで、日本の誇るべき文化を次の世代にもつなげていけると思いませんか?」

全員: 「本当ですね!元号ってかっこいいし、もっと大切にしようって思いました!」

大宝律令は、律が6巻で令が11巻の合わせて17巻。皆さんは覚えていますか?「十七」と数字がここでも出てきています。法令の条文などの数と「17」には実は大きな関係があるのです。

遣唐使の再開

西暦702年、日本は唐との交流を再開するために遣唐使を派遣しました。この派遣は、大宝律令の施行を背景に、日本が唐から先進的な文化や制度を学び取ることで、自国の律令国家の完成度を高める目的がありました。唐は当時、東アジアで最も進んだ文明を誇る超大国であり、遣唐使は日本にとって重要な学びの場を提供するものでした。

この遣唐使で正使を務めたのは粟田真人あわたのまひとで、副使には山上憶良やまのうえのおくらが任命されました。彼らは唐に到着後、唐の皇帝である則天武后そくてんぶこうの宮廷に参上し、我が国の政府の意向を伝える役割を果たしました。粟田真人をはじめとする遣唐使たちは、唐の律令制度、建築技術、文化、仏教思想など幅広い分野で学びを得て帰国しました。

また、この遣唐使の派遣において注目すべき点は、我が国が公式に「日本」という国号を使用したことです。それまでは「倭」という名称が使われていましたが、「倭」という名称は唐の冊封体制のもとで下位の国として扱われる印象を与えるものでした。「日本」という国号は、地理的に東方の国「日の本」を意味し、唐に対して独立した国家としての地位を主張するものでした。これにより、日本は唐の冊封体制に従属するのではなく、あくまで対等な国家としての外交関係を構築しようとする姿勢を明確に示しました。

この遣唐使の派遣は、日本が律令国家としての基盤を整えたことを唐に示す意味もありました。同時に、唐からの文化的影響を積極的に取り入れることで、日本独自の国家運営に活用するという意図もありました。粟田真人たちがもたらした知識や技術は、その後の日本社会に多大な影響を与え、律令国家としての完成度をさらに高める原動力となりました。

しかし、文武天皇は西暦707年(慶雲4年)に宝算25歳で崩御されました。文武天皇の皇子であるおびと皇子が数え年で7歳であったため、天智天皇の皇女である阿陪皇女が第43代の元明げんめい天皇として即位されました。首皇子は、後に第45代の聖武しょうむ天皇になられる皇子です。

参照:飛鳥時代の解説が載っているコンテンツはこちら!

 

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