今回は、室町幕府の最盛期を作った3代将軍である足利義満の政策である日明貿易 [勘合貿易]についてわかりやすく解説していきます。
足利義満は、西暦1392年(北朝: 明徳3年、南朝: 元中9年)に2つに分かれていた朝廷を合一しました。
また、強くなりすぎた守護大名の討伐を行うことで、征夷大将軍の力が相対的に強まります。
足利義満が室町幕府の最盛期であることは先ほども述べましたが、その背景にあるのはやはり経済力です。その代表的なものが、中国(チャイナ)に建国された明という王朝との貿易によって得た利益でした。日明貿易 [勘合貿易]と言います。
今回の記事は、まず日本との貿易の相手になった明の建国の様子を簡単に見たのちに、どのような経緯で日明貿易 [勘合貿易]が行われるようになったのかを見ていくことにしたいと思います。
中国(チャイナ)史 – 元の滅亡、明の建国
まずは中国(チャイナ)の様子を見ていきます。
元寇後の元の様子
元寇(蒙古襲来)の時に中国(チャイナ)大陸には元という王朝が存在していました。元は日本を攻めて失敗した後、東南アジアに向かいます。元は西暦1287年にビルマ(現: ミャンマー)にあったパガン朝を服属させました(西暦1299年にパガン朝は滅亡)。しかし、同じ時期に戦ったタイと陳朝ベトナムは元を追い払うことに成功します。
そうこうしているうちに、元の皇帝であったフビライ=ハンは西暦1294年に死亡しました。ここで元王朝の支配が揺らぎ始めます。
元王朝はいくつかの理由で衰退を始めます。
- 自然災害が多く発生し、飢えや疫病が流行した。それによって農民の生活が困窮した。
- 元王朝がチベット仏教にハマり、寺院に多額の寄進を始めたりしたことがきっかけで財政が悪化する。
- 海外遠征や運河の建設などを理由に元王朝が貨幣を何度も発行し、国内でインフレが起こって経済が混乱した。
- 宮廷内でクーデターが起こる。
こういった中で、貧しい農民として生まれた若者が中国(チャイナ)を変えていきます。彼の名を朱元璋と言います。
明王朝の誕生
これまでモンゴル人中心だった元王朝を倒して漢民族による新しい国を建てていこうという動きが高まりを見せるようになります。
西暦1351年に紅巾の乱が起こります。白蓮教という中国(チャイナ)の中で広がっていた宗派の人たちを中心に反乱が起こります。我が国で言えば、ちょうど観応の擾乱の頃ですね(南北朝の争乱についてはこちらを参照)。この戦いの中で朱元璋は力をつけていきます。
西暦1368年に朱元璋を初代皇帝とした新しい国家が建国されます。王朝名は明 と言います。首都は金陵(後に南京と呼ばれるようになります)。のちに3代目皇帝の永楽帝の時代に北京に遷都されるまで、ここが都になりました。朱元璋は洪武帝と呼ばれるようになります。元は北方に退却しました(北元と呼ばれるようになります)。
明の対外政策 – 海禁政策
明の初代皇帝となった洪武帝は皇帝の権限を強化します。そのため、中央集権的な組織を作り、農民たちも支配しました。洪武帝は農民出身の皇帝です。血筋的には決して名門出ではないのでよいとは言えません。ですから、自分が中国(チャイナ)の地を治めるだけの徳があることを内外に示す必要がありました。
外交政策においてそれがみられたのが海禁政策です。外国人との勝手な貿易を禁止し、民間人の海外渡航を禁止した政策です。逆に言えば、政府が認めた人であれば海外との貿易をしてもよいということになります。
洪武帝は朝貢形式で貿易を行うことにしました。下のような仕組みで貿易が行われるのです。
上の図を見ていただいて分かるように、実は明にとっては大きな出費になるはずです。
しかし洪武帝がこのような形式で周辺国と貿易を始めようと考えたのです。洪武帝は周辺国からも認められる徳のある皇帝であることを示そうと考えていたのではないかと言う説はうなづけますよね。
洪武帝が朝貢形式で貿易を行う背景のもう1つの理由が、海上で暴れていた倭寇対策です。彼らは海賊行為を働いていました。貿易を邪魔される恐れがあります。政府のお墨付きを付けるという点でも朝貢形式での貿易を行うのがよいと洪武帝は考えました。
倭寇(前期倭寇)について
そもそも倭寇というのは、朝鮮半島や中国沿岸部を襲った海賊集団のことを言います。特に元王朝衰退期から明王朝が誕生した13世紀から14世紀の倭寇のことを特に前期倭寇と言います。
倭寇についてもう少し解説しておきましょう。
時代は遡って鎌倉時代の元寇の頃。日本の話です。元の軍を追い払うために、鎌倉幕府は海賊たちの力を借りました。しかし、元の軍を日本から追い出したものの、戦いによって新たな土地を手に入れることはなかったため、彼らに恩賞が与えられることはありませんでした。これに不満を持った海賊たちは幕府の統制から離れようとします。また、同じように九州にいた武士たちも鎌倉幕府への不満を持っていたため、幕府の統制から離れます。幕府の統制から離れていった武士たちのことを悪党と言いました。海賊たちと悪党たちは利害が一致していたために手を組み、朝鮮半島にあった高麗や元王朝の沿岸都市などに行って交易や略奪を行いました。
今度は中国(チャイナ)の話。元王朝の末期頃、塩の密売などで利益を得ていた江蘇省(南京が中心都市)や浙江省(杭州が中心都市)にいた商人たちがいました。彼らは元王朝が航路で運んでいた米を略奪して、元王朝を苦しめる存在になっていました。日本から海に出た人たちは彼らの傭兵になった者もいたそうです。後に、彼らは明王朝を建国する朱元璋によって倒されますが、生き残っていた人たちはやはり海で暴れます。
日本から海に出ていた海賊たちや中国(チャイナ)の商人たちが海で出会います。彼らが倭寇となっていくのです。
足利義満の時代の前にも明王朝が日本に服属を求めてくる!
中国(チャイナ)にとって、我が国との交易はとてもうまみのあるハナシでした。なぜならば、中国(チャイナ)にとっては、火薬の原料となる硫黄のほかに日本刀が手に入るからです。
これを明王朝を建国した朱元璋(洪武帝)は黙って見ているはずがありません。明王朝の初代皇帝になった洪武帝は皇帝専制政治を行おうとしていたのです。しかも対外政策は自らの権威づけのために周辺国に対して朝貢貿易を求めます。だから当然のことのように日本にも冊封を求めてきたのです。
洪武帝は、明王朝が建国した翌年の西暦1369年(北朝: 応安2年/ 南朝: 正平24年)に九州にいた懐良親王に使者を送り、「倭寇を退治して朝貢貿易をやろう」と服属を迫る勅書(=皇帝の文書)を送りました。懐良親王はこれに対して何度か応酬しました。
そうこうしているうちに、南朝方だった懐良親王は北朝方(室町幕府)の今川了俊に追われてしまいます。
足利義満と日明貿易 [勘合貿易]
室町幕府の財政事情について
足利義満が征夷大将軍に就いた西暦1368年(北朝: 応安元年)以来(朱元璋が明王朝の初代皇帝に就いた年と同じ年!)、室町幕府にとって強くなりすぎた守護大名との戦いに明け暮れました。
西暦1392年(北朝: 明徳3年、南朝: 元中9年)に2つに分かれていた朝廷は、室町幕府の3代将軍の足利義満によって統一されました。
このような争いを続けていると、財政は苦しくなります。
室町時代になると、日本にも中国(チャイナ)から銅銭が持ち込まれて貨幣経済が広がっているので、室町幕府は貨幣での税金を徴収するようになっていました。
が、それでも苦しい。室町幕府を安定的に運営させたいと思うのは足利義満の立場からすれば当然の話です。国を治めるためには、きれいごとを抜きにして、軍事力と経済力が必要なのはいつの時代でも同じです。
そんな時、足利義満は西暦1399年(応永6年)に有力な守護大名の1人であった大内義弘を和泉国(現在の大阪府)の堺で討伐します(応永の乱)。大内義弘は中国(チャイナ)や朝鮮と貿易をしていました。彼を倒した後、足利義満は本格的に明王朝との貿易を始めようと考えました。
さて、ここで一度まとめてみましょう。
- 日本: 幕府の財政を安定化させたい
- 明王朝: 皇帝の権威と権力を内外に示したい&倭寇の討伐
こういう点で利害が一致していました。
ただ、前述した通りで、明王朝との貿易は朝貢形式で行わなければなりません。この貿易を行うということは日本は明王朝の家来という立場になってしまいます。これは大丈夫なのでしょうか?いくら利害が一致していたとしてもこれはマズいのではないかと考える幕府の関係者もいました。朝廷はどう考えたのでしょうか?
日本側には利益がある貿易かもしれませんが、朝貢貿易となればちょっと話が違ってきそうです。
足利義満はどのような決断をしたのでしょうか?
足利義満、使者を明王朝の建文帝に送る
西暦1401年(応永8年)に、足利義満は明王朝の皇帝に使者を送りました。使者は足利義満に仕えていた僧の祖阿と博多商人の肥富です。
足利義満は、以下のような国書を、時の明王朝の皇帝であった建文帝に送ったと言われています。建文帝は洪武帝の孫にあたります。
日本准三后 某、書を大明皇帝陛下に上る。
瑞渓周鳳が書いた「善隣国宝記」に国書の写しが残っている
日本国開闢 以来、聘問を上邦に通ぜざること無し。
某、幸にも国鈞を秉り、海内に虞れ無し。
特に往古の規法に遵ひて、肥富をして祖阿に相副へしめ、好を通じて方物を献ず。
金千両、馬十匹、薄様千帖、扇百本、屏風三双、鎧一領、筒丸一領、劒十腰、刀一柄、硯筥一合、同文台一箇。
海島に漂寄の者の幾許人を捜尋し、これを還す。
某 誠惶誠恐 頓首々々謹言。
応永8(西暦1401年)年5月13日
「日本准三后」というのは足利義満のことを指しています。准三后というのは、天皇の母や天皇の祖母に続く地位を指しています。これまで、明王朝との窓口になっていたのは南朝の懐良親王でした。南北朝が統一されたのち、足利義満が南朝を正当に引き継いだことを海外に証明することが必要でした。正当に引き継がれていなければ、そもそも朝貢貿易の主体とはなり得ないのです。足利義満は、征夷大将軍を辞め、後に就いた太政大臣の地位も退いた上で由緒あるこの地位を手に入れます。このようにして、足利義満は明王朝に対して正々堂々と交渉ができるようになったのです。
足利義満は、黄金100両、馬10頭、扇100本、その他屏風や日本刀や甲冑を明王朝の建文帝に送ります。
これに対して、建文帝は次のような返書を送りました。
朕 大位を嗣ぎてより四夷の君長朝献する者十百を以て計う。
苟も大儀に戻るに非ざれば皆例を以てこれを撫柔するを思う。
ここに なんじ日本国王源道義、心王室に存し、君を愛するの誠を懐き波濤を踰越し、使を遣して来朝し、・・・朕甚嘉す。
・・・今使者道彝一如を遣し、大統暦を班示し、正朔を奉ぜしめ、錦綺二十匹を賜う・・
建文4年(西暦1402年)2月初6日
上の返書のポイントは、日本国王源道義という人名です。足利義満のことを表しています。特に「日本国王」という言葉はキーワードです。中国(チャイナ)が持っていた華夷秩序において、「国王」という言葉は「皇帝」の家来を意味します。もう一度↓この図!
こんな関係ですってことです。
源道義というのは、足利氏は元々源氏の血筋をひく家柄で通称はこのように呼ばれていました。
返書にも書いてありますが、大統暦という中国(チャイナ)で使われていた暦と絹織物が明王朝の建文帝から贈られました。
さて、ここでこの時期の明王朝の状況を見ておかなければなりません。中国(チャイナ)大陸は皇帝の地位を巡って大きな争いが起こっていました。西暦1399年から建文帝の叔父である北京を守っていた燕王が建文帝に対して反旗を翻していたのです。これを靖難の役と言います。
建文帝が日本に対して使者を送り、上のような国書が足利義満の元に届けられた後に帰国の途に着く頃には、明王朝の都であった金陵(南京)は燕王によって攻められ、建文帝は行方不明になってしまっていたのです。そして、燕王が明王朝の3代目の皇帝に即位しました。これが永楽帝です。
足利義満は博多商人を通じてこの状況を理解していました。明王朝からの使者が帰国する際に、足利義満は、
- 建文帝が中国(チャイナ)内の内乱を平定しておめでたいという手紙
- 燕王(永楽帝)が内乱を平定しておめでたいという手紙
という2種類の手紙を渡します。どちらが勝ってもよいように2種類の手紙を準備させたのはさすがですね。
明王朝の3代目皇帝となった永楽帝は足利義満からの手紙を受け取ります。永楽帝は皇帝の地位を奪い取ることによってこの地位に就きました。しかし足利義満が自ら臣下になることを告げた手紙を渡したのです。永楽帝にとっては周辺国から皇帝であることを認められたということになります。永楽帝は嬉しくて仕方なかったのではないかと思います。
このように、足利義満は形式上は明王朝の皇帝の臣下に下ってしまいます。
ただ、足利義満は本心から明王朝の臣下にくだりたかったわけではありません。あくまで明王朝との貿易をしたかっただけなので、形式面で従っていたにすぎませんでした。明王朝からもらっていた暦は使いませんでしたし、国内において「日本国王」を名乗った形跡はありませんでした。
日明貿易 [勘合貿易]の内容
日明貿易 [勘合貿易]の仕組み
日明貿易は西暦1404年から本格化します。
足利義満の力によって倭寇(前期倭寇)の取り締まりは効果を発揮していましたが、やはり彼らの船と区別をしなければなりません。
港にたどり着いた時に商人たちはどのようにして正規の貿易の船と区別したのでしょうか?
その時に用いられたのが勘合符です。
上の勘合符は日本側の遣明船が明に渡る時に持っていく勘合符です。「本字壹號」という文字を2つに分け、日本側と明側とでそれぞれ持ちます。右側を日本の貿易船が持って明に行きます。明は左側を持っています。日本船が明の港に着くと、明に対して右側を出します。明は左側を持っているのでこれを突合させます。これがピッタリ合うと倭寇ではないと認定されるという仕組みです。
ちなみに、明側の貿易船が日本にやって来る船には「日字壹號」という勘合符を使います。
勘合符を使った貿易であったことから、日明貿易のことを勘合貿易ということもあります。
このように、倭寇の統制を行いながら貿易が開始されました。倭寇は収まります。こうして東アジア世界の海上秩序を安定させました。
日明貿易 [勘合貿易]ではどのような品物が取引されたのか?
日明貿易(勘合貿易)ではどのような品物が取引されたのでしょうか?
輸入品と輸出品を見ていきましょう。
- 輸出品→硫黄、銅、金、刀剣、漆器、屏風…など
- 輸入品→明銭(永楽通宝)、絹製品、書物、織物、陶磁器…など
我が国の貿易の目玉は銅の輸出でした。銅は中国(チャイナ)で売ると高く売れたそうです。また、硫黄は先にも述べた通り、火薬の原料になります。刀剣や漆器は鎌倉時代から室町時代にかけて多く生産されるようになります。
一方、輸入品に着目するとまずは明銭。お金を輸入します。幕府や朝廷は貨幣を作ることはなく、輸入によってこれをまかなかっていました。明王朝が作っている貨幣というだけでブランドだったのです。もう1つの注目ポイントは絹製品です。輸入で絹製品を仕入れて国内で販売するととても儲かったそうです。
結果として、日明貿易(勘合貿易)は大成功をおさめます!朝貢貿易なので、明王朝は大盤振る舞いをします。そのため、原資が5~6倍になったと言われています。
このようにして、足利義満の時代の室町幕府はいちばん栄えました。
足利義満が死去した後の日明貿易
足利義満の野望
足利義満は国内においても天皇が行う仕事を次々と取り上げて自らが行うようになりました。
- 天皇がやるべきこと(皇室の祭祀、叙位など)
- 天皇を金閣に呼び同じ服装で並んで座った
- 次男の足利善嗣を「親王(皇太子)」としてあつかわせた
- 征夷大将軍の退位後、臣下のクセに「太上天皇」を名乗ろうとした
足利義満は天皇の臣下という存在であったはずですが、征夷大将軍や太政大臣を辞めてからは特にこのようなことを行うようになりました。そして、足利義満は自分のお気に入りの息子(次男の足利善嗣)を天皇にしようとしていたようです。
では、足利義満の野望は実現したのでしょうか?
答えはNOです。
足利義満は西暦1408年(応永15年)に流行病により死亡しました。
この頃、室町幕府の征夷大将軍は4代目の足利義持になっていました。足利義持は足利吉嗣を次期の天皇にしようとする父親の野望を阻止しました。足利義持はもともと父の義満の政策に反対する立場を取っていたからです。日明貿易(勘合貿易)がどうなったのかという結末は次のセクションで見ていきます。
日明貿易(勘合貿易)のその後
4代将軍の足利義持の時代
さて、足利義満が始めた日明貿易(勘合貿易)は、足利義満の死後にはどのように変化したのでしょうか?この点について、東京大学の日本史の入試問題で論述試験で問われたことがあります。
4代将軍の足利義持は、朝貢形式での貿易を嫌っていました。征夷大将軍はもちろんですが、幕府というのは本来天皇の臣下という存在であるべきだと考えたからです。
そこで、足利義持は日明貿易(勘合貿易)をストップしました。
6代将軍の足利義教の時代
しかし、やっぱり日明貿易(勘合貿易)は儲かります。
足利義持によって日明貿易(勘合貿易)はストップしましたが、有力な寺社や有力守護大名などの求めにより、6代将軍の足利義教の時代になると再開します。
6代将軍の足利義教より後の時代の日明貿易
6代将軍の足利義教が西暦1441年(嘉吉元年)に播磨国の守護大名であった赤松満祐に暗殺されるというトンデモナイ事件が起こります。嘉吉の変と言います。
この後、征夷大将軍の力は弱体化を見せます(ただ、武家の棟梁という権威だけは残り続けます)。再び守護大名の力が相対的に強まります。日明貿易(勘合貿易)に有力な守護大名や有力な寺院が名を連ねることになります。
応仁の乱の後、さらに室町幕府の力が弱体化すると、いよいよ日明貿易(勘合貿易)は、有力守護大名の大内氏と細川氏が独占します。西暦1551年(天文20年)に守護大名であった大内義隆が守護代の陶晴賢によって滅ぼされたのを最後に、日明貿易(勘合貿易)の歴史は幕を閉じることとなったのです。
足利義満の時代の日朝関係史
最後に、足利義満の時代の日朝朝鮮史を見ていきたいと思います。
朝鮮半島には高麗という国がありました。
元王朝は朝鮮半島を攻め、高麗を降伏させ、勢力下に置きました(西暦1259年)。そして、元王朝が高麗の人たちを使って日本を攻めました。これが俗に言う元寇というものでした。
その後、中国(チャイナ)の中心が元王朝から明王朝に代わると、朝鮮半島においても元王朝を支持する人と明王朝を支持する人とで対立が起こります。
明王朝を支持するグループの中にいたのが李成桂という人物です。
この頃、前述した通り倭寇(前期倭寇)が朝鮮半島でも問題になっていましたが、李成桂は朝鮮半島において倭寇(前期倭寇)の撃退に成果を上げていました。
勢いに乗っている李成桂は、西暦1392年に高麗を倒し、朝鮮を建国しました。昔は李氏朝鮮と呼んでいましたが、今は朝鮮と言うようにしています。この年は、足利義満が南北朝の統一を働きかけ、実現した年と同じであるという点で、入試でもよく出題されます。