【中学歴史】摂関政治とは何か?を簡単に解説してみました

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今回は「摂関政治とは何か?」について、中学生に向けて簡単に解説します。

平安時代の全体の流れについては、こちらのコンテンツを参照してください。

平安時代の全体の流れをわかりやすく解説してみました

第50代の桓武天皇が都を平安京に遷して、律令政治体制の立て直しを図りました。天皇が中心となった政治体制を整えるために、従来の律令体制には存在しなかった官職が置かれるようになっていました(難しい言葉で「令外官」と言います)。例えば、蝦夷平定のために置かれた征夷大将軍や国司の交代の時に交わされる証書を点検する勘解由使(かげゆし)などがそれです。

平安時代前期の政治について

今回の摂関政治でもその令外官が登場します!早速見ていきましょう。

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藤原氏の台頭 – 摂関政治の開始

第52代の嵯峨天皇の時代に、天皇の親政を強化するための官職として、蔵人所(くろうどどころ)が置かれます。天皇直属の秘書的な組織だと考えてください。これも令外官!ここで力を付けたのが、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)です。

嵯峨天皇以降、第53代の淳和(じゅんな)天皇、第54代の仁明(にんみょう)天皇と安定した皇位継承が行われていましたが、第55代の文徳(もんとく)天皇や嵯峨上皇(上皇: 正式には「太上天皇」と言い、天皇を引退した人を指す尊称)が崩御すると、臣下の派閥争いが激化しました。西暦842年(承和9年)に起こった「承和の変」の後に第55代の清和(せいわ)天皇が即位しましたが、まだ満8歳でした。それを支えたのが、外戚(がいせき)であった藤原氏でした。外戚(がいせき)というのは、母方の親戚のことを指します。藤原冬嗣の息子である藤原良房(ふじわらのよしふさ)が、臣下ながら初めて太政大臣の地位に就きます。藤原良房は清和天皇の外祖父(母方の父親)だったのです。

西暦866年(貞観8年)に「応天門の変」という事件が起こった後、藤原良房(ふじわらのよしふさ)はこれまた臣下にして初めて摂政(せっしょう)の地位に就きます。摂政は、天皇が幼かったり女帝であった場合に設置されます。天皇が持っている様々な大権を単独で行使できるとても重要な役割を持っています。ですから、これまでは皇族以外はこの地位に就けませんでした。藤原良房はこの地位に就きます。ちなみに、摂政は令外官ではありません。

清和天皇は御子である第57代の陽成(ようぜい)天皇に譲位し、自らは上皇となり、まもなく崩御されます。陽成天皇は即位当時満7歳でした。陽成天皇の治世には、藤原良房の兄の子である藤原基経(ふじわらのもとつね)が摂政に就いていました。しかし、陽成天皇と藤原基経はあまり仲がよくありませんでした。藤原基経は陽成天皇を廃位に追い込み、西暦884年(元慶(がんぎょう)8年)に第58代光孝(こうこう)天皇が即位しました。光孝天皇が即位したのは満55歳でした。光孝天皇は政治を藤原基経に任せようと思いました。しかしどう見ても幼少ではありません。ですから摂政の地位を置くことはできません。そこで、令外官の関白(かんぱく)という地位を置くことにしました。

参考書にはよくこんなことが書いてありますね。

  • 摂政・・・天皇が幼少であったり女帝であったりした時に天皇の政治を補佐した。
  • 関白・・・天皇が成人の時にも政治を補佐した地位

こういった背景で、藤原氏が力を付けていきました。これを摂関(せっかん)政治と言います。

第63代の冷泉天皇の治世において、藤原氏に対抗する勢力が朝廷にはほぼいなくなったため、藤原実頼(ふじわらのさねより)の時代に摂政と関白が常置されるようになりました。

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藤原氏の全盛 – 藤原道長の政治

摂関政治は藤原道長(ふじわらのみちなが)藤原頼通(ふじわらのよりみち)の親子の時代に最盛期を迎えました。

藤原道長は、4人の娘を天皇に嫁がせました。そして、娘が産んだ3代の天皇の外祖父として強大な権力を握りました。これを一家三立后ということがあります。

  • 彰子(しょうし)→ 第61代一条天皇の中宮になる。一条天皇との間の皇子が後に第68代の後一条天皇と第69代の後朱雀(ごすざく)天皇に即位。
  • 妍子(けんし)→第67代三条天皇の中宮に。
  • 威子(いし)→第68代の後一条天皇の中宮に。
  • 嬉子(きし)→第69代の後朱雀天皇に嫁がせ、その皇子が後に第70代の後冷泉(ごれいぜい)天皇に即位。

西暦1018年(寛仁2年)10月16日に威子(いし)が後一条天皇の中宮となった時、藤原道長は有名な歌を詠みました。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の
欠けたることも なしと思へば

「小右記」より

この日は満月でした(科学の力で調べてみてもホントに満月だったそうです)。それを見た藤原道長は、「この世は自分のためにあるようなもので、見上げた満月のように欠けたところもない」ということです。

これだけ大きな力を持っていたのだから、藤原道長自らが天皇になってもよかったのではないか!?と思う人もいるかもしれません。でも藤原氏はそれだけはやらなかった!

日本型統治の図

日本の政治は「シラス」と「ウシハク」という概念の組み合わせを大切にしてきました。藤原道長であってもそれを守り続けてきたのです。

藤原氏の台頭と地方政治

最後に、これだけ中央ではイケイケドンドンな藤原氏でしたが、地方にはその勢いは波及したのでしょうか?

貴族たちの中には藤原氏に立ち向かっていた者たちもいましたが、逆に藤原氏に気に入られるようにと贈り物をした人もいました。

また、10世紀ころには班田収授が機能しなくなり、荒れた土地を自らの手で耕そうとする人たちが現れ始めました。私有地のことを荘園(しょうえん)と呼びます。彼らが開墾した田んぼに対して税がかからないようにするために、藤原氏に対して荘園を寄進しようと考える人たちが現れ始めました。寄進というのは物品やお金を渡すことを言います。藤原氏自らが開墾することなくお金が入ってくる仕組みができました。

このような状況なので、藤原氏は地方政治に対してあまり関心が及びませんでした。すると、地方政治は国司に任せきりになりました。国司の中には地方に行かずに代理を行かせる者も出てきたり、国司が現地に行ったとしても法外な税を取り立てたり私腹を肥やす人たちも出てきました。地方は荒れていきました。

 

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