【中学歴史】保元の乱と平治の乱を分かりやすく解説

平安時代 歴史
平安時代
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今回は、いよいよ武士が政治の表舞台に登場するきっかけとなった、保元ほうげんの乱平治へいじの乱という大きな合戦について、わかりやすく解説をしてみたいと思います。

「保元の乱」も「平治の乱」も平安時代の末期に起こった戦いです。年号を覚えることは試験ではとても大切です。しかし、歴史は物語です。どんな物語の上に立ったできごとなのかは歴史の全体像をつかんでおくと、その理解も早く進みます。

平安時代の流れをわかりやすく

少なくとも、平安時代の全体像を復習した上で「保元の乱」や「平治の乱」を理解するようにしましょう。

また、今回の話は、院政の話の続きのお話なので、院政についての理解を深めたい場合は、院政の投稿も見ておきましょう。

院政についてわかりやすく解説
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合戦を理解するときのフレームワーク

戦いの知識を整理する場合、以下のフレームワーク(枠組み)を使うとわかりやすくなります。

戦いの知識を整理するフレームワーク
戦いの知識を整理するフレームワーク

なお、戦いについての知識を整理する場合は、「理由」「年代」「当事者」「結末」「影響」の5つのポイントで整理するとよいです。このコンテンツでもこの5つのポイントに整理してお話を進めたいと思います。

保元の乱についてわかりやすく解説

なぜ保元の乱は起こったの?(きっかけ)

院政を始めた第72代の白河しらかわ上皇が崩御した後に院政を行ったのは、白河上皇の御孫である第74代の鳥羽とば上皇でした。

鳥羽上皇が政治の中心に立っていたときの天皇は、第75代の崇徳すとく天皇でした。しかし鳥羽上皇と崇徳天皇との仲はあまりよくなく、結局、鳥羽上皇のご意向で崇徳天皇は皇位を譲位することを余儀なくされました。続いて即位したのは、第76代の近衛このえ天皇でした。近衛天皇は崇徳上皇の兄弟にあたります。しかし、近衛天皇は若くして崩御されてしまいました。ここで、崇徳上皇は自分の御子を天皇に立てようと思っていましたがそれは阻まれ、崇徳上皇の兄弟である第77代後白河ごしらかわ天皇が即位しました。これは崇徳上皇が白河上皇や鳥羽上皇のように院政の中心として活躍できるチャンスを失ったことを意味しました。後白河天皇の子孫が皇位を継承することが事実上決まったようなものです。

鳥羽上皇が崩御します。崇徳上皇は「近衛天皇が若くして崩御したのは崇徳上皇が呪い殺したからだ」と政敵から噂を流され、謀反の疑いをかけられます。身の危険を感じた崇徳上皇は挙兵の準備を始めました。

また同じ頃、摂関家(藤原氏)においても対立がありました。

これらの対立は皇族や貴族自らが武器を取ったりして解決することはありません。彼らにさぶらう武士の力を借りて、対立を収拾しようとしたのです。

保元の乱はいつ起こったのか?(年代)

西暦1156年(保元元年)に起こりました。

誰が保元の乱に参加したの?(当事者)

天皇家後白河天皇崇徳上皇
摂関家藤原忠通藤原頼長
武士平清盛
源義朝
平忠正
源為義、源為朝
保元の乱の登場人物

結末は?

勝ったのは、後白河天皇側でした。

崇徳上皇は捕らえられ、讃岐国さぬきのくに(現在の香川県)に流されました。

保元の乱の後の崇徳上皇にまつわるお話は、竹田恒泰「怨霊になった天皇」(小学館文庫)に面白く書いてくださっているので、ぜひご覧ください。

保元の乱の後、どうなったの?(影響)

朝廷の中で起こった皇族や貴族の対立も武士の力を借りなければ解決できなかったとも言えるので、武士の影響力は大きなものとなっていきました。

平将門の乱や藤原純友の乱が地方で起こったものだったのに対して、保元の乱やこの後に解説する平治の乱は京都で起こったものだということはとても大きなポイントなのです。武士は都の遠くで戦っていたので、都に住む貴族にとっては「戦い」は他人事でした。それが都に住む貴族の住んでいる場所で血が流れたり死体が転がったりしているのを見れば、それは自分事となります。慈円じえんという僧が『愚管抄ぐかんしょう』という書物の中で、

鳥羽院うせさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさの世になりける也。

慈円『愚管抄』

と書きました。むさというのは「武者」のことです。武士の時代がやってきたと言っています。

保元の乱の後、後白河天皇は皇位を譲位して上皇となり、第78代の二条天皇が即位することになりました。

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平治の乱についてわかりやすく解説

なぜ平治の乱は起こったの?(きっかけ)

後白河上皇が院政を始めると、後白河上皇に仕えていた貴族同士で権力争いが始まります。

まずはナンバーワンだったのが藤原信西しんぜいという人物。信西はとても優秀な人物でしたが、藤原氏の中ではあまり有力な家柄ではありませんでした。だから朝廷での出世は見込めません。そこで院に仕えることにしたのです。信西は院の中で出世し、ついにナンバーワンになりました。彼は保元の乱で後白河上皇側に立っていた平清盛たいらのきよもりを味方に付けます。

一方信西と対立したのは藤原信頼のぶよりという人物でした。藤原信頼は藤原道長などから続く名門の摂関家出身でした。藤原信頼にとって信西は目の上のたんこぶのような状態だったのです。

藤原信頼は源義朝みなもとのよしともを頼りました。実は保元の乱で一番活躍したのは源義朝だったのですが恩賞が少なく、平清盛の方が出世をしてしまっていました。源義朝は、平氏を引き立てて後白河上皇のもとで権力を握っていた信西と対立することになります。

平治の乱はいつ起こったのか?(年代)

西暦1159年(平治元年)です。

誰が平治の乱に参加したの?(当事者)

院にいた貴族藤原信西藤原信頼
武士平清盛源義朝
平治の乱で登場した中心人物

平治の乱の経緯と結果

ある日、信西を守っていた平清盛が熊野詣くまのもうでに出かけました。熊野詣というのは、この時代に流行った旅行です。熊野詣は、都の治安が悪くなり、国風文化のところで学習した末法思想とリンクして、過去・現在・未来を救ってくれる熊野(奈良県)にある3つの神社に参拝する旅行です。平清盛はこれに出かけたのです。

平清盛が熊野詣に出かけてしまうと信西には守ってくれる武士がいません。その隙に源義朝が挙兵しました。院の中でナンバーワンであった信西を襲って自害に追い込みました。さらに、源義朝と藤原信頼は後白河上皇と二条天皇を内裏だいりという天皇のお住まいに閉じ込めてしまいます。

ここに熊野詣に出かけていた平清盛が帰ってきました。平清盛はこの状態で源義朝と藤原信頼を攻めれば、天皇に弓を引くことになります。そこで清盛は考えます。二条天皇に女装をさせて内裏から脱出させます。また、後白河上皇も仁和寺というお寺に脱出させました。その上で内裏にいる源義朝と藤原信頼を攻撃しました。

結果として、平清盛が勝利を収めました

平治の乱の後、どうなったの?(影響)

源義朝は尾張国(現在の愛知県)で命を落としました。
藤原信頼は後白河上皇によって処刑されました。

源義朝の子であった源頼朝と源義経はそれぞれ伊豆国(現在の静岡県)と奥州に流されました。ここで死刑にしておかなかったことが、今後歴史に大きな影響を与えました。

一方、平清盛は西暦1160年に武士としては初めて公卿の地位に就きました。武士であり貴族にもなったのです。武士が政治の表舞台に登場した瞬間でした。

別稿で平氏の政治については取り上げたいと思います。

 

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