【中学歴史】 平安時代の流れを人物と文化を踏まえてまとめてみました

平安時代 歴史の全体構造
平安時代
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今回は、平安時代の流れを、人物や文化を踏まえてまとめてみました。

平安時代は、西暦794年(延暦13年)に山背国(現在の京都府京都市)の平安京へいあんきょうに遷都が行われてから、西暦1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に任命されて鎌倉で政治を執り行うようになるまでの400年弱の期間を指します。

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我が国の歴史全体の流れの中の平安時代

歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。

中学歴史の全体構造
中学歴史の全体構造

でもその前にやっぱり大きな視点からもう一度平安時代の位置を確認しますよ。

平安時代は国史(日本史)の中でどこに位置するのかを確認してから勉強を始めます。大きな視点を軽視して歴史の勉強を始めると、たちまち迷子になってしまいます。特に歴史が不得意だと思う人は、こういう大きな視点を持って、落下傘(らっかさん)で上から降りて細かいところに少しずつ入り込んでいくようなイメージで勉強していくとよいでしょう。

歴史は全体から部分という発想が大切です

奈良時代の復習

平安時代の前は奈良時代でした。奈良時代は中央集権的な国家作りを目指していました。唐や朝鮮半島の脅威から国を守るためには、豪族による連合政権ではまとまりがありません。そこで、天皇を中心とした秩序を律令という法制度を導入しました。また、天平文化という国際色豊かな文化が平城京で華開きました。一方、疫病や重税により人々の生活はとても苦しいものでした。朝廷は国づくりで必要な税をうまく徴収するために墾田永年私財法を制定しました。ところがこれは公地公民の原則を崩すことになりました。また、政治は藤原氏と藤原氏ではない者との間での争いが起こり、安定した時代とは言い難い時代でした。

そのような中で即位したのが第50代の桓武天皇でした。

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平安時代をさらに分けてみよう!

 平安時代は冒頭にも述べたとおりで400年近くもあります。一気に理解をしていくことは困難です。そこで、ココではさらに3つの時代に分けていきます。

  1. 前期 – 公地公民制再興へのチャレンジと挫折の時代
  2. 中期 – 国風文化と摂関政治全盛の時代
  3. 後期 – 院政と武士の台頭の時代

前期は西暦794年(延暦13年)から西暦894年(寛平6年)の100年、中期は西暦894年(寛平6年)から西暦1068年(治暦4年)までの150年間、後期は西暦1068年(治暦4年)から西暦1192年(建久3年)までの130年間という感じです。

1つずつ見ていきましょう!

前期 - 公地公民制の再興へのチャレンジと挫折の時代

先ほども述べたとおり、平安時代は桓武天皇が現在の京都府京都市に遷都を行ったところから始まります。それが西暦794年(延暦13年)のできごとです。語呂合わせで、「鳴くよ(794)、うぐいす平安京」と覚えてください。

桓武天皇はもう一度律令政治の理念を取り戻し、公地公民制を改めて再興しようと考えました。また、地方を治めるために、九州や東北地方に出兵を行います。

こういった理念は第52代の嵯峨(さが)天皇にも受け継がれていきます。

平安時代前期 – 桓武天皇の時代を中心に…

しかし政治権力をめぐる抗争はやむことがありませんでした。その中で次第に権力を握っていったのが藤原氏でした。やがて、皇族ではない藤原氏が摂政や関白という地位に就くようになりました。第56代の清和(せいわ)天皇の時代の西暦866年(貞観8年)に藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政に任命されました。さらに、第58代の光孝(こうこう)天皇の時代に関白という地位が作られ、摂関政治と呼ばれる政治が始まります。西暦887年(元慶8年)のできごとです。

文化面では、平安時代の初め頃に、最澄(さいちょう)空海(くうかい)が、密教(みっきょう)と呼ばれる実践的な仏教の教えを唐から学んで帰国しました。そして、新たな仏教文化が華開きました。

平安時代初期の新仏教 - 天台宗と真言宗
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中期 – 国風文化と摂関政治全盛の時代

平安時代が中期になると、お隣の唐の国力はとても弱くなっていました。

唐の国力が弱くなってくると、大量の死者を出してまでも唐に派遣していた遣唐使を見直すべきだと唱えた人がいました。この人が菅原道真(すがわらのみちざね)です。第59代の宇多(うだ)天皇は菅原道真の提案を受け容れて、遣唐使は停止されました。これが西暦894年のできごと。古典的な語呂合わせですが、「白紙(894)に戻す遣唐使」と覚えます。話はそれますが、重要な事件の年号は覚えてください。最近の試験問題は年号そのものを聞いてくることは少なくなりましたが、どの時期なのかということを把握するには数字を覚えていた方が思い出すスピードが理屈だけで知識を押さえるよりも格段に速いからです。試験には制限時間がありますから、こういうものは速い方がいいに決まっています。ですから、できるだけ年号は暗記してください。

唐の衰退の歴史を見ながら遣唐使の歴史を概観します

中期に入ると、唐から文化が入ってこなくなるので、日本国内で独自の文化が栄えるようになります。これを「国風文化」と呼びます。紫式部(むらさきしきぶ)「源氏物語」清少納言(せいしょうなごん)「枕草子」などの女流作家も活躍しました。

国風文化について

政治面では、菅原道真のライバルだった藤原氏が勢力を広げます。摂関政治がいよいよ本格化してきます。最も勢力が大きくなったのは、藤原道長という人がいた頃。小学校の教科書でも出てくる人です。

摂関政治についてわかりやすく解説してみました!

ですが、この政治のやり方には弱点があります。藤原氏の立場に立って考えましょう。もし、娘がいなかったら…とかその娘が跡継ぎを産むことができなかったら…。「ボクはお父ちゃんやから陛下の面倒見させていただきます」とは言えなくなりますよね。それが現実に起こります。第71代の後三条(ごさんじょう)天皇です。藤原家とは親戚関係がない天皇です。後三条天皇は藤原氏の経済的基盤になっていた荘園を整理する政策を行いました。

後期 – 院政と武士の台頭の時代

後期は摂関政治の体制が崩壊した後の話。

具体的には天皇が譲位して上皇という位に就いて、そのまま政治の実権を握る方法が確立します。

西暦1086年(応徳3年)に第72代の白河(しらかわ)天皇が第73代堀河天皇に譲位され、上皇になりました。これが院政(いんせい)と呼ばれる政治体制が完成したと解釈されます。天皇のお父さんまたは祖父が上皇として天皇を支える政治体制のことを院政と言います。これがしばらく確立していきます。

院政とは何か?についてわかりやすく解説

一方、この時代から武士が台頭してきます。武士とはもともとは貴族を守る存在。この武士の発言力が次第に大きくなってきます。特に院(上皇)に仕えていて貿易により勢力を大きく拡大していたのが平氏(へいし)です。平氏の先祖は桓武天皇です。一方で、源氏という武士の棟梁(とうりょう)も登場します。源氏の先祖は第56代の清和(せいわ)天皇です。こちらも名門です。源氏は主に藤原氏に仕えて勢力を伸ばしました。

その源氏と平氏が最後には衝突し、最終的には平氏が勝利しました。

保元の乱と平治の乱についてわかりやすく解説

そして、西暦1167年(仁安2年)に、平清盛(たいらのきよもり)は武士としては初めて太政大臣に就任しました。平清盛は藤原氏と同じように自分の娘の徳子(とくこ)を第80代の高倉天皇の皇后として嫁がせました。そして、第81代の安徳(あんとく)天皇が生まれます。安徳天皇は1歳4ヶ月で天皇に即位しました。平氏が政治を支えたのは言うまでもありません。平氏は盤石な政治権力を手にすることになりましたが、次第に上皇(後白河上皇)と対立を深めるようになりました。また、源氏をはじめとして他の貴族からも不満を持たれるようになりました。

平氏政権の特徴をわかりやすく解説してみました

平清盛が死去すると平氏打倒を掲げて兵を挙げた人物がいました。源頼朝(みなもとのよりとも)です。源頼朝は弟の源義経(みなもとのよしつね)とともに平氏を滅ぼしました。これが鎌倉時代へつながる流れとなります。

まとめ

まとめると、前期は「公地公民への再チャレンジと唐との貿易」、中期は「摂関政治と国風文化」、後期は「院政と武士の台頭」といったキーワードで押さえましょう。くわしくは本論編でじっくりやります。

何も見ずに人に説明できるぐらいまで繰り返し復習をするようにしましょう。

 

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