西暦645年に大化の改新が起こり、日本は天皇を中心とした中央集権国家への道を突き進むことになりました。そこまでのプロセスは以下のコンテンツでご覧ください。
日本国内を1つにまとめようとしていた背景には、大陸の脅威に備えるという側面もありましたが、いよいよその脅威が日本にやってきました。
今回は白村江の戦いについて一緒に学んでいきたいと思います。
なお、このコンテンツの作成にあたり、「日本が好きになる!歴史全授業」の齋藤武夫先生が制作した授業を参考にしました。心から感謝申し上げます。
日本にとって朝鮮半島が持つ戦略的な意義
地理的に朝鮮半島は、日本列島と中国大陸を結ぶ重要な「道」の役割を果たしてきました。
この「道」は、古代から近代に至るまで、日本の安全保障や文化、経済において計り知れない影響を及ぼしてきたのです。
朝鮮半島は、日本列島の西側に位置し、日本海を隔てて中国大陸と向き合っています。
このため、朝鮮半島が外部勢力に支配されると、直接日本の安全が脅かされる可能性があります。一方で、安定した友好国が存在すれば、日本の国防の「盾」として機能する地帯でもあります。
例えば、朝鮮半島を経由して伝えられた稲作や金属加工技術、仏教などの文化は、日本社会を深く変革し、その発展を促しました。
他方、同時に戦争や侵略の経路ともなり、時に大陸勢力による日本への侵攻が現実のものとなる危険性をはらんでいました。例えば、この先の時代になりますが、元寇(蒙古襲来)や近代のロシア帝国の南下政策はその典型例です。このような背景から、朝鮮半島が日本に友好的な勢力によって統治されることは、日本の安全保障において重要な条件とされてきました。
朝鮮半島と白村江の戦い
このように、日本にとって朝鮮半島の安定は常に重要な課題でした。7世紀中頃、大和朝廷が朝鮮半島に深く関わる契機となったのが、「白村江の戦い」です。
ここからはこの時代に日本がどのように朝鮮半島の情勢に巻き込まれていったのかを具体的に見ていくことにします。
7世紀中頃の中国大陸及び朝鮮半島の状況
7世紀の朝鮮半島は、3つの国が並び立つ時代でした。百済、高句麗、新羅の3国は、それぞれの国力を強化しながら統一を目指して争いを繰り広げていました。この争いは朝鮮半島に留まらず、隣接する大国の動きをも巻き込みながら進んでいきました。
この時期、日本と朝鮮半島、さらに中国大陸との間でどのような情勢が展開していたのかを詳しく見ていきましょう。
朝鮮半島の3国とその特徴
まず百済です。百済は朝鮮半島の南西部を本拠地とした国で、大和朝廷(日本)と密接な関係を築いていました。仏教や文化、技術を日本に伝える重要なパートナーでもありました。しかし、国土が広い高句麗や人口が多い新羅に比べ、軍事的な基盤はやや弱く、他国からの圧力を受けやすい状況にありました。
次に高句麗です。高句麗は朝鮮半島北部から満洲にかけて広がる強大な国でした。その戦闘力は3国中で最も高く、中国の隋や唐とも激しく対立しました。ただし、その広大な領土を維持するため、常に北からの遊牧民族の脅威や唐との衝突に悩まされていました。
最後に新羅です。新羅は朝鮮半島南東部を本拠地とし、国内の統治が安定していたため着実に国力を高めていました。しかし、他国に囲まれる地理的条件から、外交で有利な立場を築く必要がありました。この新羅が後に唐と同盟を結び、戦局を大きく動かすことになります。
中国・唐の介入
当時の中国は、唐が隋に続く新たな大帝国として台頭していました。
唐は朝鮮半島をその勢力圏に取り込もうとし、3国の中で最も遠く、かつ対抗勢力(高句麗や百済)に対抗しやすい新羅を選んで同盟を結びます。
ここで、唐の思惑と新羅の思惑を整理してみましょう。
唐の目的
- 朝鮮半島を支配し、自国の安全保障を確立する。
- 高句麗を打倒し、地域の覇権を握る。
新羅の目的
- 唐の力を借りて百済と高句麗を制し、朝鮮半島を統一する。
この唐と新羅の同盟は「遠交近攻」と呼ばれる戦略を象徴しています。遠くの勢力と結び、近くの敵を挟み撃ちにすることで勢力を拡大するこの戦略により、朝鮮半島の情勢は急激に動いていきました。
百済の滅亡 – そしてあなたなら百済の復興を助けますか?
唐と新羅の同盟による圧力は百済にとって致命的でした。西暦660年、唐と新羅の連合軍が百済を攻撃し、ついに百済は滅亡します。
この滅亡は日本にも大きな影響を与えました。百済は日本にとって文化的・政治的な重要な同盟国であり、その崩壊は先ほど述べたように、日本の安全保障に直接的な危機感をもたらしました。
百済が滅亡した時、日本には百済のリーダーたちやその家族がたくさん日本に逃げてきました。ここからはとある高校の国史[日本史]の授業を覗きながら一緒に考えてみることにしましょう。
田中先生:「西暦660年、百済が唐と新羅の連合軍により滅亡しました。百済は日本に仏教や技術をもたらした重要な同盟国であり、その滅亡は日本にとっても大きな衝撃を与えました。一方、日本はこの時期、唐とも一定の関係を築いていました。唐は当時、最も進んだ文明を持つ大国であり、日本は遣唐使を派遣してその文化や技術を学んでいました。」
高橋さん:「えっ、日本は唐とも関係があったんですか?」
田中先生:「そうです。唐は日本にとって進んだ文化や技術の源であり、遣唐使を通じて日本は多くを学んでいました。しかし、その唐が百済を滅ぼしたことは、日本にとってジレンマを生む結果となったのです。」
さあ、ここで考えてみましょう。百済の王子が日本に救援を求めてきました。しかし、日本が唐に対抗して百済を助けるという選択は、唐との関係を悪化させるリスクがあります。一方で、百済を見捨てることは、長年の同盟国を裏切る行為にもなります。もしあなたが中大兄皇子だったら、どうしますか?理由も含めて教えてください。
選択肢:
• A:百済を助ける(唐との関係が悪化するリスクを冒してでも同盟国を支援する)
• B:百済を見捨てる(唐との関係を維持するが、同盟国を失うリスクを受け入れる)
高校生たちと一緒に読者の皆さんも考えてみましょう!自分の意見は紙やデバイスなどに書いて目で見えるようにした方がいいです。深く考察をすることができます。
田中先生:「まず、『A:百済を助ける』を選んだ人、どうしてそう考えましたか?佐藤くん、お願いします。」
佐藤くん:「百済は日本に仏教や文化を伝えてくれた国なので、見捨てるわけにはいかないと思います。唐との関係が悪化しても、日本には自分たちの誇りを守る責任があると思います。」
田中先生:「なるほど。百済との長年の同盟関係を重視したんですね。他に意見は?高橋さん。」
高橋さん:「唐との関係が悪化しても、百済を助けることで朝鮮半島での日本の影響力を維持できると思います。唐と新羅に完全に支配されると、日本にとって安全保障の問題になります。」
田中先生:「次に、『B:百済を見捨てる』を選んだ人の意見を聞きます。小林さん、どうしてそう考えましたか?」
小林さん:「唐は強大な国で、日本にとっても重要な文化の供給源なので、敵に回すのは得策ではないと思います。それよりも唐との良好な関係を保つ方が日本のためになると思います。」
田中先生:「合理的ですね。他に意見はありますか?じゃあ、石井さん。」
石井さん:「百済を助けるのは感情的な選択だと思います。日本は国内改革を進めるために唐の文化や技術を取り入れる必要があります。そのためには唐との関係を優先すべきです。」
田中先生:「みんな、それぞれ素晴らしい意見を出してくれましたね。では、実際に中大兄皇子はどう決断したのか。結論は――『A:百済を助ける』でした。」
佐藤くん:「やっぱり助けたんですね。」
田中先生:「では、実際の歴史で日本がどのように行動したのかを見ていきましょう。百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた後、その救援要請に応えたのが時の天皇である斉明天皇でした。斉明天皇は、日本国内の軍事力を総動員し、自ら九州へ出陣されました。天皇が自ら兵を率いて戦地に赴くのは非常に珍しいことであり、この危機に対する日本の姿勢がうかがえます。そして、斉明天皇は朝倉宮に都を遷都しました。」
田中先生:「しかし、九州に到着した斉明天皇は現地で病に倒れ、そのまま崩御されてしまいます。この突然の事態を受けて、中大兄皇子が指揮を引き継ぐことになりました。ところが、中大兄皇子はこの時、皇位には就かず、天皇の職務を代行する形を取りました。この政治形態を称制と言います。」
高橋さん:「どうしてすぐに天皇に即位しなかったんですか?」
田中先生:「良い質問ですね。この時期、日本国内では斉明天皇の崩御による混乱や、百済救援のための準備の遅れなど、様々な不安定要素がありました。さらに、唐や新羅との緊張関係が高まっていたため、中大兄皇子は即位によるさらなる混乱を避け、まずは現場の指揮に専念する必要があったと考えられています。この称制の期間中、彼は非常に重要な決断を次々と下していくことになります。」
「白村江の戦い」はどんな結末をむかえた?
田中先生:「さて、中大兄皇子は斉明天皇の遺志を継ぎ、百済の復興を目指しました。日本は27,000人の兵士を400隻の軍船に乗せ、朝鮮半島に派遣しました。一方、唐軍は170隻の軍船で迎え撃ちました。そして、西暦663年、朝鮮半島の白村江という場所で、両軍が激突することになります。」
田中先生:「さて、ここで質問です。この戦い、みなさんはどちらが勝ったと思いますか?」
田中先生:「白村江の戦いでは、日本軍は百済復興を目指して、唐と新羅の連合軍と激しく戦いました。しかし、唐の軍隊は圧倒的な戦術と兵力の運用能力を持っていました。日本軍の船は次々と唐の火矢や攻撃によって燃やされ、多くの兵士が海に落ちて命を失いました。
また、唐軍は船の構造が頑丈で、日本の軍船を次々と撃破しました。さらに、新羅軍との連携も巧妙で、両軍の挟撃を受けた日本軍は敗北を余儀なくされました。この戦いは、当時の日本が初めて経験する大規模な海外戦争であり、その結果は非常に厳しいものでした。」
「白村江の戦い」の後の朝鮮半島の様子 - 高句麗の滅亡、その後の唐と新羅の対立
白村江の戦いの勝者となった唐と新羅はこの後どうなったのかを概観します。
まず、唐と新羅の連合軍は勢いに乗り、朝鮮半島北部に一大勢力を誇っていた高句麗を西暦668年に滅亡させました。
ここでメデタシ、メデタシなのかというと実はそうではありません。
「唐はなぜ新羅と手を結んだのか?」
と言えば、内心では朝鮮半島を支配したいから手を結んだのです。朝鮮半島を勢力下に治めたら、漢の武帝の時代以来、朝鮮半島を手に入れられるのです。そういうわけで、唐は同盟を見事に裏切ります。新羅はもちろんピンチです。
今度は唐と新羅が対立するようになります。そして、なんと両国は日本と同盟関係を結ぼうとします。唐は今度は新羅を勢力下に置きたいために「遠交近攻」と呼ばれる戦略を日本に使ってきたのです。
この状況を受けて、天皇に即位した中大兄皇子(天智天皇)はどうすべきでしょうか?これだけはやってはいけないというものがありますが、次のうちどれでしょうか?
A: 新羅を応援する
B: 唐を応援する
C: 中立を守る
さて、読者の皆さんも理由も含めて考えてみましょう!
田中先生:「では、選択肢ごとに分かれて話し合いましょう。『A』を選んだグループ、『B』を選んだグループ、『C』を選んだグループ、それぞれ自分たちの意見をまとめてください。その後、発表してもらいます。」
(各グループが話し合いを始める)
田中先生:「では、まず『A=新羅を応援する』を選んだグループに発表してもらいます。」
佐藤くん(Aグループ):「新羅は日本に近いので、日本にとって新羅を応援するのが一番合理的だと思います。唐は強大すぎて対抗するのは難しいですが、新羅と協力すれば、朝鮮半島の安定にもつながると思います。」
田中先生:「なるほど、新羅との地理的な近さを重視しているんですね。それに対して、他のグループの人はどう思いますか?」
小林さん(Bグループ):「でも、新羅を応援したら、唐を敵に回すことになりませんか?唐と戦う力が日本にあるとは思えません。」
高橋さん(Aグループ):「でも、唐と手を組むのも危ないんじゃない?唐に利用されるだけになる気がする。」
田中先生:「続いて『B=唐を応援する』を選んだグループに発表してもらいます。」
小林さん(Bグループ):「唐は文化や技術の面で日本にとって非常に重要な国です。唐との関係を悪化させるより、唐を応援して良好な関係を保つ方が、日本の将来にとって有利だと思います。」
田中先生:「唐との関係を重視しているんですね。それについてどう思いますか?」
佐藤くん(Aグループ):「でも唐を応援すると、新羅だけじゃなく、朝鮮半島全体を唐が支配してしまうことになりませんか?日本もそのうち脅威を感じることになりそうです。」
高橋さん(Cグループ):「そうそう。唐が強大になりすぎると、今度は日本に干渉してくるかもしれませんよね。」
田中先生:「最後に、『C=中立を守る』を選んだグループに発表してもらいます。」
高橋さん(Cグループ):「中立を守るのが一番リスクが少ないと思います。どちらかを応援すると、もう一方を敵に回すことになるので、日本の安全が脅かされる可能性があります。中立を維持して、自分たちの防衛をしっかり固めるべきです。」
田中先生:「中立を守ることがリスク回避になる、という意見ですね。他のグループはどう思いますか?」
小林さん(Bグループ):「でも中立って本当に維持できるんですか?どっちつかずだと、唐や新羅から疑われて攻撃される可能性もあるんじゃないですか?」
佐藤くん(Aグループ):「確かに難しいけど、下手にどっちかを応援するよりは、まだマシな気がする。」
田中先生:「みんなの議論、良かったですね。」
「では、天智天皇が実際にどのように選択したのかを見てみましょう。歴史的に見て、『B: 唐を応援する』が最もリスクの高い選択肢でした。」
佐藤くん(Aグループ):「やっぱり唐を応援しちゃダメなんですね。」
田中先生:「唐を応援すると、朝鮮半島全体を唐に支配されることになり、日本への脅威が増す可能性が高いと考えたからです。天智天皇は『C: 中立を守る』という選択を取りました。どちらとも敵対せず、まずは日本国内の防衛や安定を優先したのです。」
「白村江の戦い」の結果を受けた我が国の対応
それでは、中大兄皇子[天智天皇]はどのような施策を取っていくのでしょうか?
九州をはじめとする西日本の守りを固める
まずは九州地方の守りを固めます。次は唐と新羅が組んで日本に攻め入られるかもしれないと考えたからでした。大宰府という朝廷の出先機関を現在の福岡県に置きました。軍事と外交の拠点とします。漢字に気をつけてください。今は太宰府と「太」の字を使いますが、昔は「大」という字を使いました。
さらに、九州や対馬には防人を配置します。防人は全国から兵が集められ、九州の守りを固めるための兵士のことです。
また、大野城をはじめとした朝鮮式山城や水城が、西日本各地に築かれました。防衛のためです。ちなみに、大宰府に築かれた水城は、後の鎌倉時代に日本を襲った元寇の際に大きく活用されたのでした。
遷都を行う
白村江の戦いののち、都を現在の滋賀県の大津市あたりに遷します。大津宮と言います。西暦667年のことです。唐や朝鮮半島から距離を置くための遷都だったとされています。
翌年の西暦668年に、中大兄皇子は、唐と新羅が高句麗を攻めていて日本への遠征がないと見ると、このタイミングでようやく天皇に即位しました。第38代の天智天皇の誕生です。唐と新羅がどうなったのか?については後で述べます。
近江令の制定と庚午年籍の作成
天智天皇は政治上でも「改新の詔」で煥発された内容を1つずつ実現していきます。
天智天皇は近江令を制定し、さらに西暦670年に庚午年籍という初の全国的な戸籍が作成されました。「庚午」とは六十干支による暦の表記方法ですね。これによって、だれがどこに住んでいるのかが分かるようになるため、税の徴収や大規模な兵の調達も可能となるわけです。
西暦671年に天智天皇は崩御(天皇が死亡することを言う)しました。その後、日本は再び皇位継承を巡って大きな戦乱となります。
朝鮮半島からの人材を活用する
これらの政策は、朝鮮半島の人々からの知恵があったことは否定できません。朝鮮半島がこのように混乱すると、日本には多くの難民が現れました。日本は百済の人たちを迎え入れ、これらの人たちの人材を活用していったのです。
新羅による朝鮮半島の統一
新羅による朝鮮半島の統一は日本にどのような影響を及ぼすと考えられるか?
さて、唐と新羅の対立はその後どうなったのでしょうか?
何と新羅は大国の唐を朝鮮半島から退けました。西暦676年に新羅が朝鮮半島を統一しました。
新羅による朝鮮半島の統一が日本にどのように影響を与えると思いますか?
また、国史[日本史]の授業を受けている高校生と一緒に考えていくことにしましょう。
田中先生:「新羅が朝鮮半島を統一したことは、日本にどのような影響を与えたと思いますか?いくつか予想を挙げてみてください。」
田中先生:「それでは発表してみてください。」
佐藤くん:「新羅が統一したことで、唐の脅威が減ったんじゃないですか?」
田中先生:「その通りです。唐が朝鮮半島全体を支配する可能性がなくなったことで、日本への直接的な脅威が軽減しました。他にはどうでしょう?」
高橋さん:「新羅が日本と貿易をすることで、文化や技術がもっと伝わったんじゃないですか?」
田中先生:「いい意見ですね。新羅との友好関係を築くことで、日本は新羅から多くの恩恵を受けました。それでは、具体的にどのような影響があったのかを解説していきます。」
田中先生:「まず、新羅が唐を追い払い、朝鮮半島を統一したことで、唐が日本海を越えて日本に干渉するリスクが大きく減少しました。白村江の戦い以降、唐の存在は日本にとって重大な脅威でしたが、新羅がその力を抑えたことで、日本の防衛政策は一段落しました。」
佐藤くん:「日本にとって、唐が目と鼻の先からいなくなるのはかなり安心ですね。」
田中先生:「そうですね。唐が直接的な脅威でなくなったのは、日本にとって大きな転機でした。」
田中先生:「それから、新羅が統一を果たしたことで、朝鮮半島内での戦乱が収まり、日本との貿易や文化交流がよりスムーズになりました。新羅からは、仏教文化や鉄製品、陶磁器などの先進技術が日本にもたらされました。また、唐との貿易ルートも新羅を通じて間接的に行われるようになり、日本の発展に寄与しました。」
高橋さん:「新羅が統一したから、貿易も安定したんですね。」
田中先生:「その通りです。新羅との友好関係を維持することが、日本の文化や技術の発展に大きく役立ったのです。」
田中先生:「また、新羅が朝鮮半島を統一し、国内の戦乱を収めたことで、日本もその恩恵を受けることができました。朝鮮半島で争いが絶えないと、その影響が日本にも波及する可能性があります。しかし、朝鮮半島が平和で安定していれば、日本も外交や防衛の負担を軽減できます。」
小林さん:「朝鮮半島の平和が日本の平和にもつながっているんですね。」
田中先生:「その通りです。歴史を見ても、朝鮮半島と日本の平和は密接に関係していることがわかりますね。」
田中先生:「ここで重要なのは、天智天皇の後に西暦673年に即位した第40代の天武天皇が新羅を応援する『A』を選んだことです。唐を応援する『B』を避けた理由は何だと思いますか?」
佐藤くん:「唐を応援すると、朝鮮半島全体を唐が支配してしまって、日本にも脅威になるからですか?」
田中先生:「その通りです。唐が朝鮮半島を完全に支配してしまうと、日本にとって大きなリスクになります。一方、新羅を応援することで、唐の勢力を牽制しつつ、新羅との友好関係を築くことができたのです。」
日朝で異なる唐との付き合い方 – 冊封を受けるかどうか?
新羅は戦いに勝ったはずですが、唐の冊封を受けます(朝貢冊封体制についてはココで復習しよう!)。一方、日本は冊封を受けることはありませんでした。遣唐使が再開するのはもう少し先の時代になりますが、遣唐使が始まっても冊封は受けませんでした。日本は国力を高めることで唐の秩序から独立しようとしていたのです。
このように、唐との関係において、新羅と日本はそれぞれ異なる選択をしました。新羅は唐と直接国境を接しており、その軍事的圧力を避けるため、唐の冊封体制を受け入れる道を選びました。冊封体制とは、唐の皇帝が周辺国の君主に「藩属国」としての地位を認める一方で、称号や官職を授けることで、その支配権を形式的に確認する制度です。新羅の王は唐から「新羅国王」という称号を受け入れ、形式上は唐に従属する立場となりました。
しかし、新羅が冊封体制を受け入れたのは現実的な戦略に基づくものであり、唐の文化や制度を積極的に取り入れながらも、実際には自主性を維持しました。特に唐との戦争を経て朝鮮半島を統一した新羅は、唐の支配を排除し、自国の独立を確保した経験を持っていました。冊封体制において形式的な従属を示すことで、再び唐との武力衝突を避け、国内外の安定を保つ狙いがあったのです。
一方、日本は唐との外交において、冊封を明確に拒否しました。唐と海を隔てた日本は、唐の軍事的圧力を直接受けるリスクが低かったため、唐に従属しない独立した国家を維持することが可能だったのです。この時期、日本は天皇を中心とする中央集権的な国家体制を整備し、国号を「倭国」から「日本」に変更しました。「天皇」という称号を用いることも、唐の皇帝と対等であることを主張する意図が込められていました。
また、日本は遣唐使を派遣して唐の文化や技術を積極的に吸収しましたが、それは冊封体制に入るためではなく、あくまで日本独自の発展のためでした。唐から多くを学びつつも、外交的には自主性を保ち続けたのです。
このように、新羅と日本の唐への対応は、それぞれの地理的条件や国家の理念によって異なる道を選びました。新羅は唐との冊封関係を利用しながら、自国の独立性を確保するという現実的な選択をしました。一方で日本は唐からの冊封を拒否し、独立国家としての姿勢を明確に示しました。どちらの選択も、それぞれの国が抱えるリスクや目指すべき国家像に応じた戦略的な対応だったと言えるでしょう。