今回は、源頼朝が征夷大将軍に任命されるまでのプロセスを見ながら、鎌倉幕府の成立の様子を解説していきます。
武家による最初の政権として平氏政権が誕生しましたが、平氏政権への不満が高まり、源平の合戦を経て平氏は滅亡してしまいました。
源平の合戦で活躍したのは源義経です。源頼朝の弟です。しかし源頼朝は源義経を後に討伐しました。なぜ源頼朝は弟の源義経を討ったのでしょうか?
そのあたりから解説を始めていきましょう。
源頼朝はなぜ源義経と対立したのだろうか?
平氏政権による政治の様子を見ながら源頼朝が関東で考えていたのは、平氏のように貴族に取り込まれない強くて安定的な政治を行おうということでした。
武士はこれまで貴族に仕えて武力を持ちながら荒れた地方の政治をおさめてきました(武士のおこりについて)。国民を治める力のある者が国を治めようと思うのは当然です。藤原氏に代わって政権のトップの座に就いた平氏は結局は貴族になってしまい、一族の繁栄を第一に考えてしまう政治を行ってしまったのです(平氏政権について)。
ここで、源義経が源平の合戦を行っている間、都でどのようなことがあったのかを見ていきます。
- 西暦1184年に一の谷の戦いが終わった後、源義経は源頼朝の許しを得ずに朝廷から高い位を与えられた。
- 西暦1185年に壇ノ浦の戦いが終わった後、京都で貴族の娘と結婚をした。その他、源頼朝の命令に背くことを行った。
朝廷としては、宿敵の平氏を倒してくれた源義経を大変評価していました。だから官位を与えるのはまぁ当然でしょう。実際に朝廷の中では大変人気だったようです。
これを源頼朝は許さなかったのです。朝廷から官位を与えられて源義経がどんどん出世をしていくと、貴族たちは源義経を利用して源頼朝を攻めてくると考えたのです。
だから、源頼朝は源義経を討つことにしたのです。
守護と地頭を置く
守護とは?地頭とは?
源頼朝は、西暦1185年(文治元年)に、京都にいる後白河上皇のもとに兵を送って朝廷を威圧しながら、源義経の討伐を認めさせます。そして、全国に守護と地頭を任命する権限を朝廷から認めてもらいました。
守護というのは国ごとに置かれ、国の中の警備(軍事・警察)を担当します。
地頭は年貢を取り立て、荘園や公領を管理する役割を言います。
源頼朝は、朝廷からこれらの地位を与える権限をもらったので、全国の武士を統率できるような政治体制を作ることができるようになりました。これとともに、源義経が全国のどこにいても征伐できるような体制を整えたのです。
守護と地頭が全国に置かれることで、源頼朝による「武家による政治」が実際に始まったと評価できることから、最近の教科書では「西暦1185年を鎌倉幕府が開かれた年である」と書かれるようになりました。
源義経及び奥州藤原氏の討伐
一方の源義経は奥州藤原氏のもとに身を潜めます。源頼朝はこれに気づくと、源義経のもとに兵を差し向けました。
奥州藤原氏は源義経を裏切り、源義経を討ち果たしました。
後に、源頼朝は奥州藤原氏も滅ぼし、源頼朝は東北地方も勢力も手中に収めることに成功しました。
[コラム] 判官贔屓
判官贔屓という言葉をご存じでしょうか?弱い立場に置かれている者に対して同情することを指します。判官というのは朝廷の中の役職名のことで、源義経のことを指します。源義経は「九郎判官」と呼ばれていたからです。
征夷大将軍に任命への道
源頼朝と後白河上皇との駆け引き
このようにして、源頼朝は源義経と奥州藤原氏を滅ぼしました。
これでめでたく源頼朝が征夷大将軍に任命されたのかというとそういうわけではありません。やはり後白河上皇は武士による政権を作られることを嫌います。
西暦1190年(建久元年)に、後白河上皇は源頼朝を京都に呼びます。そして権大納言、さらには右近衛大将に任ぜられます。この役職は大変素晴らしい役職です。右近衛大将は天皇のお住まいを警備する役職であり、形式的には武士の階級の中ではトップなのです。源頼朝は最初は渋々受けいれますが、すぐにこれらの官職を辞め、鎌倉に戻りました。なぜすぐに辞めて鎌倉に戻ったのかはもう分かりますよね?源頼朝は武士による政治を行いたかったからです。征夷大将軍の地位がほしかったのです。しかし、右近衛大将は天皇のお住まいなどの警備をする仕事なので、京都を離れることができません。だから右近衛大将をすぐに辞めたのだと考えられています。
源頼朝はなぜ征夷大将軍の位がほしかったの?
征夷大将軍という位は実はものすごく高い官職ではありません。かつては坂上田村麻呂が蝦夷を討伐する時に任ぜられた位でした(桓武天皇の政治を復習しよう!)が、蝦夷討伐の総司令官のような立場です。
東国にいた奥州藤原氏はもういなくなったのにどうして源頼朝は征夷大将軍の地位がほしかったのかというと、戦時の総司令官の地位を得て、強い権力を持つことを望んだからなのではないかと言われています。戦争を円滑に進めるにあたって、お金と兵は必要不可欠になります。それをいちいち都にいらっしゃる天皇に許可を得ていたら迅速な対応はできません。ですから、戦場にいる将軍にお金や兵を集める権限を与えることがあったのです。
源頼朝はこういった強い権限を手に入れようとしていたのです。
源頼朝、ついに征夷大将軍に任ぜられる
源頼朝が征夷大将軍になることを拒否していた後白河上皇は、西暦1192年(建久3年)に崩御しました。
西暦1192年(建久3年)に、源頼朝は、第82代後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられました。
鎌倉幕府の成立をいつとすべきなのか?
ボクは西暦1192年に鎌倉幕府が開かれたとすべきだと考えます。
そもそも幕府という言葉は幕営、つまり幕を張った陣営のことを指しました。もともとは中国(チャイナ)の言葉です。幕府は「皇帝に代わって指揮を執る将軍の出先における臨時基地」の役割でした。そこから転じて将軍がいる場所を指すようになりました。さらに武家政権のことを指すようになりました。将軍がいないところに幕府は存在しないのです。
鎌倉「幕府」の成立と言っているのですから、西暦1192年にできたと考えるのが適当だと思います。
武家政権は天皇から認めてもらうことで成立している
もし武家政権を樹立するのであれば、これまでの朝廷を根だやしにして源頼朝による軍事政権を誕生させるという選択もできたと思います。中国(チャイナ)やヨーロッパの国々は、前に存在していた国を滅ぼして新しい国を建てるというやり方がほとんどでした。
しかし源頼朝はそういう選択は行いませんでした。あくまで、平氏を滅ぼしたのは朝廷のためであり、聖徳太子以来ずっと掲げていた天皇が「シラス」国を守ろうと考えたのです。
つまり、天皇は国民のために祈り、武士が実際の政治を行おうと考えていたというわけです。上の図の権力者のところには征夷大将軍を含めた鎌倉幕府の職制が入ってくるというわけです。
では、これまでの朝廷はなくなってしまったのかというとそうではありません。京の都にはこれまでどおりの政府が存在します。
ですから、鎌倉時代の日本は、鎌倉幕府の政治体制とこれまでの朝廷の政治体制の2つの政治体制が同時に存在していたことになるのです。特に西国は鎌倉幕府の力が弱く、朝廷の政治体制で国が治められていました。その力関係が変化してくるのが、西暦1221年に起こる「承久の乱(承久の変)」です。