【中学歴史】室町時代の頃の琉球と蝦夷地の歴史を分かりやすく解説します

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今回は、室町時代の頃の琉球(沖縄)と蝦夷(北海道)の歴史についてわかりやすく解説します。

室町時代の全体の流れについては、以下のコンテンツが一番分かりやすいです。

本稿では、琉球や蝦夷の歴史の流れだけでなく、当時の経済状況(特に貿易)に着目して解説を加えようと思います。

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室町時代の琉球(沖縄)の歴史を学ぼう!

琉球王国の成立

琉球人の先祖は、核ゲノムDNAの解析によって、日本本土により近いという研究結果が出ているそうです。縄文時代に九州から渡っていた人たちが起源であると言われてます。琉球で使われていた琉球語は、言語学的には日本の方言だという研究結果があります。

さて、12世紀頃になると沖縄では小地域の領主みたいな存在が現れます。彼らを按司あじといいます。按司はグスクと呼ばれる小高い丘の周囲に石垣をめぐらせた城砦じょうさいを拠点としていました。この時代のことをグスク時代と呼ぶことがあります。

やがて、按司によって率いられていた小国家が統合されていきます。15世紀頃には3つの小国家連合が誕生します。北山ほくざん中山ちゅうざん及び南山なんざんの3つの勢力です。これをまとめて琉球三山と言います。

西暦1429年(永享元年)に、中山の尚巴志しょうはしが三山を統一し、琉球りゅうきゅう王国を成立させました。本州では正長の土一揆があった翌年です。

琉球王国は都を首里に置きました。最近火災により焼けてしまいましたが、首里城というのが有名ですね。


ちなみに、琉球王国のグスク及び関連遺産群(Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu)は、世界文化遺産に登録されています。

琉球の中継貿易の背景

琉球王国は中継貿易によって栄えました。

中継貿易というのは、A国から輸入をしたものをB国へ輸出する(転売する)貿易のことを言います。「せどり」みたいなものですね。

ここでは琉球王国が中継貿易によって栄えた背景と内容について簡単に説明していきたいと思います。

琉球王国が成立した頃、中国(チャイナ)大陸に目を向けてみると、そこには明王朝がありました。明王朝は自分の国の権威を高めると共に倭寇と呼ばれる海賊たちを取り締まる目的で海禁政策をとっていました。海禁政策というのは民間人の海外渡航を禁止するというものです。一方、明王朝が海外と貿易をする時には、朝貢貿易で行いました。

朝貢貿易とは、皇帝の家来になって貢ぎ物を持っていくと、明王朝はその何倍ものお返しをもらって国に帰れるというものです。明王朝は損をしているのではないか?というツッコミが聞こえてきそうですが、明王朝はたくさんの国を家来にすることで自分の権威が世界に広がっていることを内外に示すことができます。家来になった国は明王朝から多くの品物を持ち帰ることができるのでもちろんメリットはあります。

朝貢冊封体制
朝貢冊封体制

こうして明王朝は朝貢貿易によってたくさんの国と国交を結ぶことになりました。明王朝と室町幕府もその一様です。

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今回の主人公である琉球王国もまた明王朝と朝貢貿易によって明王朝と貿易を行うことになりました。

琉球王国における中継貿易の内容

上のように諸外国と交易を行うと、明王朝にとってはどう考えても割に合いません。一方、諸外国からすれば儲かるので明王朝にどんどん来てしまいます。そこで、明王朝は貿易の回数を制限するようになります。

しかし、琉球王国にはそのような回数制限を行いませんでした。なぜ明王朝は琉球王国に対しては特別待遇だったのでしょうか?

もちろんメリットがあるからです。

貿易を制限すると、外国から物が入って来なくなってきます。すると、当時明王朝は北方民族と戦っていたので、武器などが入って来なくなってしまいます。また、明王朝の商人も貿易の回数が減ると儲けが少なくなってしまいます。そういう理由で、琉球王国だけは貿易の制限を減らして貿易を続けたのです。

琉球王国は以下の地域から品物を輸入します。

  • 日本:美術工芸品や刀剣や銅などを輸入
  • 朝鮮:朝鮮人参や陶磁器などを輸入
  • 東南アジア:香辛料や象牙などを輸入

これらを明に貢物として輸出します。朝貢貿易という形式をとっているからです。

また、他地域にこれらを輸出しました。

琉球王国の貿易港は那覇でした。那覇にはこれらの品物を求めて琉球王国内の島々から船が出入りし、外国船もまた出入りをしていました。

このように琉球王国は国際交流の架け橋となり、中継貿易によって栄えました。

琉球王国の中継貿易の勢いに陰りが出てくるのは、大航海時代にポルトガルがアジアに進出する頃です。ポルトガルなどのヨーロッパの国々はアジアに香辛料を求めて貿易を行っていました。

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室町時代の蝦夷(北海道)の歴史を学ぼう

13世紀頃、蝦夷地に住んでいたアイヌ人は主に狩猟や漁労をして生活を送っていました。

14世紀頃には、蝦夷地の渡島おしま半島に住んでいたアイヌ人と津軽つがる(現在の青森県)の十三湊とさみなとに住んでいた津軽人との間で交易が行われていたことが分かっています。アイヌ人からはニシンやシャケやコンブや毛皮などが津軽にもたらされました。一方の津軽人は蝦夷地に鉄器や漆器や米やお酒などを蝦夷地にもたらしました。

14世紀末から15世紀の初めにかけて、津軽人は津軽海峡を渡って蝦夷地南部に居住地を作りました。彼らは和人と呼ばれ、海岸近くに港を整備してたてを建てました。しかし、これまで蝦夷地で交易を担ってきたアイヌ人と和人との間で貿易の利益をめぐってしばしば対立を引き起こすようになりました。西暦1457年にアイヌ人の指導者であったコシャマインが蜂起しました。コシャマインの戦いと呼ばれています。コシャマインは和人が作ったたてを破壊しましたが、武田信広によって鎮圧されました。武田信広は蠣崎かきざき氏の養子となっており、彼らの子孫は後に松前氏と改称し、そのまま蝦夷地の交易の中心的な役割を果たしていくことになります。

 

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