【中学歴史】天平文化の特徴と作品をまとめてみました

奈良時代 中学歴史
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今回は、奈良時代を象徴する文化である天平文化の特徴とその作品をまとめてみました。

天平というのは、奈良時代を代表する元号です。奈良時代に使われた元号をザッと並べてみると以下の通りです。

元号読み西暦
和銅わどう708年~715年
霊亀れいき715年~717年
養老ようろう717年~724年
神亀じんき724年~729年
天平てんぴょう729年~749年
天平感宝てんぴょうかんぽう749年
天平勝宝てんぴょうしょうほう749年~757年
天平宝字てんぴょうほうじ757年~765年
天平神護てんぴょうじんご765年~767年
神護景雲じんごけいうん767年~770年
宝亀ほうき770年~781年
天応てんおう781年~782年
延暦えんりゃく782年~806年
奈良時代の元号一覧

この中で、「天平(てんぴょう)」という文字がいくつか見つけられると思います。第45代の聖武天皇の治世だったこの時代を彩った文化だから、天平文化と呼ばれるのです。

文化史は作品の名前を覚えるのが学習のメインになりがちです。確かに試験では作品名や作者の名前が聞かれます。しかし丸暗記はすぐに記憶から抜けてしまいます。文化はスゴいから今でも残っているのです。ですから、天平文化のどこがスゴいのか?とか紹介されている作品の何がスゴいのか?何が面白いのか?などを感じながら勉強してもらうとよいです。

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天平文化の特徴

天平文化は盛唐の影響を受ける

天平文化は、当時最盛期だった唐の影響を受けました。白村江の戦いの後、唐との国交は一時ストップしてしまいましたが、西暦701年(大宝元年)に大宝律令が制定された後に遣唐使が再開し、多くの優れた唐の文化が日本に伝わりました。

天平文化は国際色豊かな文化である

唐の最盛期だったので支配している領土は広く、シルクロード(絹の道)を通じて様々な国と貿易もしていたため、世界のいろんな文化の影響が入ってきました。したがって、天平文化は国際色豊かなものになっていました。

天平文化は仏教色の強い文化である

また、仏教の力で国を守ろうとする鎮護国家(ちんごこっか)という思想が盛んであったため、仏教色の強い文化であるという特徴を持っていました。当時は伝染病や災害や戦災などが多かったためです。

天平文化と仏教

伝染病や災害や戦災などが多かったため、聖武天皇は仏教の力を借りて国の安寧を図ろうとお考えになりました。

国分寺建立の詔

そこで、西暦741年(天平13年)に、国分寺(こくぶんじ)国分尼寺(こくぶんにじ)を各国に作るように命ぜられました。

大仏造立の詔

さらに、西暦743年(天平15年)に、盧舎那仏(るしゃなぶつ)という仏様の大仏を作るように命ぜられました。いわゆる「大仏造立(ぞうりゅう)の詔」です。西暦743年といえば、墾田永年私財法が制定されたのと同じ年であることには気づいておいてください。

大仏の造立には行基(ぎょうき)という僧侶が抜擢されて、一般市民から資金を集めました。当時、仏教の一般市民への布教は禁止されていました。朝廷からも一時は嫌われていました。そのような中での聖武天皇の抜擢です。行基を中心として、一般市民から約37万人の寄付が集まったと言われています。東大寺の大仏はブロンズ像で、高さが15mもあり世界最大級のものです。ちなみに、現在鎮座している大仏は江戸時代に建てられたものです。

同時に東大寺の建立も始まります。東大寺は国分寺の総本山である総国分寺として建立されます。

大仏が完成したのは西暦752年(天平勝宝4年)のことで、大仏の眼を入れる大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)には、インド、ベトナム、唐、朝鮮など世界から1万数千人の僧侶が参加しました。また、「日本書紀」に書かれている年号を根拠にすれば、西暦752年は仏教伝来からちょうど200年が経過する年ですね。

鑑真の来日

さらに、西暦754年には唐の高僧であった鑑真(がんじん)が来日しました。唐から日本に5回渡ろうと挑戦するも失敗していて、それでもあきらめずに日本にやってきました。渡航に挑戦中に失明してしまいましたが、それでも日本に仏教を教えたいという鑑真の願いがありました。来日後は東大寺で仏教の教えを伝えました。また、鑑真のために唐招提寺(とうしょうだいじ)というお寺を建ててあげました。

東大寺や唐招提寺も含めて、「古都奈良の文化財」として8つの資産が世界文化遺産に登録されています

建造物・彫刻・絵画

ここまでは仏教色の強い文化財を紹介したので、次はその他の建造物にも注目することにしましょう。

東大寺正倉院

東大寺正倉院は、聖武天皇が崩御した後に光明皇后が東大寺の大仏に奉献(ほうけん)した遺品や宝物(ほうもつ)などを保存している倉庫です。後に光明皇后の遺品や宝物も加えられました。

建築の特徴としては、校倉造(あぜくらづくり)という手法を使って建物が建てられていることです。三角形の角材を組み合わせて作られています。あと、高床式になっています。

校倉造(あぜくらづくり)
校倉造(あぜくらづくり)

倉庫なので湿度や害虫から守ることが大切です。その点を考慮した建築様式です。

正倉院にはどのようなものが納められていたのでしょうか?

例えば、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしだんごげんのびわ)や紺瑠璃杯(こんるりのつき)などといったものがあります。ローマやペルシアやインドや中国(チャイナ)からの宝物も保存されています。

正倉院は、東大寺とは異なり、建てられてから(約1250年経過して)戦災などに遭うことはありませんでした。また、宝物は3回ぐらい盗難に遭ったことがありましたが軽微なもので、極めて保存状態がよい状態で残っています。正倉院(の北倉)は勅封(ちょくふう)といって、天皇の許可がなければ正倉院を開けることができない仕組みになっていました。正倉院の宝物の保存状態がよかったのは、勅封の倉庫であったからだとも言われています。

彫刻

天平文化の頃の彫刻はとても写実的で美しいものが多かったです。

代表的なものをあげていきます。

まずは、唐招提寺鑑真和上像(とうしょうだいじがんじんわじょうぞう)です。先ほど紹介した唐招提寺にある鑑真ではないかと言われている彫刻です。和上というのは偉い僧侶のことを指します。

次に、興福寺阿修羅像(こうふくじあしゅらぞう)です。興福寺(こうふくじ)というのは藤原氏の氏寺(うじでら)です。顔が3つあって腕が6本ある仏像です。三面六臂(さんめんろっぴ)と言います。言葉だけ聞くと気持ち悪がられそうですが、実際はとても美しい仏像で、ファンがとても多い仏像です。

これらは乾漆像(かんしつぞう)と呼ばれ、木製の芯木で像の骨組みを作ってその上から粘土を塗って、さらに麻布を麦漆(むぎうるし)で貼り重ねて像の形を作るやり方です。先に紹介した2つの彫刻はこのようにして作られています。

絵画

有名なのものとして、2つを紹介したいと思います。

1つは東大寺正倉院鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)です。

東大寺 / 正倉院 / 鳥毛 / 立女 / 屏風

と切って覚えましょう。

先ほど紹介した正倉院の中に保存している屏風絵です。屏風に鳥の毛がデコレーションしてありました。今はもうないです。立女というのは字の通りで「立っている女」ということです。木の下で立っている女が描かれています。

薬師寺吉祥天像(やくしじきっしょうてんぞう)というのは仏画です。平城京には薬師寺(やくしじ)というお寺がありました。薬師寺にある吉祥天(きっしょうてん)という仏教の守護神が描かれた絵画が有名です。

歴史書・地誌・和歌集

歴史書について

我が国は、天武天皇の治世の頃から次第に天皇が国の中心となって政治が行われるようになってきました。

この時代になると、日本の肇国(ちょうこく)の歴史について歴史的事実が曲げられたり事実に誤解が生じていました。そこで、これらをきちんと整理して我が国の歴史を整理しようという動きが生まれました。これが「古事記」と「日本書紀」です。2つの歴史書を合わせて「記紀(きき)」と言います。この順番の通りに覚えてください。

細かいところで「記紀」の内容が異なる点がありますが、いずれも神話からの国史がまとめられています。

「古事」と「日本書」の漢字に注意しましょう。

記紀の違いについては下のウェブサイトを参照してください。

なら記紀・万葉
思わず出かけたくなる記紀・万葉の魅力発見!『古事記』『日本書紀』『万葉集』を楽しみ、味わう奈良県公式サイトです。

古事記

「古事記」は我が国で現存する最古の歴史書です。稗田阿礼(ひえだのあれ)が神話などの物語を暗誦し、それを太安万侶(おおのやすまろ)が編さんして、西暦712年(和銅5年)に完成して元明天皇に献上されました。

後に説明する「日本書紀」と比べると、出雲神話を大きく取り上げているのが特徴です。

日本書紀

「日本書紀」も「古事記」と同様の歴史書です。天武天皇の御子である舎人親王(とねりしんのう)が編さんにあたり、西暦720年(養老4年)に完成し、元正天皇に献上されました。

風土記

日本は66カ国に分かれていましたが、国ごとの地誌をまとめる事業が展開されました。

これが風土記(ふどき)です。

和歌集

日本最古の和歌集として、「万葉集」が編さんされました。大伴家持という人物は知っておきましょう。和歌の数え方は様々あるそうですが、4500首の和歌が収められています。どんな詠(よ)み手の和歌が収録されているのかといえば、持統天皇や柿本人麻呂などの天皇や貴族のものから農民や防人(さきもり)まで多彩な人たちのものだったのです。作家の渡部昇一さんはこれを「和歌の前の平等」という言葉で表現されました。

「万葉集」には、激務だったと言われる九州の大宰府の防人について詠った和歌が詠まれていることは有名ですね。山上憶良によって詠まれた「貧窮問答歌」です。

和歌集の特徴としては、万葉仮名(まんようがな)と呼ばれる仮名遣いで書かれました。普通に使われる漢字はもちろんですが、助詞など我々が今ではひらがなで使っている文字も漢字の音を借りて漢字で表記されていました。

また、「令和」という元号は「万葉集」から採用されました。コレまでの元号は中国(チャイナ)の古典(漢籍)から採用されていましたが、初めて日本の古典から採用されたのです。

初春の月にして、気淑く風ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す

「万葉集」第5巻「梅花の歌(梅花歌三十二首并せて序)」

教科書に載っているわけではありませんが、今を生きる私たちですから、このようなことは知っておいても損はないでしょう。

紀年法を学ぶ - 和暦について

 

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