【中学歴史】墾田永年私財法とは何か? – 班田収受法以降の土地政策の変遷について

奈良時代 歴史
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今回は、飛鳥時代の末期から奈良時代にかけて日本で始まった律令政治が、農民の生活にどのような影響を与えたのかについてわかりやすく解説していきます。

国づくりには当然「費用」がかかりますし、「労働力」も必要になります。これらをどのように集めたのか?それによって人々はどのような影響を受けたのでしょうか?

奈良時代の流れをザックリと説明したコンテンツでも述べたとおりで、理想主義的な律令体制が確立したものの、重税などの影響で次第に考えられていた理想の姿は形骸化していってしまいました。

そのあたりをこのコンテンツではくわしく解説していきます。

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公地公民制の確立

まず、大化の改新の翌年に出された「改新の詔」の第1条で公地公民をうたいました。

大和政権は有力豪族たちの連合政権でしたね。豪族たちには、部曲(かきべ)という私有民がいて、田荘(たどころ)という私有地を持っていました。つまり私地私民だったのです。しかし、土地も人民も国のものにしようということを述べました。これを公地公民(こうちこうみん)と言います。

班田収受法

そして、戸籍を作ってこれをもとにして税を徴収しました。戸籍は6年に1度作られました。

6年ごとに作られる戸籍に基づき、6歳以上の男女土地が与えられました。口分田(くぶんでん)と言います。口分田は死ぬと国に返すことになっていました。

これを班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と呼びます。

律令体制下の税制度&兵役

国づくりには税や労働力が必要でした。
やはり戸籍に基づいて、国はこれらを徴収しました。

種類対象内容納入先
租(そ)口分田を
与えられた者全員
収穫量の3%の稲。
地元で蓄え、飢饉の救済で使われる。
国司
(一部は中央)
調(ちょう)成年男子に
1人ずつ
地方の特産物を納める
庸(よう)成年男子に
1人ずつ
10日間の労役の代わりに布を納める
雑徭(ぞうよう)成年男子国司のもとで、1年に60日以内の労働国司
運脚(うんきゃく)成年男子調や庸を都まで運ぶ

また、以下のような労役や兵役も課されました。

種類対象内容納入先
兵士(へいし)成年男子1年で平均36日、地方の軍団で訓練地方
衛士(えじ)成年男子兵士の中から選ばれ、1年間の都の警備
防人(さきもり)成年男子兵士から選ばれ、3年間の北九州の警備九州
兵役

これらの税を納めるための費用は政府からは出ません。つまり、自腹で都に行ったり北九州(大宰府)に行かなくてはいけないのです。

一家の大黒柱である成人男子が都へ行ったり九州に行かなければならないとすれば、家庭は大変なことになっていたことでしょう。

奈良時代に作られた歌集「万葉集」の中に収録されている山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」は、律令体制下の税や労役の負担の厳しさがとてもよく分かる史料です(天平文化についてはこちら)。

律令体制下の税や労役や兵役の負担はとても重かったため、公地公民制は次第に揺らいでいきます。

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公地公民制の揺らぎ

調や庸や兵役などは成人男性に課せられたものでした。成人男性は辛いんです。戸籍に成人男性という記録が残っていたらそれに基づいて税を徴収され納めなければならないのです。辛いのは本人だけではありません。労役に行かなければならないのですから、一家の働き手を一時的にも失うことになるので、家族にとっても辛いのです。

したがって、重税から逃れるために口分田を捨てる人が出てきました。つまり、口分田の荒廃が進みました。一方で、人口が増えて班田収受を行うことが困難な状況になっていました。

三世一身の法の制定

朝廷はこれらの状況を受けて、田地の拡大を図ります。西暦723年(養老7年)に三世一身の法が出されました。「新しく灌漑(かんがい)施設を作って開墾した人には3代、以前からある灌漑(かんがい)施設を使って開墾した人はその人限り、開墾した土地を私有してもよい」という法令です。

しかしせっかく開墾しても、開墾してから3代過ぎると、その土地は国に返さなくてはいけません。そのような土地をマジメに耕すなんてバカらしいと思ってしまう人もいました。ですからまた田地は荒れるようになりました。

墾田永年私財法の制定

朝廷は、西暦743年(天平15年)に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を出しました。「土地を新しく開墾した者にはその土地の永久私有を認めます」という内容です。なお、その土地には口分田と同じように税がかけられました。ちなみに、課税されたもののうちの一部は、東大寺の大仏建立の資金に充てられました。

ただ、新しく開墾できる人たちは有力な貴族や寺社に限られました。なぜならば、生活に苦しい農民が田地を開墾できるお金も労力もないからです。有力な貴族や寺社は現地にいる郡司などを使って開墾して農民たちに土地を貸していきました。農民からは賃料(ちんりょう)をもらいます。賃料さえ払えばあとは田んぼを耕せるので生活は安定します。安定すれば重税から逃れるために田んぼを捨てることは少なくなります。そして、政府は墾田を把握することが可能になるという算段です。

有力な貴族や寺社は、大きくなった私有地を管理するために「荘(しょう)」と呼ばれる事務所や倉庫を持つようになりました。そこから、私有を認められた土地のことを荘園(しょうえん)と呼ぶようになりました。

荘園の存在を朝廷が認めるということは、公地公民制が崩れたことを意味します。荘園とは私有地です。そして、貴族や寺社の力が強くなっていくきっかけになっていったのでした。

 

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